「おとさまーあれやってー」
何者も存在しない筈の地下道内にて、齢5つを迎えたばかりの童の声が響く。
「はいはい。分かりましたよ」
そう言いながら、いつも着ている筈の白衣を脱ぎ捨てた1人の男が己の顔に手をやった。男の名は織戸態おとさまと言い、日頃は形を持たぬ生き物の研究を進める科学者の端くれである。
にも関わらず、今この男は姿なき声に向って、一時は両手で顔を覆い、すぐさまそれを開くを繰り返していた。それに合わせ、己の顔を故意に歪ませる行為も何者かに披露する。
その度に周囲からは童の物と思われるひたひたという足音と、コロコロと聞こえる心地の良い笑い声が聞こえる。
「おとさま、おもしろーい!」
無に向かって行われる子守を熟しながら、織戸態は傍らに置いたメモ用紙につらつらと文を認める。その内容は主にこの声のみの存在に対する考察で構成されており、今この時に書かれる物としては、彼の存在は視覚に似た要素を有する事に加え、それらはエコロケーションを用いた視覚の代用の可能性まで派生させている。
「ねえねえ、おとさまー」
「おとさん。私の事はちゃんと博士と呼んでください」
「やだー」
「目上の人にはその人の役職に合った呼び方があります。それを省いてしまうととても失礼になるんですよ?」
「めうえって?」
「おとさんより大人の人や偉い人の事を言います」
「おとさまってえらいの?」
「いや、私に関してはえらい訳じゃありません。おとさんより大人って事です。おとさんは、お母さんの事を呼び捨てにしますか?」
「しない!」
「それは何でですか?」
「えーっと……それはー。……あれ?」
「そう、おとさんはお母さんの事をちゃんとお母さんと呼びますよね。それはあなたのお母さんがあなたより大人だからです」
「お母さんはおとよりえらいの?」
音と呼ばれる音波の子供のこの疑問に対して、織戸態は一瞬だが口を閉ざしてしまった。
「……いえ、そんな事はありません。子供にとって、親が子供より偉いなんて事は無いんです。おとさん。年齢と、偉さは関係性を持ちません。人の偉さと言う物は、その人が何を成してきたかによります。より誰かの為に働き、誰かを助けてきた人がそれに相応しい立場に就く。その時、初めてその人は周りから『偉い』と評価されるんです。年上だからって、皆が皆偉いって訳じゃないんですよ」
「じゃあ何で、おとさまの事は、おとさまって呼んじゃだめなの?」
幼子の方が論理を突いて来るとはよく言った物である。そもそも、物を知らぬ子供に物事の道理を教え込むという行い自体、より多くの時と労力を必要とする生業なのだ。正に人1人の師として、その者が歩む道の助けを提示すること即ち、ある意味人の上に立つという意味では烏滸がましい事この上ないのである。
織戸態はそれを最初から理解してはいたのだ。己と言う人間が、異形とは言えども未だ5つしか歳を重ねていない者に目上の何たるかを説く。こんな無理難題はあろうか。そして、心のどこかではおと自身のこの無邪気さも尊重したいという心持すらあったのだが、自身の立場という物がそれを許さない背景もあったのであろう。
しかし、織戸態はここで食い下がり、一呼吸置きながら言を続けた。
「それは、おとさんが立派になるためです」
「おとが?」
「そう。世の中には色々な立場の人がいます。そして、その人々は互いに互いを尊重しあって生きています。人と言うのは鏡です」
「かがみ?」
「ええ。人は返された反応に対してそれ相応の反応を返す者です。失礼な態度を取れば相手もおとさんに失礼なことを言いますし、礼儀正しく接すれば、それ相応の対応をしてくれるでしょう。その第一歩が呼び方です。礼儀正しい行いはそこから始まります。試しに呼んでみてください。織戸態博士と」
「おとさまはかせ」
「そう。そうです。だからこそ、私もおとさんをおとさんと呼ぶんです。それに、これにはもう1つ理由があります」
「なに?」
「おとさんの事が皆好きだからです。好きな人には、ちゃんと礼儀正しい呼び方をする。それが、礼儀と言う物です。おとさんは、お母さんの事は好きですか?」
「すき!」
「そうでしょう。だから、おとさんはお母さんの事もちゃんとお母さんと呼ぶんです。分かってくれましたか?」
「うん!」
「では、今日のインタビューはここまでにしましょう。お疲れさまでした」
「おとさま!あ、はかせ!」
「はい、なんでしょう」
「はかせは、おとのこと好き?」
「ええ。大好きですよ」
「おともすきー!!」
その声がする方向を見つめながら、男は仄かに口角を上げ微笑んだ。しかし、その眉尻は少しばかり下がっている様で、口では外様を取り繕ってはいるものの、その本心が目に現れたかのようだった。
「お疲れ様です。織戸態博士」
「お疲れ様です」
織戸態の勤めるサイトに戻るや否や、彼の同僚が歩く彼の横に並列するように現れた。未だに白衣を小脇に抱えている織戸様の恰好とは対照的であり、その男は己に纏う白衣を自慢げにはためかせながら、冷めた面持ちで織戸態を横目に見ている。
「今日も、SCP-3039-JPの視察ですか」
男は抑揚のない口調で且つその奥底に潜む黒い気持ちを匂わせまいと努めている様子であった。が、その努力も無駄なのか敢えて目の前でその旗を振るかのように掲げているのかは定かではないが、どちらにしろそれは織戸態にとっては見えて当然なほどにあからさまだった。
「ええ。それが何か」
「あまりにも、頻度が高くないですかね。復帰して早々に再度実験の申請を行い、あれと会話をしては帰ってくる毎日。貴方、どういったつもりなんですか?」
「どうも何も、私はオブジェクトの異常性の究明とそれを分析するための情報を収集しているだけです」
「にしては、貴方、あれとやたら親しい様子なようですが」
その言葉を聞いた瞬間に織戸態は歩みを止めた。別に足早に動いていた訳ではないが、その停滞が余りにも唐突だった為か、織戸態に突っかかってきた男は少しばかり彼を通り過ぎた後に元の位置に戻る。
そんな男を半ば睨み付ける様に見ながら、織戸態は話を続けた。
「何が言いたいのですか?」
「織戸態博士。私は、貴方が余りにもオブジェクトに接近しすぎているのではないか、そう思っているんですよ。最早、越権行為の範疇に収まるのでは?」
「それは警告ですか。それとも、脅迫ですか」
織戸態の横を別の職員が通り過ぎていく。恐らく、この2人の会話は彼等にも聞こえているのだろうが我は関せずを一貫している様子でその場から離脱していく。
それ以外の職員に関してもそうである。ここを行き交う者達はそれぞれが己の中に抱える何かを持っている。しかし、それを何者かと共有する気も無ければ救いの手を差し伸べる訳でもない。
彼等彼女等は各々、この業界、この世界自体に救いなど無い事を知っているのだ。化け物を収容し、化け物を管理し、化け物を研究し、化け物を分析する。これをただひたすら繰り返す中で彼らの中には何時しかどうしようもない無力感が堆積していくのである。
自らの今までの歩みに疑問を持ち始めたその時、人は瞬く間に目の前の道を失ってしまうのだ。
このサイトの廊下を行き来する人間の中で、未だに自分の歩む道が常に正しいと信じ邁進している者がどれ程いるのだろうか。散見される沈みがちな表情を見るに、その様な人間は稀である。
「どちらで捉えて貰っても構いません。ただ、私は事実を述べたまでです」
目の前の男は、今も尚表情の1つも変えない物のその奥に潜んでいる欲望が漏れ出ていた。
「それはどうも」
織戸態は心にも無い礼を言いつつ、軽く会釈をしてその場を離れようと再び歩みを始めた。その言葉遣いはあくまで礼節を持ちつつ体を維持し、彼の童に説いた言の葉に嘘偽りのない行動を見せつけた。
しかし、再び彼の男は織戸態を呼び止める。
「織戸態博士」
「……なんでしょう」
「私は、貴方の事を見ていますからね」
一通りの悶着を終え、織戸態は自身のデスクに到達した。腰を痛めまいという目的で購入した低反発のクッションが採用された椅子を引き、やり慣れた所作でそのまま席に着く。
彼が身を置く職場は左右が薄い壁で仕切られた仕事机が軒を連ねた様な規格の場所であり、日頃は彼の他にも同様な区画の中で自身に課せられた責務を全うしている者達が屯している。
織戸態もそれに漏れず一息つくや否や目の前に置かれた支給品のノートPCを立ち上げ、報告書の作成の為のソフトを起動させた。
周囲は静寂に包まれ、そんな中で彼の紡ぎ出すタイピングの音のみが響いている。それが、彼以外の職員が既に定時を迎え退職している事を証明していた。
時刻は夜の10時を回る頃合いだろうか。次第にフロアの奥の方から消灯が進み、段々と織戸態のいる区画へと暗部が近づいてくる。が、肝心の織戸態はそんなものお構いなしと言った風で、今も尚己に課せられた職務の完結に向かって直進を継続する。
丁度、彼の背後に暗闇が差し掛かった瞬間だろうか。織戸態はふと、何かを感じ取ったかのように自身の指を止めた。正確に言うのならば、明確な人らしきものの気配が彼の背後から発せられたのだ。
織戸態という男は、特に勘が鋭いだとか、人には見えない物が見えるという訳ではない。幼少期から続く経験において、彼はそれに類する存在と対峙したことすらないのだ。
財団と言う組織に所属してからもそれに変わりは無かった。彼の分野は、肉体を持たぬ意思のみの存在、それを分析し研究する事。それに尽きる。
傍から見れば、それは、彼が今まで遭遇した事の無い件(くだん)の存在と類似するものではないのかと論する者もいそうだが、明確に意識のみの存在と言う物は多岐にわたり尚且つあくまで「科学的側面における理由付けの完了している存在」である事に集束するのである。
偶発的か否かは関係なく、その意識体が存在するに至った経緯や原理、それらに何らかの解明に至った瞬間にそれは未知ではなく既知となり、瞬く間に科学の分野へと降臨するのだ。
しかし、それにすら到達できない領域というものが存在する。幾ら理屈をこねようとも、幾ら理論の構築に動こうとも、人の持ちうる常識という物差しの範疇から逸脱しまるでこちら側を見下ろすかのように、そしてそれで生まれた影を以て、人を闇の中へと誘う存在がいるのである。
織戸態の背後に立っている物。いや、者だとも言えるだろうか。既にその存在のいる領域の所在など定かではないが、確実にそれは彼の背面でじっと静かに立っていた。
状況だけを見れば正に怖気の走る環境だろう。だが、肝心の織戸態はと言えば今、この時もそんなもの意にも介していないといった様子で、仕舞いには記録を継続させていた報告書の最後の句読点を打ち終えた後に深く椅子に背中を預けた。
ぎっぎっという金具特有の音が足元から響く。織戸態は、そのままの体勢を維持しながら、既に明かりの消えた照明の方へと顔を上げ一点を見つめる。彼を照らしている光源は気が付けば、彼のPCの画面から発せられるブルーライト交じりの光だけになってしまった。
「……私は、別に間違った事をしているなんて思っていない」
一切視線を動かすことなく、織戸態は己の口から発せられる言の葉のままに会話を続けた。
「貴女こそ、あの子の事をどう思っているんだ。あの子は、途方もなく……純粋だ」
背後の存在が、一歩前へ出る。そう、予想される足音が聞こえる。
「私は、私の思うあの子との接し方を模索するつもりだ。だから、貴女も、もう……」
そう言い終わる刹那、途轍もない音量で鳴り響く金属音が織戸態の耳を襲った。そう思えば、彼の肉体には突如強烈な衝撃が走り、その影響からか彼の全身が宙を舞った。
フロアの端に位置する壁に体が打ち付けられ、背面に鈍い痛みが走る。それゆえにか織戸態は苦悶の表情を浮かべながらくぐもった声を口から漏らし、何とかしてこの痛みを体外に逃がそうと床でもがき苦しんでいる。
彼を遠くまで付き飛ばした何かが、彼に迫ってくる。床で蠢いているしかない織戸態の視界には、ひたひたという足音を伴った者の裸足が写っている。周囲が暗がりになっている筈なのに、どういう訳かその者の姿だけがくっきり見える。赤いスカートに土で汚れた足。それに加え大量の痣や切り傷が目立ち、足首周りしか見えていないにも関わらず、その持ち主の境遇が手に取るように分かる。
「わ、私は……!」
織戸態は、このような状況に陥ったとしても、今も眼前に迫ってくる人外の類に対して自身の論を述べようとしている。一体何が彼をそこまで駆り立てるのか。
「あの子の事を……!」
次の瞬間、大きな人の手が彼の視界を塞いだ。
「それが、ここ最近に見る夢ですか」
織戸態の話を聞きながら、野呂井はメモを取った。厳密に言えば、この場には3人の男が屯しており、「霊実体の研究部門」とされている倉庫然としたオフィス内で肩身を狭くしながら座っている。
彼等を囲っている金属製の棚と資料の山は、恐らくちょっとした衝撃で崩れ、彼等に覆いかぶさる事だろう。
「……そうですね。まあ、正直何処までが夢で現実なのか、最近は曖昧になって来てます」
織戸態は自身の眉間を指で押さえ、咄嗟に襲い掛かる眠気を覚まそうと努める。
そんな彼の顔はと言えば、くっきりと残った隈が印象的でありその様子からも彼が一体どれだけの期間を覚醒に費やしてきたのかが窺える。心なしか頬もこけているようにも見え、多少の衰弱が見えるのもまた一塩だろう。
「それは、貴方がSCP-3039-JPの担当になってからの事ですか?」
「まあ、そうなりますかね。あのアノマリーとインタビューをするようになってから、先程伝えました夢を見る様になりました」
「それと、何回目かのインタビューの終わりに何者かの襲撃を受けたとか」
「……ええ。そうです」
野呂井がその話を振ると、より織戸態の表情が曇った。
そして、その様子を彼等の傍らで聞いていたもう1人の男である岩場がんばは見逃さなかった。
「織戸態君。何か、気になる事でもあるのかな?」
声色こそ温かみがあるが真を穿つような鋭さがある。織戸態自身もそれを察知したのか、岩場という壮年の男に対して誤魔化しは効かないと早々に悟ったようで、小出しではあるが語りだした。
「……あの子の、いや、3039‐JPの母親が……いる様なんです」
「ほう、母親」
「ええ……」
これを皮切りに、織戸態はこれまでの経緯を話し始めた。
SCP-3039-JPの調査を進めて行けば行くほど、オブジェクト自身が明言した「母親」の存在が調査の議題に上がるようになった。
SCP-3039-JPは、言ってしまえば自然的現象の結果に発生した「音波」に由来する意識体である。精神年齢は現在からの換算で5歳前後の水準を記録しているらしく、端的に言えばまだ子供でしかない存在だ。しかし、そんなオブジェクトが自身にとっての親という存在について言及したのだ。
そんな折である。織戸態を含むセキュリティー担当者計2名が何者かの襲撃を受けたのだ。
当初こそ、該当オブジェクトを担当していた研究班はその事案についての調査、精査、対応案を出してはいたが、突発的な事象で且つ再現性も希薄、そして極めつけはそれ以降に同様の条件下での再現実験も行われたが一切の再発案件が見られなかった事によりこの事象の研究は一旦休止と言う烙印を押されてしまった。
「……それでも私は、あの事案には何かがあると、思えてならないんです」
織戸態は事の経緯を話し終えた後に、その思いを2人に吐き出した。
「なるほど……」
無精髭が目立つ顎に指を置きながら、岩場はそう呟いた。その傍らで野呂井は黙々と筆記を続け、織戸態が供述した内容を一言も漏らさずに記録している。
「私は、あくまで一科学者です。だからこそ、究明しきれていない事象を野放しには出来ない。私は、それが……どうしても、嫌なんです」
若干、俯きながらではあるが、織戸態は己が抱く学者としての矜持を述べた。その言葉には恐らく嘘や偽りはなく、彼自身が抱いている思いの丈を語っている。そう、岩場と野呂井も認識していた。別段、2人がそれを語り合っている訳ではないが、この認識だけは共通して抱きあっているのは2人の付き合いの長さが故だろう。
「ですが、そこからなんです。あの夢を見るようになったのは」
一通りの事実を述べた後に、織戸態は今自身に起こっている事柄を改めて語り始めた。
「最初は、取るに足らない単純な夢でした。いつもの様に仕事をして、自分のデスクに帰る。そこからあの赤い服を着た女が現れて、そこで目が覚める。あんな経験をしたばかりでしたから、その疲れが出ているのだろうと思いました。ですが、3日目を越えたあたりで、最早ただの夢ではない程に鮮明になっていったんです。夢の長さも伸びて、今じゃこの場で話をしている状態すらあの夢の延長線上なんじゃないのかとすら思い始めて……」
「なら何故、我々の所に来たのかね? 傍から聞いてみると、それらもあくまで心的なストレスによる影響の様にも思えるが」
織戸態の吐露に対して、岩場はあくまで冷静な立場からの意見を伝えた。
しかし、織戸態の方からは突飛もない返事が返ってきた。
「……それに関しては、どうしても埒が明かないと認識したからです」
「埒が明かない?」
岩場のオウム返しに織戸態は頷く。
「何度も医者に掛かりました。内科、脳神経外科、その他の部門や専門医。ですが、皆口をそろえて言うのは、何の異常も見当たらなかった。それだけです」
岩場は、まあそうだろうね、と一言言いながら、改めて自身も腰を下ろした。とは言っても、近場にあった事務机の端に簡単に臀部を載せただけである。肝心の椅子は野呂井が独占している。
「もう、藁をも縋る思いで、ここに来ました。お願いします。何か、ご教授いただければ……」
織戸態は改めて、両膝に握りこぶしを置きながら深々と頭を下げた。よくよく見てみれば、その肩は心なしか震えているようにも見える。
丁度、野呂井の方も書き留められる箇所は全て書き切った様で、腰を載せている岩場のすぐ横にメモを置いた。すかさず、岩場はそのメモを手に取り、内容を確認する。
「……分かりました」
岩場は穏やかな笑みを残したまま、織戸態に話し掛ける。
「織戸態博士。こちらとしても、折角の依頼だ。快く引き受けさせていただきますよ。同僚の苦しんでる姿を見るのは、私も悲しい。取り合えず、今日は休んで」
岩場がそう言うや否や、野呂井の方が咄嗟に立ち上がる。そして、織戸態を丁重にエスコートしながら出口の方へと案内する。
「あ、ありがとうございます……!」
部屋を出ていく直前まで織戸態はお礼を言い続け、ドアの向こうに消えていった。
しばらく経ち、オフィスの外側から人の気配が消えたであろう頃合を見てから野呂井の方から切り出した。
「いつからここは、財団職員の駆け込み寺になったんですか」
明らかに不機嫌な様子を見せながら野呂井は岩場に凄んだ。いつもの物調面に輪を掛けて、寄っていった眉間の皺がその苛立ちを物語る。
「いやぁ、だってねえ。余りにも、気の毒だったから」
「私達はボランティアじゃないんですよ。ましてや、カウンセラーでも……」
そこまで言いかけて、野呂井は口を噤んだ。そして、咳ばらいをしつつ改めて岩場との問答を再開させた。
「失礼。ですが、そこまで言っては我々の領分を越えているのでは?」
「かもしれない」
「なら……」
「が、可能性も捨てきれない」
岩場の顔からは、さっきまで在った朗らかな顔は消え失せ、何処か思案の向こう側を見据えている物に切り替わっていた。
野呂井はその表情を認識すると、先程まで抱いていた憤りを一旦は沈めて、自身も一仕事人としての思考へと切り替える。
その為には一旦の冷却が必要であり、それを促すための様に鼻で溜息を吐いた。そして、ついさっきまで織戸態が座っていた椅子に自ら腰かけ、岩場の話を傾聴する姿勢を取る。
「……博士は、既に3039‐JPの報告書には目を通していますか」
野呂井が岩場に改めて問いをぶつける。
「ああ。彼の、織戸態君の話が上がったあたりでね」
「既に色々と嗅ぎ付けていた、という訳ですか」
「いやまあ……今もだが、半信半疑と言った所だ」
「……随分と、曖昧ですね。一見、自信ありげにも見えるのですが」
野呂井は岩場の顔を下から覗くように見て、相変わらずの嫌味を混ぜ込む。
「だから言っているだろう。可能性は捨てきれない、と。まだ、検証の余地がある」
そう言うと、岩場は改めて野呂井の方へと顔を向けた。
「野呂井君」
「はい、なんでしょう」
岩場の呼びかけに対し、野呂井は即答する。
「今回の件だが、君の力をより借りる事になるかもしれない」
「そんなのいつもの事でしょう」
「いや、そうじゃない。私の同僚としての仕事ではなく、野呂井 公麿としての仕事だ」
その名前を聞いた瞬間、野呂井の纏う空気が一変した。少し砕けていた背格好はゆっくりとした動作で正されていき、ほんの少しの気だるげな眼差しが見開かれた鋭さを持ち始める。
その上で、岩場は野呂井に再度語りかける。
「今回の事案に関しては、もしかすると君にとっては少々辛い展開になるかもしれない。君の御実家の事を掘り起こすわけじゃないが……」
「構いません」
間髪を入れずに野呂井は返事をした。
「この業界に来てからは覚悟の上です。だからこそ私は科学者になったんです」
そう言い、野呂井は岩場の目を見た。
「……そうか」
岩場は一旦立ち上がり、野呂井の前へと移動する。
「……ありがとう」
岩場はそう言い、野呂井の肩に手を置いた。
「構いませんよ」
これに対して、野呂井は淡々と返事をした。
食堂にて、野呂井と織戸態は対面する形を取りながら座っていた。何処となく重苦しい空気が流れる2人に対して、周囲の職員たちは近寄りがたい物を感じては自然と離れていく。
「という訳で、暫くの間ですが、貴方の側で貴方の状況を観察する事になりました」
淡々とした説明口調で事の成り行きを野呂井は説明した。これに対して織戸態はぎこちない返事を返す。
互いの箸の進み方も一目瞭然であり、確実に織戸態の方のプレート上に置かれた食材の減り方は芳しくない。気が付けば野呂井の方の皿は既に空になっている。
「何か問題が?」
「い、いえ」
野呂井の頑固な真面目さが伝わってくる声色は、別の意味で織戸態を追い込んでいる様子だ。野呂井自身にはその様な気はさらさら無いのだろうが、彼と対面しているだけで何かしらの叱咤を受けている様な感覚に陥る。
これ自体は彼の眼鏡越しから来る眼孔の鋭さと、日頃から培われている正論の暴力を思わせる口調の成せる業だろう。
基本、野呂井自身は財団職員としての規範に最も忠実な人物である。担当部署こそ財団日本支部内の窓際ではあるが、業務態度だけを見れば冷静で且つ冷淡な財団の姿として皆が模範とするべき在り様だ。
だが、そんな彼自身が同職員からも見向きもされないのはやはりというべきか彼の所属する「霊実体の研究部門」という不名誉なレッテルの所為だろう。
今のこの食堂内での現状もそれをよく物語っており、皆が皆、彼等を避けつつも眼球の端の方では2人の動向を監視し、その仕草のどこかに揚げ足の取れる物がないのかを探っている。
だからこそ、野呂井という男は自身の振る舞いには細心の注意を払い、それらに何ら矛盾も孕ませない。己の所属する場所が鼻つまみ者の掃き溜めであるのならば、その場に居座って腐るのではなくそこに居る事を誇りとして誇示しなければならない。その理念の基、彼の姿は規範と模範を体現する振る舞いを心掛けているのだ。
その様な推測が、織戸態の脳の奥で想起されつつ次第に表層に出し始めていた。
織戸態自身も彼と対面している中で少しばかり奇妙に思う事が増えてきたのがその証左だ。
彼の素性、背景、趣味や嗜好。野呂井という一度聞けば忘れない様な特殊な名前の影になってしまい、一見彼と対面したのみで全てを知っている、そんな錯覚に嵌るのが大半であろう。が、その実は誰一人として彼と言う人間を知るものはいないのである。強いて言えば、彼を知る人間として台頭してくるのは上司に当たる岩場博士ぐらいの者だ。
今、織戸態と行動を共にすると発言した男は一体何者なのか。財団職員と言う肩書だけしか分からず、この男は一体何をしてきた人間なのか。彼という存在に対する情報が少なすぎる。この事に対して織戸態は内心不安に襲われていた。
自分から頼み込んだ手前、それを口に出すことも出来ない現状が大変もどかしいと彼は思った。正直、今の居心地はあまりよろしくない。周囲からの目も痛い。それらの要素が合わさって、織戸態の胃は今にも痛み出しそうな状態だったのだ。
「それと、1つお願いがあるのですが」
「……は、はい」
端に置いてあった紙ナプキンで己の口元を拭きながら、野呂井は改めて織戸態に話題を振った。
思考の巡回に勤しんでいた織戸態にとってのこの提案は唐突な現実への誘導である。これにより、彼の口からは余りにも間抜けな声が漏れた。
そんな中でも、何とか彼は再度現状の把握の為に脳を再び回転させる。そこからごく自然な返答は何かを導き出し、喩えそれが一見は愚者のたわごとに聞こえるであろうことも改めて口に出す事に決めたのだ。
「一体、なんでしょうか」
「端的に言えば、貴方の今の研究対象であるSCP-3039-JPの実験に参加させていただきたい」
「……へ?」
再度、織戸態の口からは間抜けな音が漏れた。
「な、何故……」
「貴方からの証言を鵜呑みにするのなら、貴方の身の回りでおかしなことが起き始めたのは例のオブジェクトと接触した時からです。であるならば、その原因と予想されている存在への見分は当然でしょう」
相も変わらず淡々とした口調で正論だけを述べていく野呂井に対して、織戸態はより一層たじろいでしまった。
ここで誤解が無い様に言及するのならば、織戸態という男自体は決して常日頃からおどおどと過ごしている者では無い。
現に今のこの時まで彼は多くのオブジェクトの研究に携わり、確実に結果を残してきた優秀漢ではあるのだ。
そんな彼が何故、今はこの様な挙動不審な様子を呈しているのか。度重なる悪夢への弊害と慢性的な寝不足。それが主な原因だろうが、野呂井の目にはそれ以外の原因が映っている様子であった。
「繰り返しになりますが、何か問題でも?」
野呂井の視線が真直ぐに織戸態を射貫く。
「も、問題は無いですが……」
「なら良いじゃないですか」
「ですが、担当ではない外部の職員を指定オブジェクトに接触させるというのは……」
「責任者は貴方です。織戸態博士、貴方の許可があれば良いだけの話です。もし、それでも不可能であるならばその理由を述べてください」
この野呂井の言葉により、織戸態は再び自身の言葉を失ってしまった。
理由など上げようと思えば幾らでもでっち上げられるが、それに本当の意味での正当性が伴っているのか彼自身も自信が持てなかった。
野呂井が言ったことは正論も正論であり、言ってしまえばここで織戸態自身が歯切れよく了承すれば済む話なのである。しかしながら、彼の口から、いや喉からはその一言が出てこようとはしなかった。
どうしても、SCP-3039-JPには野呂井を近づけたくない。その思惑が見え隠れする。
「そんなに、あの子には誰も近づけたくないですか」
野呂井の放った言葉に、思わず織戸態ははっとした。
意識こそしていないが、仄かに自身の体温が上がっていくのを頭の片隅で感じる。
「別にその様なことは無いですが」
先程までの態度からは一変して、今の彼の姿はある意味はっきりとしていた。
「気に障りましたかね」
「いや、怒っている訳ではないですが……。私とて財団職員の端くれです。その様な物言いは、如何なものかと」
口ではそう言いつつも、次第に憤りを露にしていく織戸態とは対照的に野呂井は大変落ち着いた態度で手元のお冷を口に運ぶ。
静かな時間こそ流れてはいるが、明らかにこの場所には緊迫した空気が流れていた。
「貴方自身はどう思っているんですか?」
「何の事です」
「SCP-3039-JPは貴方にとって一体なんですか」
まるで尋問の様相を呈してきたこの食堂内にて最早人の気配を構成するのは彼等だけとなっていた。騒がしく職員達の談笑が響いていた筈の場所は2人の為だけにある様で、人と言う言葉も彼等だけを表現する名詞と成り果てている。
「何って……」
「貴方にとってのオブジェクトとは何なのか。単純な研究対象なのか。それとも、何かの替わりなのか」
「……替わり?」
野呂井は机の上で両手を組み、一切の動きを殺している。
「貴方の実の子供の替わりという事です」
織戸態の中で何かが切れた様な音がした。
気が付けば自身の両手を食堂内の机に叩きつけ、目一杯の憎悪を込めて織戸態を睨み付けている。
「えらく感情的ですね」
このような状況に至っても野呂井の態度が変わる事は無い。まるで、この反応自体が想定の範囲内であったかのような顔で今も尚、織戸態の顔を見つめている。
「……何が狙いなんですか」
冷静でありつつも何処か怒気を思わせる声色で織戸態は野呂井に質問をした。
「別に何も。ただ、私が思ったことを述べただけです」
「……思ったこと? 何ですか、それは」
「明らかな喧嘩腰ですね。織戸態博士」
「質問に、答えてくださいよ……!」
互いに互いの言い分を放っているだけの、取っ掛かりも何もない会話が続いていく。
野呂井自身は織戸態の神経を逆なでする気は微塵も無いのだろうが、それを受け取る織戸態の方はそうは思ってはいない様子だ。この野呂井という人間は、自分を試している。何かを探っている。一体何を。3039‐JPの事か。自分の事か。
この男の狙いはなんだ。何を望んでいる。
奪う気か。私からあの子を奪う気か。
させる物か。絶対に、そんな事させる物か。
織戸態の脳内は次第に野呂井への不信感と増悪に染められていった。彼の視線に怯えていたのが嘘のように、織戸態の目には黒い何かが燃えている。
「そのままの意味ですよ。貴方は、3039‐JPに私を近づけたくない。というよりは、誰も近づけたくない。その様な思惑が見え隠れすると言っているだけです」
「そんな訳……!」
「本当に無いと言い切れますか?」
何かしらの反論を返そうと口を開けた織戸態ではあったが、その口からは何も出てこなかった。何度か別の言葉を絞り出そうと努力はしてみたものの彼の脳内で選択されるワードを用いたその後のシミュレーションを行った結果、野呂井の言ったことを結局は肯定することに繋がるのは目に見えていた。
それを自覚した瞬間に、織戸態の体に籠っていた熱が何処からか逃げていくように落ち着いていく。次第に足に力が入らなくなり、そのまま彼はストっと再び腰を下ろした。
「異論が無いようでしたら、宜しくお願いします」
野呂井はそう言い終えるとテキパキとした動作で目の前の食器をまとめ始め、そのままの足でトレイの返却口まで持って行った。
しばらく経ってから、織戸態も立ち上がり野呂井の後に続く。
「……では、この後に私のデスクへ来てください」
力のない声で織戸態は野呂井に言った。
「ええ」
野呂井はそれに対し、さも当たり前の事の様に返事をした。
「だれー?」
「私は野呂井と言います。あなたのお名前は?」
「おとー!」
「おとさんですか。良い名前ですね」
「えへへ~」
SCP-3039-JPと親し気に会話をする野呂井の姿を、遠目に織戸態は眺めていた。
とは言っても、何者もいない筈の場所に大の大人が1人で会話を成立させているという情景もシュールな物であり、ある種の嫉妬心を抱きかけた織戸態ではあったが次第にそんな気は失せてしまった。
「少し、あなたの周りを調べて回っても良いですか?」
「う~ん……どうしよう」
「大丈夫、お時間は取らせません」
「……うん、分かった! いいって!」
「ありがとうございます」
少々奇妙な間を持ってから、3039‐JPこと「おと」は野呂井の行動を許諾した。
その様子を見ていた織戸態は、そのおとの生み出した空白に対して、密かではあるが敏感に反応していた。
おとが先程のような反応をした時の記憶が蘇る。何者かに襲われた記憶。あの子の母親と呼ばれる存在である。
あの事案以降、同様の現象は確認されてはいない。だが、織戸態が何度もおとへインタビューを行った際、誰かに何かを訊いている様な反応を頻繁にしていたのは決して目新しい事ではない。
おとがその間を設ける度に、織戸態は彼女の存在をどこかで感じるのだ。
これが恐怖故の反応ゆえか、彼の勘がその点においてのみ冴え渡っているのかは定かではない。しかし、ある意味彼の中に備わっている動物的危機回避能力の根幹が彼に働きかけている事は確かなのだ。
「のろいーくすぐったい~!」
「すいません」
おとの声を聴き、織戸態は思わず野呂井を呼び止める。
「あの。もう良いんじゃないですか?」
元地下道の端にてしゃがみ込む様に座っている野呂井に対して、織戸態は高圧的な態度を見せながらそう諭した。
正直、この男がおとの元に来ること自体を織戸態は反対していたのである。そんな対象の男が、あの子と既に仲良くしている。織戸態にとってこれが何よりも耐えがたい苦痛であった。
「いえ、もう少しだけ調べさせてください」
そう言いながら野呂井は膝についた砂埃を払い、すっと立ち上がる。
「約束いただいた時間にはまだ余裕がある筈ですが」
またもあの野呂井の視線が織戸態を刺す。
「わかりました……。もう、好きにしてください」
半ば諦めの心境のまま、織戸態は全てを投げ出した。
ある意味、おとに対する淡い期待を持ちつつあの子がこの男に靡く事は無いという曖昧な確信を以て彼を野放しにする決断を下す。この行為自体、彼自身が無謀な物である事は自覚していた。
だが、おとの前で大人気の無い行動だけはしたくない。それが今の織戸態を制御していたのだ。
そんな自己の分析を傍でしつつ、この前の食堂で交わされた野呂井との会話を反芻する。
そんなに、この子を独占したいのか。
自分の行動や言動、そしてこの苛立ちを鑑みても彼は第三者から言い渡される最終評価を覆せるほどの手札を持ち合わせていない。これは明確な事実だ。
巡り巡った自己完結気味な自身の評価に打ちのめされつつ、織戸態は細い溜息を吐いた。
「おとさま……だいじょうぶ?」
「え?」
そんな織戸態に対し、この空間に残留する幼子の声が彼に話し掛けた。
「さいきん、おとさま、元気ない……」
「そんな事は無いですよ。大丈夫です」
地下道の天井で微かに明滅する蛍光灯を見つめながら織戸態は幼子の純粋な質問に返答した。
このままでは駄目だ。織戸態は自身に再度そう言い聞かせる。
子供に気を遣わせるなど大人失格だ。この子の前でだけは常に気丈に振舞わなければ。
その決心が彼の無意識下で肉体に繁栄され、知らず知らずのうちに握りこぶしを作っていた。
「……ぜんぶ、おとのせい……?」
悲し気な声が織戸態の足元から聞こえた。織戸態は思わずその方向へ顔を向け、血の気が引いていくのとは反比例して心拍数が上がっていくのを感じる。
「違う。違いますよ? あなたの所為じゃない。絶対に違う……!」
「けど、おとといるおとさま……。さいきん、かなしそう。おと、いないほうが、いいのかなあ……」
その言葉を聞いた瞬間、織戸態は思わず利き手を高く振り上げた。しかし、その掌の行き先が分からず、結局は小刻みに震わせながらゆっくりとその腕を下げることしか出来なかった。
「な、何て事を……言うんですか……!」
織戸態の声が震える。悲しみ、怒り、不甲斐なさ。様々な負の感情が彼を後悔という名の渦の中に引きずり込み、再度今自分が何をこの子にしようとしたのかを自覚させた。
「あなたは、望まれて生まれてきたんです……!」
「おとさま……?」
「あなたは、ちゃんと愛されているんです……! だから、そんな悲しい事……! 二度と、言わないでください……!」
気が付けば彼の眼にはうっすらとした涙が滲んでいた。
「おとさま? なかないで?」
慈愛と心配が合わさった様な、力のない声が織戸態に掛けられる。そのおとからの指摘によって彼は初めて自分が涙を流していた事を知り、それを即座に隠すように片手で拭いさる。
「……すいません。心配を掛けてしまいましたね。私は大丈夫。何も心配しなくて大丈夫だから」
「ほんと? おとさま、どっかいかない?」
「え?」
唐突な子供からの質問にまたしても彼は驚かされる。何故、自分がどこかに行ってしまう、そんな話になっているのだろうか。その疑問が瞬時に彼の脳内を染め上げていく。
「私は、何処にもいきませんよ?」
「でも、おとさま、きえちゃいそう……」
「消える?」
「あのね? さいきんね? おとさまの音がね、なんかとおいの」
この子にしか感じられない物がある。この時の発言からそれが確信に変わる。だが、その新たな発見の原因が自分にあるという事実があまりにも衝撃的すぎ、織戸態は言葉を失ってしまった。
「おとさま……?」
おとの言葉が耳をすり抜けていく、そんな感覚に襲われる。
自分の音が遠い。人から発せられる音。靴音、声、布の擦れる音。そして、最後に残る物は何か。
心臓である。
「織戸態博士」
不意に肩を掴まれ、ようやく織戸態は我に返った。
「終わりました。引き揚げましょう」
「え、ええ」
野呂井はそう言い終え、すたすたとした足取りで出口へと向った。それに織戸態も続き、3039‐JPの空間を後にしようとする。
「おとさま~、のろい~。またね~」
無邪気な声が背後から響き、それに応えるように織戸態と野呂井は振り返る。
「ええ。また」
そう言いながら織戸態は虚空に向かって手を振り、野呂井も軽く手を上げる事でそれへの返答とした。
「こんな所まで、私と行動を共にしなければならないんですか?」
織戸態のすぐ隣を歩く野呂井に対して、あからさまな苦言を彼は呈した。財団施設内の廊下を進む2人ではあるが野呂井の寸分の狂いもなく織戸態との歩調を合わせて歩く様は、現実に現れた影のような精密さがある。
織戸態自身、昨日の晩はあまり眠れなかったようでさらに目の下の隈が濃くなっている。寝不足の苛立ちも合わさってか、この日は特に野呂井への当たりが強いのが見て取れた。
「ご依頼ですので」
「ここまでの事を望んではないですよ……」
食堂と3039‐JPでの一件も含めて、織戸態は野呂井に対して正直辟易としていた。不愛想な表情も彼の発する相手を苛立たせる口調も、そしてそれらが軒並み正論である事も含めて彼への不快感が募り続けていたのだ。
人との関係を点数で表したくは無いが、どうしてもこの野呂井という人物に対しては減点方式での評価を下さずにはいられない。
その様な織戸態の心持などいざ知らず、野呂井は今も直進を続けている。しかし、その視線はどういう訳か様々な箇所へと向けられており、彼の行動と思考がある意味食い違っている状況が継続されているのが現状だ。
「まるで1分1秒も私から離れない様に心掛けているようですね」
織戸態は、あくまで体裁としてではあるが、苛立ちを隠した口調で野呂井に再度語りかける。
「ええ。そのつもりで動いていますから」
「……本気ですか?」
「本気です」
心底呆れた、と織戸態は思った。
確かに助け舟を求めたのは自分の方ではあるが、このような結果になるとは想定外であった。
変人ぞろいの部署だとは聞いてはいたが、その方向性は彼の予想した物から逸脱していたのだ。
類まれなる才能を持つものは時として奇人変人と世の評価される。それが世間の常であると彼自身は自負していた。しかし、だからこそ自分のような人間はその領域の人間足りえないと自覚していたのである。
自分にはこれといった才能がない。多くのオブジェクトと関わり、研究の成果を上げてきた彼ではある。ましてや異常な存在を扱う研究機関に所属が出来た事を上げても、彼と言う人間が一般的な科学者としての水準からは逸脱しているのは明白である。だが、彼自身が常に抱く感情というのは、所属は出来たもののぱっとしないとありきたりな書類整理と比較的安全な対象との接触止まりの男と言う劣等感だ。
かと言って、何らかの手柄を上げようと無茶をする勇気もない。それがただの蛮勇である事も彼自身が既に悟っている。
それ故に彼はより一層の孤独感をこの組織の中で抱いていた。周りは特別な存在ばかりがひしめき、自分などはその中の有象無象にすらなれない。
この孤独を癒せるものは何処にもない。そう思いながらここまで来たのである。
「織戸態博士。1つ、質問をしても?」
唐突に野呂井がいびつな提案をしてきた。
内心、この男はまともな会話が出来ないのだろうか、と織戸態は訝しむ。
「……なんですか、一体」
だが、訊いてみるだけは聞いてやろう、そんな気持ちでこれを許諾する。いっその事、この野呂井という男は泳がせておいた方が良いのかもしれない。そんな結論を自身の中で構築し、最早彼という川の流れに身を任せ始めた様子だ。
「貴方の孤独は何処からですか」
「……は?」
唐突なことはいつものことながら、これはあんまりだ。この男は、一体何を聞いている?
「貴方は孤独だ。だが、その孤独は何処から来る物ですか」
「……あの、質問の意図が全く分からないのですが?」
「そのままの意味です。この組織における貴方の孤独は、何処から来ますか。そして、貴方はそれを自覚していますか」
この質問の真意を織戸態は心の中で探る。
孤独の来る場所。それが何を意味するのか。何かの比喩なのか、それとも言葉通りに受け止めればいいのか。
この男の真意は最初から読めていないが、ここに来て更に訳が分からなくなってきた。
だが、そんな中で1つの得心が織戸態の中で不意に成立する。そして、それを野呂井にぶつける。
「……なるほど。そう言う訳ですか」
織戸態は並行して歩く野呂井よりを早く歩く事で先行し、そして彼と対峙する形で立ち止まった。
「これは、大規模なカウンセリングという奴ですか」
こう述べる織戸態の顔は相手の首を取ってやった者の様な下卑た物に替わっており、同じ目線ではある筈の野呂井を酷く見下した様子で語り始めた。
「貴方方も所詮は私の事を精神に異常をきたした病人と思っている訳だ。だから、私を試す様な事を言って反応を見ているんでしょう」
次第に織戸態の心拍数が上がり興奮状態に移行する。
「結局は貴方も他の職員と同じわけだ。私を頭のおかしくなった人間だと決めつけている。そんな人間がオブジェクトに関わるべきではないと。私を3039‐JPの担当から外すために躍起になっている。違いますか!?……黙ってないで、何か言ったらどうですか!? 野呂井博士!!」
一頻り言いたいことを言い切った織戸態は、肩で息をしながら野呂井を睨み付けていた。傍から見ればどちらが常軌を逸しているか一目瞭然ではあるが、織戸態の中では自身にこそ正義があると主張している。
そんな状態の織戸態に対して野呂井は相も変わらずの冷静な態度で一切の反応を見せないでいる。その上、自身の眼鏡を一旦外し、懐から取り出したハンカチでレンズを拭いてから掛け直す余裕を見せた。
「言いたいことはそれだけですか」
「な……!?」
「まあ、御蔭で大体の事は分かりました。織戸態博士。先に言っておきます」
「な、何ですか」
「貴方の孤独は、貴方自身から生まれている。恐らく、ご家族を亡くされた時からでしょう」
嘗ての事実が再び我が身に降りかかってきた。そう、織戸態は咄嗟に感じた。
「何で、貴方がそれを……」
「少し調べればわかる事です。貴方の心には隙間がある。最初から大体の予想は付いていましたが。それを埋め合わせてくれるのが、今の3039‐JPという事も合点がいきます。そして、貴方がそこまであの子に依存する理由も」
彼はいつも淡々と事実のみを語る。それが今の織戸態にとっての苦しみを呼び起す。
忘れようと努めていた筈の記憶がこと鮮明に彼の脳内を往復する。
それは身分を隠したうえでの婚姻であった。だが、織戸態は嘗て一妻一子の主であり、彼の中では幸せの絶頂であったのだ。
家に帰れば暖かく迎え入れてくれる家庭があり、愛する人と愛おしい我が子がいる。平凡な自分だからこそ得られたであろう当たり前の幸福を彼は享受していた。
しかし、それは一瞬にして奪い去られた。新聞の一面にすら語られない当て逃げ事故である。
財団で勤めだしてからは常に人の死が近くにあった。明日は我が身と覚悟はしていたのだ。自分が死んだとしても、彼の家族が路頭に迷わないだけの手筈は済んでいた。
にも関わらず、彼よりも先にその家族は旅立ってしまったのだ。
彼の孤独はより深まってしまった。持っていたものの喪失が人間に与える影響は計り知れない。
人にとって失うという事象は、決して覆す事の出来ない絶望を更に煮詰めた混沌である。自分は良い。自分が死ぬのは良いと、誰もが思う。しかし、現実と言う物は時に非情であり、自分の愛する者が死なない保証などこの世の何処にも有りはしないのだ。
今も彼はその渦中にいる。
それの所為なのだろう。彼がSCP-3039-JPに入れ込んでしまっているのは。
あの子と話している時だけが彼の孤独を癒してくれる。あの事故が無ければきっと彼の子供は件のオブジェクトと同じ歳月を得た発育を実現していた。
その様なもしもをいつも考えずにはいられない。
過去を書き換えられるのならば彼はどの様な手を使ってでもそれを現実にするはずだ。だが、それが叶わないのならば、代用品に頼るしかない。
そんな気持ちのまま、SCP-3039-JPを彼は利用している。家族の代わりにしている。
織戸態自身、そんな自分にもう愛想が尽きていた。だが、そこから抜け出すことも出来ない。
SCP-3039-JPは、「おと」は、彼にとっての中心に居を構えてしまったのだ。
それを野呂井は無情にもこの場で突き付けた。この時の織戸態の心境たるや、正に絶望と弩髪天の入り交じった沼である。
「織戸態博士」
「黙れ……」
「織戸態博士」
「黙れ……!」
彼からの呼びかけがより苛立たしい物へと胸の中で変質し彼の食道をひりつかせる。
「織戸態さん」
「黙れって言ってんだろうが!!」
織戸態の口調は、最早持ち合わせている怒りを誤魔化す事すら出来ない程に荒れている。その結果が怒号となって野呂井に吐き出される。
が、次の瞬間に状況は一変した。
「人、いなくなりましたね」
「……え?」
背中に冷たいものが過ぎていく。聞こえていた筈の喧騒が消えている。野呂井の言葉を切っ掛けに、織戸態は一旦はその四感を以て起きてしまった異常を知る。
そして、織戸態は野呂井の発した言葉の様を己の目という最後の感覚で確かめる様に周囲を見回し、財団の廊下において息をしているのが彼等しかいないことを実感した。
「どうして……」
思わずそんな、何の中身も伴わない言葉が織戸態の口から洩れる。
「恐らくですが、大分前からここには私達だけが取り残されていたようです」
この様な状況においても酷く冷静な態度を変えない野呂井は先程の視線の移動からは打って変わって、ある一点のみを見つめている。
彼等が歩いていた廊下のその先。まるで無限に続く回廊の様に続く行き先は地平線を思わせる程に遠方へと変貌していた。
「こ、このサイトにこんな長い廊下は無い……。何がどうなって……」
「言ったでしょう。取り残されたと。それに……」
見つめる先から視線を逸らさない野呂井は背広の内ポケットから一枚の紙を取り出した。
「もう来てる」
野呂井がそう言い終わる瞬間、何も存在しない筈の空間に途轍もない衝撃が走った。織戸態はそれにより思わず腰から倒れ込み、何が起きたのか一切が分かっていない様子で空っぽな場所を再び見渡す。
「これが、私が貴方の側にいなければならない理由です」
まるで巨大な何かが壁を叩いている様な轟音が野呂井の眼前に響き、見えない壁によってそれの侵入が阻害されているのが窺える。肝心の野呂井はその様な物は意にも介していない様子で、今も尚、先程懐から取り出した長方形型の紙を目の前に掲げている。
「少し強めに行きますので、姿勢を低くしてください」
そう言い、次に野呂井は何処からか深紅の球で作られた数珠を取り出し、まるで何者かの溝内に拳をめり込ませる様な仕草で力一杯に片腕を突き出した。その瞬間、今度は耳を劈く様な破裂音が鳴り響き、かと思えば次には何者かの強烈な悲鳴が辺り一帯を埋め尽くした。
織戸態は思わず耳を塞ぎ、野呂井の言いつけを護る様に頭を低くしている。
およそ2分ほど経ったであろうか。ついさっきまでの音の濁流がまるで嘘のように静まり返り、しんとした空気だけが残されていた。
「思いのほか出てくるのが早かったですね」
肩に付いた埃を払うように野呂井は自身の片手を動かしている。
「い、今のは……!」
「貴方の悩みの種ですよ。さてと、先程の襲撃で備えていた物資が底をつきました」
そう言う野呂井の両手には、まるで焼けてしまった様に黒く変色している紙と既に弾が砕け千切れてしまった数珠の残骸が握られていた。
「恐らく、次の襲撃があったらひとたまりもないでしょう」
落ち着いた口調で危機的な状況を語る野呂井を見て、織戸態の焦りは更に加速する。しかし、それでも自身も落ち着かなくてはという心を持とうと努力している様で、叫びそうになる口を体に力を込めて閉じている。
やはり、ここは財団の職員たる覚悟の差だろうか。織戸態は自身を平凡な男であると卑下してはいたが、危機的状況に至った際の対応に関しては普通の人間とは一線を画す片鱗が見えていた。
「と、兎に角ここから移動した方が良いですかね」
織戸態の方から野呂井に提案をする。それを聞いた野呂井は少し考えた後に結論を出した。
「そうですね。とは言っても、ここはこの一本道しかないようですが。暫く歩いてみましょうか」
「は、はい」
こうして2人は延々と続く廊下の果てを目指し歩き出した。
彼此、1時間ほど経ったであろうか。流石の織戸態と野呂井も一旦は休息を取る目的で腰を下ろしていた。
「本当に、終わりが見えないですね」
壁を背もたれにしながら織戸態は野呂井に話し掛ける。
「所謂、敵のホームグラウンドって奴です。正直、何処から襲ってきてもおかしくは無い」
「……あれは、一体……」
野呂井は少し間を置いてから織戸態の方を見る。
「それは貴方が一番わかっているのでは?」
「……え?」
「心当たりがあるんでしょう。貴方の見る夢も、こうなった理由も、自分で語っていたじゃないですか」
この指摘に対して織戸態は一瞬だけ目を丸くしながら彼を見つめる。そして、ゆっくりと俯きながら少しの時間をおいて、軽い溜息を吐いた。
「……母親、ですか」
「厳密には育ての親、とした方が良いかもしれませんが」
その単語を聞いた織戸態は暫し目を閉じ、少し震えたような声色で再び語り出す。
「……私が、SCP-3039-JPに過度に接触したから……」
「それは定かではありません。それを確かめる目的もあり、3039‐JPの元へも行きましたが」
「ですが、もう、そうだとしか……」
あからさまに狼狽する織戸態を横目に野呂井は周囲の警戒を怠らない。しかし、耳だけは織戸態の話に耳を傾けている様子である。
そんな中でも、織戸態は一種の独白を続けた。
「……3039‐JPは、言ってしまえばまだ子供です。つまりは、周囲の影響を受け様々な価値観に染まる可能性がある。だからこそ、私はあの子との会話を重要視し接してきました。周りの職員は私があの子に入れ込んでいると言っています。……確かに、私はあの子といる時間が心地よく思っている。亡くなった我が子と重ねているのは認めます。ですが、ここでもし、3039‐JPの価値観や思想が極端な傾向に向ったらどうしますか? あれは、一定までの殺傷能力を有する存在です。それだけは避けたい、その一心で……私は……」
「それをよく思わない存在がいる、と」
織戸態は静かに頷きながら再び持論を展開する。
「彼女は、3039‐JP……おとを、人を殺すための道具にしていた。私はそう睨んでいます。あの子が生きるには、生物の悲鳴が必要になる。その為に生き物を殺傷しなければならない。それを、敢えて人間で行わせていた。……私は、それが許せない。あんな純粋な子を、殺しの道具にしていたあの女を……私は……」
「だから、貴方があの子を守ってあげようと、いう訳ですか」
織戸態は野呂井から軽く顔を背ける様に動かし、それ以降は何も言わなくなってしまった。
「傲慢の一言につきますね」
「な……!?」
突如、野呂井は立ち上がり、ツカツカと靴を音を響かせながら織戸態の方へと改めて接近していった。
「貴方一人が全てを背負えると本気で思っていたんですか。貴方だけで、あのオブジェクトの未来を完璧に導けると本気で? それを傲慢と言わずしてなんと言うんですか。貴方は、親としても、職員としても失格だ」
彼から見下ろされる形で叱咤される織戸態は、より一層自分自身の情けなさを目の前で提示された。何かしらの反論を、という気持ちは一瞬だけ湧きはしたが、やはりというべきか野呂井の正論には何を言っても覆されると悟る。結果、彼の取った選択はその場に蹲るという行動だった。
「織戸態博士。貴方が反省すべき事は2点。1点目は過度にオブジェクトへの接触を増やし尚且つオブジェクトへ情を抱いた事。そしてもう1つは、オブジェクトを独占しようとした事です」
「そんな、独占だなんて……」
「いいえ、独占です。貴方は、あの子の母親からあの子を奪いたかった。それだけだ」
「違う……! 私は……!」
「違わないでしょう。まるで親権を争う夫婦だ。相手の育て方は間違っている。だから自分があの子を見なければならない。果たしてそれが、本当にあの子の未来につながる事ですか」
淡々と述べられる野呂井の「織戸態という男」の分析を聞き、とうとう織戸態は両手で自身の耳を塞ぐ状態にまで陥ってしまった。
彼自身、全てを悪意で行ってきたわけではない。言ってしまえば正義感の成せる業である。だが、人が誤った道を突き進む時は決まって己に正しさがあると妄信した時だ。
織戸態にとって、おとは最早ただの研究対象ではない。しかしそれこそがこの事象の根幹であり、彼を追い詰めている全てなのだ。
「……私は……ただ……」
「……まあ、そこに気づけただけましですか。さてと。そろそろ埒が明かないので、強硬手段と行きます」
そう言い終えると野呂井はそっと壁に手を触れ、目を閉じた。
「あ、あの、何を……」
「当初の目的は達成出来たので、そろそろぶち破ろうかと」
「ぶち、破る?」
野呂井が目を開けた瞬間、彼の触れていた壁が一気に弾け飛んだ。
「な……!?」
「やはり、脆いな」
次に野呂井は両手の人差し指と中指だけを伸ばし、それらを重ねる事でばってんを作る様な印を結ぶ。そして、次に両腕を大きく左右に開く様に広げた。
すると、まるでその動作と呼応するかのように壁が左右に解放されていき、無理矢理にも障壁がこじ開けられて行く様が展開される。
土煙と瓦礫が飛ぶ中、今度は野呂井の周囲に複数の文様が描かれた札が宙を舞い、彼が進行方向を指し示した瞬間に壁の向こう側へと飛翔していった。
壁の中は漆黒で埋め尽くされており、到底明かりも意味をなさない程の暗さが続いている。
「さて、では行くとしましょう。織戸態博士。ここからが本番です」
野呂井 公麿はその生を受けた時から、所謂「祓い屋」と成るべき人間として育てられてきた。
彼の生家は、岩場や野呂井の言う霊実体と呼ばれる者たちに対抗する術を継承してきた一族である。その様な家に生まれたからには、彼も同様の道を歩むべきという大多数の賛同のもと、それらを習得するための英才教育を受けたのだ。
しかし、それは彼にとって些か疑問であった。
何故、この作法が霊実体を祓えるのか。何故、これらは奴らに苦痛を与えられるのか。いくら理由を考えても答えは出ず、ただその結果だけが彼の前には提示され続ける毎日を送った。
誰にその疑問をぶつけても本当の意味での理論を知る者は誰もおらず、皆が皆、そうあれがしと享受しているのみであった。
幼少期の野呂井にとって、これは違和感でしかなかったのだ。
彼の母も業界では名の知れた祓い屋であった。だが、母だけが彼の理解者であった。
「公麿。貴方はとても頭のいい子だから、色んな事に疑問が浮かぶの。でも、それを突き詰めていけばいつしか新しい道が開けるわ」
そう言い彼の母は野呂井の頭を撫でた。だが、彼の父は違った。
彼の父親はなんとしても野呂井の力の開眼を目論見、彼への修行を仕切り続けた。
滝行、火渡り、断食に麻薬の摂取によるトランス。ありとあらゆる行為に手を出し、彼の把握しうる知覚の拡大と霊界への扉の開放を促した。
しかし、この様な物事の結果というものは必ずしも実る訳ではないのが世の常である。
野呂井にはそれらの特別な才能が無かった。霊の姿や存在を知覚することは出来るが、それらへ己の力のみで何かを成すことや影響を与えることは叶わなかったのだ。
「何故だ……! わしの子が、何故この様な出来損ないになったのだ……!」
そう言い、彼の父は野呂井を怒鳴りつけ、殴り、蹴とばした。二言目には何故、何故、何故と繰り返し、彼の存在を否定し続けた。奇しくも野呂井と同じ疑問の世界に飲まれていく父親ではあったが、その根幹にあるのは己への妄信である。
その結果、父親は彼を地下牢へと閉じ込めるに至った。
「我らの神が、お前のような出来損ないでも何か施しをくださるだろう。もしくはそのまま死に絶え、新たな世継ぎの糧と成れ」
これが彼の父親が最後に掛けた言葉であった。
野呂井が落とされた地下牢には、幾つもの地蔵と骨と、その中心に朽ちかけた仏像が祀られていた。その光景を見て、才能こそなかった野呂井ではあったが、悍ましい物がそこに蠢いているのを肌で感じた。
嘗て、野呂井と同じ道を歩んだ者達の成れの果て。その骸の山がそこにはあったのだ。
その時、野呂井は自分の家系が何故この様な名で呼ばれているのかを悟った。
この一族自体が一種の呪いなのだ。
力の開放に憑りつかれ、霊界という本来ならば人の到達できない領域に見入られ続けた者ども。呪われた一族。そして、自分はその末裔である自覚が芽生えた瞬間に彼は全ての謎を解いてしまった。そして、何故この家がここまでの力を持ってきたのかも知ってしまった。
水子、子供、女、様々な者の成れの果てが幼い野呂井に纏わりついてきた。腕や足、顔にまでもその手を伸ばし、そして彼の耳元で語りかける。
「憎いか?」
この一族の原動力は憎しみだ。
「憎いな?」
一族の中で生贄を選び出し、その恨み辛みを力へと変える。
岩場と野呂井の提唱している、霊能力と呼ばれる能力に長ける者達の寿命は短い。人が死に、その後に向かうであろう場所に最も近い場所にいるからこそ、その世界に干渉する事が出来る代わりに命の灯を構成する蝋が短いという理論である。
だが、もしそれを人工的に作り出し、それを常に干渉できる環境が有ればどうなるだろうか。ましてや、それがある一族を恨み続ける者達の集合体ともなれば、矛先となる者達は常に死と隣り合わせとなる事だろう。
正に逆説的な理論による霊能力の開眼である。
「憎め。憎め。憎め」
野呂井に降りかかる声は嬉々として彼を誘惑した。ゆくゆくは同胞として迎え入れえる為に、野呂井の一族を恨む心に染め上げようと画策した。
が、それは達成されはしなかった。
「……何故?」
それが野呂井の生きる原動力だった。何故。その言葉が頭に浮かぶとその答えを知りたいと欲する。だからこそ、彼はこの地下で蠢く霊魂たちの事を知りたいと願ったのだ。
彼ら彼女らの恨みの源泉は何なのか。どうすればそれは晴れるのか。彼は怨霊一人一人との対話を行い、彼等の魂に寄り添った。
結果、何が起きたのか。それは明白であった。
「恨みのたまり場が、そこから消えました」
暗黒に満ち溢れた、道すら見えない場所を歩きながら野呂井は自身の事を語った。
彼等は今、野呂井の出した大量の札を足場代わりにし、今も歩みを続けている。
先のサイト内の廊下から脱出してから暫くの時間が経過していた。生憎、それが10分なのか1時間なのかは定かではなく、恐らくではあるがこの空間自体に時間という概念が存在しない故の弊害なのだろう。存在しない物を感じることは出来ない。これもまた、逆説的な考え方である。
「皆が皆、親や兄弟、夫から愛されたかった。その一心であそこに留まり続けていました。ですが、何百年もそれが蓄積していった結果、それが大きな恨みとなりあの澱みを生んでいたんです」
織戸態は、最初とは裏腹に流暢に喋る野呂井の後を必死になって付いて行っていた。何故なら、彼の後方では足場として展開された札が急に舞い上がり、再び先頭に移動しては新たな足場となる動作を繰り返していたからである。
まるでベルトコンベアーの様式を採用した様で、こと織戸態に関しては野呂井の後方にいる分いつ自分の足元の札が移動してしまうのか気が気ではなく、常に早歩きを強いられていたのだ。
「ですが、私はただ知りたかった。彼等の事を、自分と同じ落ちこぼれの烙印を押された先祖の事を。ですが、それを繰り返していくうちに、彼等はその恨みを消していった。端的に言えば、成仏と言った所ですか」
「つまり……貴方の一族の、根幹を破壊したって、事ですか?」
織戸態のはっきりとした物言いを聞いてか、ゆっくりと野呂井は立ち止まる。
それを察知した織戸態はとっさに手で防御姿勢を作り、両手の隙間から野呂井の顔色を窺う。
「ええ。その通りです。御蔭で私は未だに実家から追われていますし、風の噂で聞きましたが、見つけ次第に私を殺したいと、そう願っているみたいですよ。愉快ですよね。ほんと」
いつもは眉間にしわを寄せ、一切感情と言えるものを露呈させない野呂井ではあるが、その時だけは片方の口角を上げ笑った。
彼にもこんな顔が出来たのか。そんな、現状からはかけ離れた感想を思わず抱かせる。
「で、でも……なんか、今も凄い事を、やってのけてるじゃないですか」
「ある意味、ただの見よう見真似です。だからこそ私は科学者になったんです。家から逃げ出した後、それでも私は自らの疑問を払拭したかった。自分が学ばされてきた事柄に何の意味があったのか、霊魂と呼ばれる物は一体何なのか。そして、それらをただ滅する事に何の意味があるのか。物心ついた時にはそう言った文献を手当たり次第に漁っては読みつくし、その答えを探しました。ですが、そこに明確な答えは無かった。伝承や逸話に基づく対処法などはまだ有益でしたが、その殆どが信仰による退魔や根拠も無く効果もない民間療法ばかりでした。正直、呆れましたよ。あれ程までに私に多くを求めた父の信じ続けて来た事の半分以上が、無意味なしきたりレベルの御遊びだった訳ですから。そんな物を継承する為に私は産み落とされたのかと」
いつも以上な饒舌を披露しながらも、再び歩み進める野呂井の後ろをまたも織戸態は付いて行く。
「全て、長年行ってきた検証と統計の結果です。先程の印も、この札も、最もこういった状況に効果のある文様を厳選し、描いて量産した代物を持参してきましたから。別に私自身に特別な力がある訳じゃありません」
野呂井の話を片手に聞きながら、織戸態は心なしか彼等を包む闇の向こう側から何者かに呼ばれているような気がしていた。物理的な声は一切聞こえない。どちらかと言えば、彼等の心の奥底にある根幹に直接語りかけている。そう評した方が正しいだろう。
織戸態は思わず、御札の足場のその下を覗き込もうと頭を突き出す。何かが見える。あれは、手か?
「止めておいた方が良いですよ」
「へ?」
唐突に野呂井はそうぴしゃりと言い、織戸態の好奇心を潰した。
「引きずられます。ここは謂わば狭間の地。あらゆる領域の中間に位置する場所です。ここは幽世でもあり現世でもある。下には貴方を引きずり込もうと舌なめずりしている存在がひしめいていますよ」
「ひっ……!」
この野呂井の忠告を聞き、織戸態の全身に一気に怖気が走った。
先程見てしまった黒色の手が今にも自分のもとに伸びてくるかもしれない、そんな良くない想像をしてしまい、それを忘れる為に即座にあの対象物の観察を中止した。
しかし、それ故か織戸態の好奇心は別の方向へと向いた。
「……野呂井博士。そもそも、何で私に、その……貴方の過去を語ってくれたんですか?」
「理由は様々ですが、そうですね……。貴方がまだましな親だと思ったからですかね」
「私が……ですか?」
「貴方の抱いた理念や情念は財団職員としてはあるまじき物ですが、1人の人間として評価するならば、目の前にいる子供の未来を真剣に考えた結果の行動だとも取れます。……まあ、私に関してはその親と言う物の認識が歪んでいるが為に、相乗効果で高い評価となっている可能性もありますが」
これを聞き、織戸態は昨日までの野呂井の言動を振り返る。
彼と言う人物の、人間に関する評価基準はある意味二分している。1つは財団の職員としての規範をどれだけ全うしているか。オブジェクトに肩入れするような行動を取っていないか、規律を重んじた行動を心掛けているのか。まずはそれに尽きるのだ。
そして、2つ目。それは人としてどう生きているのかである。人道を外れた生き方をしていないか、自分本位な生き方をしていないか。
ある意味、彼ほど人と言う存在をよく見ている人間はいない、そんな事を織戸態は考えていた。
恐らく、彼、こと野呂井の中での織戸態自身の評価は、その2点において半々に落ち着いているのだろう。
財団の人間としては最低評価だが、人としては多少だが評価はしてくれている。だからこそ、自身の身の上を語ってくれたのではないか。
そう捉えると、野呂井という男の認識が織戸態の中で変わってきた。最初は規律に縛られ、それのみを基準として他者を見下すエリートとしか見ていなかった。その上、窓際の部署に飛ばされている状況から本当の意味で人を見下していたのは自分自身だったのだと、織戸態は思い知らされたのだ。
その上で、野呂井は織戸態の人となりを見て批判をしていたのだと気付かされる。
何かを、おとを、自分の寂しさを紛らわせるための道具として扱っている。そして、あの子を独占するために、あの子と母親を否定し拒絶している。その心根に彼は怒りを示していたのだ。
だからこそ、この領域に至る手前で彼は「それに気が付けただけまし」と織戸態に語ったのだろう。
次第に織戸態の足取りが、おっかなびっくりな物ではなく一定のリズムを取れるまともな物に切り替わっていく。心なしか、胸の中で突っかかっていた物が取れたような気がしたのだ。
「因みにですが」
不意に野呂井が織戸態に再度語りかけた。
「は、はい?」
毎度の事だが、これに対して織戸態は間抜けな返事をしてしまう。
「私は最初から、望んで霊実体の研究部門へと所属しました。別に左遷された結果ではありません。というよりは、私と岩場博士、私達であの部門は立ち上げた様な物なので、勘違いなさらずに」
自分の頭の中を見透かされた、その認識が正しいのかどうかは分からないが、野呂井は織戸態が抱いていた彼への感情を当ててみせた。
多少の気まずさが流れるが、織戸態は話題を逸らそうと試み話を振った。
「岩場博士とは、長い付き合い何ですか?」
「ええ。私が財団に所属する前からですから、10年以上の付き合いになりますね。腐れ縁てやつですね」
「そんなに、ですか?」
「さっきの話の続きになりますが、私が生家から逃げ出した後、私は私と同じように御払いや古い民話などの文献を漁っている男と出会いました。身なりも気にしていないぼさぼさ頭で、髭を剃れと言っても剃らない、だらしの無い男でしたよ当時から。……あの時は、まだ大学の研究室に所属していたんでしたかね。そこからは何故か、彼が私の保護者代わりになり、大学まで行かせてくれました」
「という事は、岩場博士は貴方の……」
「育ての親だとは思いません。私にはあくまで母がいましたから。仕事上の付き合いって奴ですよ。祓い屋の一族の末裔が自分の手元にやって来た。良い研究材料でしょうから、近くで過ごさせていたんでしょう。色々気を使われてきましたけど、正直癪でした」
この男、岩場博士の事となるとより一層言葉を選ばなくなるなと織戸態は思った。
だが、ここで新たに分かったのはこの野呂井という男と岩場博士という男の繋がりだ。
2人には切っても切れない絆がある。恐らく野呂井にこれを言えば即座に足場となっている札を抜き取られそうな気がするので、あえて織戸態も言及はしないが、正直こういう関係性が彼には大変羨ましい物に映った。
自分という人間は未だに孤独をこじらせている。3039‐JPの一件から、自ら周囲との接触を断ちおとに没入していった。その様子を見て、本気で心配してくれていた職員もいた事だろう。だが、そんな彼らを私は突っぱねた。この孤独は私が生み出したのだ。自業自得だ。そう、織戸態は自身の心でそれを痛感した。
そして、この事件の根幹部分にも次第に気が付き始めた。自分と言う存在が何故、ある種の怪異に苛まれているのか。何故、これが始まったのか。
それは織戸態が3039‐JPと関わったからじゃない。これ自体はもっと前から始まっていた。そう、あの日、妻と子供を失った時から始まっていたのだ。
この事件の発端は私、私の孤独だ。
織戸態の中で合点がいった時分に、突如野呂井は立ち止まった。
「ここです」
簡単な言葉だけを野呂井は言う。急ではあるが、最初にあった時の様に少ない言葉で話す彼に戻ってしまったようだ。
野呂井を超えた向こうに織戸態が視線を移すと、そこには木製のドアが存在していた。
この暗黒空間に、明かりも無いのにそのあり様だけがくっきりと観測できる。
そして、その扉を見た織戸態は思わず野呂井の前へと飛び出し、それを間近で観察し始めた。
「何で、これが……ここに……!」
「やはり、見覚えがありますか」
野呂井が織戸態の後方から語りかける。
「野呂井博士……! これは、一体……!」
「それを開けて確かめるのは貴方の仕事です。私はその手伝いをしているに過ぎません」
野呂井の言葉を聞き、織戸態は再度扉の方を見つめる。その見覚えのある扉は尚もこの暗黒の中で唯一明確な形を持った自己を主張し、その実存性を証明している。
織戸態の手は吸い寄せられる訳ではなくいつもの慣れた手つきと言った形でドアノブへと延ばされ、持った瞬間に軽くひねる。
「……そう、そうだ……この扉は、雪の所為で天井が軋んで、開けずらくなったんだ」
過去を反芻しながら、織戸態は長年にわたり培われたコツを以てして目の前の扉を開放した。
そこを抜けた先にあったのは、ごくごく当たり前の民家の一室であった。先程開けた扉はこの家屋内の一室へ通じていたであろう物らしく、キッチンとリビングが併設された区画へと続いている。
床はフローリングで構成され、左手には2階への階段、右手にはまた更に広がった一間があった。なお、その一間にはビニール製の子供の遊具と思われる小さな屋根付きの家があり、それに横には同じくビニール製の滑り台とおもちゃ箱が設置されている。
織戸態はゆっくりとリビングを抜け、その子供の為に用視されたと一間へ向った。
そして、その場に到達するや否や彼はその場で膝を落とし、周囲を少し見回した後に細い涙を流し始めた。
「家だ。私の……家だ」
そう言い、織戸態は泣きながらの膝元にある玩具を一つ拾う。
「あの子のお気に入り……妻と一緒に、クリスマスプレゼントとして買った奴だ。ラッピングを頼んで、手紙を書いて、枕元に置いた。次の日の朝は箱を持ったまま走り回って、妻がそれを抱っこして止めたんだ。……覚えてる。全部、全部覚えてる。あれもこれも、全部。あの時のままだ……」
再び彼の家、否、彼の家族との思い出と邂逅したことによる喜びの中で、彼は延々と涙を流し続けた。そして、その流れる物に比例して彼の脳内では彼にとって掛け替えのない存在との関りで彩られた思い出が次々と湧いて出てくる。
どうして、今までこれを忘れていたのだろう。後悔にも似た疑問が彼を埋めていった。だが、それも全て暖かな思い出によって押し流され、今も尚彼の中身を満たしている。
「愛しい者の死と言うのは残酷です」
気が付くと、織戸態の隣に立っている野呂井が話し始めた。
「その悲しみが全てを覆いつくし、素晴らしい過去の瞬間すらも隠してしまう。ですが、時にその思い出は貴方の感じた様な悲しみ全てを洗い流してくれる糧となります」
「でも……どうして。この家はもう売りに出して、今じゃ更地の筈だ。なのに、どうしてあの時のままに……」
「貴方に思い出してほしかった。だから、私が連れてきました。ここは謂わば、貴方の記憶の集積場所です」
野呂井がそう言い終えると同時に、インターホンから軽快なベルが鳴った。
「貴方も気が付いているでしょう。何故、貴方が怪異に見舞われたのか。貴方の何があれを寄せ付けたのか」
何度も何度もインターホンが鳴り、扉を叩く音も次第にその強さを増していく。
「あれを調子づかせた大元が何なのかを私は知りたかった。貴方を振り回す様な真似をして申し訳ない」
「の、野呂井博士……! あ、あの女が……お、おとの母親が……!」
キッチンにある擦りガラスを使った窓、庭へと抜けて行くベランダにある大きな窓、リビングの小窓、それらのガラス越しに外から中を覗き込むように赤いワンピースを着ながら乱れた黒髪を下げている女が立っていた。1人ではなく、各窓に何人も同じ風貌をした存在が立ち、片手には血の付いた立ち切狭が握られている。
そんな女たちも、玄関前にいる存在と同じ様にもう片方の手で作った握りこぶしで窓を叩き、今にもガラスを突き破りそうな勢いで迫ってきている。
「あれは孤独と恐怖に寄生する。だからこそ、この場所におびき寄せたかった。貴方の孤独が多少は改善され、その力を弱められる場所がここです」
玄関のドアの鍵が破壊され、扉が突き破られる。それに呼応するかのように窓の外にいた女たちも侵入を拒んでいたガラスを破壊し、内部へと侵入してきた。
女たちは皆が皆、手に持っている立ち切狭を逆手に持ち、今にも野呂井と織戸態に突き刺さんばかりに向ってくる。
それに従って周囲の空間が歪む。まるで渦を巻いていくように各要素がねじ曲がっていき、それらを構成している家具や壁の輪郭が混ざりあい消失していく。
女達の持つ切っ先が、2人に振り下ろされる。もう寸分の差で刃先が彼等の皮膚を突き破ろうとするその瞬間、野呂井が声高々に宣言する。
「今です! 岩場博士!!」
視界が暗転する。文字通り、この世界を構築する全てが黒に染まり、形が消える。
かと思えば、織戸態の中で二度目の目覚めが発生した。
「ここは……!」
先程まで起きていた筈なのに、何故自分は今眠りから覚めた様な感覚に陥るのか。その理由を探す中で、自身の背後に何らかの違和感を覚える。
それを感じてか、織戸態は自身の背後を確認した。
「獲ったぞ! 野呂井君!」
そこには霊実体の研究部門を統括している岩場博士がいた。そして、そんな彼は、先程まで野呂井と織戸態を襲っていた例の赤いワンピースの女を背後から羽交い締めにし、織戸態から引きずりだすように対象の全身を拘束していたのだ。
「が、岩場博士?」
思わず彼の名を呼ぶ織戸態のすぐ横を何者かが抜けて行く。
「今、切ります」
野呂井の声が聞こえ、直ぐに自身の横を抜けて行った影が彼である事を織戸態は察した。そして、彼が切断を宣言したのと同時に、織戸態は自身のうなじ辺りに繋がっているであろう臍の緒の様な管の存在の事も認識する。ましてや、その管は例の女の腹部に繋がっているのだ。
野呂井は懐から何かを取り出し、ピンと伸びた臍の緒に向ってそれを振り下ろす。途端に管は一刀両断され、即座に織戸態の方へと続いていた管の方が朽ち果てた。
織戸態が野呂井の手に握られている物体を見る。それは、何かしらの呪文めいたものが書き込まれた帯を何重にも巻いた刃物であり、見て分かるほどにまがまがしい煙上の何かを噴出している。
「おとさん。お願いします」
野呂井が唐突に呼んだ名前に織戸態はまたしても混乱する。
おと? どうして今、おとの名前を?
「おとさまを、いじめるな!!」
高音域の金切り音が響く。それと同時に岩場は自身が拘束していた女を手放し、かと思えば女の方は真正面から音の衝撃を受け吹き飛ばされる。
これら一連の連携を見せつけられて、改めて織戸態は自身のいる場所を認識した。
「ここは……あの、地下道?」
そして改めて、ついさっきまで自分と繋がっていた女の方へと視線を移す。
この地下道を封鎖した際に財団によって設置された強固な防御壁に叩きつけられ、女の四肢の全てがあらぬ方向へとねじ曲がっている。が、それでも立ち上がろうと藻掻いている様子で、無理矢理にでも骨を動かしながら立ち上がろうとしている弊害か目の前で骨折を思わせる軋み音を響かせている。
「くっ……案外と、しぶといな。いたた……」
そう語る岩場は仰向けになっていた状態から、歳である体を酷使しつつも起き上がり、織戸態の方へと駆け寄る。
「相当、君から生気を吸い取っていた様子だ」
「が、岩場博士……。あれは一体」
「正確なことは我々も把握は出来いないが、通称として夢魔とも呼ばれる存在だ」
岩場が織戸態の側に移動するのを確認してから、今度は野呂井が彼等の前に立った。またも、例の印を両手で結んでいる。
「あれらは、所謂人の抱く孤独感に付け入り寄生する。そして、その寄生先の人間が最も恐れる者の姿を模倣する事で悪夢を見せ、極限まで精神力を消耗させた所で仕留める。そう言う狩りを行う奴らだ」
「じゃあ、あれは……」
織戸態が何かの答えに到達しそうになったその時、既に満身創痍になっていた筈の女が驚異的な速度で彼等のもとへと跳躍してきた。
「まだ、そんな力が残っていたか……!」
それを真向から受け止める様に野呂井は相対し、互いが衝突した瞬間に強い衝撃が周囲に木霊した。
「野呂井君!」
岩場が叫ぶように彼の名を呼ぶ。
「供給源を絶たれた最後の足掻きです。私が抑えます」
「君の体が持たんぞ!」
「私だって、祓い屋の一族の端くれです。これぐらい」
そう言う野呂井ではあるが、既に膝に来ている様で劣勢を強いられている。次の瞬間、彼の肩に女の持つ立ち切狭の切っ先が撃ち込まれ、くぐもった声と共に鮮血が流れる。
「の、野呂井博士!」
織戸態が叫ぶ。
「も、もうやめて下さい……! 貴方が、そこまでする事なんて……!」
「……だって、駄目でしょう」
「……え?」
痛みに耐えながら、野呂井は織戸態に語りかける。もう限界が近いのか、片膝は完全に地面に付いてしまっている。
それでも、野呂井はこの抵抗を止めるつもりはない様子で食い下がり、女と彼の接触面からはプラズマと思われる小さな稲妻が発生している。
「……目の前で孤児を作る訳には、いかないでしょう……!」
最早、彼の限界も近い。そう察してか、岩場が野呂井の背中を支えようと走り出す。
「……博士」
「正念場だぞ! 野呂井君!」
2人掛かりで女の進行を止める構図が出来上がる。それでも尚、劣勢である事に変わりは無い。
「踏ん張れ!」
再度、岩場が叫ぶ。
「言われなくても……!」
野呂井もそれに呼応する。
しゃりん
金属を擦り合わせた様な音が鳴る。そして、それを最後に全ての雑音が消え去った。
それに伴い、先程まで2人に掛かっていた全ての圧力がこの場から消える。その所為か、岩場と野呂井は前のめりでその場に倒れ込んでしまい、彼ら自身も何が起きたのか分かっていない様子で目を丸くする。
3人の男達はその原因を確かめる為に、ついさっきまで鍔迫り合いをしていた夢魔の方を見る。
そこには、もう1人の女が立っていた。しかし、夢魔の取るボロボロの赤いワンピースに乱れた長髪という姿とは違い、綺麗な白いワンピースに丁寧に整えられた漆黒の長い髪を持った女がそこに居た。
そして、突如現れた女は背後から夢魔の方へと手を回し、その手に持っている立ち切狭を以て夢魔の心臓を穿つ。そんな光景が彼等の前で展開されていたのだ。
「ママー!」
周囲にSCP-3039-JPの声が響く。
そんな中、野呂井が小さいな声で自身に覆い被さっている岩場に語りかけた。
「……いい加減、どいてくれませんか」
「あ、すまんすまん……!」
いつもの調子を取り戻すように、野呂井は岩場に苦言を呈する。
すると、そんな2人の後方から織戸態が歩き出し、前の方へと移動した。
そして、今も尚、夢魔への止めを刺し続けている女の下へと近づく。
「……私は、最低の人間だ」
織戸態は、彼女からの返事には一切期待せずに語り出す。
「貴方から、この子を、おとを奪おうと画策した。喩えそれが、勘違いや無意識の内にしていた事だとしても、許される事じゃない。私は、親子を引き裂こうとした最低の人間だ」
目に涙を溜めながら、織戸態は語る。そんな彼の脳裏には、今までどうしてか忘れてしまっていた彼の嘗ての家族の顔がありありと浮かび上がり、彼の心を満たしていた。
「けど、今やっと思い出した。家族を失う事の辛さが。本当の意味での辛さが……。だからこそ、私は……他人の家族に依存してはいけなかったんだ……! すまない……! 本当に、すまない……!」
震える声のまま、織戸態は女の方に向かって深々と頭を下げる。
「おとさま? なかないで?」
おとの優しい言葉が彼に降りかかる。
「ありがとう、おとさん。でも、君のお母さんに、私は謝らなきゃ……」
そんな会話が行われる中、女の方は岩場の方を凝視し何かを促す。
「あ、もしかして……これか」
そう言い、手元から小型の無線機を取り出した。
「……いつも持ち歩いているんですか? そんな物」
この岩場の一連の動作に対して、いつものように野呂井は突っ込みを入れる。
「霊実体との通信を行う際に使う物だからね。いざという時の為に、いつも持ち歩いてるんだ」
「相変わらず、呆れますね」
この2人の会話など無視するかのように、突如無線機の電源が入った。最初はノイズ音のみが響いたが、段々と女性の物と思われる声が聞こえだした。
「……気に、して……ない」
途切れ途切れではあるが、内容は聞き取れる。織戸態に関しては、この声を聞いたのちに改めて女の方へと向き直った。
「こ、の……子を……おね、がい……しま、す……」
「え?」
そう言い終えると同時に、女の姿が消え始める。既に夢魔の体は限界に来ている様で、足元から黒い煤の様に朽ち果てながら離散している。
「わた、しは……もう……いら、ない……」
「……いえ。そんな事ない……! 違う!」
咄嗟に織戸態は女の手を掴んだ。本来は接触すら出来ない筈の相手の手を握り、透過し始めている彼女を引き留める。
「貴女はこの子の母親だ! 子供には、おとには、貴女が必要だ! だから、消えないで……!」
織戸態の言葉を聞いてか、再度無線機の方からノイズが流れ始める。
「わか……った……」
それを聞き、織戸態は一旦は安堵する。しかし、その続きも流れ始める。
「あ、り……が、とう……」
その言葉を最後に、女は姿を消した。
「……彼女は、どこに……」
「まだいますよ。感じますから」
戸惑いが漏れ出ている織戸態の肩に手を置きながら野呂井が応える。
「分かるんですか?」
「ええ。これでも、祓い屋の末裔ですから」
暫しの沈黙が続く。
が、その野呂井の発言に対し、思わず織戸態は次第に頬を緩ませていき、最後には大いに笑い出した。
「冗談がちゃんと伝わって良かったです」
無表情なままに野呂井はそう言ってのけた。
「それ、野呂井博士だから言えるネタですよね」
「ええ。持ちネタです。披露した事は無いですが」
どういう訳か一気に距離の縮まった2人を後方から岩場は眺めていた。内心、親心にも似た感情が彼を襲っており、良き友人の出来た野呂井の事を暖かく見つめている。
「なんですか、気持ちの悪い顔をして」
そんな岩場に野呂井は辛辣な言葉をぶつける。勿論、これに対して岩場は軽快に笑いながら返事をする。
「いや、何でもないよ。……さて、さっさと現場を整理してから引き上げよう」
そう言い、腰を抑えながらも岩場は立ち上がった。
3039‐JPに別れをしつつ、3人は現場を後にした。
その岐路の中で、岩場は今回の件についての顛末を解説した。
「君の状況を聞いた時から、私は2つの可能性を考えていた。1つは、夢魔の関与。そしてもう1つは、3039‐JPの母親と称される存在の関与だ。結局は前者だったが、その原因が違えば対処法も変わる。だからこそ、野呂井君には君に付きっ切りで調べていてもらったんだ」
「……なるほど」
岩場の話を聞きつつ、織戸態には1つの疑問が浮かび上がる。
「じゃあ、私は……いつからあのような状況に……」
「正確には、君と野呂井君が3039‐JPの視察を行った後の夜からだ。その晩、君は夢遊病患者の様にサイト内を徘徊し始めた。それをある職員が見つけてね」
「もしかして、私を見張ってた職員……ですか?」
ここで織戸態はある男の事を思い出した。それは、彼に詰め寄りながら3039‐JPへの過度の接触を指摘していた職員の事で、そこまでして自分の失脚を狙っていたのかと心底呆れた。
「今回の件、彼も関わっていた事が調査で判明してね。それを切っ掛けに、今回の事件の原因が全てわかったんだ」
岩場の言葉に織戸態は素直に驚いた。
「彼が? どうやって……」
「簡単なことだ。所謂、呪(しゅ)、呪いだよ」
この特定の言葉に対して、織戸態はぴくりと反応する。しかし、決して野呂井の方は見まいと心掛けた。
「彼は君の役職を奪うために、君に対して呪いをかけた。正確には、一部のアノマラスアイテムに認定されている曰くつきの物品を君のデスクに仕込んだんだ。結果、君はデスクについて報告書を作る際にいつも怪異に巻き込まれるようになった。それが今回の件の事の顛末と言った所かな」
岩場の言い分に付け加える様にして、岩場とは反対側の織戸態の横を歩いていた野呂井が今度は語り始めた。
「無論、彼の背信行為は人事部に報告しました。彼曰く、ここまでの事になるとは思っていなかったとか。まあ、曰くつきのものと言っても大したものではありませんでしたが。今回、貴方の中にある大きな孤独感と、境遇と、3039‐JPとその母親との接触により影響が拡大したと思っています」
「……因みに、何を仕込まれていたんですかね」
「釘です」
「釘?」
織戸態はオウム返しで訊き返す。
そして、不意に野呂井が出して見せた釘本体にまた大いに驚いた。
「そ、それって……!」
「ええ。仕込まれていた物の現物です。貴方のデスクへと赴いた際に回収しました。これは所謂、廃寺にて行われていた丑の刻参りの際に使われた釘です。特性としてはその人間が最も憎んでいる者の方向を向く、それだけです。ですが、物にも人にも縁は生まれます。これを仕込んだ彼にも、そして貴方にも。そう言った要素が絡まり、そこで初めて何かが引き寄せられる。結果、場所も問わずに澱みが生まれ、力が生まれ、怪異となる。今回、そのよどみの場所が貴方の夢になった訳です」
またも切り替わる様に、今度は岩場が語り始める。
「そこで、我々は君の夢に干渉する方法を取った。野呂井君を君の夢の中に投影し、君の中で移動し続けている夢魔に対して追い込み漁の様な事を仕掛けた訳だ。奴のエサは謂わば君の孤独感という負の感情。それを刺激し餌をぶら下げ、誘い出した辺りで君の孤独感を埋める。そうする事で怪異の力を削ぎ、現実の世界に引きずり出す、そんな計画を立てた。半分賭けに近い計画だったが、上手くいって良かったよ」
「でも、何故わざわざ3039‐JPのもとでそれを……?」
「それは、夢魔が君が恐れている存在の模倣に選んでいたのが3039‐JPと関わっている存在だったからだ。縁とは言ってしまえば連想ゲームのような物でね、ちょっとした関りで生まれる。喩え姿形の真似だったとしても、3039‐JPとの関連のある存在は現実のあの場所に引き寄せられる。それを利用した訳だ」
話を聞けば聞くほどに何だか遠くに来てしまった様に思えてくるが、先程まで自分の身に起きた事だと後になって実感が生まれてくる。そんな不思議な感覚に襲われながら織戸態は歩き続け、急に足に力が入らなくなってしまい倒れそうになった。
そんな織戸態を、彼の左右に伴って歩いていた岩場と野呂井の2人が支える。
「だ、大丈夫かね? 織戸態君」
「す、すいません。岩場博士。なんだか、急に気が抜けちゃって……」
2人に支えられながら、織戸態は何とか再度足に力を入れる。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
「そうか……良かった」
「……ですが、何だか納得できました。貴方達が、どうして第一線で動き続けているのか。検証と分析の集大成がここにある。正直、憧れます」
軽く、卑下を思わせる笑いを浮かべながら、織戸態は1人で立ち上がった。
「私も……貴方達の様になりたい。本当に、そう思います」
「……なれますよ」
野呂井が織戸態を見つめながらそう言う。相も変わらずの仏頂面ではあるが、その目には以前のような鋭さは無い。
「貴方には、人間性が残ってる。地位にも固執していない。なれます。なれますよ。……私達は、別に立派な人間ではない。あくまで道半ばです。ですが、貴方ならなれます」
「我々には出来る事が少ない。追い求めている物がものなだけに、地道な活動を続けているに過ぎない。だがね、織戸態君。君は、君の目指す物に向って進みなさい。それが、君の道しるべになる事を祈る」
そう語る岩場と野呂井の顔を順番に眺めながら、織戸態は改めて頭を下げた。