透明スーツの怪
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「あの~、世俗まみれさんで、良かったですよね?」

寂れた喫茶店の店内に設置してある椅子に腰を下ろしている最中、背後から不意に声を掛けられた。

「……もしかして、ガイナックスさん?」

そう訊き返す男は、被っているニット帽を外しながらその一切毛髪の無い頭部を露わにし、尚且つ座っていた席から腰を上げて一礼した。

彼自身、パーカーという装いに顔中様々なピアスを付けるという一見忌避される様な風貌をしており、しかしその整えられた佇まいからは一定の育ちの良さが窺える。

傍から見た彼の評価を端的に用いるのならば、酷く見た目が不良に寄った僧侶と言った所だろうか。

そんな彼を、季節がらクールビズを思わせる半袖の白いカッターシャツに袖を通した痩せ男が見つめている。この男こそ、ガイナックスという現実ではあまりお目に掛かれない名前で呼ばれた男その人だ。

「は、初めまして! いや~まさかこんな形でリアルでお目に掛かれるなんて! それに、現役の除霊師だって事も合わさって本当に、お会いできて感激です!」

ガイナックスはスキンヘッドの彼に近づき、おもむろに彼の手を自身の両手で握る。そして、そのまま一定の速さを保ちながらそれを上下に動かし、その様はまるで憧れの存在に相対したミーハーなファンの様子その物だ。

「こちらこそ……。お会いできて感激です」

世俗まみれと呼ばれるスキンヘッドの彼は、ガイナックスの上がり切ったテンションとは相まって一定の冷静さを保ちながら、興奮する相手をなだめる様に言葉を紡いだ。

「こ、個人的に話したいことが色々あるんですけど! い、今はあまり時間がないので……! 取り合えず……!」

それでも尚、ガイナックスの興奮は収まらない様子で流石の世俗まみれもどうしたものかとほんの一瞬思案した。だが、ガイナックス自身が己の視線を用いて、先程まで世俗まみれが座っていた席を指し示した事でやっとこの問答が終わるのだと安心した。

「ええ、座りましょうか。どうぞ」

そう言うと世俗まみれは、自身の手から半ば汗ばんだ手を離したガイナックスを向かいの席へ座るよう促した。

そんな2人の話に片が付いたのを見るや否や、少し、いやかなり不愛想な態度を示す女性店員が注文を取りに来る。その彼女の恰好は、女子高生と思われるセーラー服に色褪せたエプロンに時代遅れなルーズソックスというあからさまな不良少女といった組み合わせを身に付けている状態だ。

かと思えば、彼女は2人の目の前に向って投げる様にメニューを置き、ぶっきら棒な口調で注文を催促した。

「さっさと選びな」
「……相変わらず、接客態度が最悪だね。ミアムちゃんは」

世俗まみれがミアムと呼ばれる店員に対して呆れた様な顔を向け、心のままに溜息を吐く。

「黙れ。三流除霊師風情があたしに嘗めた口を聞くな」
「そんな三流に庇われたのは誰だっけ。野呂井家からの謹慎処分、まだ解けて無いんでしょ?」

世俗まみれがそう言及した瞬間、ミアムは彼ら2人の前にある机の上に向って叩きつける様に自身の足で踏みつけた。木製ゆえの鈍い音と元々備え付けられていたナイフやフォーク類がぶつかり合う音とが合わさり、瞬く間にそれらは床へと落下していく。

ガイナックスはその光景に対して通常の人間がするであろうリアクションを見せ、肩を怒らせながら咄嗟の身体の硬直によりまるで何かに降参するかのように両の手を上げビビり散らかす。

それと引き換え、世俗まみれと呼ばれる男は酷く落ち着いており、今も尚両肘を机の上に置きながら両手を組んで達観する。

「てめえ、その顎、砕かれてえか?」

その齢の娘からは想像も出来ないようなドスの効いた声が世俗まみれに浴びせられる。しかし、尚も彼はそんなもの意にも掛けていない様な素振りで受け流し、大げさな反応は示さない。

「砕くも何も、今の君は力を振るう事さえできない。個人的な感情と嫌がらせで神域を荒らすなんて前代未聞だし、監視役でもある僕からすればこの現状は野呂井家に報告せざる負えない。それも、君自身が下手に力を持ってしまったからに他ならない弊害だ。それを君が、しっかりと理解してくれることを心から願うよ」

ミアムが机上に上げた足に力が入る。このまま行けばその踏みつけによって木製のテーブルをも貫通し、床まで踏み抜きそうな気迫が感じられる。

「リンちゃんは元気?」

世俗まみれが更に別の名前を不意に出した。それによって一瞬だがミアムの顔が虚を突かれたが故の無を体現し、しかし瞬く間にそこには憤怒を思わせる血走った眼が生み出され、かつさらに彼女の抱く昂ぶりを加速させた。

「お前ごときが、リンの名を口にするな……!」
「単純に、僕は彼女が心配なだけだ。彼女は文字通りの神罰を食らった。そうある事じゃない。もしかしてだけど、僕は君とそんな他愛もない世間話をするのも許されないのかな」

ほんの数秒であるが、膠着状態という名の沈黙が続く。なお、今もこの状況に巻き込まれているガイナックス自身は未だに体を硬直させたままの状態を維持しており、完全に元の体勢に戻るタイミングを見失っていた。

彼にとって、この数秒は永遠に続く牢獄のように思えた事だろう。

だが、この固まった時間を解いたのは意外にもミアムの方であり、乱暴ながらも机から足を下ろす事で終息した。

「……今は意識も安定してる。この前行ったときは病院食がまず過ぎるって吠えてたよ」
「それは何よりだ。君も今後は心を入れ替えて、受ける仕事は選んだ方が良い」
「はっ」

世俗まみれの言葉に対し、ミアムは聞こえる程の声量をもって鼻で笑った。

「そんな物はな、よええ奴が自分に課してる情けない決まり事に過ぎねんだよ。てめえが仕事を選んでるんじゃねえ。てめえが仕事に選ばれてるんだ」

この言葉を聞いて、初めて世俗まみれはミアムの方へと視線を移した。その眼差しは余りにも哀れな物を見つめる様で、それを察してか再びミアムは機嫌を悪くする。

「何だよ。その目は」
「ただただ、君も若いなと、そう思っただけさ」

再びミアムの体に力みが生まれる。そして、気が付けば彼女の両手は固く握り結ばれ、かつ肩から一の腕にかけての軌道を予見させるように初動の微動作が伝わってくる。

今にもそんな彼女の拳が世俗まみれの顔面に向って射出されようとしたその瞬間、ガイナックスが突如その場で立ち上がりながら気の抜けた間抜けな雄たけびを上げた。

「あ、あああああの!!」

正直、ガイナックスの両膝は緊張から来る小刻みな振動を帯びており、今にもその場に力なくへたり落ちてしまいそうな様子である。しかし、そんな事故の都合など全て蔑ろにした覚悟を持って、今の彼はこの場で声を上げたのだ。

「あ? 何だ? てめえ」

そんな彼に対して、ミアムは明らかな格下を見る目でガンを飛ばす。

「ほ、ホットコーヒー! それと、このランチセットのサンドイッチを2つ! お、お願いします!!」

震える声のままに、ガイナックスは唐突な注文を行った。通常でいえば明らかに空気の読めていない予定外の行動ではあるが、今はその起点がこの場の空気を一変させる孔明の一考にも値する。

それを知ってか知らずか、世俗まみれの方はガイナックスの方を見ながら本当に微弱ながらほくそ笑んだ。

この問答から約1、2秒が経過し、唐突にミアムの口元から舌を鳴らす音が聞こえる。

「わーったよ。待ってろ」

そう言い残し、彼女はまたも乱暴な扱いのままにメニューを取り上げた。勿論、先程の蛮行により落とされた食器類は完全に眼中に無く、その現状を放置したままである。

「あながち、度胸がありますね」

ミアムがいなくなってからの沈黙の後、世俗まみれが口を開いた。

「い、いえいえ。そんな滅相もない。……彼女が、例の……?」

ガイナックスはミアムの名前を話題に出すその時だけ、極端に声のボリュームを落として話し掛ける。

「ええ。財団に喧嘩を吹っかけて、協会の大元から大目玉を食らった濵﨑ミアムさんです」

横目でカウンターの裏側へと歩いて行ったミアムの姿を認めながら、世俗まみれは語った。

「彼女、腕だけは確かなんですよ。腕だけは」

世俗まみれが敢えて強調するように繰り返す。

「確かに、私は彼女に比べたら明らかに実力不足です。地力が違い過ぎる。その点に関しては、評価というよりも尊敬、いや、最早畏怖の方が近い。ですが……」

その段階で彼は言い澱み、改めて喋り出す。

「私が尊敬する人に比べたら、天と地との差です」

そう語る彼の表情にはどこか物悲し気な雰囲気が漂い、口は笑っているにも拘らずその眉尻はどこか落ち込みがちである。

その上で、彼は彼自身の語る人物の顔を思い描いているのだろう。しかし、その人物の存在は既に彼の手を離れており、2度と会う事の出来ない事を彼の言動や遠い場所に心を置いてきてしまった今の現状が物語っている。

「さて、世間話はここまでにして。早速、本題に入りましょう」

世俗まみれがそう切り出したタイミングで、再び机の上に力強く何かが置かれた。陶器と陶器がぶつかり合う特有の響きが2人の耳に刺さり、咄嗟に目を向かわせた先にある、半分は既に零れているコーヒーと、衝撃で具が零れているサンドイッチが答え合わせとして鎮座していた。

「おら。さっさと食え」

彼女の言いぐさを聞いた2人は、この店の評価を改めて最低にすると決意した。


「電球頭さんからの依頼で持ってきました。気に入っていただけるなら幸いです」

改めて畏まった態度を示すガイナックスは、脇に忍ばせていた紫色の風呂敷包みを取り出した。天辺で結ばれたその包みの形状から、恐らく中に収められているものは箱状の何か、簡単に予想するのならば木箱の様な物と思われる。

「……これは……」
「大分前に、こういった呪物関係の見本市が界隈でありまして。ほぼ露店で売っている様な場所ですから大半がまがい物だったりするんですけど、これだけは明らかに他の物とは纏っているオーラが違ったもので。思わず衝動買いをしてしまいました」

誰も聞いてもいない自身の懐事情にまで言及したところで、ガイナックスは目の前に置いた包みを広げていった。その中には案の定、骨董品を入れておくような立派な木箱が収められており、大半の予想は裏切られずに済んだ事だろう。

しかし、そんな箱の様相はいつも見聞きする物とは一線を画しており、その表面は夥しい数の札やしめ縄を思わせる黒く変色した縄で雁字搦めにされている。

流石の世俗まみれもこの厳重さには面を食らった様で、暫しの間は沈黙を貫きながらじっとその箱を見つめていた。

「まあ、正直この封印自体も一種の演出みたいなものらしいんですけどね。そこまで意味はないみたいです」

真剣にその箱を見つめている世俗まみれに対して、ガイナックスは軽い口調でそう返した。

「意味が無い?」
「ええ。この中に収められているものは、確かに呪物ではありますけど外部へは何ら影響を与えません。完全にこの物体自体に念が定着している。要は、漏れて無いんです」

この話を聞き、世俗まみれは更にこの箱から目が離せなくなった。

その様な物が存在するのか。彼の頭の中にはその疑問で埋め尽くされ始めた。

この世の中には様々な怪現象や霊障、霊実体の出現やそう言った存在が形成する異界が存在する。そして、所謂呪物と言う物はそれら怪異の影響を受けた物品の事を言い、ある意味、世界に存在する異常物品とは醸す雰囲気が異なってるのだ。

物には情念が移る。長年使い込まれた物や何かの事件に関与した物。時間を掛けてそれがしみ込まれた物は良い影響も悪い影響も含めて、私達人類に齎される。そして、それらはある意味人間由来の代物であり、だからこそその影響が余りにもどろどろとした、人間の強い感情に反応するものが多いという特徴があるのだ。言ってしまえば、その呪物と所有者が同調してしまうという現象である。

一番の有名どころの呪物を掲げるのならば、俗に言う「妖刀」と呼ばれる物がそれに該当するだろう。

今もこの喫茶店にて奉仕活動の真っ最中である濵﨑ミアム自身も、嘗ては自身が所有する呪物を用いて強引な除霊を敢行してきた。そんな彼女の相方でもある諸刃リンの持つ刀剣も、それの一種であると言えるだろう。

ある意味、霊実体と関わる人間にとって呪物と言う物は切っても切れない存在なのである。片や自らの身を護る武器にもなり、片や怪異の原因にもなりうる存在。

そして、決まってそう言った物体を扱う際にはやはりと言うべきか何かしらのデメリットが存在しているのが世の常だ。だが、ガイナックスが言い放った言葉は、その常識を覆す一言であった。

だからこそ、世俗まみれはその言葉が真実であるのかを確かめたくて仕方がなくなった。だからこそ、この箱の中に眠る存在に興味が尽きない状態へと陥ってしまったのだ。

嘗て、彼が抱き恋焦がれていた探求心と言う病が、今また彼の中に芽生えそうになっていた。

「おい」

そんな最中、突如女性のぶっきら棒な声が世俗まみれに浴びせられた。

「……あ、ミアムちゃん」

その声の持ち主はミアムその人であり、これによって世俗まみれは再び意識を現実の世界へと戻す事に成功した。

「おめえら、こんな場所に何てもんを持ち込んでんだよ」

先程までの己の怒りに身を任せていただけの彼女とは違い、酷く静かな憤りを細く、しかし鋭く2人に対して向けている。

「ここがどこだか、分かっての狼藉だろうな?」

そう彼女が言い放つや否や、喫茶店内部の空気が一変した。狭いながらも木漏れ日の入る落ち着いた場所から、気が付けば外は漆黒に染まりガイナックスと世俗まみれが座っている座席以外の全てが一掃された荒れ果てた建物の内部がそこに広がっている。

「ええ、勿論。分かっています」
「……なんだと?」

ここで、ミアムに対して返答を返したのは意外にもガイナックスの方であった。彼女の圧に負け、身体を硬直させるまでに委縮させていた先程の彼とは違い、どういう訳か今は変に堂々とした態度で彼女と相対している。

「ここは所謂、彷徨える霊魂の集まる安息の地。貴方方、祓い屋の協会が管理し、未だに成仏する事の出来ない霊が悪霊化する前にその苦悩を和らげるための場所、ですよね」
「そこまで分かってんなら、そんな代物をここで広げるっつう事が何を意味しているのか、分かってるんだろうなあ」
「はい。重々承知しています。ですが、こちらにも事情がありまして。現世でこれを広げる訳にはいかない。貴女なら、その理由も分かるでしょう?」

嫌に自信ありげな態度で話すガイナックスの様子を世俗まみれの方はじっと見つめていた。

しかし、そんな彼の現状など何も意識せずにガイナックスはミアムとの問答を続けている。

「お察しの通り、この中には我々の常識から逸脱した特殊な呪物が保管されています。一種の聖域に指定される場所にそんな物を持ち込むなんて、普通じゃ考えられないですよね。ですが、これを表の世界で開示した場合、どうなるんでしょう?」

ガイナックスの言葉を聞き、世俗まみれの方もある程度の合点がいった。

そもそも、この合流場所を指定してきたこと自体が、世俗まみれの知人でもある電球頭と呼ばれる人物なのだ。この直前まで、彼はこのガイナックスなる男が一体何を持ってくるのかを聞かされていなかった。

最初こそは見てからのお楽しみだなんだと濁されてはいたが、実際に持ち込まれた物を見て納得した。最初にこの呪物についての言及をしてしまったら、それこそ自分自身が猛反対したことだろう。

そして、それに合わせてあのチャットと言う、完全に世俗のインターネットからは逸脱しているとはいえ、公の場でこの物品についてを語る事には相当なリスクがある。電球頭はそれを加味したうえでこの場所、霊実体の集まる所謂「異界」を指定したのだろう。

剰え、祓い屋の協会が管理する場所である。その他の利己的な組織が関与する危険性も考慮しての選択には頭が上がらない。

この一連の出来事の中で、世俗まみれは自分自身が知人の掌の上で転がされている事を再度実感させられた。

「私達はとある事情によりこの呪物を使用したい。だからこそ、この祓い屋の方と打ち合わせもかねてここに来ました。その上で、この呪物は大変特殊な代物だ。それを、誰が見ているかも分からない場所でひけらかすわけにもいかない。特にミアムさんの様な特殊な感覚に優れている人の手に掛かればすぐさま大勢の手練れが私達に殺到するでしょう。それを避けるために、敢えてこの場所を指定させていただきました」

世俗まみれが頭の中で構築した電球頭の思惑を、ガイナックスはスラスラとミアムに向かって説明した。

正に、彼が言ったとおりの事である。

特にこの界隈は異物と言う存在に敏感である。今さっき、持ち込まれた物の詳細を知った世俗まみれではあるが、ガイナックスの言う理屈は十二分に理解できる。もしこれをネットないし公の場所で開示しようものなら、その異変に気が付いた各界隈の人間が彼等を追いかけまわす事態に陥るだろう。

それこそ、今彼等が成そうとしている事の妨げにしかならない。

そも、どうして今この呪物がこと話題になってしまっているのか。それは、先程も彼の思案の中で言及された通りの呪物と言う物の在り方に答えがある。

呪物とは、言ってしまえば人の念や怪異の影響、それらが物体の中に閉じ込められたもしくは憑依している存在の事である。しかし、それらは言ってしまえば借り物の器であり、人や怪異と言った本来の己の姿と言う物が存在する実体の、要はその意志の一部が憑りついたという代物である。

であるのならば、本来は人や別の姿を持つ存在に所有権のある「感情」や「意思」などを、全く姿形の違う物が完全に許容することは出来るのだろうか。

その様な所業、持ちうるスペックの違うノートパソコンの中に最大容量の大きく異なるCPUやHDDを無理矢理嵌め込もうとする業である。

だからこそ、漏れだす。感情が、情念が、恨みが、乗り移った呪物から漏れだし、一度それを人が持ってしまった際には本来それら念が内蔵されるべき規格の「人間」へと流れ込み、謂わば物に人が乗っ取られるという事象が発生するのだ。

これが、俗に言い伝えられる呪物の在り方である。

しかし、ガイナックスが言うように、あの箱の中にある物はその例外中の例外であり、一切「漏れ」が無いと言い放った。

それ即ち、喩えその呪物を所持したとしても、その呪物に所持者が乗っ取られる事も愚か、その場に置きっぱなしにしても何ら周囲に影響を及ぼさないという事である。

その様な便利な物、誰が欲しがらないというのであろうか。何の力も持たない赤子であろうとも、その呪物を完璧に扱う事が出来る。誰でも、霊実体に対して一定の反撃が可能になる。

そうなれば、恐らくではあるが勢力が大きく二分される。それらを所有し有効活用もしくは悪用しようと企てる者達、そして、その存在自体が自分達の存在理由の妨げになると判断し排除しようとする者達である。

前者は言わずもがな、誰であろうと霊を祓う、または消し去る事が出来る、そんな便利な武器を欲しがらない物はいない。それを用いれば喩え実力の伴わない者だとしても一定の成果を上げる事が出来、この業界における地位を確立させることだろう。

しかし、それに対して後者は、自らが研鑽と研究を続けてきた事実や実績を脅かされることに恐れを抱き、その武器を完全に消し去ろうと動く者たちである。

これは当然の心理であり、どの様な者であっても自らが積み上げてきた物を根底から否定される、それに耐えられる人間はごくごく一部の「既に力を持っている」者達だけである。何処に行こうとも常に上下は存在し、その界隈を支える者達の大半は縁の下で暮らしているのである。恐らく、その大半が動く。

そして、結果として。

「この呪物をめぐって戦争になる。でしょ?」

ガイナックスはミアムの顔を真直ぐに見ながらそう締めくくった。これに対して、流石のミアムも自身のこめかみに薄く汗を滲ませながら長考している。

ミアム自身もそこまで馬鹿ではない。現に、彼女は過去に犯した過ちの償いとして、この聖域の奉仕活動に従事している。これはれっきとした罰則でもあり、且つ彼女という人間に霊魂とは何たるかの再教育も兼ねているのだ。

人間に対しての接客態度自体はやはりお話にならないレベルではあるが、彼女がこの場所にやって来てからこの聖域は大変に安定していると、彼女の監視役でもある世俗まみれは認識している。文字通り、ミアムの霊実体に対する態度が丸くなったのは目視でも分かる程だ。

過去の彼女であれば、この場所を直ぐにでも血の海に変えてしまっていただろう。だが、今では嫌々ながらも職場の制服を身に纏い、業務に真面目に取り組んでいる。それに、この場所に件の呪物を持ち込んだこと自体に怒りを持っている事も、彼女が成長したという事の証左だ。

だからこそ、このガイナックスの言葉によって今の彼女は揺さぶられているのだろう。しかし、その様な中でもミアムの中でもう1つの答えが導き出された。

「ならよう、その呪物。今この場であたしがぶっ壊した方が良いんじゃんねえのか?」

そう彼女は言い放ち、そのまま両の拳の骨を鳴らし始めた。

これに対して、先程までは余裕の表情を見せていたガイナックスの顔面は急に蒼白し始め、明らかに想定外の事が起きてしまった事に混乱している。

「ええっと、それは……! その……!」
「そんな危なっかしいもんだったら、人様の目に晒される前にあたしが処分する。その方が、理にかなってるよなあ? それともなんだ? このあたしをそんな下らねえ理屈だけで言い負かせられるとでも思ってたのか? おっさん」

自身のペースを取り戻し始めたミアムは、ついさっきまでは眼中にすらなかったガイナックスに対して詰め寄った。そして、おもむろに彼の胸ぐらを掴み、空いている方の拳を天高くに掲げる。

「力を制限されている身ではあるが、てめえみたいなおっさん1人をボコるぐらいは容易いんだよ。嘗めたことしやがって」
「ひ、ひー!! ご、ごめんなさいごめんなさい!!」

傍から見ればただのカツアゲにしか見えない光景が世俗まみれの目の前で展開された。しかし、そんな様子はさておいてと言った態度で、彼は未だに例の呪物が納められている箱を見つめている。

そして、そのまま彼は真直ぐに箱の方へと手を伸ばした。

心なしか、周囲からひそひそという何者かの声が聞こえる。まともな人としての形を持っているのはこの3人のみではあるが、それでも、何処からともなく聞こえてくるこの声からは第3者の存在を感じずにはいられない。

世俗まみれの手が、箱を縛っているしめ縄に触れる。すると、まるで何万年もの年月の間に辛うじて形を保っていた物のようにその縄は一気に朽ち果て、箱の封印が解かれる。

ミアムがそんな世俗まみれの方へ一瞥した時には既に遅く、彼によってその箱は完全に解放されていた。

「お、おい!! おまえ……!!」

ミアムがガイナックスから手を離し、今度は世俗まみれの方へと掴みかかろうとする。しかし、不意に何者かによってこの振りかぶらんとする手が掴れ、咄嗟に彼女は振り返る。

なお、そこには誰もおらず、疑わしかったガイナックスの方も床に尻餅を付く形で情けなく転がっている。

「……そうかよ……、お前らがそう言うんだったら……。手は出さねえよ」

彼女と相対する2人以外の何者かに対して、ミアムは何かを述べる。その光景を見て、ガイナックスの方は何が何なのかというぽかんとした表情を浮かべていたが、世俗まみれの方はそんな彼女を見て、心なしか微笑んでいるようにも見えた。

「ありがとう。ミアムちゃん」

そんなミアムに対して、世俗まみれは柔らかい口調で礼を言う。

「別におめえらの為じゃねえ。ここにいるこいつ等が邪魔しただけだ。……たく。雑魚の癖に、人の事情を汲みやがって……生意気なんだよ」
「それでも、君のその優しさは代えがたい物だよ」

世俗まみれのこの言葉に対して、ミアムの方は再び怒りを思わせる表情を顔に作り出した。しかし、そんな彼女ではあるがこれ以上の暴力は無意味と悟り、床に唾を吐き捨てるに留まった。

「いいか、とっとと話を付けてこっから出て行け。その呪物も、絶対に使うまで誰にも見せんじゃねえぞ」

そう言い残し、彼女は再び店の奥へと姿を消した。そして、店内も再び小さいながらも人々で賑わう穏やかな空気を持った喫茶店へと姿を変えていた。


「あれ、電球頭からの受け売りでしょ」

走行中の車内にて、助手席に腰を下ろす世俗まみれは言った。

「あはは、バレちゃいました?」

これに対してガイナックスは、運転中が故に全貌を見続ける形で先の言葉に返答する。

「急に自信満々になるものですから。もしやと」
「いやはや、お恥ずかしい。けど、もしあの喫茶店でああいう風なことを言われたら、ああいう風に言い返しとけって言われてて。一瞬、上手くいくかなって思ったんですけど、やっぱり自分みたいなひょろひょろだと何やっても駄目ですね……」
「いえ、そんなことありませんよ」
「……すいません。気を使わせて」
「違います。本気で言っています」

世俗まみれの声色だけを聞いていたガイナックスであったが、そこからも彼が本当の意味での、ガイナックス自身の自虐の否定を、彼その物を肯定している事を悟った。

「本来であるならば、あの喫茶店には私と同じぐらいの下っ端な霊媒師が配属されている筈なんです。ですが、彼女はある時に罪を犯した」
「……それが、例の神域の話ですか」
「ええ。本当に馬鹿々々しい話ですが。嘗て財団の人間と仕事の都合で衝突し、僅差で彼女は負けた。その後、その腹いせを目的に、自分を打ち負かした職員の管理する神域を荒らした。一時の感情でしていい事じゃないし、そもそも一時の感情ごときで出来る事件でもない」

そう語る世俗まみれではあるが、またも彼はどこか遠い場所を見つめている。

「結果、彼女の相方でもある諸刃リンという少女は神罰を受けた。今もその子は入院しており、肉体自体は回復しましたが今も神罰の影響を受け続けている。そんな彼女を復帰させるために、濵﨑ミアムは今もあの場所で徳を積み続けているんです。で、私がそれの監視役。本来は、私があの喫茶店の管理を任されている筈でした」

交差点に差し掛かり、ガイナックスはゆっくりと車を停める。意識の端では目の前の赤信号を見つつ、しかしその精神の大半は世俗まみれの話へと偏っている。

「だからこそ、あの場であの手の話が出た段階で、普通だったら見逃すしかないんですよ。明らかに私や私と同じ実力しか持ち合わせていない祓い屋程度じゃ、加わる事すら憚られる領域ですから。……けれど、あの子は……それが出来る。出来てしまう」

名前こそ言わなかったが、それがミアムとリンの事だというのは容易に想像できた。しかし、その言葉の中にはそれ以外の存在も含まれているように思え、ガイナックスは思わず質問をする。

「野呂井家の話は、噂には聞いています。あそこは……所謂、子返しと言うか、子溜めというか……。より強い子供を作り、残し、弱い物は捨ててその糧にする。もしかしてですが、あのミアムさんも、そして、リンさんも……?」

目の前の交差点を横に走る車の群れが止まり、交差する射線側の信号が黄色に変わる。それを意識したガイナックスは、一旦は己の注意を運転へと再度移し、もう少しで青に変わるであろう眼前の信号を見つめる。

「……あの子達以外にも、あの界隈にはそう言う子供が多い。歳に似つかわしくない力ばかりを持たされた子供たちです。権利主義や、自らの家督の確立。様々な思惑が渦巻いた結果、濵﨑ミアムや諸刃リンの様な子供たちが産み落とされていくんです。そして、いつしかその力に溺れ、己の身を滅ぼす結果に至って初めて後悔する。私は、そうやって短い生涯を終えていく子供たちを多く見てきました」

信号が変わり、ガイナックスはゆっくりとブレーキペダルを離す事で前進を始めた。

その上で、世俗まみれは話を続ける。

「だからこそ、あのミアムちゃんが、私達を見逃してくれたことがすごく嬉しんですよ。ただ、何かを壊す事しか知らなかった、いや、教えて貰えなかった彼女が、ある意味正しい手順で人の優しさに触れている。誰かを救うために身を粉にしている。私はそれが、とても嬉しんです」

そう語る世俗まみれは、少し悲しみを帯びた様な淡い笑顔をその表層にあらわし、自然と窓の外に目を向ける。おおよそ夜に差し掛かった時間でかつ、次第に都心部から離れている関係からか時折まばらに付いている住宅からの明かりと街灯からの光しか観測できなくなってくる。

時折、横断歩道を渡る高齢者の歩みを見るたびに、どこか哀愁を漂わせる光景が広がる。

「凄く話が変わるんですけど、電球頭さんとは何処で知り合ったんですか? チャットを見る限り、大分前からの知り合いの様でしたけど」

不意にガイナックスの方から質問が投げられた。

「……ああ。彼とは、学生時代からの付き合いなんですよ」
「そんな前から、ですか」

意外な交友関係の長さに、ガイナックスは思わず訊き返した。

「今の界隈に関わる事になるずっと前からですね。ある事件を切っ掛けに、私の先輩と一緒に彼を見つけたんです」
「……見つけた」
「ええ。文字通り。見つけました」

世俗まみれの言葉を聞いたガイナックスではあったが、彼と電球頭の交友の長さを聞いた時ほどの驚きは示さなかった。というよりは、ある程度は予想していたと思われる反応を返す。

「彼も、ある意味呪物に近い存在なのかもしれません。物に宿る情念として捉えれば、喩えそれが電子工学の世界に至ったとしても、こちらの分野とも地続きなのではないのかと気付かされます」
「やっぱり、彼は……」
「まあ、そこから先は想像に任せますよ。友人のそれらを根掘り葉掘りはしたくないですから」

ガイナックスもそう言う彼の言葉を聞き、それ以上の事は自身の胸の内に仕舞った。しかし、世俗まみれの放った友人と言う言葉が、どういう訳かガイナックスにとって大変擽ったい物のように思えた。

「友人……ははは、友人ですか」
「ええ。不特定多数の人間が集まったに過ぎない界隈だったとしても、今は1人の人間を救うために皆が協力している。同じ目的の為に、皆が心を一つにしている。これを友人と言わず、何と言いますか」

世俗まみれがそう語る間に、外の景色はすっかり山へと続く閑散とした物に変わっていた。既に夜の闇が世間を覆い、広々とした田んぼの向こう側に光る街の明かりが地上の星の様に瞬いている。

そんな中、恐る恐るではあるが、ガイナックスが再び語り始めた。

「……少し、不謹慎だって言われるかもしれませんが。自分、今、すっごく楽しんですよ」
「楽しい?」
「決して、スリルを味わっているとか、誰かの不幸がとかじゃありません。こんな感情、酷く場違いだって分かっています。でも、それでも、今のこの時間が、とても、とても楽しんです」

そう語るガイナックスの声は、少しばかり震え気味であった。それでも、尚彼は自身の言葉を続ける。

「自分自身、様々な呪物を集めている所謂オカルトオタクです。世間一般からしたら受け入れれない人種だって事も十分理解していますし、それに加えて片足以上はもう、この世界の裏に突っ込んでいる始末です。到底、共通の趣味を持つ人とは出会えない。それでも、今の界隈に身を置くようになって、腹を割って離せる人達と出会えて、それだけでも私は嬉しかった。でも、その上で、今まではひた隠しにしてきた自分の趣味が、やって来た事が、今、誰かの為になっている。誰かの、私の友人の命を救うかもしれない事に役立てている。それが、どうしようもなく嬉しくて、楽しくて、ワクワクするんです」

そこまで語ったガイナックスの方に、世俗まみれは改めて視線を移した。そこには、口では笑っていながらも細い涙とだらしない鼻水を流している、幸の薄そうな男の顔があった。

「ガイナックスさん……」
「わ、私は、今の今まで、異常な世界を孤独に生きてきました。色んなやばい物を集めても来ましたし、そもそもの私の目的自体が誰からも理解されないものだって事も十分に分かっています。いつしか、私が異常な死に方をして、それまで集めてきた物を特殊な界隈の人間が見つけて、きっとこう言うんです。『ああ、こいつは、死ぬべくして死んだ異常者だったんだな』って。私の生きてきた人生や、人となりなんかを度外視して、残された記録のみで私の全部を知った気になる。けど、そうじゃないんです。そうじゃないんですよ。私は、私の信念をもってこの世界に到ったんです。歪ながらも、私にも人生があるんですよ」

涙ながらに語る彼の声色は完全に乱れ、それでも一度零れ出したそれは止めようのない流れとして彼の口から飛び出し続ける。

「だから、私は今。私だけじゃない、誰かの為に動く事で、私と言う人間を刻もうとしている。勿論、賞賛されたいとか、感謝されるためにやっている訳じゃない。純粋に、サラリーマンさんを助けたいから、その一心です。……でも、少しぐらい、私にだって……! 異常な世界の住人だって……! 人を救う事に手を貸したってイイじゃないですか……!」

不意に、車内に設置されているカーナビゲーションから音声が流れる。

「……ガイナックスさん。ここが、目的地です」
「……すいません。変な空気になっちゃって……」
「そんなことありません。貴方の気持ち、痛いほど分かります」

車を停め、シートベルトを外しながらもぐしゃぐしゃになった自身の顔をガイナックスは拭う。

「ここからが正念場です。行きましょう」

世俗まみれはそう言い、車の扉を開けた。


2人の目の前には、何段も続く石の階段が存在していた。既に周囲は暗くなり、森の中に位置している事もありほぼ完全な闇へと変貌している。

2人が持つ懐中電灯に照らされ、古めかしい石造りの鳥居が露わになる。その無防備な状態からも、この場所が長い時間を掛けて放置され、風化していったことが窺える。

「この上です」

世俗まみれがそう言い、最初の一段目を踏み出す。その一歩はどういう訳か重く、靴底と地面とが擦れる音でさえ何らかの緊張感を伝えてくる。

その後ろに続き、ガイナックスも一歩を踏み出す。軽く片足を上げ、世俗まみれが行ったのと同様に石段に足を載せる。

瞬間、ガイナックスの体に途轍もない重さが走る。勿論、彼の体に何かが降り立ったわけでは決してない。怖気や悪い予感、それらによって構築される重圧感。それが、彼の体の芯に向かって「走った」のだ。

「気をしっかり持ってください。飲まれないように」

気が付けば世俗まみれがガイナックスの方へと向いており、彼に向って手を差し伸べている。

「い、今のは一体……」
「所謂、異界の空気です」
「異界?」

世俗まみれは一歩踏み出しただけで息も絶え絶えになっているガイナックスの手を引っ張り、もう一段を昇らせる。

すると、どういう訳かガイナックスの体は軽くなり、先程に襲い掛かってきた体の重さも解消された。

「正確には、異界と現世の境目と言った所でしょうか。この神社はまさに、その地点の目印として建てられた場所なんです。」
「けど、今のあの感じは……何て言うか……」
「否定されている、そんな感じがしましたか?」

自身が言わんとしていた事を世俗まみれに先に言われ、ガイナックスは黙って頷いた。

「それもその筈です。異界、まあ、私達が便宜上そう言っているだけの異空間にとって、私達は言ってしまえば異物ですから。異界から否定されている様な感覚、というのは強ち間違ってはいない。ですが、これも私達がただそう感じているだけで、正確なこと言えば、日頃私達が生きている世界や空間から逸脱している場所に対して私たち自身が拒絶反応を示しているというのが実態です。それが結果として、異界から否定されているという感覚に繋がるんです」
「いわば、世界が私達を否定しているのではなく、私達側が異界を拒絶していると……?」
「その通り。人の感じる違和感や予感は、外的情報を取り込んだ脳が発生させている危険信号です。生存するための本能と言っても良い。それを、この異界の境目に対して私達は感じている。強ち、人の恐れなんてものは、単純な本能でしかないのかもしれませんね」

暫しの間、2人は先の問答を繰り返していた。その間も2人は歩みを止める事は無く、確実に石階段を昇っている。

既に6つ程、同じ形をした石の鳥居を潜ったであろうか。だが、未だに階段のその先は見えず、この時間帯も相まって延々と続く深い暗闇があるだけだ。

「……そう言えば、いや、今更なんですけど」

ガイナックスから唐突に質問が投げられた。それに対し、世俗まみれは軽く顔を横に向ける事で後方の彼を認め、返事をする。

「なんでしょう」
「どうして、私達は、その『異界の境目』に向っているんでしょうか?」

本当に今更感がある質問ではあるが、世俗まみれ自身もよくよく考えてみればガイナックスに対して何の事前説明もしないままだった事に気が付いた。先の車の中でも別の話題で盛り上がってしまい、結局今回の目的を言えずにいたのだ。

「ああ。そう言えば、伝えられてなかったですね。すいません」
「い、いえいえいえ! 全然そんな! そもそも、こっちも何も聞かなかったのが悪いんで! ……で、結局、何でなんですか、ね?」
「端的に言えば、例の老婆自体に直接手を下すためです」
「直接? あ……!」

世俗まみれの言葉を聞き、ガイナックスはここで改めて自身が持ってきた呪物の存在を思い出した。今も世俗まみれの手に抱えられている例の木箱がここに来て一際存在感を放ち始める。

何故、電球頭が彼にこの呪物を持って行くように指示をしたのか。その意味が今、ガイナックスの頭の中で繋がったのだ。

「今、サラリーマンさんに憑りついている老婆は、強い力を持った悪霊でありながら、一切異界から出てくる事も無ければ縄張りすらない、大変特異な存在です」
「縄張り、ですか。あ、でも聞いた事はあります。強い霊、悪霊は自身が存在している場所を一種の縄張りにして狩りをする。それが、祓い屋界隈でいう異界だって」
「そう。本来ならば、あのタイプの悪霊は自分の縄張りを持っている。自分と同調する人間や縄張りの位置する場所自体に踏み入った人間を誘い込んで、自分のフィールドを使って狩りをする。ですが、あの老婆にはそれが無い」

10個目の鳥居を潜り抜けた段階で、ガイナックスは違和感を覚えだした。先程から潜り抜けている鳥居の特徴が余りにも酷似しているのだ。風化し欠けてしまった箇所も、苔の生えている場所やその形も、全てが寸分狂わずに統一されている。というよりは、全く同じ鳥居をくぐり続けている。つまり、彼等は一種のループの中に陥っているという事だ。

「恐らくですが、例の老婆はあのスーツ、言ってしまえば異界とのコネクションに利用されているあのスーツ自体に憑りついている。もっと正確に言えば、そのコネクションとして利用されている異界、霊界への出入り口付近を縄張りにしているんです。そういった存在の一番質が悪いところ、それは、あの悪霊の発生地点だと思われる場所に到達したとしても、大元がそこに存在しないという点です」

ガイナックスが不安に駆られているのを知りもしない様に世俗まみれは尚も説明を継続している。心なしか、空気が生ぬるい物へと変わっている事もガイナックスにとっての不安を加速させる要因として機能している。

「大抵の霊は場所に潜みます。何故なら、本来人という『形』があった存在ですから。所謂、依り代と言う物を求めるからです。ある意味、呪物の成り立ちに近いところもありますが、それはその先にあるもの。人と言う存在の残り香、のそのまた残り香と言った所でしょう。ですが、それでも霊は己の存在を維持しようとする。結果、それには人の恐れが必要になる。狩りをする目的はそこにあると、私は思ってます。だからこそ、大抵の悪霊は対処がしやすい。縁を伸ばして、たとえ地球の反対側にいる人間を襲っていたとしても、本拠地を叩けば問題解決。何て事はない。ですが、あの老婆は違う。言うなれば、移動式の拠点を持ってる。そこが実に厄介なんです。私があれの発生地点にまで行って何も出来なかったのはその所為だ」
「……あ、あの、世俗まみれさん……!?」

どうにも我慢が出来なくなり、熱弁する世俗まみれの言葉を遮る形でガイナックスは彼の袖を引いた。

「どうしましたか? ガイナックスさん」

その場で世俗まみれは足を止め、ガイナックスを一瞥するのみで会話をする。

「鳥居が……! ず、ずっと、同じ鳥居が……!」

どうしてか震えてしまう口により、本来の伝えたい言葉が続いて出ない。しかし、そんなガイナックスの真意を世俗まみれは汲み取っているらしく、酷く落ち着いた態度でそれに返答する。

「ええ。なんせ、ここは異界との境目ですから。私達のいる世界じゃ起こり得ないことが起きてます」
「じゃ、じゃあ……! 私達、もう、戻れないって言う……!?」
「いえ。そんなことはありません。私に付いて来てくれるのなら大丈夫です。ですが、まず先にこの境目を利用して、あのちょこまかと動き回ってる老婆を直接叩きに行きましょう」

そう言うと、突然に世俗まみれはガイナックスの腕を掴み、石段の外へと放り投げた。

これには思わずガイナックスも大きな声を上げ、一体何が起きたのかも分からないままに、石段と山肌の境界を抜ける。

が、次の瞬間、彼は本来なら転げ落ちていく筈の斜面ではなく酷く平らな場所に背中から倒れ、おまけと言う形で軽く頭を打った。

「いたた……。何で地面が……? てか、ここ……何処?」

後頭部を片手で抑えながら、ガイナックスは周囲の状況を確かめる。彼は先程まで夜の森の中を歩いていた筈なのだが、どういう訳か昼間の街で倒れている。

恐らく、この場所は住宅地に位置する狭い交差点のど真ん中であり、一部には止まれの表示が印字された道路と、車両確認用に鏡が設置されているのも確認できる。

一瞬にして場所も時間すらも飛び越えてしまった事にガイナックスは正直な感情を以て困惑した。どうやって、どの様にして、そもどういう理屈でこうなったのか。何も分からず、分からなことだけが理解できていく脳内の思考にやられる。

「そ、そうだ……! 世俗さん……! 世俗まみれさんは……!」

ふと、先程まで自分自身と行動を共にしてきた人間の存在を思い出す。そして、一気に立ち上がったうえで振り返ったその直ぐ先に、彼が求めていたその人本人がまっすぐに立ち、それに驚いたガイナックスは大きな声を上げて再び倒れ込む。

「すいません。驚かせちゃいましたか」
「な! な、な、な、何で……!?」
「取り合えず、立ちましょうか」

そう言い、世俗まみれがガイナックスに再度手を伸ばす。

「……なんか、もう頭の中が一杯です……」
「まあ、初めてならそうなります。私も最初はそうでした」

世俗まみれによってひっぱり上げられたガイナックスは、立ち上がったは良いもののあまり足に力が入らない様子でふらついた。その様子を見てすぐさま世俗まみれは彼の肩を持ち支える。

「は、初めてってのは……」
「勿論、異界に飲まれるという体験です。私が小学生の時でした」

世俗まみれが未だにふらつくガイナックスに手を添えながら、目的地に向かって歩き出す。その間も、彼は話を続けた。

「私、一回神隠しにあった事があるんです」
「え?」
「私が、小学校3年生の時でした。学校の帰り、同級生と一緒に、よくある都市伝説の検証に行ったんですよ。4つに続いている十字路を抜け、4つ目である呪文を唱える事で異世界に行ける。そんな在り来たりな都市伝説を試しに」

世俗まみれの声を聞きながら、ガイナックスは今自分達が立っている場所を改めて認識した。十字路、場違いに晴れた空。住宅地だというのに人の姿や車の往来すらない。そして、改めて自身が歩く場所に目をやると、そこにはまたしても、延々と続く世界が広がっていた。

全く同じ規格の十字路の直線。慌てて左右に顔を振ってみても、その先すらも全く同じ十字路が続いている。周囲にある家の形も電線も、道路に落ちている片方のみの軍手すらも全く同じだ。

「結果から言えば、都市伝説は本当でした。私はその呪文を唱え、4つ目の十字路で振り返った。すると、そこには2メートル近くはある身長の女が立ってたんです」

正に、今この時、2人は4つ目の十字路に到着した。世俗まみれがガイナックスの腰に手を回し、力が込められる。

そして、世俗まみれは話を再開させる。

「その女に連れ去られ、私は異界へと飛ばされました。その後はもう散々な目にあいましたよ。見た事も無い異形や化け物、私達のいる世界と似ている様で違う世界。けれど、それである意味痛感させられました。私達が生きている世界と、あれら霊の住んでいる世界は、強固な壁こそあれど途轍もなく近くにあるのだと。後に、私達はそれをリンボと呼び、仮定した。……ガイナックスさん」
「は、はい……」

既に背中に嫌な汗をかき始めているガイナックスに対して世俗まみれが話を振る。

「私の後に復唱して下さい。一言一句間違えず。じゃないと、この十字路の世界に貴方は置いてけぼりになります」
「は、はい……?」

なら何で自分を連れて来たのか。心の中でそう毒づくガイナックスではあるが、それに対してどうしてかすぐさまに世俗まみれが回答した。

「より強い縁が無ければ、あの老婆の所へは飛べない。私と貴方はサラリーマンさんの友人という点においてはあの怪異とのリンクが出来ている。生憎、私は色々な怪異と関わり過ぎているため、どうしても飛んでいく先がランダムになってしまうんです」
「り、理屈はわかりますけど……! やっぱり、先に説明を……! いや、今更言ってもしょうがないのは自分も……! ああもう、分かりましたよ! ……サラリーマンさんの為……!」
「サラリーマンさんの為」

そう言うと、世俗まみれが大きく息を吸い込んだ。そして、その場で大きな声を上げながら例の呪文を唱える。

その中身はまるで理解できるものではなく、端的に表現するのならば法則性のないひらがなの羅列の様な物だった。

一区切りを唱えると世俗まみれが黙り、それがバトンタッチの合図となる。それに続いてガイナックスも同様に唱え始める。

このやり取りからもこの呪文は途絶えてしまっては駄目な物だというのが窺える。先の忠告と合わせてそれを感じ取ったガイナックスの中には純度の高い緊張感が走り、異常なまでの活舌を発揮しながら復唱を繰り返す。

詠唱の終盤が近づいているのか、ガイナックスの腰に回している世俗まみれの手に更に力が入る。

そして、ガイナックスが最期の言葉を言い終えた瞬間、世俗まみれはガイナックスを引き連れる様に振り返る。

静寂が流れる。ガイナックスが思わず目を瞑り、再び開けて世界を認識する。

晴れた青空が消え、真っ赤に染まっている。在り来たりな住宅街の様相は黒い建造物へと置き換わり、まるで大きな影の中に自分が立っている様な錯覚に陥る。

そんな中、彼等から少し離れた場所に1人の女が立っている。身の丈は2m程、足元まで伸びた髪が顔面を隠し、赤色のロングコートを身に纏っている。

その女が2人に向かって指をさす。

「ガイナックスさん。絶対に、私から離れないで」
「は、はい……!」

次の瞬間、突如彼等のすぐ目の前に女が急接近し、2人の首を掴む。成人男性が簡単に持ち上げられ、結果、2人それぞれの体重が掴れた首の1点に集中する。

正に首吊りに近い状態へと至り、当然2人は酷い呼吸困難に陥る。

かと思えば、例の女は徐に両腕に力を入れ、真直ぐに2人を地面に向かって叩きつけた。

その間もガイナックスを掴む世俗まみれの手が離れる事は無い。ガイナックスもそんな世俗まみれの腰に手を回し目一杯に相方の服を掴む。

背中に地面が触れる。ぶつかる。

が、ガイナックスが予想していた結果とは異なる現象が発生する。固く衝撃の走るコンクリートの感触を想ってはいたが、彼等に舞い降りたのはとても柔らかい水面の感触だった。

体が沈む。息が苦しい。どんどん沈む。

「いたな」

世俗まみれの声が聞こえる。

「逃がさんぞ」

不意にガイナックスの体に重力が感じられる。かと思えば再び背中に衝撃を覚え、今度はそれに冷たさが合わさる。

「せ、世俗まみれさん?」

呼びかける先を探すようにガイナックスは何度目かの周囲の観察を始める。そこは所謂地下に位置する小さな湖の様な場所であり、天井に当たる部分には丸い穴が開いている。そして、そこからは暖かい日の光が差し込み、先の異常な世界で感じた嘘くさい日の光とは違う心地よさが存在している。

緑の良く生える苔が湖の周囲で萌えて、いかにも厳かな雰囲気が漂っている。そんな場所の中心、丁度空からの明かりに照らされる様な地点に、見るからに古ぼけた極々小さな木製の祠が安置されていた。

「ここが……目的の場所ですか?」

ガイナックスは起き上り、自分の斜め前に立っている世俗まみれに問いかける。

「ええ。というよりは、あの老婆の寄生先と言った方が良いでしょうか」
「寄生先?」
「あの老婆はあのスーツを使って、獲物を霊界に誘い込みます。そうする事で強制的に人を取り込み狩りをする。そう言う生態だと理解してください。ですが、それでもどこかしらの異界には身を置かなければならない。あの老婆はそうやって、獲物が来るまでは近場の異界に寄生して存在を温存しているんです」
「それが、この場所って事ですか」
「恐らく、この土地に根付いている土地神の異界でしょう。えらく大それた場所に居付いた物です」

例の老婆に対する悪態を吐きながら、世俗まみれはガイナックスの方へと近寄った。その間、この地下の湖の中を歩きその度にざぶざぶという音が地下空洞の内部で反響する。とは言ってもこの湖自体の水深は大人の脛までの高さしかなく、そこまで歩行の妨げにはなっていない様子である。

「向こうも準備が完了している様です。ここからの近況報告はガイナックスさんに任せます」
「え、あっちの様子、見えてるんですか?」
「念写でスレッドに書き込んでるだけです。このスマフォで、彼等の様子の確認と、私からの指示の伝達をお願いします」
「わ、分かりました」
「あと、お願いが」

世俗まみれは改まってガイナックスの顔を見つめた。

「貴方だけは、コメントで暗い雰囲気は出さないように気を付けてください」
「な、何故……」
「奴が近くにいます。悪霊の付けこまれる隙になる可能性があり、貴方の恐れがコメントから彼等に繋がってしまうかもしれない。だから、貴方は最期まで明るく演じてください」

スマートフォンを手渡す世俗まみれは力強くガイナックスの手を握った。

そして、その手からは微かな震えが感じられ、ガイナックス自身も何かを察する。

この人は、先の喫茶店でも言っていた通り、自分の実力に見合わない事はしない主義なのだろう。そして、ここまでの道中では全くそんな素振り、おくびにも出さなかっただけで相当に無理をしていたのだ。

そもそも、ガイナックス自身が彼にあの呪物を持ってきた事自体がそれを物語っていた。強力な武器が無い限り、彼にも勝ち目が無かったのだ。

それでもこの世俗まみれと言う男は、友を救うという目的の為にこんな場所までやって来た。

であるならば、ガイナックスが返さなければならない返事はたった1つである。

「分かりました。御武運を」
「ありがとうございます」

ガイナックスは、自身の手を握る世俗まみれの手に自分自身の手を更に被せ、握る。互いに力を込め、互いの健闘を祈りあった。


世俗まみれが祠の前に正座で座り、ここに到達するまで片時も手放さなかった例の箱を傍らに置いた。それから暫くは両手を合わせながら何かの挨拶を思わせる祝詞を唱え、それかから深くお辞儀をする。

その間もスレッドへの投稿が流れ、ガイナックスはそれに返信をする。先程、世俗まみれからの言われた言いつけを守る様にその文面は明るめなワードを敢えて選び、向こう側の空気とは少しズレた返しを行う。

それから、世俗まみれの方が次の段階に移る。丁寧な所作からは一変し胡坐をかく形に切り替える。そして、大きく両腕を左右に開いてから勢いよく手を叩き、その響きが再度閉鎖的な空間に響き渡る。

細くしなやかな空気の振動がガイナックスの方にも伝わる。

が、その響きが一通り通り切った途端に、急に周囲の空気が変わった。明確な変化は目には見えないが、どことなく体に纏わりつく雰囲気がおどろおどろしい物へと変容していった。

それに合わせたように地面が揺れ始める。そこまで強い物では無かったが、天井から零れる様に落ちてくる砂が頭に掛かるのを感じるたびにこの場所がその内に崩れてしまうのではないかと不安になる。

この現象が発生しているのと同時期、電球頭の実況コメントからサラリーマンの方でも異常が発生している事が窺える。

突如、下から突き上げる様な衝撃が走る。ガイナックスも思わずふらつき、倒れた事によって水面の揺れる湖に半身が漬かる。

「ガイナックスさん!!」

世俗まみれの方から声が上がる。

「奴が出る! 皆にも警告を!!」
「は、はい!」

ガイナックスはスレッドに警告文を撃ち込み、すぐさま自身の現状把握に動く。濡れて重くなった衣服のままではあるがその場で立ち上がり、今も尚揺れるこの空間内に隈なく気を巡らせる。

「奴は囮の方へと向います! それに食いついた瞬間、奴を強制的にこの空間に引っ張り込む! その内容を彼らに伝えてください!」
「はい!」

ガイナックスは世俗まみれに言われるがままの内容を打ち込み送信する。

その上で、スレッド内の電球頭のコメントが目に入る。彼の言う人の増悪。それが可視化された存在。その様な存在に畏怖し、既に分かっている事ではあるが、ガイナックスは改めてそんな友人の言葉を目にした時に抱いた感情は、とても単純な憐憫だ。

それと合わせ危機感も抱いた。人の何もかもがかの悪霊の様な増悪の塊ではない。喩えそれが人から生まれた物だとしても、それが人間と言う物の全てではない。

だからこそ、ガイナックスは思わず電球頭への言葉を打ち込んでしまった。

「あれは酷く変質している物だ。あれが人間の全てじゃない」

これは、ある意味自分自身にも言い聞かせている言葉でもあった。

異常と関り、異常な世界に身を置いている自分と言う存在。それを疎む人間からすれば、自分という人間などただの異常者にしか見えないだろう。

しかし、自分も含め、私達は今もこの時を生きているのだ。時には泣き、笑い、誰かを愛し、そして恐怖し安堵する。

身を置いている場所だけで自分の全てを見るな。その様な、無言の中の慟哭が彼の心の中で響いていた。

自分で選んだ道。その先で死のうとも自業自得。そんな事、分かっている。

だが、私は、彼は、彼等は、今もここで生きている。

残された情報だけで、私達を語るな。

「あ、あれ……何でだろ。これ」

気が付けば、ガイナックスは細い涙を流しながらスレッドを見つめていた。

あまりにも非現実的な展開が自分の周りで繰り広げられている現状と、それでも尚友の為に戦っている仲間の事を思えばこそ、自分達と言う存在がどこか報われている様に思えてくる。

それが今の彼に涙を流させた情動だったのだろう。

喩えそれが、一昔前の活動家の抱く様な独善的な正義だったとしても、今の彼にはそれが己の心を動かすには十分すぎる程の衝撃だったのだ。

そんな中、唐突に周囲が闇に包まれた。さっき迄その透き通りにより湖の底まで見えていた水面は漆黒に染まり、心なしか水の粘性が上がってきたような気がする。

「世俗さん!!」

ガイナックスは世俗まみれの名を呼び、彼の方へと向く。

そこには、未だに両手を合わせた状態で祈祷を続けている彼の姿と、それと対峙するように突如その存在を露わにした老婆の姿が在った。

しかし、その様相はサラリーマンから聞いていた物とは大きく異なり、背丈は簡単に1個分の平屋程にも匹敵する巨体を誇っている。それに連なってその肉体を構成している各要素も拡大しているのか、特に頭部の異様なでかさは人間1人分など容易に丸のみに出来てしまいそうだ。

澱んだ湖の底から無数の腕が伸びてくる。それに合わせ、何人もの人間のうめき声も響く。

これが、本物の怪異の姿か。

ガイナックスはそれを目の前にして初めて、自分が足を踏み入れようとしていた場所の事実を知った。そんな感じがした。

これまで様々な「本物」に触れ、怪異と呼ばれる存在からの干渉や姿を目の当たりにしてきたつもりだった。しかし、それらは所詮「人間側」の領域で見た先端でしかない部分であり、ここで初めて相手側の全てをこの目に焼き付けた。

そして、この老婆に縋る様に現れたドロドロに溶けた人の影のような存在も、この老婆によって憑り殺された人間達の成れの果て。というよりは、この現世にしがみ付き己の存在を継続させるための栄養に成り下がった魂の残骸である。

ここまで醜悪にまみれた存在が闊歩している世界に今、自分は降り立っている。その様な奇跡をここに来て、ガイナックスは実感させられたのだ。

すると、世俗まみれの傍らに置かれていた木箱が大きく振動しだす。途端にその蓋は弾かれる様に開かれ、中から一本の刃物が飛び出す。

その刃物の様相は、形だけを見れば在り来たりな小刀、所謂、鍔と鞘の無い脇差である。しかし、その刃には無数の呪文めいた言葉が書き記された帯が巻きつけられ、更には黒い煙のような物が吹きあがっている。しかし、どうしてか刃物の輪郭だけは浮かび上がり、まるでその刃だけが漆黒から切り取られている様な錯覚に陥る。

巨大な己の両手を以て世俗まみれに襲い掛かろうとしていた老婆が、件の刃を見た瞬間にその手を止める。

そして、箱から飛び出した刃は真直ぐに世俗まみれの手に向かい、まるでそこが最初からあった場所の様に握られる。

「凄いな。これ」

世俗まみれから思わずそんな声が漏れる。その刃の力を感じたのか、柄を握る手により力が入る。

「世俗さん……!!」

ガイナックスが彼の名を呼ぶ。

それに呼応するように、世俗まみれが老婆に向かって振りかぶる。

「これで……! 終わりだ……!」

暗転。

何もかもが消えうせる。

女の声。

「駄目だよ。 南原君」

次の瞬間、何もかもが終わる音がした。


「それにしても、凄い久し振りだね~。南原君」

暗闇。一切の光が無い真の暗闇。そんな中に、ハンドルネーム「世俗まみれ」こと南原 郁雄なんばら いくおは存在していた。

既に瀕死の状態であり、全身に付けられた傷からは流れ出ている己の血で濡れている。それは現在進行的に流出し続け、皮肉にもそれがこの闇の世界における唯一の色どりを持った水溜まりを形成している。

南原は力なく、この何もない世界の中心で腰を下ろしていた。というよりは、既に何処にも力が入らなくなってしまった結果、腰からへたり落ちてしまいそのまま項垂れる様に成り果てているにすぎないのだ。

しかし、この闇の世界で、唯一聞こえるのがこの女の声である。その口ぶりからは南原とは旧知の仲であり、彼がここにいる理由も含め、全てを知っている様だ。

「実験室での騒動以来だっけ。まあまあまあまあまあ。立派になったね~。凄い凄い!」

異常な状況でなければ、この軽快な会話も何も気にはならなかったのであろう。しかし、この軽々しい声色や、この声しか聞こえず肝心の相手の姿が一切見えない現状が、よりこの女の不気味さを演出していた。

「その全身のピアス。それ、全部呪物や呪具を溶かして作ったやつでしょ。無理矢理、何の才能もない自分の霊的能力を高めるために使ってる、謂わばドーピングだ。そこまでして、人を助けたかったの? そこまでして、この界隈に居たかったの?」

南原の周囲を女の声だけがぐるぐると回る。

が、唐突にその声は南原の耳元に迫った。

「けど、全部無駄になったね」

声色こそ若い女性の物だが、その先にあるのは重低音を基調とする化け物の雄たけびだ。これを聞いた瞬間に体の奥底から途轍もない怖気が噴出してきた。人間の人体が強制的にこの恐怖と言う危険信号を発令しているのが手に取るように分かる。

南原はそれを顔には出さない様に努めるが、最早血の少なくなってきた体でも震えが止まらなくなる。

「あの電脳体の子。自分だけは安全みたいな感じ出してたけど、そうじゃないんだよね。人の意識や思考は脳細胞内のシナプス間で発生する電気信号だとも言われている。であるなら、魂という存在は一体何なのか。思考という概念は物理的側面で見ればすべからくそう言った現象に帰結する。そうなると霊実体とは一体何なのか? という疑問に行き着く」

女の声が近づいては遠のき、また近づく。まるで、この南原という男に講義でもしているかの様に彼の周囲を声が徘徊する。

「だからこそ強ち、霊と言う存在は全部プラズマなんだ! っていう説にも説得力が出てきちゃうんだけどね。けど、私の考えは少し違う」

ぐっと、声の気配が南原の顔面に急接近する。

「人の肉体その物が、いや、この物質世界その物が、間違った世界という事」

この言葉を聞いた瞬間、南原の体がピクリと反応した。既に指一本動かす事すら叶わない状況であるが、それでも彼の肉体は稼働した。

「私達という存在は本来、この霊界、異界に存在させられている。そして、魂と呼ばれる存在はこの異界に依存しており、それと接続されている肉体がこの物質世界にあるだけ。要は、貴方達の様な肉体を持った存在はこの異界に存在する魂のアバターであり、その肉体が滅びる事でここに帰ってくる」

南原がゆっくりと顔を上げる。その顔面に、明らかな怒りが漏れだしたことによる食いしばりで生じた筋繊維の膨張が窺える。

「けど、悪霊と呼ばれる存在はその過程でバグが生じてしまった、所謂放浪者。物質世界への未練、負の感情とされる死への恐怖や生者への恨み。それによって正常な物質世界からの乖離が叶わなかった哀れな障碍者たち。私はそう考えてる。だから~……」

南原の頬に何者かの手が触れる。その手は酷く冷たく、湿り気を帯び、腐臭が漂う。

「そんな可哀そうな子たちを導いてあげるのが、フェアってもんじゃない?」

南原が口を開く。既に声帯も潰れかけではあるが、何とか言葉を絞り出した。

「そん……な……! り、ゆう……で……! おまえ、は……! がんば、さんを……! うらぎ、った……のか……!!」

南原が渾身で絞り出した言葉を聞いた声の主は、ほんの数秒の沈黙ののちにケタケタと笑い出した。

「だって~! 彼の理論て、すんごくつまらないんだもん~!!」
「な、に……!?」
「所詮、彼はこの物質世界に囚われた考え方しかできない。人を救う事しか能が無い。それじゃあ、この霊実体の世界の神髄には至れない。だから、見限ったの」
「きさ、ま……!!」
「貴方のお友達だった電脳体君も、思考や感情が生まれた時点で霊界にその魂が存在する。タンパク質由来の肉体でなくとも、感情・思考・記憶、脳が持ちうる機能が備わった時点でこの霊界には魂というユーザーが存在している。というよりは、この霊界で発生したエネルギーがたまたま物質世界に存在した電子媒体を依り代にして接続された、と考えた方が正しいかな。なら、追跡は簡単。『縁』は謂わば、この霊界におけるネットワーク。魂の所在さえ分かれば、後は芋づる式。特にあの電脳体君は、君のお友達の詳細な情報を持っててくれたし。それを取り込んだおばあちゃんは、絶対に貴方達を逃がさない。これで、やっと対等でしょ?」

事の顛末を、まるで世間話でもするように言ってのける女の声は、さも愉快な悪戯を転がしている様に話す。

その結果、南原が親しくしていた者たちが皆死んで行く。絶対に許せない。許す事が出来ない。

南原の怒りは、最早極限を通り越していた。

「私、ずっと不平等だって思ってた。悪霊と呼ばれる子達は物質世界からの乖離の失敗によって正常な思考や判断能力が損なわれて霊界に滞留してしまってる。だからこそ、その思考力は恐ろしいまでに低下していて、強い力を持っていたとしても赤ん坊と変わらない。でも貴方達祓い屋は、蓄えた知識や長年の研鑽を利用して弱い者虐めをしている。私にはそれがどうも納得できない。面白くない。対等じゃない」

南原が激しく吐血する。恐らく、潰れた声帯を使った慟哭が祟ったのだろう。

「だから、私は手助けをしてる。可哀そうな悪霊たちの手助けを。これまで何度も何度も、人の殺し方、恐怖の与え方、異界の使い方を彼等彼女等に教えて来た。でなきゃ、面白くない。知識の発展足りえない。もっと。もっと。もっともっともっと。研鑽と実験。研鑽と実験が必要。対等な敵性存在がいることこそが、さらなる発展になるの」

女が一通り話し終えた段階で暫くの沈黙が続いた。息も絶え絶えになった南原の微かな呼吸音のみがこの闇の中で発せられる唯一の環境音となり、よりこの世界には何も存在しないことが強調される。

しかし、そんな静寂を破ったのは南原の方であり、掠れながらの笑い声を高らかに響かせた。

「だ、だから……あんたは、そこ、止まりなんだよ……! 佐久間、洋子……!」

いる筈の無い存在の気配が心なしか再度南原に近づいてきたような気がする。

そして、ここに来てこの女の声の主が「佐久間 洋子」なる人名を有している事が明らかとなった。

「それは、どういう意味かな」

先程までの明るい声色からは一変し、そこには一切情けの無い冷徹さが込められている。

だが、南原はそれに臆する事も無く尚も自論を継続させる。

「あんたの、言う通り……その理屈が、正しんだとしたら。この世は、地獄になる……! 肉体を捨て去る事が、さも、理想の様に、口走るな……! そうなれば、皆が皆、死後の世界のみに思いを馳せる、自死の世の中になる……! 何故、悪霊が生まれるのか……! 物質世界との歪みが、何故、生まれるのか……! それを、あの人は……! 今、解き明かそうと……! 必死に、藻掻いてるんだ……!」

再度、声を荒げた事による吐血を繰り返す。しかし、南原が口を閉じる事は無い。

「俺は……! 知ってる……! 俺が、異界の堕ちた時……! 人として、そこから救い出してくれたあの人を、俺は知っている……! あんたの言う理屈なんて……! 岩場さんは、とっくに気が付いてんだよ……! それとは裏腹に……! あんたは、もう……! 科学者としての矜持を、捨てたんだ……!」
「私が、矜持を捨てた?」

南原のだらしなく脱力した腕に何かが突き刺さる。力は無くとも痛覚は健在であり、南原は叫び声をあげる。

「私は、この世界の真の姿を知るために肉体を捨てた。なのに、私が科学者の矜持を捨てた? 探求のその先に邁進するのが、科学者という者でしょう? 私のどこが、科学者足りえないの?」

佐久間の声に怒りの色が見え始める。これを聞き、南原は激痛の中でもしてやったりという笑みを浮かべ、尚も言葉を続ける。

「探求……ね。それで、あんた……。その真理とやらは……見つけられたのか……?」

一気に空気がぴりつく。佐久間の感情とこの闇の空間は連動しているらしく、彼女の怒りが空気の震えとして南原に襲い掛かる。

「そう……! あんたは、未だに何も見つけてなんかいない……! あの人は、その前の段階で、全てを悟っていたんだ……! その上で、人として、今も戦い続けている……! 物質世界にこそ、その答えがあると確信しているからだ……!」

地面が揺れる。南原の全身に更に何かが突き刺さる。

「所詮あんたは! 安直な考えでしか動けなかった脱落者だ!! 何が霊界に至るだ!! 何が悪霊の為だ!! 結局あんたは!! 自分では何も見つけられなくなったからあの人に!! 岩場さんに頼っているだけだ!! その癖、自分の手を汚す度胸もない!! ただの負け犬だ!!」

南原の体が突き上げられる様に高く昇る。そして、唐突に重力にしたがって落下し始め、さらなる加速を伴って地面に叩きつけられる。

既に南原の命の灯火が消え掛かり、全てがおしまいになる一歩手前である。が、それでも彼は自身の言葉を止める気はない。

「あの人は……。岩場さんは、いずれ、あんたのいる場所に到達する……。 それまで、首を洗って待ってろ……。佐久間 洋子……」

この言葉を最後に、南原の息は止まった。

次第に、闇のみの世界が揺らぎだす。生きた人間と言う観測者が居なくなったことによる影響であろうか、唐突に全てが閉じられようとしている。

最早、佐久間の声も聞こえない。

そして、その上で、彼女も気が付いていない事象が発生していた。

例の小刀が消えていたのだ。

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