ガニメデ
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エリクトニオスはトロイアの王トロスをもうけ、トロスは三人の貴き王子をもうけた。イロス。アッサラコス。そして、最も美しき少年ガニメデ。神々はその美貌を永遠のものとするべく、ガニメデを天上へと拐かし、彼を主神ゼウスの杯を捧げ持つ者とした。


要塞の狭苦しい部屋の中で、O5-2とO5-1は動画中継を見ていた。

幾百もの惨状がそこにあった。巨人が空を、大地を、海を闊歩する。猛々しき冥府の獣と生命ならざるものが地を泳ぐ。異界の船団が大西洋の一割を占拠している。奇怪で、謎めいた、到底人とは呼べぬ者どもの軍勢が三つ巴の戦いを繰り広げる。溶鉄の彗星が地球へ降り注ぐ。GOCはピチカート手順を実行しようとするも敗れ去った。その宣告スピーチの最中に、組織全体を標的とした精神攻撃に曝されたのだ。小さなせせらぎの神でさえも、その者の根ざす地に破滅を導かんとして、巨大な地すべりを引き起こした。

そして……幾百もの収容違反もそこにあった。否、その数は一日も経たぬ間に幾千へ届くだろう。O5-2は、財団そのものがその罅から千々に裂けてゆくのではないかと恐れた。最高権限はもはや意味をなしていない──サイト管理官たちはいがみ合い、口論し、抗争し、そして監督評議会は一体どこへ行ってしまったのかと疑った。何人かの管理官や職員は既に行方をくらました──消えてしまった者のうち一人が、彼女がとりわけ心配する相手だ。しかし、彼女にできることはもう何もない。どのO5も孤立状態で、通信を受け取ることは出来ても、送信することは叶わなかった。システム全体が、未知なる存在から何らかの攻撃を受けていた。各地の技術屋が不休で復旧に努めていたが、O5-2はもう、彼らの試みが成功したとて喜べるかどうかわからなかった。

さらに、太陽系の彼方に設置された監視装置は、宇宙の果てより忍び寄る何かの姿を映している……。

否。その数は到底一つには収まらない。無数の「何か」だ。

O5-2はO5-1へ視線を移す。彼は眠っているようにも、死んでいるようにも見えた。いや、きっと死んではいないだろう。眠っている時の彼は、いつだってこんな顔をして、動きもしない。彼は老いているのだ、とても。彼こそが財団の創設者であると噂されていたが、O5-2はその噂をどのくらい真剣に受け止めるべきかわからなかった。おそらくは、彼女にも同様の馬鹿げた噂が立っていただろう。彼女と彼は、同じくらい年老いて見えるのだから。

またしても、あの呪われた、彼女の過去と果たすべき使命が頭をよぎる……壊された現実の唯一の生き残り……この世界に来てから、彼女は一度として世界へ馴染めずに、常に内なるもう一人の自分へ全てを隠しながら生きてきた…….。

彼女は笑い出した。思い出されるのは、愚かな記憶ばかり。終末は目前だ。あらゆる終末が、互いに競り合っている。彼女は……何か、何だっていいからできることはないかと願った。それでも、彼女にできるのは脳裏に焼き付いた強迫観念から目を逸らすことだけ。忌々しい現実改変能力者め。結局、彼女はGOCに入るべきだったのかもしれない。

「他のO5はどう思っているでしょうね」彼女は独り言ちた。

「彼らはもう死にましたよ」彼女の背後から囁きが聞こえた。

眩い光が部屋を覆いつくした。


「道」が開けた。初めに黒と紫の光、そして一行の目の前にある壁のレンガは一つ一つ内側へ折りたたまれていった。ソフィア・ライトはハリー・ポッターに関するジョークを言いたい衝動を抑え込んだ。彼女には、大真面目な魔術を茶化された「手」のメンバーがどんな反応を返すか確証がなかった。まさしく、彼女が「手」に誘拐されたのか、それとも進んで同行したのか、あるいはその中間なのかが彼女自身にも曖昧なように。

「本気で行くつもり?」彼女は尋ねた。「図書館に入った財団職員は、誰一人無事に帰ってこられなかった。唯一の生存者だって両腕を無くしたのよ」

「貴様らが銃弾と火を持って立ち入ったからだ」アシェラと名乗った女が答えた。「図書館は全ての者を攻撃する訳ではない。他者を害する者、図書館そのものを傷付けんとする者、そして最も忌むべき本を害する者。貴様らは三つ全てを犯そうとした」

「ふうん、確かに今日は誰かを燃やしに来たんじゃないものね」ソフィアは乾いた口調で返した。「とにかく、私が攻撃されない確信があるんでしょ?」

「無論」黒猫が答えた。猫はしゃべる、ソフィアは自分へそう言い聞かせた。この数時間、彼女はその事実に慣れようと努めている。彼女が出くわした「手」の構成員の中でも、とりわけ異常な一匹の存在に。もう一人は、自分自身と周囲の色彩をコントロールできると思しき女性だ。598と何らかの関係があるんだろうか、ふと疑問が頭をよぎる。

「お前は我らと共にいる」猫は言葉を続けた。「約束を違わぬ限り、お前は安全だ」

ソフィアは疑問を飲み込んだ。彼女はその思いつきを真実だと考えることにした。当面の間は。

「そんなに怖がんないでよ」七色に移り変わる肌を持つ女性が言う。「世界を救うんでしょ。ここが私たちのスタートになるんだから」

寄せ集め部隊は「道」へ足を踏み入れ、放浪者の図書館に到着した。


O5-1の亡骸は座っていた椅子から崩れ落ちて、足元の床に横たわっている。

O5-2はハービンジャーを見上げた。その輝かしき、神聖な姿を……だが、彼女はまだ騙されていなかった。

「あなたは343の手のものではないのね?」彼女は問うた。

「もちろん違います」彼は答えた。

「良かった」彼女は言った。「知っているでしょうけど……別の未来では、私たちは一緒に歳を重ねていったのよ」

輝きは剣を手に、彼女へ歩み寄った。「知っています」

彼は素早く、迅速に、可能な限り痛みを感じさせぬように、斬り伏せた。

彼は事切れた彼女の瞼を閉ざし、身をかがめて、その唇へ口づけした。

「ごめんなさい、ソフィー」彼は呟いた。


燃え盛る赤と荘厳なる白を湛えたヤハウェの軍勢は、中東を横断する道中で同等規模の軍勢と衝突した。人型の兵士、獣、おどろおどろしい怪物どもから成る軍勢、その全てが無貌にして純黒。その者たちが歩みを進める背後で、漆黒の氾濫が大地を、草花を、木々を、川を、一切を呑み込んでゆく。それらは漆黒に溺れ、息絶える。怪物どもと漆黒は一本の万年筆、SCP-505より生まれ出づるものだ。

彼らはヤハウェの軍勢にも匹敵せんとしていた。匹敵せんとしていた

軍勢という言葉は、怪物の群れではなく天使たちのためにある。無数の白剣が輝いた。黒きものどもはバラバラに切り裂かれ、溶け落ちた。天使の中にも重傷を受けた者や、インクに覆われ窒息する者が現れたが、戦が終われば、その勝者は明らかだった。

天使たちは決して高度に洗練された現実改変能力者とは呼べぬ者たちであったが、その主の権能の一部を共有していた。彼らは行軍しながら、主より貸し与えられた権能でインク汚れを拭い、大地を癒やした。この終末は間違っている──世界はインクではなく、炎の氾濫によって滅びるべきだ。無論、ヤハウェが命じるより先に訪れてもならない。

遠く離れた地にて咆哮する怪物どもの声が聞こえる。巨人が地平線を横切るようにして歩く。一秒だって無駄にしていられない。そう時間も経たぬうちに、彼らは再び戦うこととなるだろう。だが、そこへ何が現れるかは主のみぞ知る。天使たちは悪魔と人間の軍勢との戦いを待ち臨んでいた。決して、このような戦いではなく。主は、なにゆえ彼らへ警告しなかったのか。

天使たちは千切れたインクどもを跨ぎながら行進する。丘の頂上へ登ると、たった五分前まで存在しなかった巨大な山脈が彼らの行く手を阻んだ。

山脈の中央に聳える山は、山よりは一枚岩と言い表すのが相応しく、奇怪な形をしていた。それは手の形にも似ていた……中指を突き立てた手の形に……。

天の軍勢が戸惑いながら見つめる中、溶岩によって形作られた巨大な文字が山脈の向こうへ噴き出した。一瞬のうちに、文字は宇宙からでも読み取れるほどの巨大な文章を綴り、大地に焼印を刻みつけた。

地にはこう記されていた。「ARE WE COOL YET?俺たちはクールだったろ?


独り残されたハービンジャーは光の照度を下げた。変装を解き、力を抜くと、光の下からは何の変哲もない人間が現れた。

彼はようやく、思考の中で自分自身を本名で呼び表すことができるようになった。トロイ・ラメント。彼は目を閉じ、再びその名前を使えるようになったことに安堵した。人間に、戻れた。

ただ結局……「トロイ・ラメント」も彼の本当の名ではない。掠ってもいない。

トロイはO5-1のコンピューターから「ジェレマイア・コルトン」とラベル付けされたフォルダーを探した。アクセスコードは既に知っている。入力し、ファイルが開かれる。

彼は長い時間をかけてファイルの内容を読んだ。

それから、さらに長い時間をかけて座ったまま画面を見つめた。

そしてようやく、彼は別のウィンドウを開いた。

識別コードを入力してください

彼は自分の名前を入力した。

ようこそ ジェレマイア・コルトン

(1)件の新しいメッセージ

表示しますか?[Y/N]


これを読んでいるということは、君は何をすべきか既に理解しているのだろう。

我々は皆、君に謝らねばならん。申し訳ない。


メモに署名はなかった。

トロイはほんの一瞬ためらってから、入力を続けた。

機械が答える。

黒き月は吠えているか?

彼は返答を入力する。

礎の崩れし時に。

機械は一瞬で処理を完了させた。

アクティベートフレーズが必要です。この場で発声してください。

トロイ・ラメントはその言葉を放つ。彼にとって、財団の未来にとって、この言葉は一体何を意味するのか。今この瞬間、彼は全て理解した。

「ガニメデ」


メッセージは財団に関連するあらゆる確保施設、あらゆる端末、レベル1以上の全職員へと送信された。「管理者」はそれを読み、椅子へ深く座り直した。メッセージは短く、簡潔で、最終的だ。

全体アナウンス:ガニメデ・プロトコルが発令されました。只今より、全サイトは独立状態となります。

幸運を。


第一幕 完結


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