ヤヌスの扉
rating: +5+x

ラリッサでの襲撃を指揮していたジー・シン (Zhi Xin) が帰還して以後、彼女が古いパンを一切れかじっているところをアルジュン (Arjun) は見ていた。シンはアルジュンからすると、不満と軽蔑が2対1の割合で彼女をしかめ面にしているように見て取れた。2人はギリシャで現在「インサージェンシー」の本部として用いられている施設のカフェテリアに座っていた。O5評議会は、一般的な財団施設と同等の施設を建てるだけの予算を与えてはくれなかった。さも当然の話だ。インサージェンシーはとにかく背任者の派閥を装い続けているわけで、どこの背任者が権力者より優れた生活環境を享受できるというのだろう?

「監督職員時代の料理が恋しいわね」ジー・シンは云った。彼女は自分の皿にパンを投げ入れた。

「私たちはこれに志願入隊したのでしょうに、シン」

「大間違いよ! Dクラスになろうだなんて決して思ったことは無いわ。赤い右手への入隊だって選択肢なんてもんじゃなかったのよ。志願ってのはね、同じくらいに魅力的な選択肢がある時のことを言うのよ。そんなものは一度も与えられなかったけどね」

アルジュンはため息をついた。「我々が参入しなかったところで、我々はそれが正しいからそれを為すだけです」

あんたはそれをあんたが正しくあれと信じているからそれを為すってことよね」

「もういいでしょうその話は、」アルジュンは話題を変えた。「襲撃の間に何かあったんですか?」

「SSアーネンエルベはいやしなかったわ。神殿はお留守だったの」

「連合は?」

「おいでなすってなかったわよ、アーネンエルベと同じようにね。あたしらはアーネンエルベよりも早出で奴らの目的地に到達して、GOCよりも先にアーネンエルベと相対したってわけよ」

シンは爪いじりを始めた。彼女は頭を休めながら前に屈んだり仰け反ったりという動きを繰り返していた。アルジュンは加圧されたチャンバー内でガスの粒子が跳ねまわっている様子を思い浮かべた。しばらくして、シンはパンを拾い直し、手の中で裏返してから、置き戻した。

「あたしらはアーネンエルベが追っていたものを回収したわ。奴らが来るのを待って、奴らの大半を殺して。んで連合が来る前に退去してやったの。いつものことでしょ、アルジュン。どうしてそんなに興味を持つの?」

「あなたはいつもそんなに退屈そうな振る舞いをするようなことはないものですから、シン。何か問題でもあったのかと気になりまして」

いつも通りだったっつってんでしょ。だから、あたしは退屈してんのさ」

シンの言葉が人気ひとけの無いカフェテリアのがらんどうにこだました。アルジュンはシンから注意を逸らした。彼は誰もいない席や、金属のテーブル、それと頻繁にちらつく電灯の明かりなんかを次から次へと目移りさせた。彼の脳裏で存在を主張する一つの疑念があった。彼は思念上のダムに生じた穴を埋めようと努力したが、結局、疑念が少しも漏れ出ないようにすることはできなかった。

「アーネンエルベがあれを手に入れていたら、どうなっていたのかしらねえ」シンはそう言った。

「何て?」

「だからさあ、あんたも気になったことは無いの? 悪者が勝ったらどうなるのか。言ってしまえば、最近は分かりやすい悪者が少なってきてるわけ。ナチスの魔法使いみたいなものよ、アルジュン。そんなやつらが残ってる間にせいぜい楽しむことね。GOCはそういうのに一切容赦がないんだから」

アルジュンは首を横に振った。「わけが分かりません」

「ねえ、悪者が勝利する世界を想像できないなら聞くけどさ、何を頼りにするの? 何がリスクに晒されているっていうの? だから想像力が重要なのよ、アルジュン。それが原動力を与えてくれるんだから」

どうして私はここにいるんだ?

アルジュンの思考を、疑問が支配した。彼は自分にこう言い聞かせた: O5評議会は人間社会を守る為に在り、評議会が、財団の責務に縛られることなく仕事を遂行する組織を欲するのであれば、その判断は正しい。だが「疑問の洪水」はその答えを洗い流していった。イデオロギーが、アルジュンの眼前をかすめては遠ざかり、彼は、れ以外に頼れるものは無いのだと、押し寄せる狼狽とともに悟ったのだった。そして其れが来訪するとたちまちその疑問は去ってゆき、そもそも疑問があったのかどうかも定かではないような心境が後に残った。

「それで、結局のところアーネンエルベは何を欲していたのです?」

「V8自動車エンジン」

「異常性は?」

シンは肩をすくめた。「私はそいつに接触しなかったわ。見もしなかった。分かるでしょ。標準プロトコルって奴よ。あたしらはそいつをテストしている。あたしが担当者に志願していたら地獄だったでしょうね。テストはひっどいものよ」

「つまりは何も分かっていないということなんですね」

「このキッツイ仕事場で唯一の、おもしろいことね」

おもしろいこと。アルジュンは監督職員について思いを馳せた。名誉と威信には芳しさのようなものがあった──香薬や薔薇のような、あるいはそれらが燃やされ、燻されて大気中に煙が放たれたときのような。アルジュンが己の立場について考えると、その香は彼の鼻腔を充満させるのだった。彼は選ばれし僅かな者たちの一人だった。そして彼はO5の側に立つ者として、しりぞけるのだ……その、

おもしろいことというやつを。とはいっても、やるべきことは何も無かった。

「あたしがあんただったら、明日はミシェルのことを避けてるでしょうね」とシンは言った。彼女は大きくあくびをした。

「なぜ?」

シンは笑みを見せてから、離席して去っていった。「彼女の大層な発明品は、襲撃の時に何の役にも立たなかったわ。結局、ミーム学なんて出鱈目だったってことよ。それじゃおやすみ、アルジュン」

「おやすみなさい、シン」


ミシェル・リチャードソンは6フィート7インチの長身を誇り、他のインサージェンシー最高司令部のメンバー7人全員を見下ろすことができた。誰の目にも明らかなこととして、彼女は常に何かに飢えていた。アルジュンは何年も前から、財団の領分の直ぐ外に潜む“餌”の存在を朧気に認知していた。それは職業倫理を欠いた、不衛生な、非科学的な、そしておそらくは野蛮な存在だった。アルジュンはそれを忌避していた; だが彼女はそれを求めていた。

アルジュンは、研究施設の屋上で佇むミシェルを認めた。彼女はキャンバスを前にして、遠くに浮かぶサンフランシスコの夜景を眺めていた。暗闇の中では、彼女の描いているものを見極めることはできなかった。彼女の方に歩み寄ると同時に、そこらに転がっているガラス瓶が視界に入った。

「調子はいかが、アルジュン?」彼女は尋ねた。

「大丈夫ですよ。ありがとうございます」

「何か御用かしら?」

「いえ。私は新鮮な空気を吸いにここにのぼってきただけでして。兵舎の中は息が詰まってしまうものですから」

「ふうん」

ミシェルは絵画の方に向き直り、アルジュンは黙って彼女の背後に立った。数秒して、彼女は振り返ってアルジュンの眼に焦点を定めた。彼はミシェルについて観察しようとするならば自分自身がよりいっそう観察し返されることなしにはそれを為せないということは判っていた。もし彼女が思いのままに事象を操れるのならば、この宇宙は自らを彼女の視界に収まるように再構築することだろう。

「話をしましょう、アルジュン。貴方がそこにただ突っ立っているだけというのは気に食わないわ。貴方に喋ってほしいの。会話を始めましょうよ。私から行くわよ: エンジンについて貴方はどんな意見をお持ちなの?」

アルジュンはまばたきをした。「まだ確信を持つべきではないかと……エンジンがそのようなものであるとは……」

「これまでエンジンに接触したことのある全ての研究職員は、例外なく、異常科学の領域でブレイクスルーと呼ぶべき奇跡のような成果を挙げてきました。ファンファーレの一つも無しに、そのような確率論的に不可能とも言える事象が発生するものだと思いますか? それほど世界は混沌に満ちたものでしょうか?」

「分かりません、ミシェル」

インサージェンシーはあまりにも行き過ぎていた。

幾年にもわたってアルジュンは世界のサインを見届けてきた、その標が真っ直ぐで秩序づけられていたのを見、その標が捻じれて唸るような音を上げたのを見ていた。彼は何が安全で何が危険であるのかを理解していた。そして彼は異常のジャングルへ飛び込んで、その暗黒の中心地にて何とかしてそのねじれた土地の道のりを記すように命ぜられた。高みより導く声は彼に禁断の果実を食すように指示した、だから彼はそうした、だから……

異常性を利用するというのは何を意味していたのだろうか? いかなる指標が達成されても、どのような勝利がもたらされたとしても、異常性はそれらの結果の一部分となった。アルジュンは異常性が自分の肉体に根付き始めていることを理解していた。いつの日か、彼が超常存在のことを相容れないものだと云えなくなった時、彼は己の魂が発する標を見てその歪みを知るだろう。そして彼は、二度と元の道に戻れなくなる。

「恐れているのね」ミシェルは言った。

「何も恐れてなど」

「嘘をおっしゃい。あなたの眼から恐怖が見て取れるわよ。あなたはエンジンが怖いのね。それは理解できるわ。でも私たちの仕事は異常性を利用すること。それが私たちの任務だった」

「究極的な我らの使命とは異常性なるものをその危険性ゆえに収容することなんです。それは人間社会に容認しがたいリスクを呼び入れるが故です」

ミシェルは笑った。「人間社会? 人間社会とかいうものに何の価値があるっていうんです? 私たちが知っている頃よりもずうっと昔から、人間社会というのは嘘の上に築かれてきました。そして個人的なことですが、私は欺瞞が嫌いなの」

アルジュンはミシェルが彼女自身の発言における皮肉さをきちんと心得ているのかどうかを判別することはできなかった。

「我々がエンジンとともにどんなことを成し遂げられるのか想像してごらんなさい」ミシェルは話した。「それは進歩の原動力よ。財団がエンジンを使っていたら、私たちは目覚ましい功績を達成できていたでしょうね。財団が今なにを理解しているというの? ミーム処理。記憶処理。それは我々が幻覚誘発性-ミーム記憶処理物質を手中に収めるに至った所以。それは私たちに現実性を超えた世界を見せてくれて、現在と未来への比類なき見識を授けてくれるの。もしも私たちが、知性の構造というものについて、人間か人間ならざる者かについて、現実歪曲について、理解できるようになったとしたら?」

「それでO5評議会はどのように仰ったのです?」

「私はまだ彼らに報告書を提出していませんよ」

アルジュンは目をぱちくりさせた。

「何て?」

「試験結果は望ましいものではあったけど、私はO5評議会に間違った希望を与えたいとは思わないの。恥をかくのは御免ですからね。私には更なるテストと更なる時間が必要なの。そして準備ができていても報告書をただちに送るというわけにはいかないわ、O5と連絡を取り合う上では絶対的な水準のセキュリティが必要なのだから」

「ですがせめて暫定報告くらいは──彼らの知るところとするために──」

「私はエンジンが関わる全ての研究を監督しています。私たち8名全員が事前にそのようにすると決めていたのです。あなたは私の決定を疑っていらっしゃるの?」

「いえ、いいえ、そうではありません、ですが──ミシェル、我々はO5評議会に恩義があります。彼らは我々を彼らの最も信頼すべき兵として選出したのです」

暗闇の中でも彼はミシェルの眼力の強さを感じることができた。「私は彼らが我々を任命してくださったことをただひたすら尊敬して働いていますよ。私はO5評議会が努めて目指している“より良い明日”に尽くしているだけですわ。貴方は何のために尽くすのです?」

話を続けている内にミシェルは、アルジュンが彼女の意図に何らかの疑いを持とうものならば彼女を殺害せざるを得なくなる程までにアルジュンとの距離を詰めてきていた。ミシェルの視線が彼を捕縛し、肉体を切り開き、彼のその中身がミシェルの無慈悲な意志の下に晒されようとしているかのように彼は感じた。降伏すれば見逃してもらえることは分かったので、彼はもう言葉を発さなかった。

何も云わず、ミシェルはアルジュンを通り過ぎて屋上から去っていった。

アルジュンは立ちつくして、太陽が昇って彼に光を浴びせかけてくるまでの間、空を見続けていた。そして今、彼は絵画に描かれたものを視認できるようになった。真夜中のサンフランシスコの遥か上空に、一つの星が他よりも際立ってきらめいている。その星から発せられるは8本の光の筋。其々それぞれの光線は歪曲しながら更に遥か多くの光線へと分裂して、空中へと広がってゆくのだった。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。