« 状況が悪化する時 || 彼女に道を空けろ || 彼らは尊大に命じた »
アイリス・ブラックは講義に遅刻しつつあった。
公平を期して言うならば、全面的な彼女の落ち度ではない。木曜日の夜にローラーダービーの試合があるのは昔からだった。つまり、木曜日の夜は、勝利を祝したり敗北を埋め合わせたりするためのダービー二次会も恒例行事である。いつもだったら、彼女は数時間ほど滞在し、ちょっぴり酒を飲み、ちょっぴりマリファナを吸い、午前1時か2時には就寝するので、10時30分の講義には余裕で間に合う。しかし、今回に限っては試合したのがダブル・ディーズとレギオンで、全戦全敗のレギオンを推しているディスコーディアンたちはいつも積もり積もった敗北を忘れるために猛烈な勢いでパーティーをした。誰かがパンチボウルにAUMを混入させ、別な誰かがカリスティー・ゴールドのジョイントを配り始め、長い話を短くまとめると、アイリスは午前10時に、ビールの空き缶で溢れかえった浴槽の中で、自分のダービー用ヘルメットと他人の下着だけの姿で目を覚ました。
前夜の残骸の中をひたすら探し回った末に、彼女は鍵、財布、携帯電話をポケットに入れたままのズボンを冷凍庫の奥で発見した。天井ファンからぶら下がっていたTシャツをくすね、あと20分というところでドアを飛び出す。携帯をチェック。ディア大学はそう遠くない。急げば15分で到着し、講義の前にトイレで身だしなみを整えることだってできるはずだ。ローラーブレードは昨夜のまま、前庭の木のてっぺんに括りつけられていた。指を鳴らすと結び目がほどけ、広げた手の中に落ちてきた。彼女はブレードを履き、ヘルメットを被り、大学目掛けて走り出した。
アイリスは歩行者や自転車を必死にかわしながら、午前中の往来を縫うように駆けた。あわや山積みの箱を持ったアンドロイドを突き倒しそうになり、肩越しに素早く「ごめん!」と叫びながらその場を後にする。お気に入りの近道までもうすぐだった。油断しなければ入口を高速で開くことができ、オレゴン州で半ブロック滑るだけでスリー・ポートランド側の半マイルをスキップできる一対の“道”だ。彼女は頑丈なレンガ塀に向かって真っ直ぐ加速しながら、声を限りに「開けゴマ!」と叫んだ。ぶつかるギリギリの瞬間に、塀は蝶番付きのドアのように開き、アイリスはオレゴン州ポートランドにある同程度に頑丈なレンガ塀の中から飛び出した - そして、ピザ屋の裏手にある二つの大型ゴミ箱の間に思いがけず駐車していたリムジンのボンネットに全速力で激突した。
衝突の勢いでアイリスはボンネットを乗り越え、反対側のアスファルトに叩きつけられた。感覚よりも先に、左手首が折れる音が聞こえた。それから腕に痛みが走り、彼女は丸くなって負傷した手を庇いつつ、語彙の多様性に欠ける分を声量で補いながらひたすら罵った。「クソッたれ! ふざけんじゃねえぞクソ! クソみてえな真似しやがってクソ野郎!」 車のドアが開き、閉じ、少なくとも二人が近付いてきた。三人かもしれない。声を掛けてこないということは、余程のゲス野郎どもか、彼女を待ち構えていたかのどちらかだ。彼女は喚くのを止めて目を開けた。
三人だった。恐らく彼女より少し年上の陰険そうな青年が、緑と金の格子柄という見苦しいスーツに身を包み、ボディーガード屋の棚から直で買ってきたような二人の男を両脇に伴っていた。ボディーガードたちは予想通り何も言わなかったが、青年は笑顔で手を差し伸べた。「おはよう」 データポイント1: イギリス人。金持ち。めっちゃキザ。間違いなく余程のゲス野郎。「立つのを手伝おうか、ミス・ブラック?」 データポイント2: 名前を知っている。間違いなく待ち構えていた。
「一人で大丈夫だよ、ありがとう」 彼女はそう返し、地面を肘で押しながら顔をしかめた。「どうも君は私を不利な状況に置いてるようだけどね、ミスター…?」 陳腐すぎる決まり文句に思わず咽頭反射が起こりかけたが、彼女は力を振り絞った。両手とも擦り剥いて出血していたが、それは役立つかもしれなかった。
陰険ゲス野郎は華麗なお辞儀を披露した。「クリソフィラス・マーシャルだ、どうぞ宜しく。しかし、どうか固くならず - 友人たちは僕をスキッターと呼ぶ」
アイリスはローラーブレードを履いたまま立ち上がり、負傷した手首を胸元に抱えて、身長6フィートいっぱいに背筋を伸ばした。「素敵な名前だね」 彼女は右掌から指で血を拭い、三人組から悟られないように注意しつつ、左腕に印章を描き始めた。「ところで、そちらの紳士お二人はどなた?」
「僕なら彼らを紳士とは呼ばない」 スキッターはそう答えた。「こっちが3号、こっちは4号だ。こんにちはと言いな、諸君」
3号と4号が完璧なユニゾンで「コンニチハ」と吠え、アイリスはようやく彼らの額にあるバーコード型のタトゥーに気付いた。もしかしたら本当にボディーガード屋で買ったのかもしれない。印章はほぼ完成していた。あと少し話を引き延ばすだけだ。
「ええと、私はこんな光栄に浴するに相応しいことを何かしたっけか、ミスター・マーシャル? この出会いは偶然じゃないんでしょ?」 彼女は“道”を塞いでいる壁を顎で指した。「君たち、私にとって一番不都合な場所で待ってたみたいだし」
スキッターが笑うと、アイリスに唾が飛び散った。「いいや、アイリス - アイリスと呼んで構わないかな? - 偶然じゃないとも。僕は君にビジネスの機会を提供しに来たんだ。間違いなく、君の最も奔放な想像さえも絶するお金持ちになれる機会をね。一緒に車に乗ってくれるかい?」
印章が完成した。「うん、クリソフィラス、そうしたいのは山々だけど、生憎 no'oley bugud gegrasacog nohadz hacar-ficar!」 ウラニア語の音節が唇から溢れると、アイリスは骨が固まり、変化するのを感じた。手を後ろに引くと、剣が手首の皮膚を突き破り、更に呪文のバックラッシュで発火した。アイリスはスキッターに荒々しく斬りかかったが、スキッターは不穏なほど敏捷に飛び退き、彼女は素早く180度回転して路地を疾走しながら、燃え盛る骨剣を消し去り、橈骨と尺骨を自然な形に戻した。正直に言えば骨折した時よりも痛かったかもしれないが、この呪文は必ずダービーリンクの観客たちを沸かせたし、実戦でも使えたことが嬉しかった。
スキッターがボディガードたちに何やら指示を叫び、リムジンのドアが閉まった。アイリスの掌にはまだ、体内の備蓄を消耗せずにもう一つ小さな呪文を使うのに十分な量の血が付いている。彼女は手を後ろに軽く振ってアスファルトに血を撒き、素早く呪文を叫んだ。「Nobo dokez ch'haz!」 地面から棘が突き出し、追跡者たちの方へと角度を変えた。あの上を走ろうとすればタイヤはただでは済むまい。
リムジンが発進し、エンジンの回転数を上げながら加速した。アイリスが路地から表通りに出た時、タイヤのパンク音が聞こえた。これで逃げるのに十分な時間、足取りを遅らせることができる。次にくぐる“道”はすぐ先にある、環状交差点の中央に設置されたジャンヌ・ダルク像だった。その像の傍らに、ボディーガードがもう二人、そして頭のてっぺんから爪先までシュプリーム・ブランドの最高級品で着飾ったもう一人のゲス野郎が待っていた。
「マドモワゼルMademoiselle・ブラック!」 彼はそう叫び、バケットハットを脱いだ。「君の方から来てくれるとはご親切にどうも!」
「クソがよ」 アイリスは悪態を吐き、横道へと逸れた。二番目に近いスリー・ポートランドへの“道”は約1マイル先で、しかも接続先はキャンパスから不便なほど遠いプロメテウス・プラザの傍だ。講義には絶対に間に合わない。いや、もう一つ選択肢はあるが、それをやったら連邦捜査官どもはキレるだろうし、彼女はディア大学に通うだけで既に諸々の監視リストに載っている。最後の手段にしよう。
スキッター・マーシャルが両目を黄色く発光させ、四つん這いで路上に走り出してきた。彼は立ち上がり、人間には本来できないほど満面の笑みを浮かべた。彼の歯は針のように鋭く尖り、スーツに垂れ落ちた唾液がシュウシュウと音を立てた。「手荒な真似はしたくなかったなあ」 彼はそう言って、上着のポケットから赤い液体を満たした注射器を取り出し、首に叩き込んだ。「でも君が台無しにしたのがいけないんだよ」
最後の手段に訴える時だ。あのドラッグがスキッターにどんな影響を及ぼすか、アイリスは見届けるつもりはなかった。彼女は完璧なUターンを決めてジャンヌ像へと引き返した。例のファッションバカハイプビーストと手下たちは綿菓子めいたピンク色のロールスロイスに乗り込んでいた。アイリスは通り過ぎざま彼らに中指を立て、チャベス通りを南に曲がり、連邦犯罪を犯す準備をした。
「Fiaco nowole! A'epalizage! Tajnachef'so cho thu fof'widayo shabbe!」 その言葉はアイリスの喉を枯らし、唇をひび割れさせた。彼女は掌を引っ掻いて擦り傷をもう一度開き、太腿に血の手形を押した。この技はEVEの外部供給源が無ければ危険なのだが、1パック4体セットの怖いボディーガードを買うような連中から誘拐されるぐらいなら、多少のバックラッシュを食らった方がまだマシだった。「Lofo segwar dibuq udinbak noy renkeb!」 勿論、詠唱には何の意味も無かった。ウラニア語は奇跡術のためだけに特別設計された人工言語だ。それは脈絡のない喃語であり、各音節の羅列は特定のエーテルパターンやエネルギー周波数に対応する表意記号ニーモニックに過ぎないが - アイリスの経験上 - それはとても、とても上手く機能した。「Zametus nabagaf hrov'leiko ptau!」 最後の呪文が脳裏を焼き焦がしながら通り過ぎ、彼女は加速し始めた。
この呪文は“ラダマンテュス・スリング”の亜種で、発射体ではなく人間を飛ばす目的で改変されている。移動中の大きな物体 - 例えば自動車や一塊に集まったダービー選手たち - から勢いをちょっぴりお借りしてアイリスに上乗せし、無責任な速度で前方に撃ち出すのだ。いったん動き出せば、その勢いは周辺の環境EVEで維持されるが、発動するのに必要な最初のバーストは常に厄介だった。今日の残りは安静に過ごさなければ、完全に燃え尽き症候群に陥る可能性がある。しかし、授業に間に合い、スキッターとシュプリーム野郎を振り切ることができるなら、試す価値はあった。
当たり前だが、ダービーリンクの外でこれをやるのは遥かにリスクが高い。スリー・ポートランドの全てのリンクは床に多種多様な魔法円、ルーン文字、印章が記され、選手たちの呪文のバックラッシュをできる限り安全な形式で逃がす構造になっている。オレゴン州ポートランドの道路にそんな保護は施されていない。彼女が呪文を唱えた辺りでは、アスファルトが未加工の成分に還元され、直径3フィートの地面が原油と砂利のプールになってしまった。彼女が加速すると、ローラーブレードが触れた路面にルーン文字が輝き、難解な筆記体でウラニア語の呪文を何度も何度も繰り返した。幸いにも、それらの文字はほんの数秒で薄れ、いずれ雨で洗い流される煤のような残渣だけが残った - おかげでアイリスはFBIに、或いはもっと酷い場合は指導教官に、長さ1マイルに及ぶルーン文字の刻印について言い訳せずに済む。
アイリスの背後からパンという音が聞こえ、何かが唸りを上げて胸の高さを飛び過ぎて行った。奴らが銃を撃っている。危険を冒して肩越しに振り返ると、ハイプビーストがロールスロイスの窓から身を乗り出し、デザートイーグルとルイ・ヴィトンのコラボ拳銃を構えているのが見えた - それも横倒しのギャングスタ・スタイルで。何事かを叫んでいたが、耳に響く風とエンジンの轟音で彼女には聞こえなかった。彼はまたしても発砲し、アイリスはとっとと逃げるのに注力することにした。
これまでのところ、彼女は交通状況にとても恵まれていた - 車はスリングショットの加速や盾として利用するのに十分な台数だったが、銃弾よりもそちらを避ける方に頭を使わなければいけないほどの台数ではなかった。残念ながら、追っ手が困るほどの台数でもなかった。ロールスロイスは道路のど真ん中を突っ走っていて、他の車はハンドルを切って道を空けていた。危うく衝突という場面もあり、醜悪なペプトビスモル色の塗装に擦り傷が幾つか付いてはいたが、クローンチンピラはなかなかの運転手だったので、本格的な事故を起こしてはいなかった。彼らは確実にアイリスを追い詰めていた。
その時、前方の信号が赤に変わった。アイリスの前を行く車が速度を落とし始めた。彼女は呪文にもう少し力を注ぎ込み、速度を上げた。一台のセミトラックがウィンカーで左折の合図をしながら交差点に入ってくる。アイリスは真っ直ぐそちらへ突っ込んでいき、ロールスロイスも後を追った。トレーラーに顔面からぶつかる間際、彼女は後ろに身体を反らし、時速40マイルでトラックの下に潜り込むと、リンボーダンスの要領でそのまま滑り抜けた。ロールスロイスはそこまで機敏ではなく、地を揺るがすようなグシャッという音を立ててトレーラーに激突した。ほんの一瞬、激突の寸前に、アイリスとハイプビーストの目が合った。そして彼女は体勢を立て直し、先へ進み続けた。
更に数ブロック走ると、目的地はすぐそこだった。呪文の効果が切れたのは、アイリスが右折して坂道を急降下する寸前だった。彼女は車二台とバイク一台をかわして、リード大学のキャンパスに突入した。どの道筋にも、朝の講義から戻ってきた大学生たちがごった返している。彼女はスラロームで彼らの間を通り抜け、アーチをくぐって図書館の中庭に入った。セコイアの木は目の前だ。神秘的な力を最後にもう一度振り絞り、体力をほぼ完全に消耗しながらも、彼女は戸惑う凡人どもの頭上を飛び越えた。ピクニックテーブルに着地し、座っていた生徒たちの本と朝食を散乱させながら、セコイアの幹目掛けて頭からジャンプし、両手で向こう側へ抜けるための所作をした。数秒間のえげつない眩暈に続いて、彼女は無事に解放された。
そう、ほぼ無事に。アイリスは携帯をチェックした。10:29。授業開始まであと1分。彼女が図書館の扉に突進した時、タイミング良くそれが開いた。目の前にいた一年生が飛び退いて回避し、彼のコーヒーはそこら中に零れ、アイリスは校舎に入った。50秒。エレベーターを待つ時間は無いが、教室は地下にある。ロビーには折り畳みテーブルが設置されていた - キャンパスのマクスウェリスト・グループ WAN For All がオープンソース文献と無料のフラッシュドライブを配っているのだ。アイリスは身体を丸めてテーブルの下を転がった。40秒。階段へのドアを抜け、ピタゴラス数秘術について言い争う先輩たちの間を突っ切り、手すりを飛び越える。落差はほんの15フィートで、アイリスには落下を安全に止めるのに十分な魔力が残っていた - 少量の魔力がローラーブレードの減衰ルーンを活性化させ、衝撃の運動エネルギーはドラマチックだが無害な火花の飛沫に変換された。30秒。廊下を直進し、また別な廊下へと激しく右折し、彼女は20秒の余裕をもって教室のドアをくぐった。
「ミス・ブラック、よくぞ来てくれました」 グリーンバーグ博士はそう言いつつ、当て付けがましく腕時計に目をやった。「それも時間ピッタリとは! 驚くべきことですね」
アイリスは嘆息しながら着席した。「昨夜は色々ありまして。今朝はもっと色々ありまして」
「さて、ミス・ブラック、私は生徒がしっかり準備して講義を受けに来るのを期待しています」 彼はまた当て付けがましく、アイリスの前の何も無いテーブルを見た。「教材はどこですか?」
アイリスはヘルメットを外し、空いた手でその上を何度か擦った。「アブラカダブラ」 彼女はヘルメットの中に手を差し入れ、内蔵された空間歪曲から教科書と学用品を取り出した。「他に何かありますか、教授?」
「あともう一つ訊いてから、授業に入ります」 彼はアイリスの胴体を漠然と身振りで指した。「一体全体、その“フタナリFutanari・デカチチビッチTitwhore・フィアスコFiasco”とは何なのです?」
彼女は借り物のTシャツをちらりと見下ろした。「正直に言いますが、教授、見当も付きません」
« 状況が悪化する時 || 彼女に道を空けろ || 彼らは尊大に命じた »








