カタカタと軽快な音をたてながら、キーボードの上を指が滑っていく。自分が指を1、2回降る度にモニターの文字が増え、白い背景に黒色が増えて行った。
財団職員として、仕事に私情を挟むつもりは無い。今回のこれも、ただ単にレポートとしてまとめるだけだ。
自分にそう言い聞かせて、体に染み付いた動きを機械的に反芻しながら、その意識は数日前まで遡っていた。
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アイテム番号: SCP-███-JP
オブジェクトクラス: Euclid(暫定)
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ポク、ポク、ポク……と、木魚の叩かれる音が狭い斎場に響く。それ以外に聞こえるのは坊主が読み上げる般若心経のみであり、そのせいか、男の頭の中ではグルグルと取り留めのない考えが渦を巻いていた。
よそ見してると危ないぞ。ほら。
在りし日の父の姿。差し伸べられた手を幼い自分の手がしっかりと握り、まだ覚束無い足取りで歩く。随分昔の事ばかり思い出されてしまうのは、このところ、ずっと会っていなかったからだろう。
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特別収容プロトコル: SCP-███-JPは標準霊体収容セルに収容されます。SCP-███-JPは常時監視され、変質が確認され次第調査し、適切に対処してください。
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「この度はご愁傷さまでした……」
「あんなに元気だったのに、どうして……」
葬式を終え、父の友人だと言う人々と話をした。その誰もが皆父の死を惜しんでおり、随分と慕われていたのだな、とぼんやりと考えた。思えば、最後に父と会ったのはいつだっただろう。あの頃はまだ、病気の影も形も無い健康そのものだったはずなのに。
突然死、らしい。心筋梗塞だなんだと詳しい話もきちんと聞いたはずなのだが、今となっては断片的にしか覚えていない。
ふと、空を見上げる。年の瀬の空は灰色で覆われており、不謹慎ながら、まさに葬式らしい空だった。
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説明: SCP-███-JPは特定の条件下において成長し、その外見を変化させるクラス-A霊体です。
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男は父子家庭で育った。
男がまだ産まれて間も無い頃に母親が浮気していた事が分かり、大喧嘩の末に父が離婚を申し入れ、そして成立したらしい。
そのため、男は母親の顔を知らない。高校を卒業した時に母親の連絡先を父から教えてもらったが、どうしても会う気にはなれなかったのだ。
「……本当に、ごめんなさい。」
葬式のその日、男は初めて母と対面した。一言か二言、形だけ何か言って、そしてお互いに通り過ぎて行った。ただ一つだけ、謝られた事だけは鮮明に覚えていた。
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SCP-███-JPが成長を行うタイミングは完全には判明していません。
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父の遺品を整理していると、鍵付きの引き出しの奥から錆び付いた小さな金属の箱が出てきた。
蓋を開けてみると、中身は随分と懐かしい物だらけだった。中でも目を引いたのが、まだ自分が小学生だったころに折り紙で作ったお手製の門松。いつの間にか無くしてしまったと思っていたのだが、どうやら父が大切に保管していたらしい。他にも、幼稚園で描いたらしい絵や、運動会で貰った紙製の金メダル、卒業式の集合写真までもが出てきた。
「……こんなに、沢山残ってたのか。」
一つ一つを取り上げながら、男はゆったりとその全てを眺めていた。
陽は既に完全に落ち、窓の外は暗闇と静寂に包まれている。
しんしんと、白い雪が降り続いている。
携帯に備え付けられた、簡易型カント計数機が鳴り始める。
1年もいよいよ終わる12月31日の寒い夜、突如としてそれは現れた。
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SCP-███-JPは20██年12月31日に休暇中のエージェント・██によって発見・確保されました。その際、エージェント・██の周囲のヒューム値はおよそ██ Hmまで低下していた事が報告されています。
これはSCP-███-JPが存在を安定させるために現実性を自身の水準まで低めようとしたためだと考えられています。
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「……親父?」
男が異変を感じて視線を上げると、そこには在りし日の父の姿があった。電灯を頭の後ろに受けて後光が射すような姿勢をしていたため、その姿はまるで仏教の宗教画のようにも見えた。仏様はベージュのパンツとよれたカーキ色のセーターを着ていた。
「何か、ねえ。来れたみたいで……元気してるか?」
少し困ったような顔で尋ねられる。男は少しの間放心していたが、すぐに平常心を取り戻した。
「ああ、元気だよ。」
そう答えると、安心したように表情が柔らかくなった。昔と変わらない、気の抜けるような笑顔だった。
「最近、どうだったかい?」
「まあ、ぼちぼち。年末の仕事納めをして、親父が死んでからは、その片付けをして、って感じだよ。」
「おや、そう言えば年末だったか。それは悪い事をしたなぁ。そんな忙しい時期に仕事を増やすとは。」
しまった、とでも言いたげに額を叩く。
父とこんな他愛もない話をするのは何年振りだろうか。自然と目頭が熱くなる。
もう会えないと思っていた。もう話せないと思っていた。 怖かった。誰よりも大切な家族が弱っていくのが、少しずつ死に向かうのを見るのが怖くて、忙しさを言い訳にして、ずっと避けていた。
その結果、何よりも後悔することになった。そのはずなのに、何故か、それはそこにいた。
感情では、このままでいたい。しかし、理性ではもうとっくに理解していた。
これは収容対象となるオブジェクトである。
「……親父。」
「何だい?」
「今まで、色々とありがとう。」
改まって、真正面から父を見て言う。話したい事はまだまだ他にも山ほどある。しかし、腰に提げたパラテクの塊は非情にも男に現実を突きつけ続けていた。
その時の男の周囲のヒューム値は下がり続けており、既に平常時よりも15近く低い数値を叩き出していた。この程度であれば、まだ小型の機器で何とか現実性を維持できる。だが、この調子でもっと現実性が下がっていけばどうなるかは火を見るより明らかである。携行している機器だけでは対処しきれなくなり、やがてこの部屋は現実性の低い方へと溶けていく。それは財団が感知するまで続くだろう。
ゆっくりと、机の上に置いてある簡易型SRAスクラントン現実錨を掴む。スイッチを入れて周囲の現実性を安定させ、それと同時に財団本部へと連絡を入れる。
「ん、電話するのかい?」
「……ああ。仕事関係でちょっとな。」
「大晦日なのに仕事だなんてなぁ。」
電話口のオペレーターと一言二言話し、電話を切る。
目の前の父は、眠くなったのか大きな欠伸をしていた。
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補遺: 収容時、SCP-███-JPは発見者であるエージェント・██の父親(故人)の姿をとっていました。その原因は現在調査中です。
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電話をかけてから間もなく、家の前に1台の軽自動車が止まった。そして、その中からは白衣の人影が1つと、スーツ姿の人影が2つ。
「おまたせしました。こちらが、今回の収容対象ですね?」
「ええ。お願いします。」
彼らは玄関先で収容のための機材を準備し、そして部屋に入って来た。
「……おや、こんばんは。息子の同僚の方かな?」
「……親父。」
周りで同僚達が機材を展開する中、短く言う。だが、それで父は何かを察したようだった。
「やはり、そうか。……まあ、もとより私は死んだ身だ。」
ふう、と息を吐く。
「それじゃあな、██。元気でやれよ。」
ひらひらと手を振り、あの気の抜けるような笑顔で言った。
それを合図に、スーツ姿の2人が箱型の機材のスイッチを入れる。父の姿が、徐々に薄れていく。初めは足、次は腰。下から順々に、体が虚空へ溶けるように消えていく。
消えていく、消えていく。父が、あの日々の塊が、段々と薄れて
「……親父!」
短く叫んだ。
「……最後に会ってあげられなくて、本当にごめん。」
「……さよなら。」
言い終わると同時に、父の姿は完全に消えていた。最後の言葉が届いたかどうかは分からない。
「では、これで初期収容は終わりです。後日、報告書の提出を……」
白衣の人物が何か言っている。男はそれをぼんやりと聞きながら、窓の外へと目を向けた。
しんしんと、白い雪が降り続いている。
遠くから、除夜の鐘が聞こえる。
1年の始まる1月1日の朝、まるで雪解けのようにそれは去っていった。