少女探偵小百合殿
謹啓
電氣灯の明かりが長くなるこの頃、少女探偵殿におきましてはますますご盛栄のこととお慶び申し上げます。
初めてでこのようにぶしつけなお手紙を差し上げますこと、お許しください。
当方は本邦に居を構えまする東瀛歯車商会でございます。
この度、弊社に対し怪盗"黒天狗"より"青梅、馬陸館やすでかんにおいて貴家の有する逸品を頂戴する"との予告文が届きました。怪盗"黒天狗"に関しては殊更説明の必要もないでしょうが、近頃同様の事件が多発していることはご存知のことかと思われます。
つきましては少女探偵殿に奇怪な盗賊の正体を暴いて戴きたく依頼状をお送りしました。
この件、承諾の可否は届けさせた自動人形へ返事を持たせていただければ幸いです。
承諾いただいた場合は四日後の午後三時、東京駅の降車口にお迎えを用意しておりますのでお越しください。
また、馬陸館には電信の類がありません、また電網も使用できませんので、お気を付けください。
では、青梅でお見えしますことを心よりお待ちしております。
謹白
東瀛とうえい歯車商会管理部長
鬱蒼と茂る森の中を自動車が一台進んでいく。運転するのは自動人形、舗装されていない道にもかかわらず、その運転技術は車内に一切の揺れを生むことなく、まるで帝都の大通りを走るような滑らかさで進んでいく。後部座席には小柄な影が一つ。斜めの影がヴェネチアンマスクにかかり、妖艶とも悠然とも、あるいは無邪気ともとれる微笑み一つを口の端に浮かべ。ステッキ一本とこじゃれた革鞄一つを御伴に白磁の義脚が陽光を弾く。
読者諸君はご存知であろう。彼女こそが少女探偵。この物語の主人公にして明朗快活、闊達自在な名探偵。数多くの難事件を解決し、帝都の街を駆け抜ける少女探偵小百合であり。
「ウフフ! まさかあの東瀛歯車商会から依頼をいただくだなんて! それも相手は怪盗"黒天狗"! 相手にとって不足はなし! といったところかしらね!」
運転する自動人形が東瀛歯車商会の自慢する完全駆動型であることを見て取ると、その表情は緩み、脚はまるで鞦韆ぶらんこのようにゆらーんゆらーんと揺れている。今この場において彼女は少女探偵小百合を演ずる一人、イトハであった。
賢明な読者諸君にはその胸元に一通の手紙が抱えられていることに気付くだろう。歯車の封蝋が、僅かに黄みがかったその手紙に残っている。この印を見て東瀛の名が出ないのであれば、それはこと繁栄を欲しい儘にする帝都においてモグリと言わざるを得ない。"東瀛歯車商会"、自動人形の黎明時より連綿と続くその名は市場分配シェアこそ後続の東弊舎や宮澤グルウプに劣るものの、かつて完全駆動型自動人形──電脳を有さず、道具として扱われる自動人形──において根強い人気と信頼性を勝ち得た一大企業である。
少女探偵の手に抱えられているのはまさにその東瀛より送られた一通の依頼状。読者諸君がこの頁を開いたとき、真っ先に飛び込んで来たであろうその手紙なのである。
さて、少女探偵の活躍を楽しみにしている読者諸君のお時間をしばしいただいて、巷を騒がす怪盗"黒天狗"の話をさせていただこう。このころ、帝都中の町という町、家という家では、2人以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、"黒天狗"のウワサをしているのだから。"黒天狗"というのは近頃電信を騒がす奇妙な盗賊の名である。この賊は疾風のように地を駆け、煙霧スモッグのように姿を見せず、幽霊のようにどこへでも忍び込み、曲芸のように姿形を変えるという、まさに天狗が如き"怪傑なる盗賊"であった。
せめてもの幸せはこの怪盗、盗む物は有閑貴人の高価な美術品、工芸品、あるいは帝都に聳える企業の有する逸品にすぎないことだろうか。盗みの中でも闇雲に人を傷つけることはなく、これまでに大きな怪我人が出たことはない。また、この賊には奇妙な癖があり、盗みのたびにかならず前もって、何時幾日にそれを頂戴するという予告状を送りつけるのである。これは賊には賊なりの矜持があるということか、はたまた他者を害することでその罪が重くなることを恐れる現実的な側面か。何にせよ、その興味はただ盗品にのみ向けられており、一種の曲馬団サァカスにも似たその振る舞いは、帝都の民衆には比較的好意的な眼差しで寛政、天保の鼠小僧がごとく、やんややんやと騒がれているのであった。
「例え義賊であっても、盗みは褒められるものではないわ。お姉様も"一発痛い目をみせてやるのよ。グーでいくのよ、グーで"、と言っていらしたし、その正体暴いてみせるわ! 秘密兵器もあることですし!」
『そんなことは言ってないわよ、イトハ』という声が聞こえるような気もするが、何にせよ、ふんすと鼻を鳴らし、少女探偵は木々の向こうに顔を出し始めた建物へマスク越しの視線を向けたのだった。
「怪盗、"黒天狗"ももちろんですけど、噂の"蟲愛ずる姫君"、どんな方なのかしら」
真っ直ぐの坂道が終わり、弧を描く山道の先、一本の巨木によって真っ二つに別れた景色の向こう。
────奇妙なれど奇矯にあらず。馬陸館が少女探偵を待ち構えているのだった。
自動車を降りた少女探偵は羅馬ロォマの神殿を思わせる異様な外見にほうと息を吐く。
「ここが、馬陸館」
────奇妙なれど奇矯にあらず、馬陸館。東瀛歯車商会の経営一族が青梅に建てた別荘であり、同時に東瀛が有している歴史資料を展示する企業資料館でもある。そのため、本来の名称は"東瀛歯車商会産業資料館"もしくは"東瀛歯車商会青梅別邸"なのであるが、市井の人々のみならず、社中においても馬陸館の愛称で親しまれている。その長細く、アーチ状になった建物の形がヤスデに似ていることからその名が付いたとされているが、もう一つの理由が存在する。その理由においてはおいおい語られるだろう。
馬陸館の正面には金属製の門があり、その先には色とりどりの花が咲き誇る庭園が広がっていた。傍らに掛けられている"東瀛歯車商会産業資料館"の看板には"臨時閉館"の札がかけられ、人の姿はない。自動車が入れるのはここまでのようで、少女探偵の乗ってきたそれとは別に幾台か止まっているのが目に留まる。サテ、ここから先はどうしたものか、先ほどの運転していた人形に案内ナビゲイトの機能はあるかしらん、と思案する少女探偵にうっそりと一つの影が近づいた。
「失礼いたします。少女探偵小百合様とお見受けいたします」
「エエ、その通り。ワタクシが少女探偵小百合。アナタはここの使用人かしら?」
音もなく近づいた影に驚くこともなく、少女探偵は頷くと同時にそれとなく相手の相貌と所作を確かめる。背丈は中肉中背、年齢は20の後半から30ほど。筋肉質でがっしりした印象から肉体労働者の印象を受ける。義肢の有無は分からないが見たところ手足にその様子はない。使いこまれてはいるがこざっぱりとした作務衣に同様の下駄。特徴的なのは左目を覆った眼帯か。
「はい、普段は守衛と庭師を務めておりますが、賓客の皆様を取り次ぐようにとお嬢様から。失礼しますが、依頼状を見せていただいても?」
深い森を思わせる静かな声に促され、依頼状を差し出すと庭師はゆっくり目を通し、頷いた。
「確かに確認いたしました。しばらくお待ちください、案内の者を呼びますので」
それだけ応えると庭師は門の横に設えられた小部屋、おそらくは本来入館者への受付を兼ねる部屋だろう、に入り、受話器を取る。そこから二言三言話し、低く頷いた。受話器を置いてしばらくすると、馬陸館の門がゆっくりと開かれ、館から新たな影が2,3姿を見せる。そのうち2つはここまで少女探偵を連れてきたものと同型の完全駆動型自動人形。しかし、それを引き連れているのは人間であった。
「お初にお目にかかります、少女探偵小百合様。遅れましたがこの館の家政婦長ハウスキーパーを務めております。もっとも、家令バトラーがおりませんので兼任ですが」
「家政婦長、ということは、ミスターではなくミセス、と呼んだ方がよろしくて?」
自動人形を従え、颯爽と現れた姿を認めると、思わず少女探偵は目を丸める。それもそのはず、遠目では短髪に長身、加えて糊のきいたジャケットにトラウザーズ、といわゆる執事と思い込んでいたものが女性だったのだから。無論、大正の世において女性の働く場所、権利はより広くなっている。しかし、以前の宮澤家のように富裕層においては未だに旧態依然とした認識を有した人間も多く、眼前に立つ女性のように執事服を身にまとった家政婦長など出会ったことはなかった。奇異の視線に気づいたのか、家政婦長はにこりと笑みを浮かべる。
「それで結構でございます。マ、驚かれるのも無理はありません。私も本当なら隣に立つ人形のようにエプロンドレスなど着るべきなのですが、少々用務に支障がありまして。お嬢様から格別のご厚意を受け、このような不相応なナリをさせていただいています」
ざっくばらんとしたものの言い方、健康的に日焼けした肌、左手首にはめられた金のバングルなど、おおよそ家政婦長という言葉の印象から離れた存在ではあるものの、立ち振る舞いの一つ一つが流麗で、不思議にも知性と礼節が滲み出ている。名うての武芸者を見ているような印象を与える女性であった。
「いえ、こちらこそ不躾な振る舞い、失礼したわ。改めまして、ワタクシが少女探偵小百合。アナタはミセス……」
「アア、申し訳ありません。こちらも改めまして、馬陸館で家政婦長を務めております」
家政婦長は長身をすらりと折り曲げ、再度一礼する。
「前原愛と申します。失礼ですが、身体調査ボディチェックをさせていただいても?」
仮にも謎多き探偵少女、男装の家政婦長に驚けど、表情に出さず不適に笑う。
「ワタクシが信用できませんの? この少女探偵が?」
「ええ、私にも職責がございますので。小百合様が探偵という名の下に探し、偵うかがうのであれば、私も家の政まつりごとをしきる婦長です。名に応じた役目を為されるのであれば、私も従うまで。無論、処女おとめを裸に引ん剝くようなことは致しません」
なるほど、手ごわい相手ね、と心の中でイトハはちらりと舌を出す。もちろん、そう簡単に気づかれることはないだろうし、前原の態度から軽々に言いふらす性質ではないだろうとは察せるが。少女探偵はしばし考え、にこりと淑女のように微笑んだ。
「では、条件が1つ」
「承りましょう」
「ワタクシに危険が無いと判断した場合、何らかの謎に気づいたとて、何らかの疑問に気づいたとて、決して他者に口外されないこと。アナタが家政婦長という誇りをもって対応されるのであれば、客人に対する職務も果たされるべき、でしょう?」
少女探偵は前原の言葉を逆手にとる。家政婦長という役目であれば客人の秘密を守るもまた道理。ならば何か少女探偵の謎に近づいたとはいえ話すことは許されまい。互いに互いの職責へ信念をもって対応する。互いの個人的な謎には踏み入らない。暗黙の休戦協定である。前原もフフフと微笑んだ。
「ええ、もちろん。当然ですとも」
前原が身体調査を終え、手荷物を確認する。「あらまあ、可愛らしい」革鞄の中身は探偵道具と着替え程度だが、秘密道具を見つけた前原は微笑み承知する。そのまま、馬陸館の長い廊下を前原に先導され、少女探偵は進んでいく。目に入る調度は館の雰囲気とうまく調和しており、華美な印象は全くない。行き交う人形は全て完全駆動型であり、その瞳に自我を見出すことは難しい。帝都において自動人形は多くが電脳を有し、人類の隣人として活躍するものばかりである。つまり、この場は少々時代錯誤でもあるのだ。
「ミセス前原。馬陸館は自動人形しかいないのかしら?」
「それは完全駆動型、自我なき人形ドォルだけか、ということでしょうか?」
「失礼に聞こえたのであれば謝ります。ですけど、ヤハリ……」
「ハハハ、当然の感想です。確かに、この馬陸館には完全駆動型の人形しかいません。ただ、その理由はカンタンで、彼等彼女等は皆ここの収蔵品でもあるから、ですね」
前原が通り過ぎようとする自動人形を呼び止め、製造番号ロットを確認する。「1975年製のようですね」大正64年製の自動人形は、凌雲閣が天を突き、東京駅に超電導リニアが発着する今もなお、目の前で生きているように動いている。約90年の年月は少女探偵にとって遥か太古のようにすら感じるというのに、目の前の自動人形は自我なきといえどその時を生きていたのだ。畏敬の念を覚え、少女探偵は慎ましやかに一礼を返す。
「感謝します、小百合様。道具と見るか人と見るか、当代においても議論は盛んですが、どちらにしろ同じことです。自らより長くあった幸運には敬意を示しておきたい」
背中をポンと叩いて、自動人形を送り出す手つきに少女探偵はこの館の在り方を、──奇妙なれど奇矯にあらず──改めて実感する。
「この館に電信の類がないのもそこに理由があるのかしら?」
「ええ、事実だけ言えば、館自体が文化遺産で迂闊に導線などを通せなかったり、近くに通信局がないという物理的な事情がほとんどですが」
「それ以外にも?」
「私が此処に来る前の話ですが、無線電波が古い人形の電波干渉で使えなくなる事例もあったようですね。いくつかの人形が誤作動を起こした事例もあるようです」
確かに古い人形であれば、現在使用されているものよりそういったこともあるだろうか、と少女探偵は一人頷く。
「しかし、それはそれとして人間の姿はやはり少ないですね」
「そうですね、普段であれば御者兼運転手として私の夫がいるのですが」
「アラ、本当にミセスでしたのね」
「よく言われますよ。それに加えてもう一人同僚がいるのですが、今は両名とも旦那様御夫妻に付き添って高雄の方まで、そのため現在、この館で人間の使用人は私とあと1人しかいません」
前原が出てくるまで自分を案内した庭男のことだろうか。
「あの庭師の方かしら?」
「ええ、アレは保井といいまして、場末の貧民窟から幼い時分に引き取られた男です。愛想はありませんが仕事はできますし真面目な男ですよ」
貧民窟の出ということは孤児だろうか。下谷、芝、四谷の貧民窟は既に歴史の話だが、未だ帝都の灯に照らされぬ貧民窟はそこかしこに顔を見せている。探偵少女として、いつかはあの暗黒の中に踏み込んでいく必要もあるのだろうが、幸いそういった機会は今のところない。無論、依頼があればどのような場所であろうと飛び込み、丁々発止に立ち回る覚悟など十分にできてはいるのだが。
「小百合様、小百合様?」
「──ハッ、し、失礼しましたわミセス」
前原の呼びかけにイトハは夢想から退き戻り、再度少女探偵の仮面を被る。【関係者以外立チ入リヲ禁ズ】と記された扉の前に立っていることに気付く。おそらくここまでが資料館であり、この先が別荘としての馬陸館なのだろう。少女探偵の気持ちが戻ったことに頷くと、前原が静かに、それでいてハッキリと扉を叩く。その音は高く反響し、どうやら一度外に出る扉ではないかしらんと想像を巡らせる。
「お嬢様、少女探偵様をお連れしました」
少女探偵は息を深く吸う。お嬢様、代々一族経営の東瀛において現会長らの一人娘、将来東瀛の名を背負うその淑女こそ、生き馬の目を抜く産業界、先ほど前原女史に対して語った通り未だ女性の地位が弱いだろうその場所で、丁々発止、八面六臂の活躍を見せる管理部長。すなわち、此度少女探偵へ依頼を送った張本人である。そして、読者諸君は覚えているだろうか。馬陸館の愛称はその形状に由来すると説明した際、もう一つの理由があると。その理由はこの別荘に住む東瀛の令嬢に由来する。
前原が扉を開くと、暖かな空気と陽光が溢れ出す。外に繋がると予想した少女探偵の想像はあながち間違いではない。そこに広がっていたのは陽光差し込む硝子の温室。温室の向こうには別の建物の扉が見える。つまり、これまでの資料館は一旦この温室で別れているということだろう。さて、温室に視点を戻せば、そこには様々な花が咲き、中心には真っ白な洋机と湯気の立つティーカップ。そこまで聞けば瀟洒な有閑の茶会ティーパーティーを想像するだろう。
「ヒュッ……」
しかし、少女探偵は一瞬あげそうになった悲鳴を飲み込んだ。無理もない。この場所で何よりも目を引くのは、扉を開けた気配に驚いたのだろう、足をうぞうぞと蠢かせ、ズルリズルリと物陰や、花の隙間へ逃げていく
────色とりどりのヤスデの群れだったのだから。
噂は聞いていたが、まさかこれほどのものだとは思わなかった! と少女探偵は独りごつる。それを知ってか知らずか、茶会の席に座っていた女が訪問者へと立ち上がり、笑みを浮かべ近づいてくる。
「ようこそ! 貴女が噂の少女探偵サンでいらして?」
声は僅かにハスキー。切れ長の目は山猫のよう、しかしながらそれが本来与える威圧感は、親愛と友愛を隠そうともしない太陽のような笑みによってむしろどこか洒脱な印象を与える。なだらかなボディラインを彩るのは淡く水色がかったブラウスにプリーツスカート、どこかの会議を抜け出したような服装だが、着こなしがいいのか、周囲から浮いた印象はない。そして、その指の間ではまるで恋人同士の手繋ぎのように、艶めかしく1匹の太いヤスデが手遊びハンドリングされている。
「いやね、私ったら挨拶もなしで。では改めて」
読者諸君は既に分かったであろう。馬陸館、その名の由来は。
「初めまして。私は東瀛歯車商会で管理部長を務めています」
この館を采配する女主人、東瀛歯車商会一族の才媛に付けられた"蟲愛ずる姫君"の異名からであった。
「西塔道香、と申します」
西塔道香。東瀛歯車商会の中枢にある西塔家の令嬢にして管理部長、その名が市井に知られるのは、時に強引、時に老獪なその手腕ももちろんだが、何より無類のヤスデ愛好家であるという流言ゴシップによるものが大きいだろう。もちろん、イトハとて少女探偵。事前に彼女の人となり、正確にはその趣味は把握しているはずだった。だが、やはり情報と事実は違う。例えヤスデが人に害をなさず、むしろ益虫だという事実を知ってなお、その無数に蠢く足が、ぬらぬらと油を差したような光沢が、電枢も脳髄も関係なく全身に掻痒を走らせる。
完全にイトハとして硬直してしまった少女探偵に疑問符を浮かべる道香。やれやれとため息を吐きながら前原が手を差す。「お嬢様、手」「手?」そこでようやく気付いたのか、西塔は穏やかに手を這うヤスデをそっと傍らの虫籠に差し入れる。西塔の手を伝って虫籠の中に入り込んだヤスデ、──三四郎はそのまま籠に敷かれた床材の中に潜り込むと姿を消した。
「ああ、ごめんなさい。三四郎、大人しくしていてね」
「お嬢様、手は洗ってくださいね。小百合様、少々驚かれたとは思いますがご安心を。ここの虫は慣れない相手には近づきませんから」
なおも放心するイトハをゆっくりと椅子に座らせ、虫籠を回収すると静かに紅茶の準備を始める前原。ふわりと漂う甘い匂いが、少女探偵の意識をゆっくりと引き戻す。
「ごめんなさい、探偵さん。驚かせる気はなかったのだけど」
「お嬢様、それよりもちゃんと手は洗われましたか?」
「洗いました。前原サンは細かいんだから」
「職業癖が抜けませんので。では他の皆さんもお呼びします」
「ええ、頼みました。その間に私は探偵さんとお話しておくわ」
一礼し、温室の先にある扉へ消えていく前原。その先が別荘部分、つまり馬陸館は長い展示室と先の居住空間がこの温室で繋がった形なのだろう、とようやく回り始めた思考で西塔の姿を捉える。
「も、申し訳ありませんわ、少女探偵ともあろうものが。事前にお話はしっかり伺っていたつもりなのに。ご挨拶がまだでしたわね、改めてワタクシ、少女探偵小百合、依頼にお答え参上しました」
「いえいえ、構いません。むしろ親近感が湧きました。私もよく"女だてらに"など枕詞を付けられるものですけど、好きなものと嫌いなもの、いいものと悪いもの、それとこれとは別だと。そう思いませんか?」
屈託のない西塔の言葉に好感を覚えつつも、少女探偵は慌てて仮面を被りなおす。今のアタシはあくまでイトハではなく少女探偵なのだ、と。
「いえ、ワタクシは少女探偵ですから。改めて醜態をお詫びします、そして確認を。今回は怪盗"黒天狗"からの予告状、でしたわね」
"少女探偵"に対し、西塔は一瞬寂し気に目を伏せるも、すぐに表情を和らげ頷いた。
「エエ、お話を始めてもいいのですけど、その前に他の皆さんを紹介しなくっちゃいけませんね」
「……そういえば先ほども"他の皆さん"と仰られてましたが。ワタクシ以外にも誰かを?」
「正式に依頼状を出したのは探偵さんだけですけどね。サテ、お茶を準備しないと。台湾からいい茶葉が来てるんです」
予め暖められていた6つのカップへ均等に紅茶が注がれる。イトハ自身はあまり造詣が深くないものの、ふっくらとした薫りは相応の値がするのだろう。西塔が全てのカップへ均等に注いでいく。最後に茶目っ気のある笑みを浮かべながらゴールデンドロップを一滴、薫りが温室中に広がったところで背後の扉が開く。前原に連れられ4つの影が姿を見せた。
まず最初に目に入ったのはサーベルを佩き、白手袋に制帽を被る警察官。制服は糊がきいており、露出は一切ない。長尺を通したように伸びたその背からは生真面目で清潔な印象を受けた。一方、その傍らに立つ作業服の女性は、少女探偵と近い背丈だが、その背丈と同じサイズの背嚢を担いでいる。2人は少女探偵の姿を認めると印象に違わぬ動きで一礼し、黒革の手帳を広げた。
「初めまして、本官は警視庁の海野一三と申します。よろしくお願いいたします」
「赤村香です。一応所属は警視庁ですが、見ての通り本職は技師メカニックでぇす。一応制服もあるんだけど、こっちの方が動きやすいんでご容赦を」
「少女探偵小百合です。よろしくお願いしますわね、海野刑事、赤村技師」
「ハ、お噂はかねがね。今回の事件、協力に感謝いたします」
海野は再度生真面目に礼を返す。真面目な人物のようだ、少なくとも少女探偵を遮二無二警戒したり、軽視する様子は見受けられない。現場の刑事の中には少女探偵の在り方に好感を持たないものも多く、顔を見せただけで迷い込んだ野良猫のように扱う人間もいることを考えれば、上々の部類だろう。一方の赤村は舌が短いのか、僅かに巻き舌のニュアンスで軽快な印象を受ける。しかし、ところで何故技師が、と問おうとしたところで、海野らの背後から現れた男たちに気を取られる。
海野らに続き現れたのは黒い和装の2人組。1人は顔中に皴と白斑の広がる老爺。猜疑と欺瞞を膠で塗固めたような容貌の上に、炯々と光る目と蝦蟇蛙のように耳まで裂けた笑みだけが貼り付いている。もう1人は肩にまでかかる髪を明るく染めた男。小さな黒眼鏡を鼻梁に乗せ、和装は表こそ黒であるものの、裏地には鮮烈な極彩色が透けて見える。よく見れば2人の胸元には特徴的な金徽章バッヂ。(……蒐集総院!)蒐集総院、帝都の安寧、天皇機関の保全を目的とし、それを揺らがす者に対峙する特務機関。鼻の利く女性や、鳩の面を被った男、忍者の末裔など、カノコから何人かの特徴は聞いていたが、目の前の2人はおそらく初めて知る相手だろう。
老爺が醜悪な顔をさらに歪め、粘つくような口調には似合わない高音ソプラノで笑いかける。
「初めましてやね、ボクは葦舟龍臣、いいます。蒐集総院関東府事案対処局の局長やっとるモンです。よろしく」
「どうもー、同じく蒐集総院関東府事案対処局職員、七篠陰照ななしの いんてりです」
続いて黒眼鏡の男も明らかに偽名と分かる名を平然と言ってのけた。葦舟に七篠(仮)、どちらも表情こそ柔らかく見せているものの、視線は値踏みをするようで油断はならない。いや、自分に分かる程度に"警戒をしている"ということを示威アピィルしていると考えるべきだろう。高音の京都弁が童歌のように温室へ流れていく。
「いやはや、お目にかかれて光栄ですわ、少女探偵小百合殿。衰えたボクの耳にも、その高名はよぉく聞こえてくるからね。昨年の冬起こった後醍醐教徒連続失踪事件、春の百道高速鉄道脱線事故、最近では宮澤邸殺人事件もそうでしたっけなぁ。まさかこんなところで会えるとは思ってへんかったもんで、分かっとったら何ぞ花の一輪でも持ってきましたんやけど」
「イエ、お気になさらず。お目にかかれて光栄ですわ、葦舟様、七篠様」
「すいませんね、探偵さん。うちの先生誰に対してもこんな調子で、馴れ馴れしくて申し訳ない」
握手をしようと伸ばされた手にも肝斑が広がっており、じっとりと湿った不快な印象を与える。七篠が引きはがしてくれたことに表情には出さないものの、イトハはほっと息を吐いた。それぞれの挨拶が終わった段階で西塔が手を叩き、注目を集める。
「皆さん、ご歓談もいいですが、お茶が冷めてしまいます。続きはゆっくり席に着いてからでもよろしいのではなくて?」
「それもそうやね、せっかくやからお相伴に預かるとしよか。ボク、砂糖多めでお願いできる?」
「いやー、こんなブルジョワの茶会なんて滅多に参加できませんからね」
総院の2人が一切の遠慮なしに席に着き、少女探偵も周囲にヤスデが残っていないか確認したうえで腰かける。ふと、海野が座っていないことに気付く。
「海野刑事?」
「本官はあくまで警備のためですので、こういった場への参加は」
「お気になさらず。この館は私の管轄、お客様をおもてなししなかったとなれば、東瀛の名に恥じることになりますわ。どうかお座りになってください」
「そうですよぉ、海野君、折角のお誘いなんだから」
先にちゃっかりと座っている赤村にも呼ばれ、そうであれば、とまだ気乗りしない様子でぎくしゃくと海野が椅子に腰かける。全員が円卓を囲み、溌剌と軽快な西塔が場を回していく。葦舟が茶葉への質問を行い、七篠は次から次へとお代わりを続ける。茶菓子を咥える赤村の一方で、海野はまだ立場を意識しているのか、唇を湿らす程度にしているようだった。口に含んだ紅茶は薫風が抜けるようで、これまでに飲んだどの紅茶よりも甘く、一切の渋みが舌に残らない。それぞれ一心地付き、前原が人形を引き連れ茶器を片付けたところで西塔が再度手を打った。
「では皆さん揃いましたところで改めて予告状をお見せいたしましょう。前原サン、お願いします」
前原によって恭しく差し出されたのは一通の封筒。どこにでも売っている白封筒だが、封印として"黒天狗"の印章が押されている。中からは筆跡の分からないよう定規を使って書かれたのであろう金釘文字の文章が並んでいた。
突然のお手紙をお許しください。小生はちかごろ巷を少々驚かせている黒天狗と申します。
用件を簡潔に申し上げます、小生は貴家の有する元型アーキタイプを頂戴するべく、ご連絡差し上げました。
来る新月の日、午後8時に必ず参りますので御周知いただくようお願いいたします。
なお、警察、探偵など、友人知人の方は自由にお呼びいただいて結構でございます。
では、必ず参上いたしますのでよろしくお願いいたします。
唵阿廬蘑耶天狗數萬奇娑婆訶
黒天狗
東瀛歯車商会管理部長 西塔 道香殿
あまりにも簡潔で平易なその文章に探偵少女を含め全員が下手な冗談でも見たように眉を寄せた。気になる部分はあるものの、まずは周囲の出方をうかがおうと少女探偵はぐるりと一瞥する。どうしたものかという空気が漂う中、海野が胸元から同様の封筒を取り出した。
「同様のものが警視庁にも届きました。内容はほとんど同じで東瀛歯車商会の西塔女史の有する逸品を頂戴する、とのこと。それを受け、今朝がた本官らが派遣されてきた次第です」
「海野刑事と赤村技師だけで来られたの?」
"黒天狗"はこれまでにも多くの事件を起こしている犯罪者だ。人命にかかわる危害を与えないとはいえ、たった2人で寄越すものか。その疑問に海野は静かに首を振り、前原の隣に立つ人形を手で指した。
「いえ、今回の事案に対し、警視庁は新設部隊である"自動人形保安隊"を試験的に動員したのです」
「"自動人形保安隊"?」
「何や聞いたことあるなあ、自動人形だけで組まれた捜査部隊を警視庁が計画しとるとか。ボクの知る限りまだ配備はされとらんハズやけど」
「ええ、あくまで試験運用なんですけどねぇ、こと"黒天狗"に関しては有効な対策になると判断されました」
赤村が頷き、背嚢から何らかの図面を取り出す。どうやら自動人形の設計図のようだが、イトハにはさっぱり分からない。興味があるのか、七篠が覗き込み、何やら唸っている。
「なるほど、"黒天狗"は変装ができるということやから、仮に人形に化けても分かるということやね。流石に義肢でごまかせる部分はあるといえ、人間が化けるのは至難やもの」
「はい、葦舟研儀官の言う通り、今回においては一般の人間よりも高い捜査性を有することが期待されてますね。今回は屋敷内の自動人形に紛れさせるということでも効果的と判断されました。事実、現在時点で相当数の自動人形が潜り込んでいます。もちろん、示威として制服の人形も準備しています。部屋や外部の警備はそれらに任せようかと」
なるほど、自動人形の警察とは思い切ったことをするものだ、これまでにすれ違った人形の一部は既に刑事ということか、と思いながら、少女探偵はふと葦舟の隣で図面を覗き込む七篠が、怪訝な表情を浮かべていることに気が付いた。だが、その視線に気づいたのか七篠は視線を逸らし、軽薄そうな表情に戻るとふいと手を挙げた。
「じゃあ次は俺たちの自己紹介の番ですね。警視庁の皆さんには総院なんて目の敵かもしれませんが」
「いえ、職務上どうしてもお互い秘匿は発生するものです。組織としてはともかく、個人としてそちらに悪印象は持っておりません。では総員のお二人も我々と同じでしょうか?」
海野の言葉に葦舟と七篠は首を振る。
「いや、ボクらは別件でね。こちらのお嬢さんが奇妙なモンを見つけたと研究機関通して回ってきたから、1週間前くらいから調査に来てたんよ。それで予告状騒ぎ、奇妙な賊やからね、こっちの知識、技術が何ぞ役に立つこともあるかと思うてお願いして残してもらっとるんやわ。もちろん、事前にボクらも調査を受けたうえでね」
「そう言いつつ、先生は術の類を全く使えないんで、ホント興味本位の野次馬ですけど」
「キミはちゃんと役に立つやろ。隠秘学においてはボクらの中でも抜けとんやから」
術、隠避学。総院はこの電氣と科学の世においてなお、不可思議な術を使うと聞く。正直なところ、イトハには今のところ縁遠く、迷信の類ではないかと疑いたいものであるが、カノコなら一概には否定せず、迷信であるとしても光明で照らし、実理であれば学問として体系的に修めようとするのではあるまいか。何にせよ、眼前に立つ男らはそれを修めていると自称しているのだ。全員の立場が分かったところで少女探偵も恭しく礼をする。
「改めまして、ワタクシ少女探偵小百合と申します。この度は西塔様に依頼され、怪盗"黒天狗"の正体を暴くべく参上いたしました。そこで西塔部長、早速お伺いしたいのだけれど、この予告状で"黒天狗"が指している"元型"というのは? 何かの暗喩、もしくは符牒ということかしら?」
「そんな他人行儀な。道香と呼んでいただいても結構ですのに」
「イエ、ある程度距離を取るも探偵の務め。……ですが、確かに礼を欠いていますね。間を取って西塔さん、とお呼びすることにしましょうか」
机に広げられた予告状、その中で異彩を放つ"元型"の文字。西塔は微笑みながら首を振る。
「いいえ、当館にはまさしく"元型"と銘打たれたものがあるんです、探偵さん。今から皆さんにもお見せします」
西塔がふわりと立ち上がり、前原に頷く。静かに礼を返し、「皆様、こちらへ。念のため通信機器の類は停止していただくようお願いいたします」前原が皆を先導していく。庭園を抜け、馬陸館の深奥へと向かう。これまでの資料館とは異なり、別荘としての馬陸館もまた、簡素ながら品が良く、住んでいる人間の素養センスを感じさせる。資料館と異なるのは客室や食堂など、生活の気配を感じさせる部分が多くあることだろうか。
つらつらと考えていると、突き当り、馬陸館の頭部分に到着していた。前原が鍵を取り出しガチャンという金属音を響かせ、扉を開ける。照明が落とされているのか、薄暗い部屋に全員が入ったことを確認し、前原が再度中から金属音と共に鍵をかけなおす。窓から窓帷カァテンを通し、わずかに入る陽光から、部屋の中央に誰かがいるのが分かる。「これはまぁ……」葦舟の高音が僅かに聞こえるとほとんど同時に照明が点けられた。
思わず探偵少女も、いや、そこにいる全員が息をのみ顫える。そこにいたのは1人の女であった。白磁のような滑らかな肌に女神アルテミスを思わせる首筋デコルテ。起伏のある胸元からのラインは夜明けの砂丘を思わせ、鹿のように健康的な脚は観るものの目を奪うだろう。──だが、それは人ではなかった。椅子に腰かけ、嫋やかに、あるいは艶めかしく座るその女には、人の持つ最も必要な部分がなかった。その女になかったものは。
「顔のない、自動人形ですか」
そう、そこにあったのは自動人形。まさに希臘ギリシアの人形技師ピュグマリオーンが造った彫刻ガラテーアーを思わせる完全性を醸しながら、そこにはヒトがヒトたるべき要素である"顔"が無かった。
全員が言葉を失う中、西塔一人が猫のように目を光らせ、自動人形の横に立つ。
「これこそが"元型"。東瀛において、いえ、本邦において初めて作成された"自動人形"と伝わる逸品です」
ほう、と誰かがため息を吐く。単純な工業品に過ぎず、むしろ時代遅れとすら呼べる自動人形に与えられるのは、一種の美術品を見るような感嘆。顔が無いことを除けば完全を象徴するようなその人形が、最初の自動人形と呼ばれるものであるとは正直なところ信じがたい。葦舟がゆっくりと口を開いた。
「噂には聞いたことあるけどなあ。全ての自動人形は一つの自動人形を基礎にして造られた、なんぞいう眉唾な話やけど」
「あ、いや、そこまで眉唾な話でもないんですよ、先生。自動人形の歴史を辿ると、大正12年、天皇機関が始動した直後にお抱え外国人が作成したものを御覧になったって記録が初出っぽいんですよね。つまり、最初は一点ものオーダーメイドの献上品だったわけです。で、外国人はその後"東瀛商店"、今の東瀛歯車商会の前身に身を寄せたところまでは記録がある。つまり、その献上品を基礎として現在の自動人形が造られた可能性はあります。特に東瀛は完全駆動の既製品レディメイドが起点ですしね。ただ、どうも件の外国人、意図的に名前や経歴を削除された節があって、デエタベエスにも残ってないんですが」
「おうおう、好きなもんに関しては早口やね。そういえばキミ、隠秘学だけやのうてソッチ方面にも詳しかったんやったか」
「真実かは分かりませんが、少なくとも当社においては、彼女が既存の自動人形の"元型"であると伝わっていますね」
親しみを滲ませるような声色で西塔は"元型"を評する。口を挟んだのは赤村だった。
「美術品としてはともかく、なんで頭部がないんですかぁ?」
「ハッキリとは分からないんです。私が生まれたときからこうだったようで、お父様とお母様も詳細は存知ないとか」
「ふーむ、稼働はしますか?」
「ええ、定期的に専門の技師にメンテナンスをお願いしています。といっても駆動部の整備と、全身の皮膜を貼り換える程度ですが」
「それはどうして?」
少女探偵の問いに西塔は眉根を寄せ、苦笑いを浮かべる。
「これまでの話からもお分かりになるかとは思いますが、私達でも"元型"については分からないことが多いのです。図面も残っていませんし、同じものはおそらくこの世に存在しない。その状態で下手な手を打って破壊してしまう、というのは避けたいということです」
「X線などで内部構造の調査は行わなかったのかしら?」
「もちろん、非破壊でできる限りのことは行いました。ですが、内部に遮蔽材が使用されているようで、構造は一切確認ができませんでした。故に我々にとっても内部は不明ブラックボックスであるというわけです」
経緯、構造、その全てが不明な"元型"。謎多く、好奇心がくすぐられる逸品はまさに怪盗たる"黒天狗"にとって垂涎の獲物だろうことは想像に難くない。であれば、と少女探偵は一旦"元型"から意識を切り替える。自分に求められているのは"黒天狗"の正体を暴くこと。そのためにはまずこの"元型"を守る必要があるのだから。
「では、話を切り替えるといたしましょう。この部屋の警備状況はどうなっているのかしら?」
「そうですね、本官としても確認しておきたい。そのうえで配備を決める必要がありますので」
「分かりました。まず、出入口はそこの扉1つです。背後の窓もありますが、この先は断崖で適切な準備なく降りられるものではありません」
少女探偵が窓に近づき、覗き込むと確かにその先には崖が広がっていた。下から吹き上げてくる風は、少々の装備では飛び降りることが困難であろうと実感させる。その先に広がるのも森林である。最も近い集落までは車で30分かかると聞くし、パラグライダーなどの装備がなければ確かに脱出は困難だろう。
「皆様の手荷物は確認させていただきましたが、それが可能な装備を有している方はおられませんでした」
「マア、隠そう思えば隠せるやろけど、わざわざ危険犯すことはないやろなあ」
「となると、気を付けるべきは扉の施錠、かしら」
「はい。鍵は1つ、私が有しているものだけで、複製が困難な形状をしています。外と中、どちらからでもかけることが可能です。開け閉めに特別な動作は必要ありませんが、先ほどの通りかなり大きな音がします。そのため、同じ部屋にいる状態でこっそりと開け閉めすることは困難だと考えていただいてよろしいかと」
前原が手元の鍵を見せる。つまり、中に誰かいる状況でこの部屋から密かに脱出することは困難だということになる。
「なるほど。では、やはりその時刻には全員この部屋にいた方がいい、ということになりますか」
七篠の言葉に海野が頷く。
「そうですね。周辺は自動人形に警備をお願いし、不審な人物の侵入を防ぐとしましょう。そのうえで我々の中に"黒天狗"がいた場合、人数比を考慮すれば鎮静は可能と考えます」
「何も起こらないのが一番だけどね」
「無論、それが一番ではありましょう。ですが警戒は怠らないようにしなくては。再度配備を確認したいので図面を見せていただけますか?」
西塔が広げた図面を見ながら海野と赤村は自動人形の配備を続けていく。少女探偵は念のため周囲に隠し部屋や通路がないかを確認するも、そういった秘密の出口はありそうにもない。何度も秘密の部屋が続くはずもないか、と嘆息すると、次は、と狙いを定め総院の2人へ近づいた。
「おや、どうしました、少女探偵殿」
「イエ、大したことではないのだけれども、お2人がこの館へ呼ばれた理由、奇妙なモノが気になったので」
「そういえば話してへんかったね。そろそろ向こうサンの話も終わりそうやし、西塔のお嬢さん呼んでこよか」
海野から今夜8時、改めて"元型"の部屋に全員集合することを知らされ、一旦解散となったところで、葦舟が西塔をつかまえ、4人は温室へ移動する。西塔が温室の扉を開くとまたぞろ蟲が騒めく気配があり、それが落ち着いたことを確認してから少女探偵は歩を進める。
「探偵さん、もう大丈夫ですよ。先ほども言いましたが、ここの蟲は慣れないものには近寄りませんから」
「本当に申し訳ありません……、ワタクシともあろうものが……」
「いやまあ、正直なこと言うと部屋の中に虫を放し飼いしてる時点で偏屈瘋癲の類やと思うんやけど、どないやろか」
「返す言葉もありません」
そう言いながらどこ吹く風という様子の西塔に、葦舟はやれやれと肩を竦めた。そこへ手に虫籠を下げた保井が現れる。
「お嬢様、葦舟先生、お持ちしました」
すわまたヤスデかしらん、と背中に鳥肌を立てる少女探偵の意と異なり、中には柑橘のものらしい一本の枝と、そこに付く丸々とした蛹があった。蛹の大きさを見るにおそらくは揚羽や大紫などの大型な蝶や蛾のものだろうか。しかし、この蛹の一体どこが天下の蒐集総院を呼び寄せる仕儀と相成ったのか。
「これが?」
「ええ、一般的な揚羽蝶の蛹かと思ったのですが、不思議な色をしているでしょう?」
西塔の答えに少女探偵は再度まじまじと蛹を見つめる。すると、確かに西塔の言う通り、黄緑の薄皮1枚隔て、極彩色の渦が回っていることに気が付いた。その渦はときおり月光のようにうすぼんやりと光ったかと思うと、砂子のようにパッと飛び散る。あるいは鏡面のように周囲を映し出すと夜光虫のように明滅を繰り返す。その光景の中、少女探偵は一瞬夢を見た気がした。自分とカノコそっくりの女性が仲良く手を取り、ここではないどこかで、全く違う場所で何かに立ち向かう。周囲は天を衝く摩天楼が建ち並び、その一つが崩壊している。その中で、イトハとカノコは──。
「それに、これを富士で初めて採取してから約1年間羽化をしていないんです」
ふ、と西塔の声で呼び戻される。目をしばたたかせ、周りを見回す。馬陸館の温室に差し込む陽は既に傾きかけていた。
「そういうわけで元々懇意にしていた昆虫学者さんに相談したんですが」
「学者さんが総院の御用学者で、こっちにお鉢が回ってきたというわけです。本当なら結城先生の当番だったハズですけど」
「仕方あらへんよ、彼女虫嫌いやし、専門もちゃうしな」
「俺も昆虫は専門外なんですけどね」
白昼夢から醒めたような奇妙な感覚、いや、むしろ明晰夢に気づいてしまったような感覚。まだ足元が僅かにおぼつかず、大きく息を吸い込んだ。
「とりあえず異常は異常なので一週間色々調査しました。機密があるので全てを話すことはできませんが、現状危険性は弱いという結論ですね」
「緊急性も低いことやし、このまま回収させてもらおかと。そのあとは総院で精密調査、分類を行い保管することになるかなあ、といったところなんよ」
葦舟と七篠が歯切れ悪く何かを隠しているという様子で話し続ける。
「ただ、扱いを誤ると相当マズい代物かもしれん。少なくとも羽化はさせん方がええやろ、というのがこっちの見解やね」
「今の条件ならおそらくは大丈夫なんで、なるべく同じ条件、室内で直接日光を当てず置いてもらってます」
「と、いった仕儀なんです。……あら、探偵さん。どうしたの?」
おぼつかない様子に気付いたのか、西塔がそっと少女探偵の身体を支える。人肌の体温がようやく意識を呼び戻した。
「いえ、少し眩暈がしてしまって。お気遣いなく」
「……もしかして、何か見えたのかしら、探偵さん」
何か、そう、何かが見えたのに頭の中はうすぼんやりとしている。少女探偵はやにわに虫籠の中の蛹が周囲に隠れたヤスデよりも、薄ら気味悪く感じてしまう。早くこの場を離れた方がいいのではないか、漠然とした不安が傾き始めた陽光の中で広がっていく。それを察したのか西塔は静かに一度目を伏せ、きわめて明るい表情で取り繕うかのように話を切り替えた。
「ええ、そろそろ夕食の時間ね、お口に合うといいのだけれども。保井、戻しておいてもらえるかしら」
「承知しました、お嬢様」
一礼し、虫籠を下げて戻る保井の背中は近づいてくる夜闇に溶けるように消えていった。
結論から言えば、馬陸館の料理はイトハの舌では表現しかねるほどの美味だった。色とりどりの前菜オードブルから始まり、濃厚な海老の羹ビスク、山女魚の焼物ソテーは川魚とは思えない臭みのなさ、最後に提供された氷菓アイスクリームは溶けさえしなければ是非カノコへ持って帰りたいと思ったものだ。他の客はといえば相変わらず総員の2人が丁寧なれど無遠慮に葡萄酒をお代わりし、遠慮がちな海野はこっそりと赤村に渡している様子。半ば無礼講の状況に西塔は微笑みを絶やさず、ゆっくりとティーカップを傾けていた。全員の皿が空き、電氣燈の灯の外に闇が広がり始める。そろそろ時間か、と少女探偵は柱時計へ目をやった。針はまもなく8時に近づいている。
「さあ、そろそろ時間ですね」
西塔の言葉に海野が立ち上がり手を打つ。傍らでは赤村が呼び止めた警備の自動人形へ指示を出していた。
「では皆さん、"元型"の広間に集合しましょう。前原氏、庭師の保井氏も連れてきていただけますか?」
「承知しました」
前原は一礼し、食堂の外へ。そして西塔を先頭に少女探偵小百合、海野、葦舟、七篠、赤村は並んで"元型"の広間の扉を開く。中央には昼間見たときと寸分違わず座り込む"元型"の姿。西塔がその表面をしっかりと調べ、本物であると頷いた。直後に扉から保井と前原が現れ、この館にいる人間全員が揃い、前原が扉に鍵をかけた。
「では、この鍵はお嬢様にお渡ししておきます」
「愛サンが持ってる方が安全だと思うのだけど」
「これは信頼の問題ですからね、この場で一番"元型"を盗む動機がないのはお嬢様ですから」
それもそうね、と西塔が鍵を受け取りしっかりと握りしめた。予告の時間まであと数分。少女探偵は再度広間に集まった全員へ、その一挙一動を見逃さないよう視線を飛ばす。西塔と前原は落ち着き払ったもので堂々と扉の側で時間を待っている。同様に保井は入口近くにもたれ掛かり、僅かに目を閉じている。海野と赤村は窓帷カァテンの閉められた窓の近くに立ち、こまめに時計と"元型"に視線をやっている。
総員の二人は対照的に落ち着きがない。七篠はパタパタと意味なく歩き回り、葦舟は身体こそ動いていないものの、少女探偵と同様に周囲へギョロギョロと避役カメレオンの如く視線を飛ばしている。ふ、と視線が合うとこちらの動きを見透かしたかのように避けた口元から赤い舌がちらりと覗いた。
全員が全員、張り詰めた空気の中で一言も発さない。そしてついに、秒針が12へ到達する。
『唵阿廬蘑耶天狗數萬奇娑婆訶おんあろまやてんぐずまんぎそわか』
どこからか響いた呪文のような詞、ほとんど同時に広間の電気が落ちる。「停電!?」直後、部屋の中心部にほど近いところから目を焼くような閃光。「閃光手榴弾か!?」同時に誰かが床を蹴る音、そして誰かが転ぶような音が響く。完全に視界が潰され、周囲の気配を辿るよりほかにはない。慌てて少女探偵は"元型"の方向へと駆けよる。自分と同じように動いている気配がいくつかある。新月の暗闇の中、未だ視界は弾けたまま、闇雲に動き回る人の気配。そのうちの一つが広間に声を響かせた。
「皆様、落ち着いてください。非常用電源が数分で作動します。────保井!」
「申し訳ありません、お嬢様、防がれました」
西塔の声に暗闇の中から保井が答える。成程、先ほどの床を蹴る音は庭師の保井、彼はこれを見越して暗闇に慣らすよう、あるいは閃光に対応できるよう目を閉じていたのか。停電と閃光なんて古典的な方法を使うなら自分も同様に備えておくべきだったと少女探偵は心の片隅で反省しつつ、周囲の気配に思考を飛ばす。
「がっ!?」
「海野君!?」
低い唸り声と赤村の叫び。2人に何が起こったのかと声の方向を向くと、頬を、僅かに冷たい空気が掠めている。
────冷たい空気?
「窓が開いてないかしら?」
「え、嘘?」
答えた声は赤村か。徐々に慣れた目が窓の方向を向くと、窓帷カァテンが翻り、星明かりが見え、同時に何か、────人形のようなものが踊るように外へ飛び出すのが見えた。
「何か落ちたね」
葦舟の声に応えるように、ドスンと重たいものが落下した音が僅かに聞こえる。窓へ駆け寄り、眼下を覗くと遥か崖下で僅かに人の形をしたものが見える。まさか、誰かが飛び降りた、もしくは落とされたのか。恐ろしい想像が少女探偵の脳裏をかすめ、同じ想像に達したのであろう誰かが深く息を吐く。
「これでは見えませんね」
「ライトはないの!?」
大きな怪我ではなかったのだろう、海野が叫ぶ。と、同時に非常用電源が復旧したのか、電氣灯が混乱の室内を明るく照らし出した。暗闇から突然放り出された眩しさの中で、少女探偵は室内の全員を確認する。────人数は全く変わらない。ほっと息を吐くがそれでは疑問が残ることに気が付いた。「では、誰が落ちたのか?」そしてその疑問はすぐに氷解する。
「"元型"が消えている……」
読者諸君、驚くなかれ。部屋の中央、そこに粛然と飾られていた"元型"が、忽然と姿を消していた。
……否、違う、そうではあるまい。全員が無事で"元型"がなくなっている。そして窓の下には何があった?
「いえ、違う」
少女探偵は結論を突きつける。
「"元型"が、殺されたのよ」
電氣が復旧した中で、海野が窓の外に堕ちた"元型"らしきものへ手灯を向ける。しかし、その光は到底届かず、星明かりの元で僅かに白い肌が見えるのみ。しばらく手を動かしていたが諦めたように光を落とし、ため息を吐いた。何らかの攻撃を受けたのだろう乱れた胸元や顔つきからは目的を達成されたことによる焦燥か、僅かに険のようなものが感じられる。
「駄目ですね。ここからではどうにも届きません。探照灯サアチライトでもあれば話は変わるでしょうが」
「流石にその規模は持ってきてないねぇ」
「ふーん、なら、誰かが下へ行って取ってくるってのは?」
海野と同様に先ほどの騒動で乱れたのか、和装の襟を合わせる七篠の言葉に海野は頭を振る。
「この暗さでの回収は危険です。悔しいですが、明日の夜明けを待って」
「それは問題ありませんわ。保井」
だが、西塔がそれを制し、保井へ視線を向けた。
「承知しました、お嬢様」
そう言われることを察していたように保井は頷き、作務衣の裾を襷でたくし上げ、空の雑嚢を担ぐ。何をするのかと問う前に前原が持ち出した荒縄を堅く柱へ縛ると、自らにも巻き付け、窓の外へと身を躍らせた。「あっ」なんということかと短く叫ぶ少女探偵をよそに、保井は縄をギシギシと鳴らしながら崖の側面を跳ねるように懸垂下降していった。先ほどの暗闇への対応といい、どうにも人間離れしているといわざるを得ない。
「この方法があるなら早めに言っていただけると助かったのですが」
「最初に申し上げましたよ、"適切な準備なく降りられるものではありません"と。つまり、適切な準備さえあれば降りることは可能なのです」
「いや、それにしてもこの暗闇の中よくもまあ降りられますねぇ、擬駆とかじゃなさそうだし……」
「保井と私はこの館で育ったんですから。この程度庭で遊ぶようなものです」
しれっと言ってのける西塔に警視庁の両名は呆れたように眉を寄せた。確かに最初から言っていたが、と少女探偵も半ば騙されたような思いに駆られつつ、これが"元型"を盗む要因になるかと考え却下した。見ての通り、生身で飛び降りられるものではないし、縄など懸垂下降に必要なものの痕跡はなかった。それに保井は窓から一番遠い扉に陣取っていたわけで、距離的に困難だ。それを言えばそもそも"黒天狗"は何故"元型"を窓の外へと投げたのか。
(考えられるのは、あの短時間で盗むことは困難と判断して、正体のばれないよう放り捨てたってところかしら)
元々"黒天狗"はあの停電に乗じ、何らかの方法で"元型"を盗もうとした。だが、保井の妨害や電力の復旧が思ったより早そうなことを踏まえ、正体がばれないことを優先した、という仮説。現状ではそれが一番もっともらしいように思える。(だけど……)違和感がある。"黒天狗"についてイトハの知る情報とは相違がある。"黒天狗"は人を傷つけず、狙いの品だけを盗む怪盗である。それが、狙いの品を自分の正体が暴かれぬためだけに破壊することがあるだろうか? 思索にふける少女探偵の横で、再度ギシギシと縄が鳴る。
「保井が回収を終えたようですわね。海野刑事、七篠様、縄を引いて手伝っていただけますか?」
二人と前原で縄を引き、しばらくすると窓の外から顔色一つ変えず保井が姿を見せた。西塔も何ら驚く様子を見せず、静かに頷きをのみ返した。
「よく帰りました、保井」
「はい、お嬢様」
「首尾のほどは?」
「細かな部品は回収できませんでしたが、必要な部分は揃っているかと」
雑嚢が開かれ、バラバラに詰め込まれた残骸が姿を見せる。手や足、胸に腰、様々な配線に基盤。多くの部品は砕け、無事に見えるものにもひびが入っている。これがあの"元型"のなれの果てか、と見守るイトハはふと違和感を覚える。何かが違う、肌の色、手や足の部品、壊れてこそいるが、"元型"のそれとは明らかに異なっている。困惑する少女探偵の横で同様に調べていた西塔と赤村が視線をかわし頷いた。
「……これは、"元型"ではありません」
「だね」
「……今、何とおっしゃいました?」
論理的に考えれば、消えた自動人形と壊れた自動人形は同じものだと考えるだろう。だが、その2つが違っていたとしたら前提は大きく異なる。
「これ、内部の電枢も残ってるんですけど、間違いなく近年製造されたものですよぉ。それと、保井さん、これが一緒に落ちてたんですよね?」
「ええ、それを着た状態でこの人形は落下していました」
赤村が示すのは雑嚢に詰め込まれた"警察の制服"。隣に立つ海野が身に付けているものと寸分たがわぬそれを、壊れた自動人形が着ていたということは。
「結論として、この自動人形は本官らが連れてきたものである、ということですね」
海野がまだ険の取れない視線をぐるりと全員に向ける。言いたいことは分かる、つまり。
「なるほど、では、"元型"はどこにあるのか、ですね。海野刑事」
そう、犯人たる"黒天狗"は"元型"の身代わりを放り捨てることで本物の"元型"を盗む魂胆だった、ということだ。当初の予定であれば崖下の人形が"元型"であるという前提のまま、隙を見て隠した"元型"と共に逃げ出すつもりだったのだろうが、保井の活躍によりその計画は崩れてしまった。……そしてその計画であれば、1つ確実なことは。
「そして、やはりこの中に"黒天狗"がいる、というわけかしら」
部屋に残る中に稀代の怪盗が潜んでいる。その事実は否応なしに少女探偵の脳を動かしていく。まずやるべきことは何であろうか? この場でカノコならどう動くであろうか?
「……まず、状況を確認しませんか? 停電から今まで、それぞれはどう動いていたかを。よろしい? 海野刑事」
「そうですね、確認をしておきましょう。まず、この部屋から出たものはいない、それは事実としてよろしいか?」
海野の問いに七篠が手を挙げる。
「事実確認です。鍵を持っていたのは西塔サンですが、出ることは困難ですか?」
「ええ、先ほど確認した通り、施錠、解錠の際には音が出ます。もし気になるのであれば試していただいても結構ですわ」
確かにあの騒動だったが、扉の音は全く聞こえていなかった。
「いえ、事実確認ですから全員がその認識であることが確認できれば十分です」
「では次に時系列の整理ですね。まず、奇妙な……、真言のように聞こえましたが」
海野が言うのは停電の直前に聞こえた呪文だろう。確か、おんあらまやだとか何とか聞こえたように思えるが……。その疑問に答えたのは葦舟だった。
「アレ、天狗経やったよな」
「ですね」
「天狗経?」
「予告状に書いてあったもんと同じやね、密教系の祈禱秘教でな、修験の連中が使うようなもんやねんけど、どう考える? 七篠」
話を振られた七篠が僅かに眉根を寄せ、「自分で話せばいいのに」とぼやきつつも引き取った。
「おそらく術の類ではないと思いますね。術だとして天狗経なんか使ってもここまで上手くいかないだろうし。多分何らかの符牒と考えるのが無難だと思います。ただ、停電を引き起こす符牒とは思えないし、何の意図があったかまでは、仕掛けた本人に聞くか、相手の手法を知らなければ分からないかな。怪盗って印象の箔付けって可能性も大いにあると思います」
「……つまり、今考えてもあまり意味はない、ということでいいのかしら」
「そやね、直接的には影響ないと考えてええと思うよ」
「ありがとうございます。では、一旦置いておいて停電は何分程度だったのでしょうか?」
海野の問いに前原が答える。
「非常電源の復旧までは凡そ5分程度かかるはずです。時計は確認していませんでしたが、私の心拍数から計算するにおそらくは近似するものかと」
たったの5分しかなかったのか、と少女探偵は舌を巻く。
「一応確認しておきますが、この中で閃光を防ぐことができる装備などをされている方は?」
海野の問いに視線が向けられたのは七篠と少女探偵。
「……この程度の黒眼鏡でカバーはできないと思いますがね」
「同じく、この程度のマスクで抑えられる光では無かったと思いますが?」
「補足として、お2人の装備は装飾以上の有用性は持っておりませんでした」
身体検査を担当した前原の助けにより、どうやら疑いは晴れたようだ。
「分かりました。では、停電が起こった直後に動かれたのは……」
全員の目が保井へ向けられる。ふっと息を吐いて見返すその右目に一切の動揺はなく、むしろこちらの身構えを観察しているようにすら思えた。
「俺ですね。現場を攪乱するならばまず明かりを潰される可能性を考慮して準備していました。時間と同時にまず"元型"を守ろうと動いたのですが、閃光弾とは予想していなかった」
「それは西塔氏の指示ですか?」
「いえ、俺個人の判断です。もっとも、俺が言わなくともお嬢様は分かっておられたかもしれませんが」
僅かに向けられる視線に西塔が舌を出している。
「成程、しかし、それは失敗したと」
「ええ、向かったはいいのですが、閃光にやられたタイミングで死角から足を払われました。その隙に他の皆さんが動いたため見失い、あとは知っての通りです」
「ふむ、承知しました」
言葉少なに説明を終え、保井は一歩下がる。海野は次に西塔と前原へ視線を向けた。
「西塔氏、前原氏、お2人はどのように?」
「そうですね、私はあの状況で動くのは危険かと思い、この場で動かず電氣の復旧を待っていました。保井が動くことも予想できましたしね」
「私はお嬢様の安全を優先していましたので、お嬢様が動く気はない様子と見て取った段階で周囲を守っておりました。誰も近づかなかった、私の鍵に触れなかったことは保証しましょう」
前原の言葉はおそらく海野が鍵の存在について問うだろう、と機先を制した形になる。事実、続けようとしていた海野は引き下がった。次に自分へ視線が向くことに気付き、探偵少女は嘘偽りなく自分の行動について説明する。"元型"の方向へ向かおうとしたこと、しかし暗闇で分からず、気づいたときには窓が開き、飛び出す影を見たこと。総員の2人も似たようなものだった。頭を掻く海野に少女探偵は水を向ける。
「申し訳ありません、海野刑事、ワタクシからすればこの場の皆さんは同様に犯人である可能性を秘めている。ですので、お二人の動きについて伺ってもいいかしら? 確か悲鳴、というよりも倒れたような音が聞こえたと思うのだけれど、何があったのかしら?」
「了解しました。停電を受け、我々は窓からの逃走を阻止しようと思っていたのですが、お恥ずかしいことに一瞬の隙を突かれ、押し飛ばされてしまったのです」
なるほど、それがあの時の呻き声と赤村の悲鳴か。海野は西塔に向きなおると膝を折る。
「西塔氏につきましては、本官の能力不足により真に申し訳なく」
「仕方がありません、あの暗闇で対応できる人間は少ないでしょう。気に病まないでくださいな、それよりも身体はご無事? どこか痛むところなどあれば簡易な治療くらいは可能ですが……」
「寛大な恩情痛み入ります。幸い、大きな怪我はありません。……話を戻しますが、その後赤村技師に助け起こされ窓に向かったあとは皆様ご存知の通りですね」
「分かりました」
時系列で整理すると8時と同時に停電が発生し、閃光で全員が目をやられる中、行動に出た保井が"元型"を盗もうとした"黒天狗"により倒される。その後、少女探偵を含めた数名が向かう隙に"元型"と隠していた自動人形を入れ替え、窓際の海野刑事らを排除したうえで窓を開け、入れ替えた人形を突き落とした。流れが整理できたことで次に確認するべきことが分かる。
「では確認するべきは、"元型"はどこへ隠されたか、ということ」
「その通りです。人形の入れ替わりが起こったということは、"元型"自体はこの部屋にあるはずですから」
「一応確認しますね、西塔サン。"元型"は分解できたり、圧縮できたりする代物ですか?」
七篠の言葉に西塔が首を振る。
「いいえ、勿論人形ですから無理に曲げれば破壊することはできるでしょうが、そうだとしても人間一人とほぼ同じ容積、隠せる場所は限られます」
それはそうだろう。なおかつ5分ほどで破壊と隠蔽を同時に行うのは危険だ。そして、誰も部屋を出ていないことが分かっている。……となればこの部屋に隠していることは確実である、と少女探偵に加え海野と前原が可能な限りの隠れ場所を探したのだが。
「どういうことかしらね……」
部屋中を探し、屋根裏や床下を覗くもどこにも"元型"、あるいはそれを分解した部品の痕跡が見つからない。まるで煙のようにこの部屋から消え去ってしまったとでもいわんばかり! 探す全員の間に疲労と困惑が広がる。一応それぞれが手荷物を公開するが、そもそも持ち込んでいるものが少なく、隠す場所はない。
「一応ひっくり返しとくねぇ、ここにあのサイズは入らないと分かってるだろうけど」
一番大きな背嚢を背負う赤村が、がしゃんとひっくり返した背嚢からは工具類や着替えといったありきたりのものばかりであり、内部にも隠せる余地はない。
「もう少し整理できひんかったん? ほら、下着とかあるとボクらとしても目の置き所がね」
「先生、一応部屋の方も見せておきます?」
「せんでええと思うけどなあ……、まあ、刑事さんに従おか」
葦舟の言葉に海野も眉を困らせ、一応というように頷いた。
「この部屋から出ていないことは確実だとは思われますが……、念のために調べさせていただきましょう。本官のみでは疑念を抱かれるでしょうし、前原氏、小百合氏、七篠氏、協力していただけますか?」
「承知しました」
「構いません」
「俺ですか? ……まあ、女性陣が異論なければ」
軟派な風貌には似合わず紳士的な部分もあるらしい、と七篠への評価をあげたところで赤村から待ったがかかる。
「いや、七篠サンはこっちに来てほしいかな」
「何でですか?」
「西塔サンと保井サンと一緒に屋敷内の自動人形再確認しようかと思ったんですよ、木を隠すなら森の中ともいうでしょう。そっち方面に強そうなのは七篠サンだけですし」
「ははあ、なるほど。屋敷の自動人形を全て精査すれば、すり替えられた自動人形が分かるということになりますか」
「なら七篠クンの代わりはボクが行こか、どのみちこのままやと一人ぼっちやしね」
話は決まり、海野、前原、葦舟と共に少女探偵はそれぞれの部屋の捜索に移る。
「といっても、馬陸館の居住区において部屋数はそこまで多くありません、それぞれの客室、主人であるお嬢様の部屋に我々の使用人室、厨房、食堂、倉庫くらいです。資料館の側はお嬢様が向かわれたようですし、比較的短時間で済むかと思われます」
「分かりました。それと前原氏、この間で電信が使えないのは承知していますが、有線の電話等はありますか?」
「ええ、お嬢様の部屋と保井の守衛室に1つずつ。この先寄りますし、ご案内しましょう」
「感謝します」
前原の言う通り、客室は客人として招かれた5人の部屋のみ。加えて海野と赤村、葦舟と七篠は同じ部屋を使っているようで、探索に時間はかからなかった。
「成果、無しやな」
「そうですね……」
総院2人の客室は手荷物しかなく、風呂場や備え付けられた棚などに隠している様子はない。警察2人の部屋も同様だが、私物を持ち込んでいないのか総院の部屋よりもがらんとしている。西塔の部屋は中央に高性能の電枢が1つあるだけで、あとは几帳面に整頓された茶器と紅茶の缶、そして虫籠に溢れている。虫籠は外から見えないものの、何やら蠢く気配があり、少女探偵はおっかなびっくり探すが隠せるような場所はない。一方で海野は前原に断り電話をかけるものの、眉根を潜め、何度も受話器を取ったのちため息交じりに受話器を置いた。
「繋がりません。おそらく電話線が切られているかと」
「それはおかしいですね、この館の電話線に異常はないはずですが」
前原も試すが、同様に繋がらないようで眉を寄せる。
「どうやらそのようですね。あとで保井に確認してもらいましょう」
「それも"黒天狗"が?」
「確証はありませんがこの状況ですので可能性は高いでしょう。そうなると麓まで応援を呼びたいところですが」
「あの山道をこの暗さで向かうのはお勧めしませんね。自動人形の操縦であればあるいは、ですが」
「屋敷の外に関係者出すのも危険な気はするな。誰が天狗か分からんわけやし」
つまり自分を含め、館の人間は閉じ込められた形になる。しばらく前原と海野が話し合っていたが、何も連絡がなかった場合でも翌日には応援が来るとのこともあり、夜明けを待つことに決定した。ならばと気持ちを切り替え再度調査に戻る。前原らの使用人室にも複数の酒瓶が置かれているだけで到底"元型"が隠れられるような場所は見つからなかった。厨房、食堂、倉庫も同様で人一人が隠れられる場所はありそうにもない。部屋から出たものが壊された人形以外なく、当然といえば当然ではあるが、と肩を落とす少女探偵らに西塔らが合流する。その顔にもまた疲労が伺えた。
「屋敷内部の自動人形に"元型"はありませんでした。加えて、本来配置されていた人形の数が1体減っています」
「……やはりそうか」
「これに関しては私だけじゃなくて総員の七篠、西塔サンにも見てもらったから間違いはないよぉ」
「しかし、そうなると一体全体どこからその人形は連れてこられたの?」
そう、1つ解決すれば1つ新しい謎が浮かんでくる。人形が警官の保安隊の1人といえど、"元型"が消えたのと同様にどこからともなく現れておかなければならない。もちろん、部屋の中にそれを持ちこんだ様子はないし、隠せる場所はなかったはずだ。
「保井、電話が繋がらないのですが、線に異常はありませんか?」
「少なくとも屋敷内で切断された様子はありません。おそらくは屋外で切られているのではないかと。実際に以前台風の際、倒木で切断されたことがありました。整備は行ったはずですが、人為的なものであれば可能性はあるでしょう」
「倒木とは天狗倒しやなあ。マ、あれは音だけやねんけど」
「ついでに隠れられそうな場所も粗方探したが、見つかりませんでした。あと、停電に関しては主電源ブレーカーが落ちるよう仕掛けがされてたようですね。人がいなくても時限的にできるヤツ。復旧はしておいたけど、簡単な仕掛けだからこれで絞ることは難しいと思いますよ」
全員が首を捻る。いったい"元型"はどこへ消えたのか? いったい人形は何処から連れてこられたのか? いったい"黒天狗"は誰なのか? それぞれがそれぞれに目をやる中、疑惑を切り開くように、ボーンと時計の鐘の音が響く。見ると2つの針はともに頂点を指していた。日付が変わったのである。ふわぁ、と葦舟が大きく欠伸をする。
「……とりあえずいったん休憩にせえへん? ちゃんと寝とかんと頭回るもんも回らんで? どうせ明日の朝警察が来るまでは閉じ込められとんやろ?」
「確かにそうですね。では一旦休憩としましょう。ただし、この中に"黒天狗"が混ざっている可能性を考え、自動人形に見張ってもらいます。無論、そのプログラミングには西塔氏と七篠氏にも協力をしてもらいます」
「すっかり便利屋扱いですね。まあ、そんな時間かからないでしょうし、いいですよ。簡単に館から出る人を追跡する形でいいですね?」
「承知しましたわ」
そうしてそれぞれ役割を決め、海野、赤村、西塔、七篠を残しそれぞれが部屋に戻る。保井も守衛室ではなく使用人室に戻るようだった。
部屋に戻り、少女探偵はぼふりと寝台ベッドへ倒れ込んだ。何とも色んなことがあった一日だった。噂の蟲愛ずる姫君との邂逅から始まり、警視庁に総院との遭遇、本邦において初めて作られた"元型"の登場に、その盗難、自動人形の破壊。すっかりくたくたになっているというのに、頭だけは妙に冴えている。
「……一体誰が"黒天狗"なのかしら?」
怪しさでいえば全員が怪しい。もちろん自分自身は違うとして、西塔、前原、保井はこの館の住人であるし、ある程度不審な動きを見せても咎められることはないだろう。だがその一方で、長く関係のある人間に変装して気づかれないものだろうか? 海野と赤村は警察だが、その立場でできることは多いはずだ。例えば自動人形に細工を仕掛けるといったことも……。といって西塔や七篠が確認したということは細工はなかっただろう。では葦舟と七篠か? 確かにこのメンバーの中では一番素性が知れない相手ではあるが、ここに来る経緯があまりにも偶発的すぎる。西塔に呼ばれるところから仕掛けだとでもいうのかしらん? そこまで考えて少女探偵はハタと思い至る。
「……"黒天狗"は何故逃げていないのかしら?」
そう、"黒天狗"はこれまでどの場合においてもその場から逃走していたはずだ。少女探偵はこれまで"黒天狗"が関与した事件を全て確認する。そのどれにおいても"黒天狗"はその場に留まることなく、他の人間に化けたり予想もしない脱出手段を使用して、まずその場から逃げ出していた。だというのに今回の事件において関係者は全て残っており、現場の状況から脱出が不可能であることが分かっている。つまり、今回の場合においてのみ"黒天狗"は逃げ出していないのだ。
「……何故かしら? 逃げることができなかったから? でも過去には今回より強固な警備体制の中でも逃げ出しているわよね。じゃあ、何か留まる理由がある?」
違和感といえば違和感、ただ逃げることに失敗した、と考えることもできるだろう。だが、その違和感は小骨のように気になって仕方がない。イトハは便箋に疑問点を書き綴る。いったい"元型"はどこへ消えたのか? いったい人形は何処から連れてこられたのか? いったい"黒天狗"は誰なのか? いったいなぜ"黒天狗"は逃げ出さないのか? ぐるぐると頭の中で絡み合った糸。快刀乱麻、解決する手段はたった1つ。「少し遅い時間だけど……」再度便箋を取り出すとこれまでの経緯と疑問を丁寧に書き綴る。
そうすると少女探偵は革鞄を開き、そこから小さな塊を取り出した。それは小刻みに震え、僅かにくうくうと息を漏らしている。目はきょろきょろと興味深げに部屋を見回し、その目に少女探偵の瞳を反射させた。にこりと微笑み、書き綴った便箋を足に結ぶ。読者諸君は気づいただろう。これこそ少女探偵の七つ道具が1つ、電信が使えない場所や監禁された時の対策として使用される古典的な方法。
「ポッポ、お願いするわ」
真白い伝書鳩である。
お姉様へ
夜分にごめんなさい。お姉様がお休みになっていることは重々承知でお手紙差し上げます。青梅の奥座敷では電話をかけることもできないんです。緊急時の通信方法が役に立つなんて、ポッポにはあとでお砂糖でもあげなくっちゃいけませんね。
時間もないので簡潔に書きます。ついに怪盗が現れました。怪盗は東瀛にある自動人形の"元型"を盗む目的だったようです。とってもきれいで、100年以上も前に作られたとは思えないほどでした! でもあろうことか怪盗はそれを私の目の前で煙のように消してしまったんです! 少女探偵として悔しくってなりません!
回答が盗んだ際の時系列、東瀛と警視庁に送られてきた予告状は内容を一緒に送ります。この状況でどうやって消すのか、何処に消えたのか全く分かりません。怪しいといえば、蒐集総院の2人かしら? 奇妙な術に長けているとも聞くし、もしかしたら人形を小さくする秘術も、なんて……。
アタシの疑問点は4つ。いったい"元型"はどこへ消えたのか? いったい人形は何処から連れてこられたのか? いったい"黒天狗"は誰なのか? いったいなぜ"黒天狗"は逃げ出さないのか? どこから解決するべきか、どこから解決できるのか、考えれば考えるほど分からなくなってしまいました。
お姉さまの頭脳に頼り切りのアタシでごめんなさい。なんだか怪盗がアタシ、つまり探偵のことなんて知らないように盗んでしまって少し焦っているのかもしれません。返事は遅くても構いません。アタシもアタシにできることをやってみます。
イトハ
カノコの病室までは一時間ほどだろうが、おそらく到着は翌朝になる。なら今イトハがやるべきことはなんだろうか。「決まってるわね」脚躯を鳴らし部屋から出る。現場百辺、何度だって足を運び、しつこく探し回ることだ。まずは"元型"のあった広間へ向かおうと足を進める、と、視界の端に人影が写る。自動人形にしては高めの身長、そして手に持つのは泡盛の酒瓶。
「……えっと、ミセス前原? 何を」
そっと声をかけると、ギクッとした表情を見せ慌てて手に持った酒瓶を背後に隠し。じとっと見つめる少女探偵の視線に根負けしたのか両手を上にあげた。
「すいません、見回りついでに晩酌をしようかと……」
「晩酌……、そういえば使用人室に酒瓶があったけれど。てっきり廃棄するものをまとめていると思っていましたが、まさかお1人で?」
少女探偵の指摘に前原はいやあ、と頭を掻く。
「アハハ、私の仕事時間は厳密に言うと23時まで、今は私人の前原愛としているわけで。もちろん有事には家政婦長として動きますが、どうもこう、お酒だけは」
なるほど、つまり現在の彼女は家政婦長ではなく前原愛として行動しているわけか。自分自身に少女探偵とイトハという顔があるように。そう考えるとまったく他人のふりをする"黒天狗"はさぞかし大変だろう、意図的な仮面を常に被っているようなものなのだから。と、そこで少女探偵は何かに引っ掛かる。それが何かを取りまとめる前に前原がカラカラと明るく笑う。
「こんな状況だし、一応控えてはいますよ。そういえば知ってますか? 家令ってのは本来主人の酒を管理する立場でもあったと。だから不良家令は家の酒をちょろまかして……、っと。何か気になられることでも? 小百合様?」
少女探偵が考え込む様子に、ここは家政婦長の顔に戻るべきだと判断したのか、すっと息を吐き前原の姿勢が正される。
「いえ、お願いがあるわけではないのだけれども、前原様は他の人について何か気になることはありませんでしたか? 立場から考えて全員を観察されているかとは思うのだけど」
「気になること、ですか。そうですね」
少し目を閉じ、前原は頷いた。
「1つだけ、気になることはございます」
「気になること?」
「ええ、皆様が探されている"元型"以外にも、2つ、あるべきものがありません」
かわいいイトハへ
早いお返事になって驚いたかしら? 私のことは気にしないで。イトハが馬陸館に向かってから、少し緊張して眠れなかっただけ。貴女が無事なことが一番のお薬よ。
時系列と予告状、それに主要なメンバーは確認したわ。残念だけど総院の2人は術を使うタイプじゃないと思う。それに、術を使えるならもっと早く逃げ出しているんじゃないかしら? どこかからどこかへ移動するのもあっという間でしょう?
でも、それくらい突飛な考えは持っていていい気がする。相手は帝都を駆ける大泥棒、どれだけ考えても考えが追い付かないと思うべき。でも、それに立ち向かえるのは機転と勇気。イトハの提示している4つの謎、その謎はきっと繋がっているわ。1つの糸口さえ見つければきっと他の謎も解けるはずよ。以前の事件でも伝えたけど、貴方の直感は優れているわ。たとえ突飛なものだとしても、貴女の直感を忘れないで、違和感を見逃さないで。
相手にされない、その不安は当然だわ。でも、貴女は探偵少女、真実を指し示し、怪盗の鼻を明かしてやりなさいな! 私はそちらには向かえないけれど、きっと貴女の活躍を祈っているわ。
カノコ
カノコからの手紙を読み終え、イトハは立ち上がる。違和感を積み上げ、手に入れた情報を精査する。そこから導かれるのがどれほど突拍子もない説であろうとも、探偵少女は真実を指し示すべきなのだ。前原から提示された2つの"あるべきもの"、そして残るメンバーと消失の時系列を確認した時、イトハは幾つかの違和感に気が付いた。
「……直感を忘れない、違和感を見逃さない。そう、そうですよね、お姉さま!」
その違和感に合理を与えるならば、1つの奇妙な結論しかない。何度か考え直し、他の説を検証する。そして、現状協力を得るべき相手を見定めた。探偵少女は再び扉を開く。また別の人影が食堂から戻るのが目に入った。時計の針は凡そ深夜3時、何をしているのかと制服姿の影へ声をかける。
「海野刑事」
「おや、小百合氏。喉でも渇かれましたか?」
少女探偵を認めた海野がぎこちなく笑う。その手にはコップが握られている。
「いえ、少々寝付けないもので」
「そうでしょうね、本官も徹夜は慣れていますが、どうにも今夜は眠れそうにないと思い、見回りをしているところです」
「ご苦労様です。そのコップはお水か何か?」
「アァ、いえ、その……」
口ごもる海野。訝しむ少女探偵の視線に気づいたのか、ゆっくりと首を振った。
「けして隠すようなものではありません。ですが、昼頃小百合氏は大層苦手のようでしたので……」
「苦手?」
「実はヤスデが部屋に紛れ込みまして……、慌てて捕まえたはいいのですが手ごろな入れ物が無く……、失礼とは思いましたが少々コップを拝借した次第で……」
ヤスデ、そのうねる様を想像し、生身の身体はおろか義脚にも鳥肌が立ったようにすら思える。ようく見ると僅かな光に透かされたコップ越し、長い影が蠕動するのが見える。たらりと脂汗が流れるのを感じながら、それでも少女探偵としての仮面を被り、毅然と「アラ、そんなことはありませんわ」などと答えようとしたところで、新たに扉が開く。
「アラ? 声がすると思えば海野刑事に探偵さん? いったいどうしたのかしら? まさか逢引き?」
「西塔氏、実はそちらのヤスデが1匹本官らの部屋に紛れ込みまして。こちらに捕獲しているのですが」
西塔の冗談に一切応ずることなく、海野は単刀直入に要件だけを説明する。一瞬きょとんと疑問符を浮かべた後、西塔は一度温室へ走り出すとドタバタ音を立て慌てたように空の虫籠を取り出してくる。そのまま海野の持つコップから中身をさっと籠へ移し覗き込んだ。
「あぁ! 三十郎! さっき餌をあげた後に蓋を閉めるのが甘かったのね! 申し訳ありません海野刑事!」
「いえいえ、赤村技師が潰さずに済んで何よりです。しかし本当にお好きなのですね」
海野の何気ない一言に西塔は少しだけ籠から目を離し、2人をしっかりと、憧憬を潤ませるような、疑問を提示するような表情で見つめた。
「ええ、昔から虫はずっと好きなのです。……特に、そうですね、ヤスデは嫌われ者ですが、土を食み、森を耕す優秀な下働きです。生まれながら東瀛の娘として蝶よ花よと育てられた私にないもの、私にありえないものを見ていたり、するのやも。……なあんて、保井にでも聞かれたら苦虫を噛み潰したような顔をされるでしょうけど」
表情こそはにかむ少女のように笑っているが、どこか憂いと秘密を抱えたその表情。夕暮れが迫る温室で、あの蛹を見た後の表情によく似ているように思えてならなかった。何か言葉をかけねばとする少女探偵より早く、海野が答える。
「自己に対する不安というのは、誰しも同じようなものですね」
「あら、刑事さんですらそうなのね。慰めでも少しホッとしますわ。海野刑事はそんな不安な時、どうするのかしら?」
西塔の問いかけに間を置くことなく海野は返す。
「今だけを見つめ、機構の一部として動くまでです」
「……あなたはそうして生きてきたのかしら」
西塔の問いに海野は答えを返さない。ひやりとするような沈黙、互いが互いに問いかけたいことがあるような表情を浮かべ、時計から響く鐘の音がそれを押し留める。
「では、部屋に戻りますわ、お2人とも、体を冷やされないようにね」
「ええ、それでは、小百合氏もおやすみなさい」
2人の背がそれぞれの部屋に消えていく。扉の閉まる直前、海野の手がゆらりと振られていることに気が付いた。その手の先を見ると、窓の外にも人影があることに気付く。身長と風体からして保井だろう。自動人形が付いているようだがいったい何故外にいるのだろうかと考えているうち、その姿は夜闇に溶ける。ふと気づけば、海野の部屋の扉はしっかりと閉められていた。張り詰めていた緊張の糸を緩め、少女探偵は大きく息を吸う。「何だったのかしら、今のやり取りは」西塔と海野はこの館で初めて会ったと聞いているだが、以前にどこかで知り合っていたのだろうか。あとで前原にでも尋ねようと考え、改めて目的の部屋へ向かう。まだ起きているかしらと控えめにするノックには返答があった。
「おやおや、少女探偵さん、何ぞ御用で?」
寝巻だろうか、麻の浴衣を着た七篠は突然の訪問者に目を細めている。奥に葦舟がいることを確認して、少女探偵はすっと笑みを浮かべた。
「夜分に失礼します、七篠様、葦舟様、少しお話と聞きたいことがあるの」
「まあそりゃ構いませんが、何だって俺たちなんですかね。例の怪盗探しなら海野刑事や西塔のお嬢様の方がいいんでは?」
当然の道理だと思いつつ、少女探偵はしっかりと2人へ指を向ける。
「お2人ともう1人のみ、完全に容疑者から外れるから、といえば驚くかしら?」
「……そらまたけったいな」
葦舟の呟きがねっとりと夜の空気に波を産んだ。
夜が明けて、少女探偵は前原に頼み、館の全員を呼び集める。全員が"元型"の間に集まり、"元型"の消失したときと同じ場所に陣取った。西塔が愉快気な声色で尋ねてくる。
「探偵さん。こうやって集めたってことはそういうことよね?」
「ええ、そういうこと、これからワタクシは犯人、つまり怪盗"黒天狗"を指摘します」
予想されていたことだが、どよめきは少なかった。それを少々残念に思いつつも、深く息を吸い、少女探偵は指を折る。
「まず確認しましょうか。今回の事件、この馬陸館にある銘品、全ての自動人形の祖、"元型"が怪盗"黒天狗"によって盗まれた。その手口は視界を奪った後、偽物を外へ落とし、混乱を招く間にすり替えるといったものであった。しかし、その"元型"は館の中にはなく、忽然と姿を消してしまった。ここまでは同意していただける?」
全員が頷く。それを見届け、少女探偵は指を4本あげた。
「今回の謎は大きく分けて4つ。"元型"はどこへ消えたのか? 落下した人形は何処から連れてこられたのか? "黒天狗"は誰なのか? なぜ"黒天狗"は逃げ出さないのか?」
「その4つをどちらも解決したと?」
「いえ、違うわ」
海野の問いに少女探偵は首を振る。そして4つ立てていた指を1つに切り替える。
「この4つは同じ謎。正確に言えば、1つの謎を解けば他の3つは自ずと明らかになる」
「ふむ、じゃあどっちの謎を解く必要があるの?」
「もちろん"元型"がどこへ消えたかの謎、です。ミセス前原、昨夜にお願いしたもの、準備していただけた?」
「ええ、こちらに、小百合様」
前原が持ってきたのは雑嚢に入った自動人形の部品。昨夜"元型"の身代わりとして崖の下に落とされたソレだった。全員の前に再度姿を見せたソレは前夜と同じく無残なスクラップとしての姿を晒していた。七篠が目を細め、少女探偵へ話のパスを飛ばす。
「これがどうなるんですか? もう一度調べろということですかね?」
「いいえ、違います。この自動人形にはあるべきものがないの」
昨夜、前原の話を聞いてから確認したそれには確かに1つ必要なものが存在していなかった。広がっているのは"手や足、胸に腰、様々な配線に基盤"。しばらく眺め透かし、葦舟が頷いた。
「顔、頭部があらへんね」
そう、落とされた人形も"元型"と同じく頭部がなかったのだ。本来気づいて然るべきだろうが、最初に頭部のない"元型"を確認して、そこから身代わりとして落とされたという印象が強く、それに違和感を覚えていなかった。
「保井様、確認しますが先夜、崖の下に頭部は見つからなかったということでいいのかしら?」
「ええ、周囲を探しましたが細かな部品はともかく、明確に頭部と分かる部品はありませんでした。高度を考えれば粉々に破損した可能性も低いでしょう」
「ありがとうございます。では、ここから導き出されることは単純。先夜消えていたのは"元型"だけではない。"元型"と身代わりになった人形に存在していた"頭部"です」
「……つまり、消えたものを考えると"人が1人"完成しますね」
「そう、こんなに単純な理由。消えたもののうち、"身体は入れ替わり、頭部は残った"」
なくなっていたのは"身体"である"元型"と身代わりになった人形の"頭部"。前原の指摘によって気づいたその事実に、少女探偵は1つだけ突飛な仮説を思いついた。そして、それが事実であるとして条件を満たす人物が1人だけいることにも気が付いていた。ゆっくりと視線を1人に向け、指を差す。残る全員が指を向けられた相手へ顔を向ける。
「あなたが"黒天狗"ね」
少女探偵より頭1つ高い相手はふっと口元を緩ませ「何を」といわんばかりの表情を浮かべる。
「もし違うというのであれば、その手袋を脱いで見せていただける?」
少女探偵の指摘に表情を固め、拒絶の意を示す。怯むことなく少女探偵は糾弾を続ける。
「できないでしょう? 何故ならあなたの身体は"存在しない"。あなたの身体はここで壊れている人形なんだから」
この館から姿を消した"身体"と"頭部"、それがもしも1つになって動いていたとしたら? その推理から考えられることは1つだけだ。そしてその条件を満たすのは、一切肌の露出がない人間。自分自身として"元型"を隠すことができる人間。
「あなたは最初から"首だけ"だった。そしてこの身体と、今の身体、"元型"を入れ替えた」
七篠たちの部屋に入り、早々に少女探偵は疑問を2人へぶつける。
「人を首だけにする技術に心当たりはないかしら?」
そう、この推理を可能にするには"首だけの人間が存在しなければならない"。そのため、この館にいる中でそちらに詳しそうな2人へ少女探偵は声をかけたのだ。もしその技術が無ければ推理は初めからやり直しだと開き直る少女探偵に葦舟は皴だらけの顔を歪める。
「首だけ? そらけったいな話やね。君、何か知っとる?」
「ああ、実例はありますよ。ちょっと待ってください、詳しく調べますんで」
あっさりと七篠が答え、荷物の中から何やら端末のようなものをポチポチと操作していた。
「君、何それ」
「総院の資料を電子化して電網に繋がないスタンドアロンの端末に溜めてるんですよ。電子辞書のようなものですね」
「アレ、ボク許可してへんけどなあ」
「諸知先生に許可は取りましたよ」
「聞いてへんなあ……」
ぼやく葦舟をよそに七篠は驚くほどの勢いで端末を打ち込んでいく、しばらくして目的の情報を見つけたのか黒眼鏡の奥の目をニヤリと細める。
「おっし、キタコレ、っと。古いか。えー、説明しますと宇喜多式手術っていいましてね。元々総員の研議官だった宇喜多某が事故で首から下を喪失した際、首だけで生存できるように開発された技術です。ただ、その後は一部の趣味人によって、自分の身体を離れる手段として使われたようです。事実俺の仲間コミュニティでも身体を理想の嫁……、失礼、理想の身体に変えるとかで行った奴がいるみたいですね。まあ、義肢の発達に伴いわざわざそんな危険な選択をとる必要がなくなったのと、何だかんだで心と躰の乖離が起こるという問題が出てきまして、ほとんど行われていないはずです。少なくともここ50年マトモな医院での施術例はないみたいですね」
「ああ、宇喜多クンか、思い出したわ。で、探偵サンはそんなもんをどうして……、アア、そういうことかいな、なるほど、意図は読めた。だからボクらに相談しに来たんやね」
「はい、館の中で男性は保井さんとお二人"だけ"しかいませんもの」
これだけの情報で少女探偵と同じ結論に辿り着いたのだろう、葦舟はそうかそうかと腐った布袋尊のような笑みを浮かべる。
「盲点やわな。まさか首だけの人間がおると思わん。落ちた自動人形も普通やったら攪乱するための道具やと思うわ」
「落とされた人形が突然現れたことも説明が付きますね。隠すモノの大きさから身体測定は行われないことは予想できるでしょうし、されたとしてあれだけ人間に似ているんだ、服を脱がさない限りは分からないでしょう」
「今時女性の身体触るんも冗談で言われへんしなあ。……ただ、背丈や体つきを考えると、探偵サンや赤村サンは小さすぎる、前原サンは高すぎる、西塔サンは背ィは合うが少々肉がない、となると、候補は1人しかおらんのちゃうかと思うけど」
「ええ、ワタクシもそう思います。"黒天狗"は────」
「再度言いましょう」
指を突きつけ、照準を絞る。突きつけられるのは制服に身を包んだ"女刑事"。
「あなたが"黒天狗"ね、────海野刑事」
犯人の指摘を受けた海野はふうと息を吐く。その目は細められ、感情の揺らぎなく少女探偵と相対すも、真芯から見据えることはない。少女探偵はことここに来てようやく気づく。「彼女はアタシを見ていない」しかし、一言も発さず、体幹を一切揺らがせず、そこに立っている。拍手も称賛もない、ただ冷ややかに、静かに、その無言こそ彼女が怪盗であるという肯定。全員が警戒心を露わに怪盗を見据え、少女探偵はゆっくりと推理を続ける。視線を"怪盗"から揺るがすことはない。
「まだ理由が必要かしら? 食事をほとんど取っていなかったこと、館外の人間には近づかないヤスデが近づいていたこと、そして"元型"の消失から表情が変わって見えたこと。首だけであれば過剰な飲食はできないし、身体が"元型"であるが故にヤスデは近づいた。表情が変わって見えたのはおそらく僅かな身長差で角度が変わったからじゃないかしら」
「そもそも、首だけだと考えると女性かどうかも怪しいですね。必要とあれば探ることはできますけど」
「……そうですね、一応は男ですよ」
七篠の言葉にようやく海野が口を開く。未だ視線は変わらずとも対話の糸口が掴めた、────「わけではないでしょうね!」 少女探偵が指を差す。海野の隣、小柄な影の背中から突如巨大なアームが姿を見せる。建設現場で見かけるような重機のアーム。慌てて葦舟と七篠が距離を取る。一振りで人間など吹き飛ばしてしまいそうなそのアームが真っ直ぐに狙うのは西塔。人質にする気かと少女探偵が向かうより早く、ドン、と床を踏み抜くような音が響き、獣のような影がアームの根本、その使い手へ疾走する。
"黒天狗"が海野であると2人に共有した後、もう1つ確認することがあると少女探偵は話し続けていた。
「ところで、胴体部分の自動人形ですが、首だけで操作することは可能なの?」
「できますよ。実際宇喜多式はそこをクリアできたんですからね。ただ、視点や接続の面で慣れが必要ってことを考えると、最初のうちは自分で操作するより、誰かにしてもらう方が楽、というか補助が必要でしょうね。つまり、協力者がいると考えていいんじゃないでしょうか」
「と、なると警察が嘘やとして、怪しいのは1人やね」
葦舟の言葉に頷く。それは前原の言っていたもう1つの"あるべきもの"もかかわっているだろう。
「疑う理由として、もう1つ根拠があります」
「ほん、聞かせてもらおか」
「警察の制服ですよ」
「制服?」
前原の指摘するもう1つの"あるべきもの"。手荷物調査を行った彼女だから気づいていた、持っているはずの"警察制服の消失"。あの段階で前原は既にその人物を疑っていたのだ。
「制服をどこから調達したのか。事前に"元型"のある部屋の中に隠している様子はなかった、それ以降は知っての通り」
「ちょっと待ってください、別に持ち込んでいなかった可能性もあるでしょ」
「確かにそう。でも、私は彼女と会ったときに"一応制服もある"と間違いなく聞いているわ。ではその制服は何処へ行ったの? 彼女の背嚢の中にはなかったし、部屋には私物が置かれていなかった。つまり、最初にあった制服はどこかの段階で消えていた。そう考えれば何処へ制服が消えたのかは自ずと分かると思うのですけれど」
「……ああ、なるほど。"元型"は服を着ていなかったから、着せる制服が必要になるわけか」
意を得たと言わんばかりに頷く葦舟へ少女探偵は肯定を返す。
「ええ、おそらくはそれも窓から身体を落とす目的の1つだった。警官の制服を脱ぎ、再度着るのは時間がかかる。それならば着ていた身体は外へ落とし、そちらへ注意を向け、着替える時間を稼ぐことが必要になるから。ならば制服は何処にあったか、単純。"彼女の背負った背嚢に入っていた"。わざわざ事件の後にひっくり返して確認させたのは中身を雑多にするが目的だったと考えられる」
「襲われたフリも、ある程度服が乱れるのを誤魔化すため、ってことですか」
つまり、ここから導き出される答えは1つ。協力者、いいや、もう1人の"黒天狗"。
「赤村様も共犯と考えるべきでしょう」
「愛サン!」
西塔の声に呼応し、吹き荒ぶ風、前原の踏み込んだ一撃が赤村の腹を狙う。腰を溜め、全身の力を流れにして打ち込む打撃。寸でのところで伸ばしたアームを防御へ回すも、赤村の小柄な体がそれごと弾かれるように後退を余儀なくされる。下がった獲物の間合いへ踏み込むのは獣の影。ギラリと獰猛に笑うと、短髪は興奮した肉食獣のごとく逆立ち、シャトレーヌがざらりと金属音を鳴らす。相手の手が届かない距離から小気味よく放たれる突きは夜会のダンスをすら思わせる。なるほど、あの男装は非常時に動きやすくするため、か。
「……まさか唐手!? 化物かよ!?」
「アラ、失礼な。ただの家政婦長ですわよ」
「いやいやぁ、クレーン車相手に徒手空拳で挑んできて、それは厳しいでしょ! いくよぉ! 紀伊きぃ、空くぅ、K!」
圧倒される赤村の背からさらに2本の小型アームが伸びる。前原がニヤリと笑う。
「なるほど、折り畳み式の義肢ね。全く、どこにそんな重質量隠してたんだか」
「こっちにも企業秘密ってのがあるんだよね」
「だいたい予想はつくわよ、あの背嚢は背中を隠すためのカモフラージュだろうってこともね。……サァて、お嬢様に手を出したんだから、分かってるでしょうね?」
「愛サン、お口が」
「っと、失礼しましたお嬢様。なにぶん田舎の出でして」
3本のアームを腕のように自在に使い、赤村は前原の攻撃をいなし始める。いや、この場合はそんな異形の相手と渡り合う前原こそが異常と呼ぶべきだろうか。戦況は膠着する。徒手空拳など縁遠い少女探偵たるもの、今やるべきは、"黒天狗"両名の無力化、そして海野の身体になっている"元型"の確保。だが、赤村と前原の間に加わることは現実的ではないだろう。赤村は完全に海野を背に回し、周囲にも目を光らせている。海野に近づくのも困難か、と視線だけを飛ばす。
未だ視線は交わらず、差し込む朝日の光量が増す。後光のように差し込むその中で、海野は高く柏手を打った。
「これ以上不毛な争いは止めませんか?」
「大人しく投降する気になったのかしら? 怪盗サン」
「いえ、それはこちらの言葉です。この部屋にいる皆さんは既に危機ですよ」
何を言いだすのか、と沈黙し、否、と思い出す。そうだ、海野らが連れてきているのは。
「……自動人形に制圧させようと?」
同じ考えに辿り着いたのか、西塔が低い声で尋ねる。海野は鷹揚に頷き白手袋の指を艶めかしく絡めた。
「ええ、我々は"自動人形保安隊"を有しています。それぞれ現職の刑事と同じスペックを有している。本官の指一つでそれらはこの部屋に雪崩れ込み、皆さんを占拠する、そのような暴力的行為はしたくありませんので、大人しく逃がしていただきませんか? 何、時間は取らせません。拘束したうえで堂々と脱出させていただきたいだけです」
「ブラフですね、私が確認した時、そのようなプラグラムは確認されませんでした」
「もちろんバックドアを仕掛けているんですよ。西塔氏も七篠氏も本官の指示に従ってプログラミングを行った。あの短い時間でそれに気づけた自信はありますか?」
海野の物言いに西塔は口元を抑え、七篠は両手を上げる。
「無理だな、それを見つけるためならともかく、片手間には本職でもキツイでしょ。……ま、個人的な意見なら嘘だと思いますが」
「ええ、それを信じていただいても結構です。ですが、その扉の向こうに執行人が立っている可能性はあるのですよ」
笑みを浮かべることなく、すらりと言ってのける海野に反論できる人間はいない。扉を開ければ話は早いが、そうしてもし海野の言うことが本当であれば? 群れなす自動人形を相手取ることはできるのか? 時間稼ぎだ、それは分かっている、今は何よりも自動人形を動かす手段がない、という確証が欲しい。何か、何かないかと頭を必死に回す少女探偵の背後から、密やかに冷たい刃物のような声が届く。
「小百合様、時間を稼いでいただけますか?」
「……保井サン? 何か策があるの?」
「ええ、あと5分で構いません。少々力技で、探偵の美学には反するやもしれませんが……」
感情を感じさせない声であり、昨夜の不審な動きを考えれば信用していいものかと悩むところはある。
だが、少女探偵は直感し、何よりもまず決意する。
「それは探偵に対する依頼、ということでよろしい?」
「……ええ、依頼しましょう、少女探偵。この場を留める真実を」
依頼は必ず果たしてみせる。そして、こちらを一瞥もしない海野へ真実を指し示し、怪盗の鼻を明かしてやるの。
────これは"探偵"と"怪盗"の物語なのだから、アタシ一人を置いていくな。
きらりと瞳を輝かせて、器用にステッキを打ち鳴らし、ふわりと裾をはためかせ。
────さあさ、読者諸君もご高覧。探偵少女のお出ましだ。
「海野刑事、何故、"黒天狗"として姿を現したの? 何故、この場を逃げ出さなかったの?」
少女探偵の問いに海野は一瞥もせず、威嚇のためか指を擦る。そうだろうと分かっていた、海野は決して少女探偵を見ない。何を見ているのか、何を必要としているのか、視線の先にある虚ろ、空を見るような海野の視線をこちらへ向けさせるために、少女探偵は推理を披露する。部屋の中心へ足を進める。赤村はアームを広げ、海野が指を構える。深く息を吸う。容疑者の中心に立ち、皆を見回し「さて」と言い。
「答えないというのであれば」
一拍置き。
「もう1人、最後の"黒天狗"を指摘しましょう」
誰かが息をのむ音が聞こえる。「もう1人?」葦舟の素っ頓狂な声を皮切りに、少女探偵が謎を暴く。
「ええ、この事件、共犯者がもう一人いる。そして、それが"黒天狗"が逃げずに姿を見せた理由」
「まだおるん? といってもあとはボクらと君、それに西塔サン、前原サン、保井クン、やけど……」
葦舟が全員の顔を見回す。少女探偵はうん、と頷きステッキを鳴らす。
「ええ、思い返すべきは"元型"消失の停電よ」
「停電を引き起こした共犯者がいるってことか?」
「いいえ、それならば主電源を落とす仕組みを時限式にする必要はありません」
「……なら、主電源から離れていた人間、この部屋の中にいる人物がその共犯者の可能性が高い、ということになりますね? 探偵さん」
西塔の言葉に少女探偵は頷き、手を鳴らす。
「停電自体ではなく、停電後の行動に注意するべきよ。最も注意するべきは、保井様」
全員の視線が保井へ向けられる。当の保井は涼しい顔で腕を組んでいる。
「俺が共犯者だと?」
「いいえ、保井様、停電後の行動をもう一度確認してもらえないかしら?」
「……俺は停電の直後、"元型"を守ろうと中央へ向かいました。その後、閃光手榴弾によって視界を奪われ、直後に死角から足払いを受け倒れ込んだ、が」
そこまで答えて何かに気付いたように保井は言葉を止める。周囲を見回すと葦舟、七篠、西塔も何かに気付いた様子だった。少女探偵はふふんと鼻を鳴らす。
「気づかれたようね。そう、保井様に攻撃を仕掛けた人物、それこそが共犯者」
「保井との距離を考えると、海野、赤村の両名は真正面に当たります。僅かな時間で死角に入り、足払いをかけるのは現実的ではありませんね」
「加えるならば、閃光に対する装備を有していなかったお2人には少々難しいのではないかしら。全員があの閃光で目をやられていたことは自明ですし」
そう、あの場面で閃光に対する手段を持っていた人間はいなかった。手を挙げたのは葦舟。
「それやったら、ここにおる人間は誰もできへんの違う?」
「いえ、たった1人だけできたわ。葦舟サン、"閃光手榴弾はどこで炸裂しましたか?"」
少女探偵の問いに葦舟は答えようとしてそのまま口を開き、"海野の方向"へ視線を飛ばした。七篠も深く頷く。
「あー、いや、そうですよ先生、もう1人います。あの停電のときの状況を考えると、それしかないんだわ」
「……まさか、そんなことが本当に?」
「ええ、驚かれるのも当然です、西塔様。海野刑事、アナタが逃げ出さなかったのは、もう1人の共犯者を危険に晒さないため」
海野へ向き直る。探偵と怪盗は対峙する。しかし、怪盗の目は閉じられている。
「……停電の直後発生した閃光は"中央から"でした。もちろん誰かが投げ込んだ可能性もあるけれど、それならば前原さんが気づくハズ。そして真っ先に中央へ向かった保井さんの"死角から足が払われた"。そうなればその2つはともに同じ人物が行ったことと考えられる。閃光の影響を受けず、中央にいた。その条件を満たすのはただ1人」
少女探偵は真っ直ぐに海野へ、正確には"その身体"へ指を差した。
「"元型"よ」
海野が目を見開き、小百合を捉えた。怪盗の視線を一身に受け、少女探偵は晴れやかに笑う。
「ようやく探偵ワタクシを見たわね。大怪盗"黒天狗"!」
怪盗の身体だけがガクンと一瞬揺れ動く。ゴロリと海野の首が落ち、その手が滑らかに掴み取った。
静まり返る室内。"元型"の小脇に抱えられた海野は否定も肯定もせず、ただ何よりも少女探偵へ視線を飛ばす。悔恨、憎悪、驚愕、それらは一切瞳にはなく、寒気がするほどの虚無が少女探偵の小さな身体を貫いている。だが、少女探偵は脚を折らない。どのような相手であろうと、今ここで少女探偵であるならば、開明の光の下、暗闇を翔ける賊などは遍く照らし出すべきなのだから。震えた西塔の声が空気を乱す。
「まさか、"元型"は……」
「おそらく、どこかのタイミングで自律して動けていたのだと考えるわ。以前に無線電波を通そうとしたタイミングが怪しいわね。何故それを隠していたか、は推測の段階を出ませんけど」
「……いや、いやいやいや! それって100年以上前のものでしょうに? それが自律して、動いて!?」
完全に混乱したという様子の七篠に対し、葦舟だけが得心がいったというように口をすぼめている。
「驚いておられませんね、葦舟サン」
「長く生きとると色々と見る、特にこんな因業な商売しとるとな。七篠はまだまだケツが青いということや。で? 探偵サン、もう1つ隠しとんのちゃうか? "元型"を守る、それだけやと姿を現した理由にちと弱い。この時間まで残っとった理由、あるんとちゃう? さっきの推測として」
「……それは」
「もういいでしょう」
海野が冷たく会話を切る。
「話は聞き飽きました、これ以上は時間の無駄です」
"元型"の艶めかしく絡められた指が、音を鳴らそうと触れる直前。扉の外に大量の足音が聞こえた。規律正しき足音。すわ自動人形の来襲かと全員が構えるも、当の海野と赤村も目を丸めている。
「え、何さこの音?」
「間に合ったようだな」
低く響くは保井の声。呼応するのは正確無比な軍靴の行進曲マーチ。扉が乱暴に開かれ、現れたのは銃を構えた軍服の一団。「陸軍? なんでここにぃ?」赤村の疑問に答えることなく、そのうち1人が抜け出し、保井へ規律正しく敬礼を行うと軍帽を差し出した。
「保井曹長! 第二小隊、館内の自動人形を全て停止し、揃いました」
「ご苦労」
軍帽を受け取り、眼帯を取る。左右で大きさの違う瞳をぐるりと回し、庭師の保井は折り目正しく頭を下げた。
「皆様、身分を偽り申し訳ありません。私は陸軍曹長、対異常特務機関第二小隊長の保井虎雄と申します。当時刻をもちまして館内は制圧され、皆様の無事を守らせていただきます」
目くるめく状況は変化する。保井の言葉通り、扉の外からは銃を下げ、次々に軍人が姿を見せる。これだけの人数がいれば、例え海野の言葉が事実であろうと対抗は可能だろう。
「曹長さんでしたか。これまたえらい人やわ。でもなんでもって変装して潜り込んどったんや?」
「機密もあるので多くは明かせませんが、我々も"黒天狗"を追っていたということです。正体を表す好機を狙い、周辺の山林に部下を待機させておりました。結果として監視する状況になっていたこと、ご容赦いただきたい、葦舟局長殿」
「……かまへんよ、そういうんはお互い様やからねえ」
一瞬葦舟と保井の間に火花が散るも、今はそれどころではないと保井は"黒天狗"一派へ向き直る。昨夜、外へ出ていたのはそういうわけか、と少女探偵は一人合点する。完全に戦況が逆転したことを悟ったのだろう。赤村がアームを下げ、盾にすると海野を背後に窓へにじり寄る。逃亡する気かと身構えた少女探偵を手で制し、保井は銃口を怪盗らへと突きつけた。同時に集った軍服全員が構える。
「……では怪盗"黒天狗"一派、これ以上の逃走は不可能だ。窓の下に降りたところで部下が待ち構えているし、ここまでの道路も封鎖が完了している。大人しく投稿し、盗品、正確には貴様らの仲間を速やかに明け渡せ。さもなくばこの場で撃つことが許可されている」
自らに向けられた複数の銃口を前に、海野は目を細める。
「……まったく、参りましたね。保井氏が軍人であることは事前の調査を含め薄々察していましたし、本官らの正体が暴かれるまでは想定の範囲であると許容していたのですが」
海野が再度少女探偵へ視線を向ける。
「まさか少女探偵などに暴かれるとは」
「まさかではないわ。探偵は探し偵う者。天狗という霧を纏い、探偵の前に現れた時点であなたの負けは必定だったのじゃないかしら」
売り文句に買い文句、少女探偵の言葉に海野は笑みを浮かべる。その笑みはとても無邪気で、初めて見るものであった。
「ええ、確かに。本官は正体を暴かれ、消失の奇術も見抜かれた。推理小説ミステリでいえば立派な敗北でしょう。……ですが少女探偵殿、我々怪盗には探偵とは違う勝利条件があるのですよ。推理小説ではなく、冒険小説エンターテイメント、あるいは悪漢小説ピカレスクとしてのね」
海野が、いや、"元型"が手を挙げる。軍人たちが銃口を向け警告を放つ。だが、それすら意に介さず、その手は真っ直ぐに振り降ろされ。
「そろそろ、"離陸準備"でしょうか。少女探偵、怪盗の勝利条件は」
背後のガラスを叩き割った。保井が号令を発し、火花が飛ぶ。それらは赤村のアームに防がれ、やがて2人は引き込まれるように窓の外へと身を投げ出した。手を伸ばす間もなく落ちていく。
「逃げること、です。……さらば、探偵諸君、機会があればまたどこかでお会いしましょう」
耳を劈くような風切り音が響いた。
時は少し遡る。"黒天狗"によって起こされた停電の復旧、道路の封鎖を目的に複数の軍服が馬陸館に続く山道に集まっていた。陣頭指揮を取るのは中等学校の学生とも思えるような小柄な女。
「餅月曹長、障害となっていた倒木の撤去は完了しました」
「了解。保井め、自分の分隊連れて行ったからって厄介事任せやがって。どう? もう終わりそう?」
隊員は首を振り、まだしばらくかかりそうだと答える。山道の中央に鎮座していた倒木は端にやられたものの、同時に発生した電話線の復旧はまだかかるということらしい。餅月は承知すると坂道の端に堂々と聳える馬陸館へ大きくため息を吐いた。
「愛も愛だよなあ、勝手に軍辞めてさあ」
奇しくもその場所は、先日少女探偵が木々の合間から馬陸館を見つけた場所でもあった。だが現在は少々景観が異なる。
「それにしても見晴らし良いな、噂の馬陸館が丸見えじゃん。展望台か何か?」
「はい、餅月曹長。本来はそうでなかったようです、昨日おそらくは電話線を切るために、この木が倒されたことから、こういった景色になったようで」
「なるほど、じゃあホントなら館はその木で真っ二つって感じだったんだ」
「そういうことですね」
現在餅月が立つのは馬陸館を眼前に見ることができる山道の急カーブ。上部に張られていたのであろう電話線は無残にちぎれブラブラと所在なさげに揺れている。「京都みたいに地面へ埋めちゃえばいいのにね」ぼやぼやと呟きながら身を乗り出すと、深い崖が口を開け、真新しい切り株が見える。どうやらこの木が倒れ、電話線を切断したものらしい。振り返るとなだらかな坂が長く続いている。
「まるで滑走路みたいだ」
何の気なしに呟いた言葉。だが、それが餅月はその言葉尻が僅かに舌へ引っかかった。「あのさ、木が倒れたのは」「はい、受け口があったのでおそらく人為的なものだろうと。電話線を切るために一種時限装置のような役割を果たしたのではないかという見立てです。杣人の間には昔からこの技術を持つ者がいるようですし」部下の声に頷きながらも、もう一度馬陸館の方向を向き、指を立てる。この距離、そしてこの坂道の角度、そして何より、先夜に倒された"障害となる"木。全ての要素が嫌な予感を補強してくる。
「麓にいる連中と連絡は付く?」
「はい、可能ですが……」
「今すぐ封鎖を始めるように言って。それも上からじゃなく、下からの突破に備えろと」
直後、飛ばした指揮が遅すぎたと餅月は気づく。
轟音というには生ぬるい、金属音にも近い風切音。見下ろす坂道の先にその正体が姿を表す。
「総員退避!!!」
咄嗟に傍らの部下を抱え、道の端へ飛び込んだ。ほとんど同時、掠めるように黒い影が通り抜け、その勢いのままカーブに突っ込むと、激しい熱を生みながら"飛び立った"。
「スピーーードッ!!!」
辛うじて聞こえた男の声に舌打ちをし、苛立ち交じりにまだへたり込んでいる部下から無線を奪い取る。
「こちら餅月、保井、空だ!!! 畜生何だあの吃驚絡繰!」
影は弧を描くと翼を広げ、速度を緩めながら朝焼けの空を滑空していった。
「唵阿廬蘑耶天狗數萬奇娑婆訶おんあろまやてんぐずまんぎそわか」
窓の外に飛び出した海野と赤村、そして"元型"を、何かが捕まえた。
「空だと!?」
直後、風圧でガラスが全て内側に弾け飛び、雨となる。咄嗟に身をかがめ、落ち着いたのを確認してから窓へと駆けよった。外を見回すとはるか遠くをゆっくり飛んでいく一台の影。飛んできた方向を見ると、昨日通った山道が見える。「……山道を滑走路に、ロケットとして飛び出したということね」あの速度、強烈な重力がかかっただろうが、海野は首だけ、赤村はアームである程度緩和ができる、"元型"は自動人形であることを考えれば、不可能ではあるまい。
朝日の中を飛んでいく怪盗に、少女探偵は悔しさのあまり奥歯を噛み締め、ダンとステッキが床を打つ。
「次は必ず捕まえてみせましょう! "首"を洗って待っていなさいな! "黒天狗"!!!」
陽光を浴びるその表情は、傍から見れば競技者アスリィトの笑みにも見えたのだった。
「カノコお姉さま!」
馬陸館の顛末から帰ってすぐ、カノコの病室にイトハは飛び込んだ。午後の穏やかな陽に照らされるカノコに一瞬イトハは"元型"の姿を重ねて見る。その顔は蕾がほころぶようにほどけ、甘やかな微笑みを浮かべてイトハを迎え入れていた。
「お帰り、イトハ。今回も活躍したようね」
「お姉さまのおかげです! モウ本当に、あんな夜遅くに申し訳ありませんでした!」
「いいのよ、イトハが困っているんだもの、私だって頑張らなくっちゃね」
「カノコお姉さま……!」
消毒液の匂いがうっすらと漂う病室で、思わずイトハは涙ぐみそうになる。
「イトハ、それで"黒天狗"はどんな方だったの? 首だけで生きているなんてまるで死神騎士デュラハンや首無兵士スリーピー・ホロウね」
「それなんですけどね、カノコお姉さま……」
「遅い」
「ハ、申し訳ありません前原軍曹」
「前の立場で呼ぶんじゃないわよ。今の私はここの家政婦長、それに立場もすっかりそっちが上でしょうに」
「私は前の呼び名で読んでほしいのだけど、保井」
「……それは致しかねます」
"黒天狗"の逃走を見届け、集まった軍服に事情を説明する中で、前原が保井に対し馴れ馴れしく話しかけている。この言葉遣いからして、どうやら今は限定的に職務を離れ、私人の前原愛として振る舞っているようだ。そして話しぶりを聞くに、保井は仕事で偽っていたわけではなく、本当にこの館で育っていたということだろう。少女探偵に気付いたのか、前原が引き寄せニコニコと笑う。
「こっちに来られてはどうでしょう、小百合様。保井に言いたいこともあるでしょうから」
「い、いえ、助けていただいた身ですから、何もそんなことは。それよりも皆さんは元々知り合いだったのかしら?」
「そうそう、まあ、お聞きの通り私は元々軍属でして。少々気に入らない上官酒の勢いで殴り飛ばして辞めたのですが」
そんなことあるのだろうか? 口には出さない疑問に対し、保井が僅かに首を振っているのが見えた。
「そういうわけで、路頭に迷い、次の働き口を探してたら保井の養父がお嬢さんの護衛兼メイドを所望してたので、紹介してもらったというわけです」
「ということは、保井様がこの家で育ったというのは」
「全くの事実です。昔はお嬢様お嬢様と後を付いてきたのに、今ではすっかり他人行儀になっちゃって」
西塔の言葉に保井が一歩身を引こうとするも、服の端を引っ張られているのが見える。親しい関係であるというのは事実のようだった。このままでは過去を語られるのが目に見える。保井の名誉のためにも話を切り替える。
「しかし、軍をもってしても海野刑事が偽物だと気づかなかったとは。保井曹長も気づかれていなかったのでしょう?」
「はい、力の及ばないところで不徳の至りです。下手に人間を増やすと入れ替わりを防ぎにくいと判断しましたのが裏目に出た形ですね。全員を警戒はしていましたが、多人数による計画だと察せた段階で、外部からの介入を予想しておくべきでした」
「アンタは仕方ないわよ。純粋に時間が足りなかった、というのもあるんでしょ。気にした方が負けよ、失敗から学びなさいな」
保井の頭をポンポンと叩きながら、前原は少女探偵へ説明を。
「警視庁の裏取りに時間を取ったのでしょうね。陸軍と警察、総院はそれぞれ仲が悪いので。お互いの情報融通するなんて滅多にしないですから。それに今回"黒天狗"が引き連れた自動人形はおそらく警視庁からの盗品。警察はそれを認めづらい、といった部分も突かれた形ではないかと思われますわ。マ、保井にはいい勉強になったでしょう」
「……そうですね。あともう少し早く分かっていれば良かったのだけど」
「逃がした理由、それだけやあらへんと思うなあ。探偵サン、気になることあるやろ? 例えば"黒天狗"の顔について」
いつの間に近寄ってきたのか、葦舟の高い声が飛び込んできた。"黒天狗"の顔? そう言われて思い出そうとすると、海野の顔にはもやがかかっている。あの瞳はよく思い出せるが、それを全体に当てはめようとすると、途端に思い出せない。気が付くと首を捻っていた。
「ここにいる皆さん、海野の顔を覚えているかしら?」
少女探偵の言葉に全員が首を振る。赤村の顔は皆覚えているが、肝心の飛頭蛮、海野の顔を誰も正確に思い出せなかったのである。その中で葦舟と七篠だけがうんうんと頷きあっていた。
「やっぱりそうか。何かしら誤魔化す術を使ってるのかと思いましたが、ここに入って術の気配はなかったし、かといって機械類の可能性、薬物の可能性も低いでしょうし」
「おそらくはそういう先天的な体質やろね。昔同じような特性持った輩がおったけど」
「聞いたことありますね、三川でしたっけか。保井曹長殿もご存知では?」
「サテ、どうでしたか」
明らかにはぐらかす保井へ冷ややかな目を向け、葦舟は赤い舌をチロチロと揺らす。
「最初っから首だけで生まれたわけやないやろうしなあ、顔を覚えられんのに顔だけになるとは」
「……そう、だからこそ、怪盗なんて手段を選んだのかも。誰にでも化けるのではなく、誰にも覚えられない天狗の"顔"」
少女探偵の言葉に「そんなもんかね」と葦舟は頷いた。
「しかし、"黒天狗"が個人ではなく集団であることが明確になったことは、素晴らしい進歩であると言えます。改めて協力に感謝します」
「集団というより、それぞれがそれぞれの役割を果たしてるって感じですね。海野が黒天狗の"顔"として」
「その例えでいえばここを突破したのが"羽"」
「赤村が"手"、"元型"が"躯"、といったところでしょうか」
"黒天狗"、複数メンバーの集合による怪盗グループ。あの事件記者にでも話せば喜んで食いつきそうだ。もっとも、明日の朝にはどの新聞にも第一報で載るのだろうが。ふと、西塔が輪から離れ、窓の外を眺めていることに気付き、近寄ってみる。"黒天狗"の消えた空を眺め、目を細める西塔は東瀛の才媛や蟲愛ずる姫君といった修飾を脱ぎ取った、1人の西塔道香として立っているように見えた。
「何故、姿を現したのでしょうね?」
誰にかけるともない呟き、近づいたことに気付いたのだろう、振り返った西塔に少女探偵は答える。
「探偵の推理で良ければ、披露はできますけど」
人の心など分かりはしない。探偵ができるそれはあくまで推理である。それを察したのか、西塔は淡く微笑んだ。
療養所で事件後の顛末を話すイトハにカノコは木漏れ日のような笑みで返す。
「そう、顔の分からない怪盗なのね。厄介だわ」
「はい、アタシもあの目しか覚えていません」
「アラ、瞳を覚えることは愛することと同義よ?」
カノコの言葉にイトハは一度硬直し、両手をぶんぶんと振り回す。
「そ、そんな、アタシ、あんな怪盗なんかに!」
「冗談よ、かわいいイトハ」
「も、もう、カノコお姉さま!」
ころころと鈴を鳴らすように笑うカノコに膨らませた頬を、すっとイトハは元に戻す。
「それに、きっと海野刑事にはもっと大事な人がいると思います」
「……それが貴女の推理なのね、イトハ」
「ハイ、あの何も見ていない瞳が、あの時、あの真実を指摘した時だけ光ってアタシを見た。"元型"こそが共犯者だと指摘した時に。そう考えれば、海野刑事はきっと足りないものを取り返そうとしていたんじゃないかしら。そのために正体が暴かれるリスクを負いながら、館に残り続けていた」
何を? とカノコは尋ねない。ただイトハから視線を外すとふっと呟いた。
「一度、私も会ってみたいわね。少女探偵として」
時はしばし遡る。朝日を受け、滑空するバイクの後方、衝撃緩和繊維によって編まれた網の中で、赤村が"元型"の調査を行っている。海野は転がりながらそれを無表情に見つめていた。
「よし、とりあえず衝撃で少し破損はあるけど、十分治せる範囲かなぁ」
「ありがとうございます、赤村さん。そしてお疲れ様でした」
首だけでは頭を下げることができないため、海野は"元型"に向かい静かに瞳を閉じる。
「我らが"女王"」
"女王"と呼ばれた"元型"は静かに海野を抱え、自らの首の上へ挿げ替える。
「ぼくなんかが"顔"で申し訳ありません」
「いやいや、謝る必要はないでしょう、海野君。私達の"顔"は間違いなく海野君なんだからぁ」
「そうだぜ海野さん! 何も謝ることはない!」
「速水さんは走りたいだけですから、元より謝る気はありませんよ」
バイクを操る速水に鋭く返し、自らの頬を撫でる"元型"、"女王"へと海野はもう一度目を閉じる。
「粘りましたが、東瀛にもないようでしたね。やはり探すべきは貴女の"お父上"の記録なのかもしれません」
「次はやっぱ総院かな。あの黒眼鏡は無いと言ってたけど」
「そうですね、"白の王"はいったい何処へ隠したのやら」
"女王"の手は頬から口、鼻、目をなぞり、官能的な動きで海野の頭を優しく撫でる。いつかのどこか、既に記憶から遠く離した母の愛撫。顔のない怪物でありながら穏やかに生きられてしまったあの日の夢。「いっそのこと、殺してしまいましょう」と言われ、顔以外をすべて失ったあの日から、"女王"が電網に繋がってしまったあの日から、海野はこの女王に仕えると誓ったのだ。
「ぼくらはあなたの臣ですから。いつかあなたの"顔"を盗み出しますよ」
天狗の名によって記憶される。顔のない怪盗として盗み出す。全てはこの女王のために。
「全てはこの悪夢から目覚めるために」
天皇機関の見る夢は、"黒天狗"らにとってあまりに歪すぎる。
「とりあえず日野家に戻りましょうか。雨矢さんに頼んであなたにふさわしい衣装を設えましょう」
朝日にゆっくりと目を閉じる。次に目を覚ますとき、"黒天狗"はどこかにまた現れる。
"蒐集総院関東府事案対処局"と白地の文字が光る扉を開けると、眼鏡の女がソファの背から逆様に2人を出迎えた。
「お、お帰りなさい、葦舟先生。またぞろ変なことに巻き込まれたらしいですね」
「茜ちゃん、ただいま。まったく、大変やったわ」
「何が大変なんですか、先生自分にピット器官仕込んでるんでしょ? なら一発であの刑事が妙なことになってたの気づいたでしょうに」
「物理的に分かっても、心ン中までは読めへんからなぁ。そういう意味では探偵サンには舌を巻くわ」
嘲弄とも皮肉とも、あるいは感嘆ともとれるような声色で嘯きながら帽子をかけ、"局長"の名札が立つ整頓されたデスクへ葦舟は腰を下ろす。
「他の連中は?」
「アマビヱは大江山とハトちゃん連れて飯に行ってます。東風浦は安芸の方へ。先生と兄サンも飯行きます?」
「いや、駅で蕎麦食ってきた。とりあえず書類片付けるわ。悪いけどちょっと荷物置かせてくれ」
一方で七篠は荷物を置くと複数の画面が並ぶ自席で早速鍵盤を叩き始めていた。眼鏡の女、日奉茜がそんな七篠を横目に、荷物を片付ける途中でひらりと落ちた名刺を弄ぶ。
「それにしても偽名が安易すぎない? "七篠陰照"って、所属丸わかりじゃん」
「そんなこと言ったって急だったんだから仕方ないだろ。日奉さんにおきましては俺が本名を名乗れない理由知ってるでしょうに」
「やーいやーい、"隠秘学に自信兄サン"」
「職場で電子名ハンドルネェム呼ぶのは反則だぞ!?」
「本名分からないんだからそう呼ぶしかないだろ」
やいのやいのと口論を繰り広げる2人をよそに、葦舟は丁寧に密封した採取瓶を取り出した。中の蛹は今もなお、薄皮一枚の下にゆらゆらと複数の色相を浮沈させていた。日奉が近づく。
「これが日本書紀にもある"常世蟲"とはねえ」
「あまりマジマジと見るなよ。西塔のご令嬢も探偵のお嬢さんも吞まれかけてたからな」
「ただの揚羽の蛹に見えるやろ? でも万が一にでも羽化させたらいかんで。この蛹からなんぞ羽化されても困るからな」
「日本書紀での表記は現世利益だけに思えますけどね」
「それだけやったらええねんけど、荘子のせいで蝶と夢には大きく繋がりができてもうたからね。国体護持のためには安易に蝶の神性解き放つわけにはいかんのや」
嘆息し、じっと蛹を見つめる葦舟。その目に何が映っているかは知る由もない。
「夢から醒めるんも好きにできへんなんて、マァ、なんと皮肉なことやろねぇ」
その手に握られているのは"歯車"とのみ書かれた────。
しばらく事件の話を続け、徐々に陽が下がっていく。
その光に、馬陸館を去る時、西塔と交わしたやり取りをイトハは思い出した。
『ねェ、探偵さん。この世は天皇機関の見る夢だとして』
別れの挨拶を終えた少女探偵へ、半ば独り言のように西塔は問いかけた。
『もしも、もしもよ? その夢の醒めた先で、私たちが友人同士だったり、同じ職場で働いていたり、なんてことがあるとして、信じられるかしら? そんなことがありえるなんて、思えるかしら?』
西塔の言葉はおそらくあの蛹の夢を指しているのであろうと、イトハは言葉にせず頷いた。
『嬉しいわ。……そうね、私はお酒が飲めないから。それが少し、夢の中で寂しくなることもあるの』
西塔はあの蛹に何の夢を見たのだろう。東瀛の才媛、蟲愛ずる姫君、そうでない自分を見たのだろうか。
『探偵さん、今回は依頼に応えてくれてありがとう。"元型"は盗まれてしまったけど、私の依頼は"黒天狗"の正体を暴くこと。それは十分に達成できたわ。それで、探偵さんの腕を見込んで、もし良ければなのだけど、改めて依頼させてもらってもいいかしら?』
イトハは頷く。
『もしまた"黒天狗"、……いえ、海野と会うことがあれば、ちゃんと捕まえてあげて。きっと、"オレ"からのお願いね』
カノコの横顔をまじまじと見つめる。気づいたのかカノコは不思議気な表情を浮かべた。
「何か付いているかしら、イトハ」
「い、いえ、その……」
こんな突拍子もないことを聞いて嫌がらないかしら、と思いつつおずおずとイトハはカノコへ問う。
「もし、もしもですよ、今ここが夢の中だとして、夢から醒め、別の今を生きるとして、お姉さまならどうされます?」
カノコは間髪を入れず答えた。
「そうね、イトハを探して一緒に探偵をしようかしら」
その答えにイトハは目を丸めた。ああ、そうだ、あの夢の中で、アタシとお姉さまは一緒にいた。夢や現実や、そういったものは関係ない。アタシはどこであろうときっとお姉さまと一緒に探偵をするのだ。そして難事件を解決し、怪盗を追いかけ、きっと、一緒に。
「アタシも同じです、お姉さま」
「ウフフ、エエ……、一緒に頑張りましょうね。きっとアタシ達が探偵で彼等が怪盗である限り、再戦リベンジの機会はあるわ」
「そこでお姉さま、西塔さんから"黒天狗"を捕えてほしいと……」
少女探偵 怪盗"黒天狗"を暴く
この頃世間を大いに騒がす怪盗"黒天狗"、其の正体の一片が少女探偵によって暴かれた。先日、青梅は馬陸館にて発生した"自動人形盗難事件"において美しき少女探偵は大活躍。"黒天狗"が個人ではなく複数の暴漢らによる犯罪グルウプであることを暴き立てた。
尚、メンバァの詳細においては警視庁の発表を待つとのこと。戦々恐々と怯えていた帝都の民も、枕を高くして眠れることであろう。
怪盗"黒天狗" 新たな予告状か
先日探偵少女の活躍により正体を暴かれた犯罪グルウプ、"黒天狗"が新たな予告状を出したことが本紙の取材によって明らかになった。"黒天狗"が新たに予告状を送付せしめたのは千代田区に構える蒐集総院保管庫。
狙いの品は不明であるが、帝都の安寧を守る総院の保管庫に押し入らんと云う大胆不敵な予告状に、総院幹部は怒り心頭の模様で、「帝都の安全を鑑みるうえでこのような狼藉はけして許すことはできない」との講話を発表した。今後の対応と"黒天狗"の動きに注視していくことが必要であろう。









