釉の上面
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 ズボンからスカートへ、Tシャツからブラウスへ。服を着替えたら、次はウィッグを被って。
 素顔を塗り潰すように、下地とファンデを塗っていく。もう少し歳を重ねたら髭の対策も必要になるのだろうか。
 そんな憂鬱も肌荒れと一緒にコンシーラーで隠して、メイクを進めていく。アイブロウにアイメイク、それからチークを乗せて、唇には薄い色のティントリップ。
 仕上げにプレゼントされた香水を薄くつければ、僕はようやく"私"になれる。
 ポケットミラーに映るのは、恋人と会うためだけの可愛い私。毎度のことながら、独学にしてはなかなか悪くない出来だ。ちゃんと女の子みたいな化粧になっている。
 完璧じゃないかもしれないけど、それすらも愛してもらえるはず。
 そんな確信のもと扉を開け、駅のトイレを出た。人が居ないことは音で分かっていたはずなのに、やっぱり緊張する。奇異の目を向けられるのは覚悟の上でも、怖いものは怖い。
 もう少しお金があったり、家族の理解が得られたりしたら別の場所が使えたのだろうけど。少なくとも今の私には、消し切れなかった悪臭の残る男子トイレが、文字通りの化粧室だった。
 電車に乗り、待ち合わせの駅へ向かう。車両内の案内板を探す誰かの視線が私を両断する。そう錯覚する。
 彼女は受け入れてくれるけど、社会はそうじゃない。その事実がギリギリと心臓を締め付ける。
 ちょっと前まで、女装しての外出は深夜だけだった。その時ですら、裏アカウントのフォロワーに褒めてもらわないと出られなかったのに、今はそういう準備も無しに出ないといけない。服のセンスが悪かったら。ぱっと見で女装だと分かってしまったら、きっと異常者のように見られる。承認欲求とはまた違う。認められたいというよりは、否定されたくない気持ち。それが大きく膨れ上がるから、昼間の電車はあまり好きじゃない。
 何より、化粧が崩れてしまうのが恐ろしい。私の可愛さは作られたものだ。素顔から可愛くなれているわけではない。化粧が落ちて素顔が出るだけならまだマシだ。もしも中途半端に崩れて、素顔よりも可愛くない姿になってしまったら?
 スマホのロック画面を鏡代わりに、化粧を確かめる。まだ大丈夫だ。数分で崩れるものではない。
 いや、これからも大丈夫。きっと大丈夫なはず。彼女はいつも褒めてくれるし、これまでだってフォロワーたちには好評だった。
 飛び降りるようにホームへ出て、気を逸らすようにスマホを見る。時刻は集合時間の15分前。お昼と呼ぶには早いけど、おはようと挨拶するには遅いくらい。
 駅構内を少し歩いて移動すれば、ようやく外が見えてくる。駅前の待ち合わせスポットは早くも人でいっぱいだ。老若男女と表現するには些か老人が少なく見えるけど、それくらい色々な人が居る。普段は可愛く感じるファッションも、遠くから見るとそれほど目立たない。あそこに飛び込めば、私も普通の通行人になれるのだろう。
 そういえば、都市の空気は人を自由にするらしい。私の望むように可愛くなる自由も、きっと都会にある。地元なんかじゃなくて、人が入り混じるここに。
 改札を出て、待ち合わせ場所を軽く見渡す。駅から見たときよりも鮮明な人ごみの中で、彼女は既に待っていた。
 女性としては高めの、170cmにも届きそうな長身。それに似合うシンプルな服装。正直、女装していない僕よりも――そもそも比較になんてならないけど――かっこいい。少し長めのウルフカットから覗くピアスは、この前私が贈ったものだ。
 人ごみの中でも目立って見えるのは、単に見慣れた顔だからか、それだけ目立つビジュアルなのか。
 待たせてしまったことは申し訳無いけど、時間にはまだ余裕がある。それだけ待ち遠しかったのだとしたら嬉しい。

「ごめん、お待たせ」
「ボクが早く着いちゃっただけだから、気にしないで。まだ10分あるし」

 私が普段使う一人称よりも明るそうな、あるいは自信に満ちたようなボクという2音。これを聞くと、ようやく彼女と会えたのだという実感が湧いてくる。
 会えた喜びと緊張、あとはなんだろう。ごちゃごちゃした感情をペットボトルの麦茶で飲み干し、改札から早歩きだったせいで上がった息を整えながら、差し伸べられた左手を握る。柔らかくて滑らかな手は、間違いなく女性の手で。どう足掻いても男でしかない私とは全く違っていた。
 インスタで見たおしゃれなカフェや可愛いコーデ、あとは街中で目に留まったあれこれ。会えない間に貯めこんでいた分、話題が尽きることはない。
 そうやって話しながら歩けば、すぐに地元じゃ見られないサイズのショッピングモールに出迎えられる。私も彼女も都心部の人間ではないから、こういうのは少し珍しい。滅多に会えないこともあって、定番の出掛け先となっていた。

「どこか見たいところある?」
「……どうしよ。あんまり無いかも」

 モール内のマップを見下ろし、3階にあるレディースしか取り扱ってないような名前とロゴの店を視線から外す。前々から気になってはいるけど、やっぱり恥ずかしかった。結局、普段通りに無難な雑貨店を指す。
 まだデートは始まったばかりだし。可愛いキーホルダーでも見ていれば、勇気も出るかもしれない。
 使い古した言い訳は脳内で反響するばかりで、何の効力も持たない。彼女は素直に言っても受け入れてくれそうだから、私の方の問題だ。
 ぐだぐだと脳内で言い訳を重ねるのは苦しいけど、それでもやっぱりデートは楽しい。予定も何も無く、2人の関心が向くままに足を運んで、目に映る新商品やカプセルトイの感想を言い合う。
 かわいいね、と彼女が笑う。あるときは雑貨を見て。またあるときは私を見て。
 かっこいいね、と私が笑う。あるときはバンドを見て。またあるときは彼女を見て。
 幸せな時間だ。昔はバカップルと呼ばれる存在を馬鹿にしていたけど、今は気持ちがわかる。むしろ、馬鹿にならない方が失礼だとも感じる。

 楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。気づけば時刻は夕方の5時、良い子の時間から疲れた大人の時間になっていく。

「あ、ドラストだけ寄っていい?」
「勿論。コスメ?」
「うん」

 そろそろお開きだと駅まで移動する最中、ちょうど今思い出したようにドラッグストアを指で示す。本当は朝から気づいていたけど、お金が無い。デパコスはまだしばらく憧れのままだ。
 無音で客を迎える自動ドアをくぐり、目当ての棚まで移動する。そこで私は、運命的な出会いを果たした。




 朝と同じ個室で、朝の逆再生をするみたいに、私は僕へと戻っていく。
 クレンジングシートの茶色や黒の汚れは、つい先ほどまで私の顔に付いていた化粧品だ。唯一残された肌が突っ張る感覚は、労いの言葉一つ貰えなかったコスメの恨みのようにも感じる。
 一度メイクをしたら二度と落とさなくていいのが理想だけど、現実はそうもいかない。肌も荒れてしまうし、いずれは崩れる。何より、メイクをしているのが親にバレたら、なんと言われるか。
 手早く保湿を済ませ、嫌な想像をゴミ箱に捨てるみたいにポーチに道具を仕舞い込む。
 トイレを出る準備が済んで最後に手に取るのは、朝よりも少し重くなった、水筒も入らないようなポシェット。そこに入っているのは、数十分前に買ったコスメとお財布くらい。
 現実感が無い。デート中特有のふわふわする感じではない。壮大な映画を観た後のような気分だ。
 コインロッカーに"私"の服を仕舞い、代わりにリュックを取り出す。ポシェットをそっと寝かせるように入れれば、帰る準備は済んでしまう。

 秋口の空は既に薄暗い。絢爛なショッピングモールとも、不自然なくらい静かな電車とも違う。
 そんな景色を見ていると、楽しい時間が終わってしまったという自覚が遅れてやってくる。
 一度幸せになると、普通の生活は相対的に不幸になってしまう。そういう意味では、デートが嫌いだった。
 気分が落ち着いていく。楽しい時間が楽しかった記憶になって、釣り合いでも取るみたいに嫌なことを思い出してしまう。

 出逢った日のことは、彼女と僕、2人の間の数少ないタブーだ。
 あの日は2人ともストレスが溜まっていた。それを彼女は、手頃な女の子で。僕は男からの承認で晴らそうとしていた。早い話が、ナンパとナンパ待ちの出会いだ。少なくとも僕は、若干自暴自棄になっていた。そのままどこかしらに連れ込まれてもいいか、なんて考えがあった。
 引っかかった彼女にホテル前でネタばらしをして、謝って。ネタばらしで返されて、やけに豪華なホテルにはおおよそ相応しくない青春みたいな笑い声を上げて。取り敢えず自暴自棄なままワンナイトして、裏アカウントだけ交換して、日を跨いでようやく解散となった。一晩の過ちと呼ぶにはあまりに愉快な時間だった。
 それだけと呼ぶにはちょっと汚い、今となれば眩しい思い出。

 でも、汚いものは汚いのだ。石鹸で擦ろうが消毒液を掛けようが、汚かった事実は消えない。だからタブーだ。
 不特定の誰かが偶々僕たちだったんじゃなくて、最初から狙いを定めていたような、そんな関係であればどんなに良かったか。
 僕たちは会った時間だけ、そのときの姿だけを知っている。友達の休日の過ごし方は多少知っているけど、彼女の私生活を少しも知らない。あの日交換した裏アカウントも、メッセージアプリを交換したときに消してしまった。だから、余計に情報は非対称になっていく。
 僕たちは――少なくとも僕は普通じゃない。普通とされる男らしさとか、そういうものに背中を向けて、自分らしいからってだけの理由で可愛さを追求している。そのくせして、周囲の目は気にしているけど。
 
 家に着くと同時に考えを止める。外はそろそろ夜と呼んでも差し支えないほど暗くなっていた。夕食までは、まだ1時間ほどある。
 手だけ洗って、両親にすら顔を見せず帰ってきた自室にて、新しく買ったコスメを開封する。
 ピンクのスーツの女性から買ったコスメには、イワナガという名前が書かれている。聞いたことのないメーカーだ。調べても俳優や食堂が出てくるくらいで、化粧品メーカーは出て来ない。

『化粧品をお探しですか』

 昭和のアナウンサーみたいな、優しくてハキハキした声を思い出す。彼女の反対を押し切って物は試しと買ってみたのは、ファンデとコンシーラー、それから避けていたはずのルージュ。プラスチックのパッケージは、どれも可愛いというよりは綺麗だ。値段は若干上がるけど、少し良い物がどういうものなのかは気になっていたから、丁度いいかもしれない。
 男は男らしく。 
 こういう可愛いものや綺麗なものを見ると、父さんの口癖を思い出す。古臭い価値観だと思っていたし、実際に社会の風潮もそうだった。男らしさ、女らしさという指標は今も生きているけど、他人にそれを求めることは少なくなってきている。
 可愛くなりたい。
 父さんの口癖に反して、僕の理想はそれだけだった。男らしさとか、自認の自由とかはどうでもよくて。ただ可愛くなりたかった。女の子になりたいわけじゃない。目指す"可愛い"の先駆者が女の子だっただけで、価値観が違えば馬に乗っていたかもしれないし、魚を釣っていたかもしれない。本当にただそれだけだ。
 父さんにはその違いなんて理解してもらえなかったし、説明するのも諦めたけど。

「あ……え、と。これは、違くて」

 そんなことを思い出したのが良くなかったのかもしれない。
 ノックとほぼ同時に、突然開けられる扉。ギョッとして扉の方を向けば、そこには失望した顔の父さん。机の上には真新しいコスメ。
 無意味な否定を舌が紡ぐ。言葉の体裁も保っていない、咄嗟の否定だ。耳を傾けたところで情報量は無いし、そもそも父さんは聞く耳を持たない。
 永遠にも思える数秒の後、父さんは不機嫌そうに頭を掻き、ため息だけを残して部屋を出ていった。小さい頃は罵倒にも似た教育が待っていたのに。
 ついに一言も言われなくなったという現実は、足枷が外れたようにも、より大きな檻に投げ込まれたようにも感じる。
 愛想を尽かされること自体はどうでもいい。それでも、これが理由で家を追い出されでもしたら、どこでどうやって生きていけばいいかが分からない。

 部屋の中、父さんが戻ってくるのを期待するように扉を見つめる。10秒、20秒、1分。当然、戻ってくることはない。
 もう遅いと理解したとき、僕の手は自然とスマホに伸びていた。
 通話の呼び出し音を聞きながら、段々不安になってくる。
 彼女から電話が掛かってきたことは無い。掛けるとしたらいつも僕からだ。もし、これが鬱陶しいと思われていたらどうしよう?
 見捨てられた直後だからだろう。呼び出し音が一周するごとに、嫌な予感が一回り大きくなる。

「珍しいね。こんな時間に」
「ごめんね。ちょっとだけ、声聞きたくなって」
「ううん、大丈夫。私も丁度、そういう気分だった」

 永遠にも思える待ち時間の後、スマホのスピーカーから声が聞こえる。落ち着いた声は、僕ではなく私に向けられる声と同じだ。彼女の中では、今も僕は可愛いのだろうか。
 彼女と居る間は息がしやすい。望んだように振る舞えるから。そしてそれは、電話越しでも変わらない。

「さっきさ。お父さんに、コスメ見られちゃって」
「お父さんって、そういうの厳しいんだったよね。大丈夫だった?」
「大丈夫だった。ていうか、何も言われなかった」

 僕の意思とは無関係に涙が溢れ出す。絶叫マシンとは比にならない恐怖。それがようやく、表出された。
 どんな相槌を打ってもらったのか、何を言ってもらったのかも分からないまま、通話時間だけが延びていく。
 また来週と電話を切る頃には、空は黒から濃紺に移り変わっていた。


 爪が液晶を叩き、通話が切れる。
 デートが終わって数時間後、ちょっと遅めの感想戦のような、穏やかな通話時間。少し前に電話で相談を受けて以来、これが定番となっている。
 最初に電話が掛かってきたときは、いい気味だと思った。ボクの言葉を無視して、胡散臭い女から胡散臭いコスメを買った報いだ。持って帰るのもやめておけと言ったのにそれすら守らなかったし。
 それでも、最終的に頼ってくるのがボクという事実に少しだけ留飲が下がる。依存されるのは気分が良い。
 ボクの彼氏かのじょ。弱くて、我儘で、引っ込み思案で。承認欲求とストレスを持て余してる、可愛い思春期の男の子。どうやら親と上手くいっていないらしく、出会った当初は裏アカウントが随分と活発だった。
 とはいえ、ボクもそれを咎められる立場ではない。
 高校くらいから女の子を引っかけて遊んでいたし、今でも他の学科の子で遊んでいる。彼と同じ承認欲求。それから、思い通りに人を操れるという安心感のために。
 そういえば、ボクにとって、彼は何なんだろう。
 今までに付き合った子や適当に遊んだ子たちを思い出し、比較する。
 顔? いや、もっと可愛い子は居た。重かったから別れたけど。
 性格? 良い子かもしれないけど、めんどくさい。
 女の子だと思ったから? 女装だというのは初日に教えられたし、そもそも女の子を選んでいたのも力で勝てるからだ。彼相手でもボクの方が強いから、性別は関係ない。
 趣味は別に合うわけでもない。好みかと言えばそういうわけでもない。ボクの好みは、ボクに引っ掛からないくらいに常識のある子だ。
 考えれば考えるほど、彼の価値が分からなくなる。 彼である必要なんて無い。女装癖という点は珍しいけど、珍しいだけなら他にも色々居た。
 気になって仕方がない疑問を解消するべく、部屋を見渡す。そうして、捨てられずに取っておいた煙草の空き箱に目が留まった。
 卒業式の日に大学生の先輩から貰って吸った、人生初の煙草。思い出としてなんとなく取っておいただけの、ボクの最初の"悪いこと"。うっかり捨ててしまうのを期待して机に放置してるのに、律儀に残してしまっている。
 ああ、これだ。
 じわじわ湧き起こる納得感と、久しく忘れていた自己嫌悪。すっきりするような、それでいて苦しいような感覚は、ちょうど初めての煙草と同じ味だった。


 朝9時、駅のトイレ。僕を塗り潰して、私を新しく描くみたいに、メイクを進めていく。
 イワナガのコスメは、驚くほど肌に馴染んだ。化粧乗りも良く、色味も自然。最初は値段だけ比べて高く感じていたけど、これならむしろ安いくらい。
 それに何より、化粧を落とした後も肌の調子が良い。実際は高級な化粧水なんじゃないかと疑うくらいに。使えば使うほど肌が整って、荒れにくくなっていく感覚。ただの粘土が釉薬によって陶器に変わるような、そんな明らかな改善。減りが遅くなったコンシーラーが気のせいではないと教えてくれている。
 それはまるで、僕と私の境界が近づいていくような……素顔が化粧をした顔に近づいていくような、そんな気分だった。
 いつも通りに彼女と合流して、いつも通りにデートして。普段はあまり入らないコーヒー屋で一服しながら、私は自然な動作を心掛けて、自分の頬に触れた。やっぱり、かつての肌と比べると滑らかだ。

「最近、肌の調子良いよね?」
「うん、イワナガの使い始めてから。すごいよね」
「ふうん。クリーム、前はトッピングしてなかったし」
「化粧が崩れるのが嫌でさ。今は大丈夫だけど」

 彼女の目から見ても、やはり変化は見えるらしい。気付いてもらえて、しかも口にしてもらえるのが嬉しい。けれども、肝心の反応はあまり面白くなさそうだ。実際にそれほど興味が無かったのか、それとも違っていてほしかったのか。そういう機微はよくわからない。
 追い打ちを掛けるように、どういう意図か分からない言葉が続く。何かを疑われているのだろうか。
 どう反応するべきか分からず、目を伏せる。ラテの上に盛られたクリームはマットな質感で、鏡の真似事はしてくれない。こういうカップを覗き込むと顔が見えるのが常だったから、なんとなく逃げ場が無いような錯覚に襲われる。
 こういう気まずい沈黙に包まれると、初めて会った日のことを思い出してしまう。思えば、初めて会ったあの日からずっと、私たちはぎこちなかった。カトラリーを箸として使っているような、本当は違うのに普通に振る舞っているみたいな、そういう不自然さがずっとある。ニキビを化粧で隠すように見て見ぬふりをしてきただけで、不自然さは消えていない。
 それでも。それでも私は、彼女が肯定的な反応をしてくれることを期待していた。
 不自然でもぎこちなくても、私のことを祝福してくれると、そう願っていた。
 こういうとき、自分の猫舌が憎い。気まずさから逃げようと私がコーヒーを飲み干すより早く、彼女はコーヒーを飲み終えて待っていた。
 
「この後、どこ行く?」
「アクセとか見たいな」
「じゃあ3階だね」

 いつの間にか、彼女も機嫌を持ち直したらしい。普段の調子で投げかけられた問いに答え、私の内面も変わっていることに気付く。
 アクセサリーショップも洋服と同じで、恥ずかしくて近寄れない店の1つだったから。あのコスメで可愛くなれて、自信がついたのだろうか。嬉しいような、恐ろしいような気分だ。これからもっと可愛くなっていけば、似合わないと思って諦めていたコーデにも挑戦できるかもしれない。丁度、今日クリームをトッピングできたみたいに。
 
 スマホを見ながら待っていた彼女に待たせたことを詫びる。少しも気にしていないと微笑んだ顔には、不機嫌の欠片すら残ってイない。いつも通りの、優しくてかっこいい笑顔だ。会計を済ませ、近くのエスカレーターへ足を向ける。
 アクセサリーを見て、まだ時間があったら服も見てみたい。
 少しずつ前向きになって、やりたいことが増えていく。そうして色々なことに挑戦して、今よりももっと可愛くなれる。
 そんな確信じみた希望が、確かに私の胸にはあった。


 彼とよく行くショッピングモールとは別の、大学近くの商業施設。平日の夕方なのもあって人が少ないそこで、ボクは買い物に付き合っていた。
 レポートは。試験は。講義は。
 おもちゃの1人から大学の情報を聞きながら、これとか可愛いよ、なんて適当に服を選んでやる。買い物と言っても、ただそれだけ。
 真面目腐って勉強をするよりは、こうやって聞き出す方が楽だし、性に合っていた。
 この子と出会ったのはいつだったか。学食で隣になったのかもしれないし、ガイダンスで話したのかもしれない。なんにせよ、ボクにとって大事なのは、この子のお陰で楽に単位が取れることと、喜んでボクのラジコンをやってくれてることだ。顔も悪くないから、近くをフラフラされてもあまり不快じゃない。
 こういう従順な子を見ていると、最近のお気に入りである彼のことを思い出す。結構ひどい出会いをしたわりに、悪くない関係になった。でも、悪くないのは関係だけ。
 全然思い通りにならないし、最近は得体の知れないコスメにハマっている。正直、あんまり面白くない。

「大丈夫? 何か嫌なことでもあった?」
「どうして?」
「胸ポケット。煙草探してたから」
「ああ。まあ、ちょっとね」

 指摘されて手を下ろしつつ、大したことではないと誤魔化す。
 ボクにとって、彼は煙草と同じようなものだ。必需品じゃないし、娯楽と呼ぶほどでもない。それでも、口寂しくなって吸いたくなったときのために、絶対にポケットに入れておく。その程度の存在だ。その程度なのに、不満が募る。何故なのかはわかっている。勝手に変わっていくのを見て、裏切られたような気持ちになっているのだ。
 彼と付き合い始めたのは、面白かったからだ。最初は本当に女の子かと思ったし、女装してナンパ待ちなんて、ボクの知っている行為ではなかった。メンヘラと別れたところで暇になっていたのもある。
 ちょっとした味変と興味。ボクが手や口を出して、思い通りの姿に出来たら楽しいだろうとも思った。
 でも、最近の彼は、なんというか女装という感じがしない。

「ねえ、どっちの方がいいかな」
「こっち。いつも白系の服着てるし」
「そっか。じゃあこっちにしよ」
 
 突き出された2つのハンガーのうち右側を選び、更に彼のことを思い出す。
 女装だから好き、というわけではない。でも、最近の彼は、女装というよりも、女の子が普通に気合の入ったファッションをしているようにしか見えない。少なくとも、ボクが興味を持った姿とは違う。出会ったのも、それから関係を深めたのも、女装した彼だった。
 だから嫌だ。ボクは変わっていない。彼だけが変わっていく。このボクと女装した彼という関係だったのに、今は違う。ボクだって、女の子を落とすために、努力というほどじゃなくても意識を配ってる。それを彼は得体の知れないコスメ1個で解決なんて、少しも面白くない。ずるい。
 それじゃあ別れるか、と言われると、それもなんとなく嫌だ。彼からは、どこにも行けない人間の匂いがする。凝り固まった不信感に制御しきれない欲望、依存せずにはいられない弱さ。社会に馴染めないガラクタ同士の、仲間意識みたいなものがある。
 仲間? 本当に? 同類ではあるけど、対等ではない。
 服の会計をしながら、ふと疑問を覚える。
 ボクは一度たりとも、大学や他のおもちゃの話をしたことはない。彼は親との関係なんかを話してくる。
 聞く一方なのはそれがかっこいいと思ってるから別にいいし、弱みを握れることもあるから気にしていない。
 でも、その対等じゃない関係は、普通のおもちゃとの関係だ。おもちゃは安いから、壊れたって気にしない。
 彼はその枠組みじゃない。おもちゃは同類ですらないから、そこが違う。
 おもちゃじゃないんだから、ボクの思い通りになってほしい。
 ボクはこんなに、彼のことを思って頼られてあげてるのに。
 彼だけがボクを裏切っている。

「今日はありがとうね。明日、2限からでさ。この服着ていくから……」
「うん、見に行くよ。起きれたら」
「ほんと? やった!」

 嬉しそうに服を抱く笑顔は、すっかり見飽きた表情だ。ボクがそれっぽいことを言えば喜ぶ、折り紙のメダルよりチープな景品。
 彼の笑顔はこんなのじゃなかった。ボクじゃなくて、もっと先の目標に近づいたことを喜ぶような笑顔だ。
 やっぱり、彼だけが思い通りに動かない。ボクの物なんだから、思い通りに動くべきだ。
 作り飽きた笑顔でおもちゃを改札へ見送り、結論を出す。
 あの胡散臭いコスメを無くしてしまおう。全てはあのコスメと、ピンクのスーツの女から始まったのだから。
 あれらを無くせば。ボク以外の支えを無くしてしまえば、きっとボクの思い通りに動いてくれるだろう。


 待ちに待った土曜日、約2週間ぶりのデート。デートが無い日もメイクの練習をしていたから、前よりも素肌が綺麗になっている。イワナガ様様だ。
 普段のデート場所よりも3駅ほど先、初めて会った駅に程近い、彼女が住んでいるマンションの最寄り駅。集合先として指定されたのはそこだった。
 駅前で合流し、徒歩十数分。気になって調べた情報によれば、更に数駅先の大学に通う学生がこのあたりには多いらしい。彼女もそうなのだろうか。車道側を歩く横顔を見上げ、真面目な顔で講義を受ける姿を想像する。学祭か、オープンキャンパスか。何かしら機会があれば見てみたいものだ。
 外装は綺麗だけど少し狭いマンションに踏み込み、下らない妄想を振り払う。講義中の様子を見るのは、少なくとも私には無理だ。

「友達とシェアハウスしててさ。ちょっとごちゃごちゃしてるかも」
「お邪魔します」

 彼女のではないスニーカーを見下ろしながら、玄関の隅に自分の靴を置く。そのシェアハウス相手は出かけているようで、私という異物を拒むものは無かった。拒まれずとも、緊張はするものだけど。
 彼女が住んでいるというのは1Kの小さい部屋だ。シェアハウスという割に、一人暮らしの家という印象が強い。微かな違和感を抱えつつ、意外にもなんとかなるのかも、なんて解釈を加えて。促されるままに、小さなクッションの上に座った。クッションはこの1個だけのようで、彼女はベッドから降ろした枕に座っていた。
 
「イワナガ、だっけ。前買ってたやつ」
「うん? そうだね」
「見ても良い?」

 徐に彼女が口を開く。聞こえてきた名前は、私にとって大きな意味を持つものだった。化粧ポーチからイワナガのものを取り出し、ちゃぶ台のような低いテーブルに置く。
 ケースを眺めて、成分表を読んで、中身を眺めて。
 品定めするような表情は、見ているこっちが緊張してくるほどだ。でも、それ以上に、彼女が興味を持ってくれたのが嬉しかった。けれども、その嬉しさも次の瞬間には掻き消えてしまった。
 バキリと割れる音を、あるいはガサガサとゴミ袋に擦れる音を立てて、ごみ箱にコスメが吸い込まれていく。

「え、は? なん、で」
「だって要らないでしょ」

 理解の追い付かない私にあっけらかんと言い放ち、更に言葉が続く。私の、僕の心をへし折るための言葉が。

「君が悪いんだよ。こんなの使う前から可愛かったでしょ。いままで使ってたやつより高かったし」
「なんで。可愛くなっちゃダメなの? あんなに可愛いって言ってくれたじゃん! 似合ってるって!」
「まあ、可愛くはあったよ。でもさ。私の知らないもので可愛くなるのは違くない?」

 感情的な言葉が、更に別の感情で潰されていく。イワナガのコスメを買う前から、確かに可愛いと言ってくれていた。でも、あの日から、私はもっと変わることができた。理想の姿に近づいていける、"可愛い"への切符だった。親の邪魔とかホルモンバランスとかを気にせずに、好きなように可愛くなれる希望だった。
 そんな切符を勝手に捨てないで。勝手に否定しないで。なんでそんなことを言うの。
 怒りと恐怖で口が震えて、言いたいことは喉で渋滞を起こしている。

「君はさ。ボクが居ないとだめでしょ。裏アカは消したからフォロワーも居ない、親も君を見てくれはしない。そもそも君みたいなのを受け入れてあげるのなんてボクくらいだよ」

 自撮り用のアカウント。親。普通じゃない自分。言われた内容は全部、私の弱点を的確に突いている。彼女が可愛いと言ってくれるから希望を持てたのは、実際にそうだ。
 初めて会ったときも、人から褒められたかったから外に出ていた。SNSのしょぼい数字じゃなくて、対面の嘘偽り無い表情を見たかった。
 そして、彼女は間違いなく、心から可愛いと言ってくれていた。

「君のこと、結構特別扱いしてあげてたんだよ? 他の子は単位とかお金とか貢いでくれるから相手してただけだけど、君はそういうの無かったし」
「他の子って何」

 ガツンと頭を殴られたような感覚だ。僕だけじゃなかったんだ。
 あれだけ可愛いって言ってくれてたのに。信じてたのに。
 
「他の女の子。何、その目? 浮気じゃないって。ボクの彼氏は君だけで、他の女の子はちょっとしたおもちゃだよ。だから君はさ。ボクの評価だけ気にしてればいいの。ボクの評価だけ聞いててよ。それだけで満足でしょ」

 勝手に決めつけるような言葉。泣きそうな声に気付いて前を向けば、弱々しくも燃え上がりそうな感情を秘めた目がこちらを見ていた。
 私を手元に置いておこうとする支配欲。それから、まるで私が唯一無二だとでも言いたげな、縋るような感情。
 そういえば、蝶は蛹の中で、ドロドロに溶けてしまうらしい。私が蛹の中に閉じこもって、気分良く変化している間。蛹の外で待つことしかできない彼女の気持ちを、私は一度でも考えただろうか。いや、少しも考えていない。でも、だからと言って捨てるのはひどすぎる。
 そうして、ようやく怒りが優先権を得た。

「そんな顔しないでよ。勝手に私のこと決めつけて、自分勝手に期待したくせに。が裏切ったとでも言いたいの? 被害者面するんならもっと可哀想になってよ。そっちがやってたことだって結局浮気じゃん。僕からしたら、急にヒスって物捨てたようにしか見えないんだけど?」
「だから浮気じゃないって。君だっておもちゃの1つや2つ持ってるでしょ」
「人のこと何だと思ってんの!? 僕のことだって最初はその程度だったんでしょ!」
「今は違うから! 君しかいないの。だから――」
 
 ゴミ箱から拾えばいい、という気持ちは無い。投げ捨てられた後に聞こえて来た砂のような音は、中身が崩れて溢れ出す音だった。
 僕の切符が無くなってしまった。事故や不運ではない。他ならぬ彼女の手で。
 それに、浮気まで。僕に可愛いと言っていたのは、嘘じゃないとしても純粋な感想ではなかったのだろう。打算ありきか。それとも、口先だけの言葉で喜ぶ僕を内心でバカにしていたのか。
 もう、どっちでもいい。期待したこっちがバカだった。

「ほんと、最低。もういいよ。他人の評価なんてもうどうでもいい」
「は? ちょっと、ねえ。待ってって。おい待てよ」

 こちらへ伸びる手から逃げるようにポシェットを引っ掴み、靴を履いて部屋を出る。
 スニーカーと違って、可愛い靴は走りにくい。 汗で化粧が崩れるのが嫌で、普段はゆっくり動くのを心掛けていたから、これまでは気づかなかった。
 マンションを出たあたりで彼女の足音は聞こえなくなっていたけど、靴を履き直すタイムロスすら許容できずに、駅の改札に駆け込む。ICカードの狙いが逸れたようで、アラートと共に体が止められた。
 そうしてようやく、涙が溢れ始めた。慣れた動作で改めて改札にカードを押し付け、案内板に従ってホームに立つ。
 少なくとも、幸せな日々だったのだ。こんな終わり方にはなってしまったけど。連絡先を消す作業が、スパムアカウントをブロックする作業と同じくらいの軽さになってしまったけど。それでも、楽しくて、幸せだった。遊園地が作り物だと知っても楽しい時間は消えないように、彼女に対する怒りや悲しみと、過去の記憶に対する執着の両方が染みついて消えない。
 丁度同じ車両に乗っている人たちは、声も上げずに泣き続ける私を流し見たり、あるいは少しも気に留めずに携帯を見ている。
 こういうとき、病みアピールをすればフォロワーが慰めてくれた。彼女と会ってからは、直接慰めてもらえた。
 そのどっちも、最早私の手元には無い。
 アナウンスが聞きなれた駅名を読み上げた。記憶の中の動作をなぞるように電車を降りて、いつも通り着替えて。
 ふと気づいた手洗い場の鏡には、ちょっと可愛くなったすっぴんの僕が映っていた。
 そうしてコスメのことを思い出して、ドラッグストアに足を踏み入れる。
 清潔感のある白系統の内装、それから色とりどりな商品パッケージ。けばけばしかったり上品だったりする商品棚を見ていると、彼女と来た時のことを思い出してしまう。
 あの時は、全てがきらきらと輝いて見えたのに。

「そちらのお嬢様。お化粧品をお探しですか?」
 
 再び込み上げてきた涙を堪えていると、聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
 視界の隅に映るのは、ピンク色のスーツ。ハキハキした声は、物欲を煽るためではなくて、一番きれいに見える笑顔のおまけみたいな印象を受ける。
 そうだ。切符を無くしたなら、もう一度発行すればいいのだ。簡単な解決策を見落としていた。力が抜けて滲む視界の中、優しい笑顔に向き合う。

「お久しぶりです。以前お買い上げいただいた商品はお気に召しましたか?」
「……はい、とても。他には、何かありますか?」

 ええ、もちろん。
 スーツと同じ色のハンカチで私の目元を拭いながら、ミヨコと名乗った女性は手に持ったバッグを開いた。

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