鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ……
部屋の中にはそんな音が弛みなく響いていた。タイプライターの鍵盤が叩かれ、文章が紡がれていく音である。中央には緋色の天鵞絨ビロウドで覆われた1つの大きな丸テーブルがあり、そこに先ほどからの打鍵音の源泉となっている古めかしい黒のタイプライターが置かれていた。
テーブルの前には少年が一人座っている。十代の前半ば、一度も日の下に出たことが無いかのように青白い肌の少年が、吊るされたシャンデリア風の照明に照らされていた。少年は時たま机の端、傍らに置かれた書類に目をやりつつ、俯き気味にタイプライターに向かって指を躍らせ続ける。
部屋には天井から床まで、これまた深紅の重々しい垂絹が懸けられている。それが作り出す豊かな襞が窓や入口のドアさえ残さずに覆い隠し、音の響きを吸収してしまうので、絶え間ない打鍵音が外に漏れることは無い。全てを「赤」が包み込む部屋で、少年は漏れ聞こえることを許されない仕事を手掛けていた。
鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ……
タイプライターの傍らに置かれた書類は何名かの人間について記録していた。例えば、兵庫県神戸市に住むとある男は、組織犯罪対策課に勤める刑事として中国からのコンテナ取引を追跡している。ある女はオカルト雑誌に所属している記者で、滋賀県の児童養護施設にまつわる黒い噂を調べようとしている。奈良県の迷信深い地主は、どれだけ金を積まれようとも禁足地とされる山を売り渡そうとしない。
少年の仕事は、彼らの生涯に1つの結末を付け加えることだ。タイプライターが紡ぎ出す物語は、突然で、しかし自然な目立たない人生の打ち切り。刑事の男はある日の晩酌の後に意識を失い、搬送先の病院で脳卒中として死亡が確認される。女記者は連日の疲れから来る眠気に襲われ、目の前を通過しようとしていた電車に引き寄せられる。地主は階段から転げ落ちた際の頭の打ち所が悪く、そのまま帰らぬ人となる。
因果を逆転させたノンフィクションのように、少年が書いた物語は間を置かず全て事実となった。理外の物語は記述に沿うように現実の構造を歪める。彼の組み立てた筋書きの通りに彼らは死に、新聞の紙面を140文字以上埋めることのないその平凡な死因は、険難至極けんのんしごくな世間の興味を1週間すら引き続けることなく忘れ去られる。
打タ-打タ-打タ-打タッ 字移ジイーッ 鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ-鍵打カタ……
暗黒街の帝王アルカポネは、トンプソン・サブマシンガンを「シカゴのタイプライター」と例えた。それとは倒逆さかしまに、彼がタイプライターで打ち出す言葉の1つ1つが、壁に並んで立つ標的をマシンガンで掃射したように人々を仕留めていく。彼らは目隠しされ、自分に狙いが付けられていたことにすら気が付かない。
紙ロールとインクリボンは少年の手により、淀みのない最高能率で人を殺す銃弾となった。書類の束が1つ終われば、また次の書類の束。彼が居ることでこの赤い部屋は途方もなく大きな生物の心臓のように鼓動し、止まることなく死という血液を送り出し続ける。
雇い主にとっては"邪魔者"であるらしい書類の人々を、少年はただ機械的に始末する。「彼らの人生」と「突然の死」の間を隔てる空隙を、どれだけ滑らかな線で継ぎ目なく埋められるか。それだけが彼の考えるべきことだった。その死は少年の間近で起こることではないし、ましてやこの赤い部屋では、彼らの返り血すら目につくことはないだろう。
「随分と手の込んだことをしてるね。こりゃァ」
タイプライターを打つ手が止まる。聞き覚えの無い声に振り返ると、少年の背後には男が一人、壁に掛かる深紅の垂絹に背中を預けて立っていた。男が着流した艶の無い黒の和服が壁の赤とコントラストを作り、彼に纏わる異質な陰影をより濃くしていた。
声を上げようとした少年に、「見張りの連中なら来やしないよ」と言って男は懐から紙を取りだして見せた。筆で何事かをびっしりと書き付けたらしいそれを男が手で2つに裂くと、紙の断面からは墨汁が溢れ出し、同時にいくつかの死体が床に転がる。少年がその死体の顔をよくよく見てみれば、いつも食事や書類を運んでくる者たちに相違ない。
見知った人間が、墨の海に溺れた水死体となって目の前に転がっている。白目を剥いて横たわる彼らを眺め、少年はぶるりと身を震わせた。そして「……何なんだ、あなたは」と、大人びた口調で男に誰何した。
「『繰割くりわる移項いこう』。仲間内ではそういう筆名ペンネームで通ってる」
珍妙な名だ。繰り上げ、割り、移項する。「算術でも教えているのか」と少年が尋ねると、男はニヤリと怪しげに笑んだ。
「ちゃんと"紙背"が読めているねぇ。説かずともそれがどのような文字で書かれているか解るんだろう?」
少年は戸惑いつつも、男の言葉を頷きで肯定した。彼の目には、この世界は詳細に綴られた一冊の本のように見える。言葉は鉤括弧で括られ、晴れた日の太陽は"燦燦と輝き"、オノマトペと形容が音を形作る。果物の皮を手で剥くように、彼はいつだって世界のありようを文章の形で透かし読むことができた。
その文章を"書き換える"ことができると少年が気が付くまで、そう時間はかからない。他の子供が絵本の余白に自作のキャラクターを描き込んでいる頃、彼は叙述された世界を自分好みの表現で彩っていた。やがて彼の興味は、物語の1文字から1行、1つのページまでを大胆に書き加えることに移っていく。
「だがそんな神童も、今やヤクザに飼われてお抱えの"暗殺作家"。嗚呼、悲しい限りだ」
言葉とは裏腹に、繰割は嘆く様子もないままそう言った。
少年をこの赤い部屋に幽閉しているのは、市俄会イチガカイとして知られる破落戸ごろつきども 米国の犯罪集団の血を引く、魔法の使い方を覚えた極道者である。「世界を叙する」才能を見つけ出した彼らは、自分たちにとっての"邪魔者"を人知れぬまま殺してしまうよう少年に強いた。以来この部屋で、少年は無限かとも思われる時間、タイプライターを叩き続けている。
「『赤い部屋』に擬なぞらえてこんな部屋まで設しつらえるとは、市俄のボスは噂通り乱歩先生の作がお好きらしい。おっと 閑話休題それはさておき。わざわざ己オレがこの場所に足を運んだのは、ひとつお前の蒙を啓ひらいてやろうと思ってのことだよ」
「啓蒙か。何を教えてくれると?」
「字面ほど大層なことじゃない。物は試しだ、己をお前の物語で殺して見るがいいさ。いつも通りの手慣れた筋書きでな」
繰割は死を待つ磔刑者のように両腕を広げてみせた。自分を殺してみろとは随分な挑発だ。少年はムッといくらか頬を膨らまして、馬鹿にするなそれくらいは訳無いことよ、という調子で繰割を見据え、タイプライターを素早く打鍵した。
繰割は墨汁が染み込んだ絨毯に足を滑らせ、テーブルへと強かに額をぶつけて
繰割は、異常を感じ取りやって来た下っ端ヤクザたちの増援に撃ち殺され
天井のシャンデリアが突如落下し、それを避けられなかった繰割は
腹痛で繰割は昼食に食べた魚が傷んでいたことを
急性の心臓麻痺が繰割を襲い
繰割は死ん
繰割は
なぜだ。少年は目を見開いた。世界に書き加えようとした少年の文章が、ことごとく打ち消される。いや、違う 目の前の男によって、事も無げに上書きされている。
「……同じことができる人には、初めて出会うよ」
「握った"筆"を奪われる経験も初めてだろう、少年?」繰割はしたり顔でそう言った。「物語超越者メタ・ナラティーバ、『黄土』Type Ochre人型脅威存在、叡智球平坦化著者フラット・オーサー、"物語るならず者ローグモノローグ"……名こそ違えど、理外の文才を持つ世に一握りの人種だ。お前も、己もな」
「筆。この場の物語を叙する"主導権"のことか」
「ご明察!書き手が2人以上居るなら、よりUniqueでExoticな方に"筆"が渡っていく。俺たちの世界の絶対的源理ルールだ。妖しげな『赤い部屋』に1937年製のオリンピア・エリート型タイプライター。中々いいモノが揃っちゃアいるが、お前より己の方が優れた書き手ってことだな」
繰割は、少年に指を突き付けた。
「何故なら、お前はつまらんものを無理やり書かされている」
頭の天辺の方が急に遠くなるような心持がした。侮辱に血が上って熱くなったのか、内心の柔い所を突かれ血の気が引いたのか。少年には自身がどうなっているのか分からない。ただ開放感があった。頭脳の知り得ない領域を絞めつけていた箍たがが外れたかのようだった。
「お前の物語はつまらん。著あらわしぶりこそ大したものだったが、ヤクザ共が求めるままに地に足着いた発想に囚われちまってる。ありきたりの死なんてのは、『転』のない退屈極まる平らかな展開だ」
「死が、つまらない……」
「己はお前の"本物"を見たい。御座おざなりに書かされたもんじゃない、読み終わった途端、口からほうと熱い息が零れ落ちるような入魂の作品。胸の心底から溢れるように湧き出す一編が、見たい」
再び突き付けられた繰割の指。少年はその指の先を追い、自分の胸に目を向けた。物語をつまらなくしているもの。書きたくもないもの、書かされているもの。求められたものを完璧に熟すことだけに腐心して、しているふりをして、目を逸らしてきた自分の本音。
少年は足元に転がる下っ端ヤクザの死体を改めて見下ろした。初めて直接の形で見た人間の死。この赤い部屋にいる限り、届いてこなかったはずの返り血。
考えてみれば、繰割が言ったことの答えは既にそこにあった 何処か縁遠い場所で死を起こすこと。誰かの日常に唐突で当たり障りのない終わりを付け加えて殺すこと。誰にも異常な暗殺だと悟られないよう、市俄会に命じられるまま邪魔者を平凡な死因で消し続けること。
「……書きたい」
ぽつりと少年の口から言葉が零れた。それは本来の年齢に相応しい、胸中から溢れ出た飾らない叫びだった。
「もうこんな人殺し、したくない。書きたいものを、書きたい」
「よく言えた。上出来だ」
少年は急に体へ暖かい温度が伝わってくるのに戸惑った。知れず涙を流していた自分を、繰割が柔らかく抱擁しているのだと理解したのは少し後の事だった。
頭を撫でながら、繰割は少年に囁く。
「行こうぜ。お前を本当の意味で解き放ってやる」
「……愚図の指一本に何の価値が有んねん、なァ!?次ィ御託言う前にガキ連れ戻せぇへんなら、飛ばす一本はワレの首にしたるからな!」
九藤くどうはそう怒鳴り散らし、受話器を乱暴に叩きつけて通話を切った。市俄会系九藤組事務所 壁に立ち並んだ組員は、組長の逆鱗に触れぬよう背筋を伸ばす。九藤のハンドサインで脇から煙草とライターが差し出される迅速さも、普段のそれより数段早い。
紫煙を長く吐きながら、九藤は苛立ちのまま煙草の頭を灰皿で押し潰す。"赤い部屋の子供"が逃げ出した、という知らせが入ってから暫くの時間が経っていた。少年の行方は、見張りの組員を殺して彼を連れ去ったという"黒い和服の男"共々、杳として知れなかった。
九藤の脳裏に過ぎるのは、市俄会本家に呼び出された際の記憶。書いた物語を現実にする そんな異能を持つ子供を手に入れ、「全てが現実になるのなら」という暗い野心が鎌首をもたげた矢先の呼び出しだった。
『ヌルい真似してくれるなよ、九藤』
市俄会会長、御堂の一言は、九藤の心胆を寒からしめるのに十分だった。市俄会は見せしめの死体を作ることに妥協しない。御堂が寄せた信頼を軽はずみに裏切り、失望させた者がどのような末路を辿るのか。語られる噂に真実味を与える凄みが、その一言には十分な程に湛えられていた。
この失態が市俄会に不利益を与えれば。そしてそれが、会長に知られれば。焦りと畏れを誤魔化すように、2本目の煙草を寄越すよう九藤が指図した。その時だった。
「おぼッ、ウ」
ライターを差し出そうとした組員が口を押えた。直後、押さえられた指の隙間からは紅の飛沫が噴き出す。粘っこく滴るそれは紛まがう方かたなく吐瀉物であったが、異様の血腥ちなまぐささを感じてよく見れば、そこに混じっているのは人の血潮に相違ない。
「うえァ、あが」「んぐ。いぇぐ」「おぐ、ガぁあ」
嗚咽は他の組員たちにも波のように広がっていた。粉微塵に砕けた血液と肉塊が嘔吐され、リノリューム張りの床に生々しい赤い花を咲かせる。九藤は咄嗟に服の袖で自分の口を覆った。かつて対立組織との抗争中に投げ込まれた、旧日本軍のいわゆる「あか剤」 ジフェニルクロロアルシンやジフェニルシアノアルシンなどの催吐ガス兵器の記憶が急浮上したからだった。
縋りつこうとする組員の手を振り払い、非常口に向かって駆け出す。段ボール箱を蹴散らして続く事務所の裏手、狭い路地裏に脱出することに成功した九藤は、止めていた呼吸を取り戻すように激しく息を吸う。止まっていた思考が新鮮な酸素の供給により再起動し、怒りがその領域を塗り潰していく。誰がこんな舐めた真似を 。
「どうかな、組長さん。滅多に無い見世物だったろう」
声の主は路地の先に立っている。真昼間とは言えど影の濃く落ちたビルディングの谷間では、照りつける陽の逆光を背にした人物が誰なのかは直截に判じ得ない。九藤はゆっくりと目を凝らし、その人影が、先ほどまで血眼に行方を探していた"赤い部屋の子供"であることをようやく認めた。
「ガキぃ!まさかテメエが !」
そう怒号を上げようとした直後、九藤の喉はひゅっと竦む。
その少年は、笑っていた。牙を剥きだすように吊り上がる口。あの赤い部屋に居た時のように気怠げな愛想笑いを浮かべるでもなく、今まさに復讐を遂げる歓喜を露わにしているわけでも無いそれは、ただ純粋に、狩りの昂奮と悦びに打ち震える獣の表情だった。
再度脳裏を過ぎったのは、市俄会本家での御堂の警句。
『そいつのような人種は理屈じゃない。願いを叶える魔人だと勘違いしてるようなら、いつか必ず牙を剥かれる』
九藤は今まで、さながら猛獣使いの如く少年を飼いならしてきた。徹底的に押さえつけ、脅し、興味を逸らすことで、殺しという芸を望む通りに出させるよう仕込んだ。だが、何かの切っ掛けで甘美な血が獣の口に滴り落ちたとしたら?封じ込められた自我が啓ひらき、解き放たれたとしたら?
一度人の肉の味を覚えた獣が火を恐れることはない。そうなれば、食われる前にこちらが殺すしかない。躊躇いなくジャケットの拳銃を抜き放ち、撃鉄を起こそうとして 九藤はそれを取り落とした。
「この手の諧謔ユーモアはお気に召さなかろうね。でもひとつどうかな。胸の内を互いに"吐露して"みる、というのは」
少年の言葉が頭蓋に鈍く反響した。眼球の奥の耐え難い圧迫感は、明かりに目が眩んだせいではない。三半規管に溜まったリンパ液が渦巻き、足に入れようとする力が萎えていく。尋常でない不快感に九藤がえずくと、喉の奥から溢れ出したのは組員たちと同様、血混じりの吐瀉物だった。
「くそ、がァ……!」
それでも全身に滾った憤怒と執念のみで九藤は動いた。壁に手を突き、這いずるようにして彼は少年の方へ進むが、その間も嘔吐は止まらない。爛爛とした少年の目に見つめられながら、九藤は牛のように鈍のろい歩みで彼に近づいていく。
「ずっとありふれた死の物語を書かされてきた。だが、気付いてしまった。それが自分の書きたいものではないのだと。気付かされてしまった 」
どれだけ進んでも、吐瀉物は九藤の喉奥から止め処なく雪崩れ落ちていた。おかしい。この路地裏全体を浸し塗りつぶすかのようなそれは、如何に見積もろうと一般的な成人男性の胃の容量を超過している。
「もっと……派手に殺していいのだと」
九藤の吐瀉物には、次第にありえないものが混じりだしていた。ごろりと地面に転がったのはタールで黒ずんだ肺。続いて柔軟さを失った肝臓、本来食道に繋がっているはずの胃腸までがぼとぼとと口から吐き出されていく。あらゆる臓器や血肉が、九藤の中から零れ落ちつつあった。
「がボッ、あぐァああああ!」
最後の叫びが怒りによるものだったのか、自分が失われていく恐怖によるものだったのかは、もう分からない。萎んでいく水風船のように、九藤は体の中身を底浚いに吐き戻す。残骸が吐瀉物の海に倒れ、べしゃり、と音を立てた。空っぽの皮だけが、彼の残した全てだった。
自分が成した酸鼻極まる惨状を眺め、少年はぶるりと身を震わせる。あの赤い部屋で初めて直じかに"死体"を見せられた時に走ったものと同じ震えだ。しかし今は、それが戦慄ではなく、昂奮であったことを少年は理解している。退屈を一息に吹き飛ばす血腥い刺戟しげきに、彼の眠れる狂気は過たず感応したのだ。
「見せてもらったぜ。お前の一編。気分は如何様いかようだい?」
そんな声が聞こえたかと思うと、どこからか繰割が姿を現す。恍惚とした虚脱の中にあった少年は、天を仰ぎながら、ゆっくりと噛み締めるように言葉を紡いだ。
「これは……いい。強烈な眠ねむけ醒ざましになった」
「おうとも!ヤマもオチも無い"ペラい日常スライスオブライフ"じゃ満足できないからこそ、小説は事実よりも奇ッ怪でなけりゃならないのさ。煽情的エロティックに、猟奇的グロテスクに、不合理的ナンセンスに!じゃなきゃ脈絡もなく物陰から出て来た忍者に全員ブッ殺される方が数段愉快ってもんだ」
少年は深く頷き、同意する。彼の幾分血走った、そして白眼勝がちにどろんとした目は、早くも次の獲物を求めるかのように世界を見廻していた。
「さて、これでお前は自由の身になったわけだが」
繰割はまた、ニヤリと笑んでそう切り出す。
「お前が両親のもとに帰らずに、この文虐の非道を究めたいというのなら "下天茶屋"って宿に、己が声を掛けた『同好の士』が集まってる。市俄の執拗しつこい追手から身を隠すのにも丁度都合好いだろう。いかがかね」
「是非とも、紹介願いたい。……その仲間内では、あなたのように珍妙な筆名ペンネームをつけるのだったか?」
「そう。己は黒岩涙香を文字って『繰割 移項』だ」
少年は今一度、眼前の光景を舐め回すように眺めた。初めて自分の手が直に血に塗まみれた今日。恐らくはこれから犯す無数の罪悪が並び書かれた1ページの1行目。記念すべきこの第一歩は、自分の名に刻んでおいても良いかもしれない。
「では江戸川乱歩と、そこの組長さんの見事な死に様にあやかって。『反吐皮へどがわ牛歩ぎゅうほ』というのはどうだろうか」
「ヘェ……そりゃアいい。ポー御大もビックリだな!」
笑い声とともに、2人は雑踏に姿を消していく。吐瀉物の撒き散らされた路地裏には静寂が訪れ、通報を受けた警察、それに次いでやって来るであろう"財団"をしばしの間待つこととなる。だが彼らが到着した時には、既に理外の力を持った下手人を街角の中に見つけ出すことはできない。
そして主を失った「赤い部屋」の中には、どこの隅を探して見ても、最早や、夢も幻も、影さえ止めていないのだった。



