1.
新瑞市あらたましは、南から海に、北から山に、と迫られたちっぽけな平野に位置している。それだから5月ともなれば、夏を思わせるムッとした空気が南の方から攻めてくるのだ。
その日の昼下がりもそんな陽気だった。一面の青空には穏やかに太陽が輝いて、空のふちでは山際の方で薄い雲がひらひら飛んでいる。そんなのどかな空気に当てられて、ぶらぶら3つのランドセルが歩道の真ん中で揺れていた。
「あーあ。せっかく早上がりで帰れるのによー。なーんもすることないじゃんなー。」
先頭のちびな少年が、頭の後ろで腕組んでぶつくさ文句を垂れる。半袖短パンの彼は初夏の陽気にダレることもなく、元気に暇を持て余していた。さして特別返事をするわけでもないが、後ろの2人もそれには同感のようだった。
「先週見た怪奇映画、あれ面白かったじゃないか。僕もまだ他にお気に入りのがあるから、みんなで見るってのはどう?」
建設的な意見を述べたのは、すぐ後ろのノッポな少年だ。3人の中で唯一知性を感じさせるメガネをずり上げて、後ろ向き振り返る。「どうかな?」
「えーっ。ボク、こわいよう。血とか、あんまり出るの好きじゃないんだよ。UMA特集とかならいいけど…。」
聞かれた大柄の少年はおずおずと答えた。この少年、体格の割には肝っ玉が小さいのである。
「なんでえ。けんしょう金もかかってないUMAなんて、俺はごめんだぜ。もっとスリリングなのでなくちゃあ。」
くるりと後ろ向きになって、後ろ向きのままちび少年が答えた。彼の趣味嗜好は肝試しとかお化け屋敷とかそういう方向に向いている。「なんかもっとスゲーのじゃなきゃヤダね!」
「そうはいってもショータくん、他になにか思いつく?」
「そうだよー。チックンの言うとおりだよ。なにか案を出してよ。」
「ちぇっ……ポッポまで言わなくたっていいじゃんかよ。わーったって。」
ちびのショータこと赤井 翔太あかい しょうたは、後ろ向きで歩きながら、うーとかあーとか唸り始める。その後ろのノッポのチックンこと近川 まなぶちかがわ まなぶも、太っちょのポッポこと若林 大和わかばやし やまとも、あんまり期待できなさそう、という目でショータの姿を眺めた。
彼ら3人は小学1年の頃からのなじみで、いつも一緒に遊んでいる凸凹トリオだ。見た目も性格もてんでバラバラに見えるが、そんな3人にも家が近い以外の共通点がある。それは「オカルトが好き」ということだった。小学校にはオカルト倶楽部のようなものこそ無かったが、不思議なものや奇妙なもの、ひっくるめて「怪異」(と3人は呼んでいる)が大好きな少年たちだった。時折誰かの家に集まって行われれるホラー映画会も、町内を探検に出かける調査行も、それぞれ共通の宝のような時間だった。だからこそ「なにも予定が無い」という今の状況は、遊ぶに忙しい彼らにとって、もったいないの一言に尽きるのである。
「俺ら3人のオカルティックでスーパーなひととき…新瑞神社…は先月行ったな。町はずれの蔦屋敷つたやしき…は時間がキツイな。うーん……。」
その時、ぽふっと音がしてショータの歩みが止まった。ショータが顔を上げると、チックンとポッポがショータの後ろを指してアワアワしている。すわなにごとや?とショータが振り返ると、さらりと烏羽色の髪が頬に触れた。
「やあ少年。歩くときは前を向くと良いよ。道を外さずに済むからね。」
黒髪のロングヘアーを目元でぱっつんと切りそろえた、セーラー服の少女が、背をかがめてこちらを覗き込んでいる。その瞳は薄い灰色をしていた。
2.
そのセーラー服は上下ともに黒く、膝下まで伸びたロングスカートは、ショータの低い背では嫌でも目に入った。胸元に翻る赤いリボンの固そうな結び目を見上げた時、暑くないのかな、などと呑気にショータは考えていた。
けらけらと笑う少女の声が聞こえる。その声でようやく、曲がり角で自分が彼女へ後ろ向きに突っ込んだのだと分かった。
「す、すみません。」
「ああ。いい、いいよ。少年らは元気が資本だからね。私にも分けて貰いたいものだよ。」
にこりと笑みを浮かべる少女。ショータのすぐ後ろで棒立ちになっていた2人も、その雰囲気にようやく胸をなで下ろしてこちらに近づいてきた。
「ごめんなさい。ボクたち、お話に夢中になっちゃって…。」
「そのようね、町中聞こえてるわ。大きな声で話すんだもの。…少年らは、オカルト話が好きなんでしょう?」
少女が、特徴的な色彩の薄い相貌を細める。その表情は逆光で影が差していたこともあったけれど、なぜかどことなく冷たさを覚えるような雰囲気をたたえていた。
「ねぇ、少年。私は有村。有村 久子ありむら ひさこって言うの。私で宜しければ、良い怪奇譚をプレゼントすることができるのだけれど。どうかしら?」
わあ、と分かりやすい声を上げたのはポッポだ。興味津々といった表情で、警戒心も少なに少女へと駆け寄っていく。だがその後ろ、ショータは名前を聞いた途端に眉をひそめていた。
「なぁ…チックン。」
「なに?」
ヒソヒソと声を潜める。大柄なポッポの後ろは、かろうじて少女から隠れてると言えなくもないだろう。
「あの黒い姉ちゃんの名前、聞いたことあるぞ。有村組って極道の家に、チャコって呼ばれてる一人娘が居るんだって。町内会でおっちゃんが言ってた。」
「有村組って、駅向こうにある建設会社のこと? ごくど…そういう所なの?」
「バカ、土建屋ったらヤの付くとこって相場が決まってるだろ。それにあんなバカでかい日本屋敷、そうじゃなけりゃオカシイやい。」
ひそかに勝手に盛り上がり、顔を青くする2人。それを知ってか知らずか、少女は飄々とした調子で、3人に向かって号令を掛けた。
「少年、学校に行きなさい。」
慌てて2人が顔を上げると、ポッポが身を乗り出して少女を見上げているところだった。その時、少女の指は唇の上にあり、そこを離れ、まっすぐ3人が来た道の向こうを…学校の方を指さした。
「この世で一番怖い話が知りたいなら、学校の図書準備室を調べてみるといい。私が生徒だった頃のままなら、まだ其処に本があるはずだから。」
そう言って、少女は笑った。何故だかぞくりとするような笑みだった。
「その本はね、『この宇宙の怪異を収容する為の本』なんだ。その中には、この宇宙で一番怖い話も収容されている。少年よ、これはあちらに一歩、踏み出すチャンスなんだよ。」
あの夕闇の向こう側にね。少女はそう言って、すいと指を振った。その先には学校が見えて、いつの間にやら傾き始めた夕日の赤が見慣れた校舎を染め抜き始めていた。もうじき夜がやってくるのだ。
「お姉さん、ありがとう。でも、その本の題名って…?」
"怪異譚"さ、君たちのね。そんな声が、妙にひび割れて、ノイズが混じったような音で背後から聞こえる。3人が怪訝な顔で振り返ると、そこにはビルの影がアスファルトの向こうに伸びるだけの道がある。黒のお姉さんの姿は、いつの間にかどこにも見えなくなってしまっていた。
3.
深夜9時(少年らにとって、深夜とは夜の8時以降を指す)、少年らの通う新瑞市立新瑞第二小学校(通称、ニショー)正門前に人影があった。人影は先頭から、ノッポ、チビ、太っちょの3人組。時折街灯に照らされて浮き上がる彼らの表情は、まるで怪盗が大豪邸に潜入するかのように鋭く爛々と輝いていた。
「俺の計画通りに。頼んだぜ、チックン。」
静かに頷くその顔の上で、メガネが光を反射する。ポッポとショータはと言うと、正門そばの垣根に身体を突っ込み、特に隠れてもいないが隠れた雰囲気を醸し出していた。
チックンが、門の端に備えられたインターホンを鳴らす。「ぴんぽーん」と間の抜けた電子音が響いて、しばらくして、しゃがれた用務員さんの声が聞こえてきた。
「はい、どなた?」
「えー、ごほん。あー、あのー。すみません。えー、6年1組の、えー、近川と申します。あの、教室に忘れ物を」
「あーはいはい。6年生の子ね。今鍵開けとくからね。開いたら入って取っておいで。帰りにまた鳴らしてくれたら閉めるから。」
ビーと短いビープが鳴ったかと思うと、ガションと大きめの音がして門が揺れた。チックンがそっと門に触れると、ガラゴロと音を立てて門が開くようだった。
「2人とも! 開いたよ。」
「おう、楽勝だったな。ポッポ、開けてくれ。」
「わかったよ~。」
意気揚々と門扉に手を掛け、片手で軽々と押し開けてしまう。実は3人の中で、一番力持ちなのはポッポなのだ。
「よっし、行くぞ! まずは職員室の鍵かけ板だ。その後はちょう特急で、図書準備室までかけ上がるぞ!」
頷きあう3人。ザッと音を立ててめいめい立ち上がると、一目散に校内へと駆け込んで行く。見上げるとそこには、昼間と打って変わって暗闇に包まれた校舎がそびえていた。
…
5分後、ショータの手の中には、目的の「図書準備室の鍵」が握られていた。ステンレス製の、黒ずんだ小さな鍵だった。
4.
「あった。"怪異譚"ってこの本じゃないか?」
チックンのやや興奮した声が、薄汚れて埃っぽい小部屋にこだまする。ここは図書準備室。3階の奥、校舎の中でも奥まったところにある部屋だ。
3人の背丈よりも遥かに大きい書架の前、懐から取り出した携帯電話のライトを照らし、一冊の本を掲げるチックン。その元に、それぞれ別の書架を漁っていた2人が集まった。
「あっ、ずいぶんボロボロの本なんだねえ。タイトルはなんて言うの?」
「ええと…『少年少女のための怪異譚』とある。茶色いシンプルな本だけど…表紙の絵は炎、なのかな? 著者名は…書いてないか。」
B5判のノートよりも少し小さい程度。擦り切れて年季の入ったその本を、何度もひっくり返してはためつすがめつしてみる。タイトル以外、特に目に付く記載は何も無いようだ。
「おいこの本、バーコードがねぇぞ。」
ショータの素っ頓狂な声にチックンの手が止まる。そう、何も目に付く記載が無い、つまりタイトル以外は何も表紙に書かれていないのだ。
「本当だ。ISBNコードも無い。」
「あん? その…なんたらコードってなんだよ。」
「ISBNコードは、本を区別するために付けられる番号なんだ。本にはそれぞれ、出席番号みたいな固有の番号が付いていて、どこの誰が出版したものか一目で分かる仕組みになっているんだよ。普通はどの本にも、コードか出版元情報が書かれてるはずなんだけど、これには無いみたいだねえ。」
「じゃあ、どこの、誰が、いつ書いたか、ぜんぜん分からない…ってコト?」
「そういうことになるね。こんなの、市の中央図書館でも見たことないなあ。」
同人誌ってやつなのかもね。個人で作られた本も世の中にはあるらしいんだ。本好きのチックンはそう言ってメガネをずり上げた。この題名以外一切不明の奇妙な本は、確かに3人の好奇心をそそって仕方のない本だった。この本が何なのか、早くこの目で確かめてみたい。ワクワクで、身体が震えるような感覚を3人は味わっていた。
「うし、じゃあ確かめるためにも、中を見てみようぜ。」
そうだね、さんせーい、と賛同の声が続く。3人が厳正に見守る中、チックンは携帯のライトを光らせたまま棚の上に置き、ゆっくりとその表紙をめくり開いた。
…目次、あとがき、解説。読書感想文などで読む本に付き物のそういったガイドは一切ない。唐突に、3人にとってはむつかしい単語の羅列が、端から端までびっしりと書き連ねられていた。ところどころ読めない漢字もあるが、おおむね何かの小説か、レポートのようなものらしい。
「ふうん…文章の内容からすると、怪談集みたいなものかなあ。都市伝説みたいな話が、随筆文みたいに書かれているね。こことか…おじさんの視点で、肌がくさったおじいさんの話が書いてある。古い短編集なのかな。」
「でもチックンくん、この本、白紙のページがあるよ。」
ポッポの指す方へ目を向けると、確かに短編の終わりに白紙の頁があった。
「あららマジかよ。しかも、いくつもあるぜ。この本の作者、作りが甘いんじゃあないの?」
「乱丁…にしては数が多すぎるね。一体なんのためのページだろう?」
パラパラと、頁をめくる音が暗闇にこだまする。全体をめくってみれば、意外に文字が書かれた頁はまばらなようだ。ところどころに唐突に現れる用途不明の白紙に、思わず首をかしげてしまう。やはり只の怪奇創作集、という訳ではなさそうだ。
その時だった。
「こ、この話は!」
チックンの鋭い声。思わず2人が顔を上げると、蒼白な顔をして、とある頁を見つめるメガネの姿がそこにはあった。つられてその頁を読むと、見出しにはこう書かれていた。『牛の首』。
「なんでぇ、首がどうしたってんだよ。」
「知らないのかいショータ君。これは、この世で最も怖いとされる怪談なんだよ。」
「「えっ…怖い話?」」
声が重なる。もっとも、ショータの声は嬉しそうに明るく、ポッポの声は恐ろしそうにか細く、だったが。
「あぁ、といっても実際には怖くないんだ。」
「…どういうことだよ?」
「『牛の首』は、一種のジョークなんだ。この世で一番の怪談がある。それは牛の首だ。その内容は……ああ恐ろしくて口に出せない、ってね。結局のところ、誰もこの話の内容を知らないってオチなんだよ。」
「なんでぇ、したらつまらん話じゃないか。」
ぷいとそっぽを向くショータ。その隣で胸を撫で下ろすポッポ。ただ、本を持つチックンは、そのどちらとも違う真剣な表情を浮かべていた。
「つまらなくなんかないさ。見て、この本、『牛の首』って題で、1篇のお話がしっかりと記されてる。怪談の牛の首は、出どころがハッキリしないんだ。もしかしたら、これがその初出なのかもしれないよ。もしそうなら、これこそ怪談界の埋蔵金、とんだ掘り出し物の大発見だよ。発表したら、僕たち有名人かもしれないよ。」
熱の入ったチックンの演説に、ポッポとショータも次第に興味を惹かれ始める。黒のお姉さんは「宇宙一怖い」と言っていた。その伝説の怪談の全貌が、今夜明かされるかもしれない。そう思うと途端に3人の心の臓は高鳴った。
「なんにせよ、ホントにこの世で一番怖いかは、読んでみないと分からんからな。ひとまず読んでみようぜ。」
そして、3人の視線は、いよいよ最恐とされる怪談『牛の首』へと注がれた。
5.
窓の無い、閉ざされた暗闇の部屋。所々茶色く黄ばんで剥げた壁紙。身の丈以上もある威圧感を与える書架たち。そして、小さなキッズ携帯のライトに当てられた、旧き伝説に縁取られた怪談、『牛の首』。3人の身体は自然と強張り、寒気を覚える。カビ臭さと埃っぽさが気にならないほどの好奇心は、少年たちを怪奇の世界へと誘った。そのお話は入り口に過ぎない。
チックンが頁をめくる。牛の首は、名前も分からない、とある小学校が舞台のようだった。その小学校には大勢の生徒が居た。だがその影に、それと同じくらい大勢の"怪異"が潜んでいた。普段は姿を見せない怪異は、暗闇の奥深くで、その存在を強めてゆく
ショータが息を呑む。主人公が現れたからだ。彼らはこの小学校に通う、普通の小学生だった。彼らは楽しく、面白おかしく暮らしていたが、人とは違う素質を持ち合わせている。それは、怪異に惹かれ、怪異に近づこうとする欲望だった。彼ら3人組は、怪異に導かれるまま、暗闇の中へと足を踏み入れる。やがて3人は、「黒の女王」と呼ばれる、無数の異界の闇を揺蕩う女皇帝に見初められ、禁書の宝物庫へと誘われ
ポッポが顔を手で覆う。それは、あまりにも、主人公たちが……「ね、ねえ。」ポッポが指の隙間から、うるんだつぶらな瞳を覗かせた。
「このお話、まるで、ボクたちみたいじゃない…?」
思わず顔を上げる。強張ったショータとチックンの顔と、半分ベソをかいたポッポの顔が突き合わされた。
「や、やめろよ。エンギでもない。」
「でも…でもボク怖くなってきて…。」
「……だ、大丈夫だぜ。この世で一番怖いシーンはまだだぜ。あわてんな。」
「……この後に、なにが書いてあるんだろうね。」
ぽつり。チックンの声が闇に溶けて消える。頁をめくる音が止むと、世界は完全に黒い静寂の内に沈んでしまう。3人の息遣いだけが聞こえて、そこに4人目の、怪異の息遣いまで聴こえてきそうで……。
ショータは、強引に頁を引っ掴んだ。
「と、とにかく進めようぜ。」
青白くなった2人の顔が、ひ弱に頷く。この話の頁は残りあと僅か。本当の恐怖が、この紙の裏で待っている。そのことに気づかないように、3人は静かに視線を向けた。怪談はまだ続く。
3人はやがて、息を殺し、ひそかに深夜の学校へと足を踏み入れた。そこは暗闇の底、魑魅魍魎が跋扈する、この世の裏世界の中、幕の内側。秘され封じられた異常の世界だ。やがて3人の少年たちは、黒ずんだ銀色の鍵を手に入れる。その鍵を使い、書庫の扉に手を掛け、開け放つ。それをずっと見つめていた怪異共は
頁が、めくられる。手が震える。
息苦しくて、目を背けたくて。
それでもめくらなければ、語られなければならない。
その頁の裏に現れる、最も恐ろしい怪異とは……。
最後の頁が現れる。そこには
「ウワ ッ!!!」
地の底から響くような絶叫。はずみで明かりが倒れ、辺りは一瞬完全な暗闇に支配される。再び絶叫。ドタバタガンゴンと、あちこち駆けずり回るような音が聞こえ、子どもたちの短い金切り声が聞こえ…。
チックンが落とした携帯を拾って再び明かりをつけた時、絶叫の主のポッポは、両目を瞑ってガタガタ震えながら、床の上にうずくまっていた。傍らで、腰を抜かしたであろうショータが尻もちをついていた。
「な、なな、なんだよ急に! おどかすなよ!」
「ポッポ君、大丈夫? いったい何があったんだい?!」
ポッポの傍らに集い、彼を慰める。叫びはもう収まっていたが、ベソをかいて震えている状況は変わらなかった。「びっくりしたよう」かろうじてそう呟いているのが聞こえる。よりびっくりしたのは他2人の方だろうに。
しばし2人でなだめすかす。それで少し落ち着いたのか、ようやくポッポは喋り始めた。
「ご、ごめんよ2人とも…ただその…音が…。」
「あん? おとォ?」
耳を澄ます。先ほどの騒動ではずみで落とした本の頁がめくれる音。ちょっとするとそれ以外は何も聞こえないような気がする。だが、集中すると確かに、カリコリ、パタパタ、と、何かが歩いているような音が感じられた。音は、部屋の外、扉の向こうから聞こえてくるようだ。
そのことに気づいた時、3人は思わずその場で固まった。床の上でポッポはぶるぶると震えていたし、チックンは背筋を伸ばしたまま硬直している。わき目にそれを見て、引き攣った表情を無理矢理動かして、何とかショータは声を発した。
「よ、よーし。俺が行くぜ。けーび員さんだったら困るからな…。」
そう行ってショータが立ち上がる。だが、いくらホラー好きとは言え、実際に体験するのでは訳が違う。おっかなびっくり、腰が引けながらも、それでも勇気を振り絞ってショータは歩き、たっぷり時間をかけて扉に到達した。聞けば、パタパタと歩く音は扉のすぐ外から聞こえる。3人は息を呑むが、それよりも早く、なるべく考える間も生じないように、ショータは力を入れて、扉を一気にスライドさせた。そこには。
暗黒の廊下と、
小さな金色の瞳が、2つ見えた。
「なーん」
可愛らしい声が聞こえて、ふっと身体の力が抜ける。ショータの後ろから2人が顔を覗かせると、そこには小さくて愛らしい、一匹の黒ねこが座っていた。
6.
「子猫ちゃんだ!!!」
ポッポが身を躍らせて、ねこを抱きかかえる。ねこはおとなしくポッポの大きな腕にくるまれて、ゴロゴロ喉を鳴らした。先ほどまでの憔悴はどこへやら、ポッポは目の前の愛玩すべき動物を前にメロメロになっている。ポッポは生き物全般に優しく、人一倍動物好きなのだ。
「んだよ…おどかすなよな。」
一転して和やかな雰囲気に、戦々恐々先陣を切って扉を開けたショータも安堵する。溜息交じりの一息を吐き出すと、後ろで棒立ちになっていたチックンに苦笑いを投げかけた。だが、チックンは…この中でただ一人、怪訝な表情を浮かべていた。
「ねえショータ君…おかしくないかな?」
「あん? なにがだよ。」
「ココ、校舎の中だよ? いくら夜で人がいないからって、こんな簡単に外から生き物が入って来れるかな? 鍵もかかってたのに。」
言われてみれば、確かにそうだった。校舎は下校時間を過ぎれば基本的に施錠される。それは教室の窓や昇降口だって例外ではない。教師用の職員室やトイレだって、用務員さんが夜の見回りの時に閉めて回っているはずだった。基本的に、セキュリティの観点から、何かが夜の学校に忍び込むことなどありえないことなのだ。
「そりゃおめー…入れるんだろうよ。多分。どっかから。この学校、ボロいからな。」
たしなめるようにショータが口を開く。だが当のショータ自身、自分の回答には自信が無かった。古いとはいえ、木造の旧校舎と違い、こっちの本校舎はコンクリート製だ。ねこが出入りできそうな穴も、生き物が入ってきたという経験も、ショータには覚えがなかった。一体全体、どこからこのねこは現れたのだろうか?
肝心のねこの方を見ると、おとなしくポッポの上に抱かれて心地よさそうに鳴いていた。少なくともこの状況でポッポだけは満足そうだ。一方のチックンはと言うと、なぜだかビクビクと怯えている。時折「アレルギーが…。」などの呟きが漏れ聞こえてきた。こんな愛くるしい存在にも怖がる奴はいるんだな、とショータは勝手に一人で感心してしまっていた。
「あっ、子猫ちゃーん。」
ふっとねこが身をよじると、するりとポッポの腕から抜け出てしまう。ねこは鮮やかに床に着地すると、そのままサーッと音もたてず、暗がりの廊下の向こうに走って行ってしまっていた。「なーん」また鳴き声がして、立ち止まる気配がある。暗闇の中で、金色の瞳が2つこちらを向いて浮かんでいた。
ポッポを見ると、名残り惜しそうに手を空に踊らせていた。よほどねこが好きなのだろう。
「ほっとけって。俺ら、この怪異譚を見つけに来たんだぜ。」
ショータがチックンを指さす。チックンの胸元には、先ほどの騒ぎの最中にも冷静に拾われた、例の怪異譚が大事そうに握られていた。
「ってそうだった! チックン、例の怪談のオチは?!」
「うん、それなんだけど…。」
歯切れが悪そうに、例の本が開かれた状態で目の前に突き出される。気になって仕様が無いという風体のショータと、まだ心残りあるようにちらちらと廊下の奥に視線を向けるポッポが、本の元へと集う。そこには。
「な、なんだよこれ…。」
白。何もない、白紙の頁が開かれていた。
「あれえ、おかしいねえ。オチだけ書き忘れちゃったのかなあ。」
「これだけしっかり印刷されてて、それはないと思うけどな…。でも実際に書いてないから、これも落丁なのかなあ。不自然だよね。」
けんけんがくがく、小さく言い合う声が廊下に響く。そんな2人を尻目に、ショータはつまらなそうな顔をして、ふいと目をそらしてしまった。せっかく苦労して忍び込んだ夜の学校、さんざ宇宙最恐と煽られた怪談『牛の首』のオチが、白紙なのだ。ひどくだまされたような、苛立つ気持ちがショータの中に芽生えていた。とはいえ、一緒に連れだって来た2人にそれをぶつけても、仕様の無いこと。それが分かっていたショータは、頭を冷やすためにも2人から少し離れ、他のところに意識を向けていたのである。
だから、ショータの目が先ほどの闖入者、闇の奥に消えた黒ねこの方へと向くのは、至極自然なことだったのである。
「な、なあ…。」
そこで、ショータは気づく。
「ショータ君、どうしたの?」
チックンがショータに近づく。ショータの目線は廊下の奥、暗闇の一点を捉えて離さない。その呼吸は浅く、何かただならぬことが親友に起きたのだとすぐに知ることができた。ショータは、強張ったままの顔で、目線をそらさずチックンの疑問に疑問で返した。
「さっきのねこってさ、1匹だけだったよな? 例えば…4匹とかじゃなかったよな?」
「4匹も校内に入り込む訳ないじゃないか。…なんで4匹なんだい?」
「だ、だってよう。アレ……。」
ずいと、指を差す。示された方向、廊下の暗闇の奥深くには…。
「ねこって、八目やつめじゃないよな。目玉は2個だよな。」
爛々と光る、8つの金色の瞳が浮かんでいる。超然的な状況に、チックンもポッポも息を呑む。
「や、8つもある訳ないじゃないか…。あんな、8つも目が付いてるヤツなんて…。」
クモくらいだよ、とチックンが漏らす。その刹那、8つの金色はゆるりと空を舞い、3人の身長の倍はある、巨大な蜘蛛が姿を現した。蜘蛛は眩しそうに眼をギョロつかせたかと思うと、そのモジャモジャの体節を震わすように忙しなく動かし、3人めがけて一気に走り始めた。
「「「ワ ッ!!!」」」
もはや誰が叫んだか知れない。3人は、一目散に廊下を駆け出した。
7.
「走れ走れ走れ!」
明かりの無い廊下を3人分の疾走する音が響き渡る。床のリノリウムは足踏みの衝撃に響きをあげ、窓が天井がその音を何倍にも増幅させる。四方八方から聞こえる自分たちの足音に大勢の人間に追い立てられる感覚を覚えた。その感覚はあながち間違いではない。実際に追いかけるのは大勢の人間よりもタチの悪い一塊の巨大蜘蛛だったのだから。
「チクショウ、チクショウ。なんだ何なんだよ!」
「ショータ、君! しゃべんないで走って! 1階まで行けば出られるから!」
「ふはっ、はふう、2人とも、まって……。」
バガン!と轟音が響き渡る。見ると大蜘蛛は掃除用具入れの金属製ロッカーをなぎ倒して、狭い通路を通り抜けるところだった。「アイツ怪力かよ!」叫ぶ声も虚しく誰にも届かない。
やがて階段に到達する。ショータは4段、5段飛ばしで階下へと飛ぶ。チックンは2段ずつ、少し遅れてポッポは1段ずつ下り始めた。ここは3階、2階分降りれば外に出られるはずだ。大蜘蛛は廊下が狭いためかまだ現れてはいない。
「っ! あと1階!」
一足先に2階へ飛び降りたショータは、横を見てギョッとする。2階の廊下の先、暗がりの向こうに人影が見える。大人の背格好、だがショータは騙されなかった。視線の先の向こう、影の立つ位置に覚えがあるからだ。それは。
「でっ……出たァ ! 人体模型が来てるぞォ !!!」
ぎぃ、ガラガラガラガラガラ。音を立てて滑るように迫ってくるのは、理科室の人体模型だった。その半分割の顔は笑っている。
「あぅ! 逃げて、逃げて!」
後ろからチックン、ポッポがショータにぶつかる。もつれ乱れて、ほうほうの体で3人は1階へと駆け降りる。後ろからガラガラと人体模型の迫る音が聞こえ続けた。
転げ落ちるようにして階下に達する。後ろを振り返るまもなく、揃って廊下を全力疾走する。昇降口は目と鼻の先、教室3つ分を越えれば出口のはずだ。
「教室は見るな! かけぬけろ!」
叫んだのは見てしまったからだ。暗闇の中で、ガタリガタリと真っ黒なヒトガタが席を立つ。それらは1クラス30人分教室の中に居て、押し合いへし合い入り混じって教室のドアに殺到しようとしていた。
「2…3…4…5…5!」
数字を叫び、チックンが蒼白な顔でショータを見る。
「オカシイよ! とっくに過ぎてる! 出口が無い!」
「んなアホな!」
確かに無い。駆け抜け続ける廊下はどこまでも続いて切れ間がない。慌てて見上げれば真横の教室の番号は「1-釥ャセ蠑熙」だった。
「あぅ!」
どしゃっと音がして足音が1人分減る。慌てて足を止めて振り返れば、ポッポが転んで倒れ込んでいた。慌てて駆け寄り2人でポッポを担ぎ上げようとする。重い。
「ショータくん、チックンくん、ボク、もう、怖いよ……。」
えぐ、えぐと声を詰まらせる。その下で歯を食いしばって2人はポッポを引きずった。
「しゃべんな…! まだ、まだ道はある、きっと…!」
「その通りですぞ、ボーイズ。」
キャッとチックンから短い悲鳴が上がる。進行方向の先にまた人影がある。その影は二股に割れた帽子を被り、白塗りの顔面に剥き出しの歯を光らせている。それはまごうことなき、
「ピエロだ!」
ピエロそのものだった。くけけけけ!と不気味な笑みを浮かべ全身が波打つように関節を無視して震え始める。その姿は有名なホラー映画さながらだった。
「イヤァ !!!」
「ポッポ!」
途端に金切り声を上げ、凄い力でポッポが跳ね起き、駆け出し始める。ピエロはニョホニョホとか意味不明な声を上げて、2人を無視してポッポの逃げた方を追う。止める間もない。
「逃げろポッポ! ぜったい後で合流すっからな!」
「ポッポ君! 僕らもなんとか抜け道探すから、今は耐えて!」
その刹那、ポッポの通り過ぎた教室のドアが押し破られ、黒い洪水が溢れ出す。それはよく見れば様々な人や顔が折り重なって一体となった濁流で、空洞の目を向けて一目散に2人めがけて押し寄せ始めていた。
一瞬の静止。2人は目を合わせる。無音のようにも感じられる瞬間の中で、2人は頷きあう。
「「後で会おう!」」
バッと左右別の方向へ走り出す。廊下の先に分岐が見えて道が分かれていたからだ。チックンは右、ショータは左に曲がり、それぞれの道を駆け出し始めた。
8.
「落ち着こう、落ち着こう。冷静に、クールになろう、まなぶ…。」
息を切らせながら、チックンが呟く。広大に入り組んでしまった校舎の中で、ここはトイレに当たる場所のようだ。幸い敵は撒いたのか、近くに気配は無い。
喉が乾いてくっつく。胃も痛い。足も痛い。疲労困憊の中、チックンの目はまだ死んでいない。3人の中では1番の知性派を自負する彼の灰色の脳細胞は、この異界の中にあっても、むしろ平素よりも激しくフル回転していた。何か、何か打開策があるはずだ。
「なーん」
その時、声がした。ビクリと身体を震わせて、チックンはその場で鳥肌立つのを感じる。その声は例のねこそのものだったからだ。
「なーん」
やがてトイレの方から、1匹のねこが姿を表す。今度は黒ねこではなく、三毛猫だった。
「や…やめてえ!」
ぶるりと身震いして身を引く。チックンはねこが嫌いではないが、生理的に苦手だった。小さい頃身体が弱くてアレルギーが強く、ねこを抱きしめて大いに発作が起きてしまったことがある。そのトラウマで、アレルギーの弱まった今もなんとなく、ねこには触れないのである。
と、そこで思い当たる。
「そうだ…なぜ、ねこなんだろうと思ったんだ。」
ねこを見る。愛くるしい、小さくて可愛い見た目をしている。これを怖がるのは自分くらいだと言う自覚がチックンにはあった。先程まで襲ってきた怪異共は皆どれも恐ろしい風貌で迫って来る。だが、このねこは嫌に自分に特化している。そこに言いしれない違和感があった。
このねこは、恐らく怪異側だ。だが、なぜ僕の前にだけ現れるのだろう? なぜ僕だけが怖がる姿をしている?
「もしかして、この怪異たちは…。」
ゴロゴロ喉を鳴らすねこを尻目に、それに触らないように迂回しつつ、チックンは再び駆け出した。
「こわいよう…こわいよう…。」
ベソベソとべそをかきながら体育座りで隠れているのはポッポだ。ここは体育館の壇上に置かれた教壇の裏だ。ピエロをなんとか撒き、逃げ込んだは良いものの、入り口は1つしかなく下手に動けない。外へ繋がるドアは全て固く閉ざされ、ポッポの怪力を持ってしても開けることができなかった。(ひ弱な大人になら勝つくらいの筋力はあるのに、だ。)
「なんだか、本も持ってきちゃったし…。」
懐から、例の『怪異譚』を取り出す。あの大騒ぎの最中、チックンが落としかけたソレをなんとなく拾い、今の今までそのまま持ってきてしまったのだ。この恐怖の始まりの本を、ポッポはあまり持っていたくなかった。
「『牛の首』…。ショータくんがあんなの読むって言うから…。」
グズりながら、パラパラ頁をめくる。ポッポは初めから怖い話と分かっていて怖い話を読むのが得意ではなかった。もっと神秘的な、歴史を感じられる本が見れればそれで満足だったのだ。だがその思いは虚しく、今は静まった体育館で頁をめくっている。そのことがたまらなくポッポを不安にさせ、不安を紛れさせる読書に集中させた。
だから、その節を見つけられたのは色々な偶然の賜物だった訳である。
「あれ、このお話…。」
ポッポが開いたのは牛の首のお話の最後、白紙の頁、だった。"だった"と言うのは、そこが既に白紙では無かったからだ。
「やっぱり…! 続きが書きこまれてる…! ……このお話は、くもの登場と人体模型、黒い人、ピエロ…これ、ボクたちの体験と同じだ。」
あるいは、その逆?
その時、バタンと大きな音がして体育館のドアが開け放たれる。ポッポは心臓が口から飛び出そうなほど驚き、思わず、立ち上がってしまった。
そこで目にした光景に、彼は涙を流すことになる。
ショータは足が速い。それは体育の成績であったり、陸上部からのお誘いであったり(3人で遊ぶのに不都合なので断ったが)、様々なところで常に役立ってきた。その最たる活用法が、今まさに発揮されている。
すなわち、数十人のヒトガタたちと、ピエロと、人体模型と、大蜘蛛との命懸けの徒競走である。
「なんでっ! 俺のとこにっ! 全員来るんだよォ !」
必死の形相で加速を続ける。ここの廊下はパッと見無限の直線のようだ。横に並ぶ真っ黒な教室からは過ぎるたび黒いヒトガタが這い出てきて、拡充され、追手がどんどん増えていく。もはやショータの真後ろは百鬼夜行の様相を呈していた。
「こいつ!」
足に力を入れ、さらにスプリントをかける。上履きのゴムが熱で加熱してツルツルになってる気がする。こんな全速力で走ったのは生まれて初めてだった。ショータは通りすがりの掃除用具入れを蹴り倒し、バリケードを作りながらもなおも逃げて行く。その行為に終わりは無いように見えた。
「ショータ君!」
そこへ、突如現れた階段の下からチックンが駆け上がって来た。ここ1階より下の地階など無かったはずだが、指摘する暇も体力も残ってなどいない。2人は速度を緩めることなく合流すると、連れ立って同じ方向に走りを再開した。
「チックン! 無事だったか!」
「うん! それより、思いついたことがあるんだ!」
大きく息をする。切れ切れになりながらも、チックンは息を繋ぎ、一息でショータにその事実を伝えた。
「あの怪異たち、僕らの恐怖を反映してると思う。きっと僕らが怖いと思う何かになって襲いかかってくるんだよ!」
その一声に、ショータはハッとした顔で振り向く。言われてみればその通りだ。ねこはチックンの、ピエロはポッポの、その他は全員がなんとなく"怖い"と考えている存在のコピーそのものだった。
「したら、もしかしてだがよぉ!」
手を合わせてショータが念じる。その願いは幸いすぐ聞き入れられた。
『くぉらぁ ッ! 翔太! あんたこんな夜更けまで何やってんだい!!!』
「ウワ ッ! マジで、出た!」
瞬間ショータの顔から血の気が引く。曲がり角から身を踊らせたのは、どこからどう見てもショータの母親そのものだったからだ。だが当然こんなところに居ようはずもない。一瞬本当に魂の底から縮み上がったショータだったが、そこでニヤリと笑い、ソレを無視して傍らを走り抜けた。
「チックンの言う通りだ! コイツら俺らが怖いと思うモンになろうとするんだな! 母ちゃんはマジ怖いかんな!」
「ありがとう! やっぱりそうだ。この世界は、僕らの恐怖を組み合わせて作られてる。いわば恐怖のサンドボックスなんだ。今ので、それがはっきりした!」
チックンは振り向き、真剣な表情でショータに核心を告げた。
「だとしたら、これはやっぱり僕達の物語だよ! 怪談『牛の首』は、僕達の恐怖の物語として続いてるんだ!」
「したら、終わらせられるかもしんねぇってことか! うし、イッチョーやるぞ!」
2人は一瞬走りながら見つめあい、深く頷きあう。前を見据え、大勢の怪異を引き連れて速度を上げる。その足先はポッポの元を、開かれた"本"を目掛けて一直線だった。廊下の向こうの奥深くに扉が見える。あれだ、と2人は根拠もなく信じ、最後の力を振り絞って全力で駆け抜ける。
やがて2人はそこに達する。蹴破られるようにして、その扉は開かれた!
9.
体育館の扉は開け放たれた。壇上のポッポは、飛び込んできた2人を見て、思わず涙を流した。無事で居てくれたんだ、本当に、本当に、良かった!と。
その後ろに、入り口に衝突し、詰まり絡み、減速こそしたが尚も雄叫びを上げて突進してくる怪異共フルコースを見て、あっと言う間に涙の意味は変わってしまった。端的に怖くて泣いた。
「居た! ポッポ君が本と一緒に!」
「ポッポ! ここは怪談の中だ! お話が続く限り、こいつら俺らの恐怖から生まれ続けるんだ!」
とてつもないスピードでショータとチックンが壇下に激突する。鈍い音がして2人の顔が苦痛に歪む。その瞬間、2人の身体がむんずと掴まれ、同時に天高く舞い上がった。壇上のポッポが2人を思いっきり引き上げたのだ。
ズドンと音がして、尻もちをついた2人が転がる。一瞬息が詰まるが、それどころでない彼らは涙を堪えて押し寄せる怪異の大群を見た。
「いいかよく聞け! 怪談のオチは俺ら自身だ! 怪談を読むのを止めなけりゃ、ぜったい止まんねぇ。物語に乗せられて、恐怖から逃げてちゃダメなんだ!」
恐怖に飲まれれば、死ぬ。その確信だけが全員にある。だが今の物語は自分たち自身だ。恐怖を認め、その上、克つ者でなければ止められない。この世で1番怖いモノ、それは際限の無い『恐怖心』そのものだ。それに立ち向かう為には、暗闇の中に立ち止まらなければならない。
3人は壇上に立ち、怪異を見据える。恐怖は入り混じり合い混沌とした黒の濁流となって目と鼻の先まで迫ってくる。どこかスローに見える世界の中で、3人は目を配り、頷く。濁流が壇下にぶち当たる鈍い音がする。手が口が目が、3人へと伸びて来る。頁がめくられ続けている。その行為を止められるのもまた、この物語の主たる彼ら少年たちだけなのだ。
怪異が触れる刹那、声を揃えて、少年たちはその言葉を口にした。怪談を終わらせる、強き意思の言葉を。
「「「この話、続きはまた今度!!!」」」
10.
突然の静寂。急に訪れた静けさに、3人の耳は揃って痛くなる。あまりの変化にくらり立ちくらむと、そこには打って変わって何も無い体育館の光景が広がっていた。怪異など、どこにも居なかった。
「お、終わった………。」
ほぼ同時に、全員がその場にへたり込む。息も絶え絶え、足はガクガクだが、確かに"生きて"いた。生き残ったのだ。
「……怪談を読み続けるうちに、怪談の世界に引きずりこまれる。だったら、自分から読むのを止めればいい……。ショータ君から聞いた時は、まさかとは思ったけどね。本当に途中で中断できるなんて、ねえ。」
「しょせん物語は物語だろ? 語ってやんなきゃ、パワーも出せないと思ったのよ。俺らが語り手になってたってのは、チックンの気づきだったけどな。」
「ほんとに、ほんとに2人とも良かったよ……。引っ張り上げなきゃ、死んじゃうと思って……間に合って、本当に良かったよ。」
そう言うとポッポはまたぐすぐすと泣き始めた。今回は本当に色々あったのだ。2人も笑ってその身体に寄り添い、グッと身を寄せ合った。温かい、熱いくらいの、少年たちの命のぬくもりがそこにはあった。
「それにしてもこの怪異譚、今考えると、怪異が封じられた本ってところだったんだね。黒のお姉さんが『怪異を収容する本』って言ってたのも頷けるなあ。」
チックンが唯一その場に遺された戦利品を掲げる。あれだけの一騒動があったものだが、この本だけは変わらずにそこに在る。怪異と言うよりも、それに干渉するためのアイテムのように思えた。
「あの姉ちゃん…今度会ったらぎったんぎったんにしてやる。」
「やめようよお。『この世で一番怖い』なのはホントだったでしょー?」
「ヤの付く家の人だから止めといた方がいいね。それに…こんなスゴいアイテムを教えてくれたんだから。こんなの誰も作れないよ。作り方も出どころも全部謎なんだもの。」
そういうのを、ロストテクノロジーって言うんだよ。興味深そうにチックンがそう告げるのを(知らない単語だったので)聞き流しながら、ショータはパラパラと怪異譚を開いて眺めた。そこに先ほどまで感じられた恐怖感は残っていなかった。だが。
「あれ? おいこれ見てみろよ!」
3人が顔を突き合わせて、その頁を覗き込む。それは先程まで苦しめられた『牛の首』の頁で、あいも変わらずオチは空白のままだった。しかし、その話のすぐ後ろの、元来空白だった頁は、もはや白紙では無くなっていた。そこには白紙の代わりに、仰々しい難しい文章が記されていた。
『███-████-██は、「牛の首」と称される1篇の物語です。この物語は非活性状態において空白の状態を取るものの、物語が読者(以後、対象)に読まれた際、活性化状態になります。活性化した物語は、対象の過去の行動と同期した記述を表示します。また、最後に現れる、最も直近を示した記述が読まれた場合、対象が最も恐怖しうる事象を付近に"投影"することが判明しています。…』
「……なんだこりゃ? チックン、読めるか?」
「うーん…難しい漢字もあるし、言い回しも堅くてあんまりだけど…多分、『牛の首』の説明をしてるんじゃないかな。」
えーっ、と気の抜けた声を上げたのはポッポだ。ボーゼンと言った風にその頁を見つめ、首を捻りながら自分なりに理解しようと努力を見せる。
「つまり…怪異さんたちに出会って、それを見たボクらのお陰で、怪異譚さんの内容も増えた…ってコト?」
「うーん、ちょっと信じられないけど、多分ね。」
「そうだよねえ。そうしたら、これって、なんだかボクたちの活動の図かんみたいだね。うれしいねえ。」
ニコニコと本の背を撫でるポッポ。その後ろで、爛々と目を輝かせて、身を乗り出すちび少年の姿があった。
「だとしたら…だとしたらよ、これって、これこそ、俺らのマイ・バイブルじゃねぇの!? これ1冊で、オカルト活動記録全部集められるぜ!?」
その言葉を聞いて、パッと表情が明るくなる3人。本を囲み、丁寧に握りしめ、思わぬ戦利品を祝福する少年たち。やはり彼らは生粋のオカルト好きで、目の前の"本物"に誰より目が無いのだ。3人の心は既に1つになっていた。
「よーし決めた! この怪奇譚がいっぱいになるまで、俺らで怪異を探し出して、見つけまくろうぜ! 俺らのオカルト探検団の結成だ!」
わっと場が盛り上がり、2人が拍手してくれる。思わず立ち上がったショータは、いい気分になって言葉を続けた。
「活動の前に名前が必要だな。俺らのグループの、俺らだけの超スーパーカッコいい名前。例えば…。」
自分から順々に、3人を指差す。何かの儀式のように、厳かな表情を浮かべて、3人は命名の瞬間を経験する。
「ショータのS、チックンのC、ポッポのP、の探検団。略して『SCP団』ってのはどうだ!?」
ワッと歓声が上がる。少年たちは立ち上がり、疲れも吹き飛んだ様子でキラキラ光る澄んだ瞳を向けた。その手には、怪異を収容する不思議な本、『怪異譚』が握られている。これこそ、町の暗闇に立ち、怪異を追い求め対峙する少年少女たちの一団にまつわる歴史的瞬間だった。
今ここに、新たな世代の誕生がこの世に告げられたのである!
11.
そうして少年らは満足の表情を浮かべ、仲良く昇降口までやって来た。今度は1度も迷うことなく、まっすぐいつも通りに出口までたどり着けたのだ。その事に一同安堵を覚えながら、その服の内側にこっそりと例の『怪異譚』を忍ばせて、上履きをスニーカーへと履き替えていた。家路はもうすぐそこだ。
「今日の事は忘れたらゼッコーな! 俺ら『少年SCP団』は不めつだかんなー!」
いち早く履き替え、スキップで立ち去るショータは大声でそうまくし立てた。それを聞いて、2人も支度しながら笑顔でウンウン何度も頷いた。
と、その時、どすんと音がしてショータの動きが止まった。
「ってえ!」
「おーおー、何だ、赤井か。どうしたこんな夜更けに。」
大人の、男の人の声。慌てて靴を突っかけ、ポッポとチックンも立ち上がると、そこには鼻頭を押さえるショータと、眼鏡にジャージ姿、20代後半くらいの人物が立っていた。
「藤崎先生!」
「あれ。近川に、若林もか。ははあ、お前ら仲良く一緒に来たな?」
藤崎先生は苦笑いで3人を見た。3人はというと、やたらめったら慌てて「えと」「あの」などと呟いている。一応、3人それぞれは「友達の家に行く」と親に言っているので、学校にいたことがバレるとマズいのである。
「あー、まあ『忘れ物、取りに来た』とかだろ? 今回は先生それで良いから、ほら。もう遅いから、早く帰りなさい。親御さん心配するぞ?」
ひらひらと手を振り、玄関ドアへの道を開ける。先生が怒っていないようなので、3人としてはとてもホッとして、安堵の表情で帰路に着き始める。「せんせー、さよーなら。」とポッポののんびりした挨拶が交わされた。
「あーそうそう。」
不意に藤崎先生が声をかける。3人は呼び止められて怪訝な顔で先生を見た。
「用務員さんが『帰りが遅い』って言ってたけど、何もなかったか? 例えば、怖い体験したとかさ。」
思わず顔を見合わせる3人。大人に会った時に言うことは、既に全員心得ていた。
「「「なにも!」」」
余りのハモリ具合に、思わず藤崎先生は吹き出した。
「そーかそーか。なら良かった。さ、遅いから帰りなさい。夜道に気をつけてな!」
3人が校舎から立ち去っていく間、藤崎先生はひらひらと玄関口で手を振って見送った。彼らが見えなくなると、手を止め、戸を閉め、鍵を取り出して手早く施錠し、ふうと大きく息を吐き出した。
ジャージのポケットから、無骨な黒い折りたたみ携帯を取り出す。1プッシュでコール音が聞こえ始める。接続音。
「A・藤崎です。ええ、はい。カントは動きましたが、やはり何の影響も見当たりません。自然発生した一時的なヒューム異常か、そうでなくても脅威の小さいAnomalousの影響だと思われます。はい。明日念のため点検データを送ります。それでは。」
通話を切り、再び大きく息を吐き出した。胸元からこっそりとタバコの箱を取り出すと、辺りを少し見回して、一本取り出し火をつけた。闇夜に白い一筋の煙がくゆらされる。しばしの静寂。
藤崎先生は、少年たちの帰っていった方を見やった。
「"SCP団"ね…。偶然、だよな。」
また苦笑がこぼれる。藤崎先生はポケットから携帯灰皿を取り出すと、そっと火をもみ消して、懐に収め入れた。そしてまた一つ息をつくと、暗闇のままの廊下の向こうに歩きだし、その内側へと消えていった。