スクルドに手を振って
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回し傾けたワイングラスから、ネオンに彩られた星空がこぼれ落ちていた。
 




 
男は静かに、それを口に含んだ。一度たりとも経験したことのない芳醇な赤ブドウの香りが、口内に渋さを伴って拡がった。それが良いものなのか、悪いものなのかも、今の彼にはあまり関係のないことだった。続くように彼の眼前の女が、青白いドレスの袖を揺らしながら、同じようにワインを口に運んだ。彼女の口元がわずかに緩んだ様子を見て、男はようやくそのワインが特別に"良い"ものであると理解した。

「それで、話とは何でしょう」

その笑みも長くは続かない。女は口早に切り出した。ワンテンポの静寂を描いて、二人以外は灰色になってしまったスウィートルームの時間は緩やかに動き出す。男は困ったように急かさないでくれ、と片頬のみを吊り上げた。同時に、彼は女の強かさに自分は惚れていたのだと思い直した。

自分が仕事について明言できないと、彼女に伝えた時も「それだけの理由があるのね」とそれ以上追及することはなかった。或るインシデントで骨まで抉れるケガを負った時でさえ、彼女は尋ね返すこともなく、静かに男に寄り添い続けていた。そのような彼女であるからこそ、これから告げる言葉も、ワインのように飲み干してくれるだろうと彼は期待していたのかもしれない。

「結婚するんだ」

あまりにも自然に、その言葉は男の口から流れ落ちた。ピクリと動いた赤ワインの眉間は、次第に波紋を刻んだ。初めて君のそんな貌を見たよ、と男はおくびにも口には出さなかったが、目を落とした先で寂寥感とほんの少しの喜びを感じていた。グラスをあおるように、彼は女を盗み見る。湖畔はすでに静寂を示していた。

「誰と?」

女の声はそれでも動揺を隠しきれていなかった。揺れる瞳の中に、彼は氷と炎を見た。それを砕くために、吹き消してしまうために、全てを一度に吐き出してしまえれば、男の体は軽くなっていくのだろうが、重さに耐えきれず潰れてしまうことは、安易に想像がついていた。だから、途切れ途切れの息を、彼は吐き出していく。

「職場の同僚で」
ただれた横隔膜を剝がしながら、嗚咽は嘘へと形を変えた。
「いい人なんだ」
貼り付けた笑顔の糊代には、いくつも泣き顔が指で押し潰されていた。
「だから、君とはいられない」
打ち込んだ安定剤と相殺して、瞳はやたらと渇いていた。
「僕は遠くへ行かなくちゃなんだ」
ヘリウムを吐き出したゴム風船は、いつの間にか、背を丸めて小さく縮こまっていた。それでも、不格好でも耐え忍ぶことができたのだと、男は安堵も感じていた。

14秒の後、「そう」とだけ呟いて、女はワイングラスをテーブルへと戻す。最初の一口以来、その内容物は一切減っていないように、男には見えていた。彼女が手を膝に戻す際に中指が奏でた、グラスハープに似たソのシャープ。石膏で固められた部屋の空気が、それ以上の議論を遮断しているようにすら、彼には思えた。

「尋ねてもいい?」

伏せられた瞳から、男は恋人の感情を推し量ることはできない。つまるところ、彼は今多くの刃物と銃器に囲まれている。女がその中のどれを手に取り、そしてどのように男の、どの臓器を貫くのかを、彼が理解できないのであれば、ほかの誰も彼女の次の言葉を知ることなんてできないのだ。AK-47か、はたまたコンバットナイフか。どこをどう傷つけられようとも、男にはそれだけの覚悟ができている。

「私との時間は、幸せだった?」

はず、だったのだ。

それは最も男の心臓を抉った。結局のところ、彼はアガペーというものを、理解もできないし、経験したこともないし、存在するとも考えていなかった。要するに、それが自分に向けられることが思考の中になかった。男はまた嘘を吐こうとして、もう吐き出すだけの嘘が風船の中に溜まっていないことを悟った。ぺしゃんこになった風船の、やたらとくすんだゴムが、月光の下に曝け出されていた。すぅと息を吸い込もうとして、彼は咳込んだ。もう一度、もう一度。それでも彼の肺の中に、言葉を紡ぐだけの呼気は入ってこなかった。薬が切れかかっていた。

吹き返したのは、女の光沢のある唇が、彼の乾いてひび割れた同等に触れ合ってからだった。流し込まれたブドウの吐息が、男の肺を満たして、凝り固まった風船の中身をゆっくりと取り出した。

「幸せ、だったよ。これを全部、手放したくないほどに」
「そう」

そして女はゆっくりと、彼にしなだれかかる。それが最後になるであろうし、明確に男にも、そして彼女にも刻まれて消えぬ傷になるであろうことを知った上で、男の胸板に顔をうずめるのだ。猫撫で声が、彼の名前を呼ぶ。呼応するように、男もまた、彼女の名前を囀る。

「Weblur  Connor」 「I love you.  I love you.」

ワイングラスは、ネオンに彩られた二人を映し出していた。
 




 
時計は明確に0時を指し示していた。
男は、永い夢を見ていたというように、かぶりを振った。傍らにはヒビの入ったシリンダーが、極彩色の液体を空に零し続けている。薬が切れた様子で、自由に動く四肢を以て彼は立ち上がる。

事前に説明を受けていた通り、確かに彼以外の時間のすべてが停止していた。今、男には針を刺した後の痛みが、自分が生きていると明確な実感をもって訴えているのに対し、それ以外の全てが死んでいるかのようにさえ瞳に映っていた。同時に、死んでいるのが周囲ではなく自分であるかのような錯覚さえも覚える。男の脳内に、蝶のイメージが溢れる。

それでも仕事は明白であった。男が起き上がった部屋の中には複数の携帯型の兵器と、いくつかの嗜好品が所狭しと配置されている。ただ、彼は煙を吸うような趣味も、あのような幻覚を見続けるような趣味も持ち合わせてはいなかった。試しに手に取った一つは、馴染むような感覚を覚えることもなく、火をつけないままに男はそれを床に投げ捨てた。

代わりに手に溶けるように吸い付いたのは、無造作に壁に掛けられた黒いコルト社製の回転拳銃だった。若いころ、何度も自分を救い上げたその銃とともに、彼は人生の最後を迎える覚悟を決めた。マリネを作る時のように、鼻歌を奏でながら男はスイングアウトに鉛玉を詰め込んでいく。シリンダーの六番まで全てが埋まったそれを、彼は白衣の内ポケットに仕舞いこむ。懐かしい重さが、右肩を引っ張った。

いくつか鎮圧に用いたことのある、名前もよく覚えていない銃をさらにいくつか、男は用意されていたアタッシュケースに詰め込んだ。うまくそれらを扱えるかは知らないが、もしどこかで失敗したとしても、今培養液の中で生まれようとしている大勢の無銘ウェイブラー・デイビスが次のトライアルアンドエラーを再演してくれるだろう。だからこそ、一度目の自分は、何をどうやったとしても上手くいかないであろうという、明確な期待が彼の胸にはあった。

最後に部屋を出る前に男はふと、出口付近に配置されたワインセラーの中に、あのホテルで口にした葡萄酒と同じラベルのガラス瓶を見て取った。一切の嗜好品に興味を持てぬ彼であったが、あの女と最後に飲んだその味だけはよく覚えていた。もう一度を求めるように、気づけば男はそのワインのコルクを引き抜き、隣の棚からグラスを手を伸ばしていた。透明な半球に、音を立ててかつての星空が注がれていく。

「乾杯」と誰に聞かせるわけもなく、男はグラスを高く持ち上げた。

口に含んだその葡萄酒は、彼の覚えている限り、"良い"ものであることは間違いがなかった。ただ、それでも何かが違うことは、男にも分かっていた。全てを飲み干す前に、彼は静かにテーブルの上で、ワイングラスから手を離した。全てが終わった後にこれを見た他の誰かが、それはそれは哀愁の漂うラストシーンを頭に思い浮かべるのだろうが、男にとってそれは渋さに飲み残した赤ワイン以上の意味を持つことはない。そこに星空が浮かぶことは二度とないのだ。

恋も、愛も、友情も、ここに来た時点でそれが無意味であることを、ウェイブラー・デイビスはよく知っていた。それでもなお、もう一度を求めてしまった自分を恥じるように、彼はグラスに背を向けて歩き出す。引き摺ったアタッシュケースが、硬質な音を立てて行く先を示していた。

ワイングラスは、一人の男の背中を映し出していた。




「知っていたのではありませんか?」の問いから、その男女の会話は始まった。問いかけられた女は、少々眉根を寄せたあと、すぐに切り返した。「知っていました」。そのあとに続く言葉を男は待っていたが、特に彼女が何かを口にする様子がないことを察すると、再び女へと問いかけるのであった。「なぜ、止めなかったのですか?」。

女は立ち止まる。それと同時に、胸元のパスケースが上方へ翻り、見慣れた三本の矢印が廊下の照明に煌めいて見えなくなった。その様子を確認し、男は彼女の前へ立ちふさがるようにして再び問いかけた。「なぜ、止めなかったのですか?」。

その問いかけを噛み締めるようにようにして、コナーは静かに吐き出した。「私も、彼も、財団職員であったからです」。恐らくそれは彼が求めているような答えではないことは、彼女にはよく分かっていた。ただ、コナーの中でその部分は、明確に譲ることのできない主張でもあった。

「つまりそれは、貴方がこれから評議会のメンバーに加わることと、関係があるのですか?」

男の目は口よりも雄弁に、その疑問を物語っていた。その疑問に答えるようにして、コナーは己に課せられた呪詛を、いずれ忘れてしまうであろう彼に語り掛けた。

「愛如きより、世界の方が重い。私は彼が81ナンバーに異動を命じられた時点で、その行く先を知りました。そして同時に、彼が誰よりも上手くやってくれるだろうことは、知っていました」

その言葉に、男は黙り込んだ。彼には家に帰れば家族がいて、愛する誰かがいて、秘密の仕事と称し、これからも財団職員として、死ぬ時まで生きていくのだろう。だがそれは、世界を背負う選択肢すら与えられることのなかった、幸せ者の末路だ。この場所で一つの終末を見ることなく死ねるのであれば、ああ、それはどれだけ幸せなことであるのだろうか! 女は衝動的に飛び出しそうになる言葉を、ゆっくりと咀嚼して飲み込んでいく。胃液と混ざったそれは、ゆっくりと溶けて、澱となって溜まっていく。

それきり、男は黙り込んでしまった。廊下に寄り掛かるようにして、彼はコナーの道を開けた。もう二度と会うことは無いでしょう、と彼女は男の横を通り過ぎる。彼は静かに、コナーに対してお辞儀の姿勢を保っていた。それは、プロポーズを申し込んだあの男と同じ姿をしている、と彼女は一度目の世界の終わりを思い出しながら、最後の会話を終えた。

自室に戻った彼女は、机の上の二錠の記憶処理剤を手に取った。事前に説明を受けていた通り、相乗効果のあるアルコールとの同時摂取を試みるために、彼女は冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中には、昇進祝いの贈答品として送られてきた赤ワインが鎮座していた。"彼女はそれが最も苦手であった"が、背に腹は変えられないと栓を開き、ワイングラスに注ぎ込む。流し込まれた星空に、彼女はもう二つ、青い星を放り込んだ。

未だ泡立つそれに、女はゆっくりと口をつけた。それはあの日と同じ味がした。彼なりに考え抜いた、自分を傷つけないための嘘は、あまりにもへたくそ過ぎて、とてもじゃないが笑いをこらえるので彼女は必死だった。ただ、そのへたくそさがどこまでも愛おしく、尊いものにも見えたのだ。彼女もまたその瞬間、今は無銘となった男に惚れ直したのだ。

「   」と瞳から零れていく記憶が、赤ワインに溶けて消えていく。たった二粒の浄罪でコナーとしての生が幕を閉じるというのは、何とも財団職員らしい最期であったと彼女は自負していた。一点一点が零れ落ちるうちに、彼の動作が、彼の声が、彼の顔が、思い出せなくなっていく。自分のことながら、最後まで彼の事ばかりだったとコナーは泣きながら笑っていた。

だらん、と彼女の両腕が落ちる。同時に、持っていたワイングラスが、音を立てて転がった。
 
 
転がったワイングラスから、二人の全てが零れ落ちていた。
 
 

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