エンディングに告別を
評価: +18+x
blank.png

終末エンディングにはどんな音楽が流れるのだろう。

例えば、軽快なポップスやエレガントなジャズミュージック。そんなドラマや映画のエンディングを装飾する旋律たちがこの世界にもあるのなら、一体どんな音色になるのだろうか。

無機質な病室。その外からは朝を告げるように囀る小鳥の歌が聞こえた。

2019年3月5日に世界の終わりが来る。

いつもなら笑い飛ばされてしまうような、もしくは会話の沈黙を埋めるための道具にされるような、そんな話。私も始めはただの噂話とか、そんな類のものだと思っていた。でも、どうやら今回はそうではなかったみたいで。笑っていられたのも束の間。嘘か本当かもわからない終末論を信じた人たちがみんな死んでしまって、気づいた時には自分の日常さえもそれに侵食されはじめていた。

初めての自殺者が出たのは、凍えそうなほどに寒い冬の日。窓の外で、白雪が花のようにはらはらと降っていたのを鮮明に覚えている。病棟の誰かが点滴のチューブで喉を絞めて死んだようだった。私は何かの間違いだと思って、でもそれは決定的な合図だったみたいで。神様がドミノを倒したように、身の回りの人が順番に死んでいった。

そして今日、3月4日。最後のドミノは私だったみたいだ。

ベッドから立ち上がり、ヴェールに包まれたような白い病室を見渡した。部屋の傍らには以前の春、彼が持ってきてくれた桜の造花が飾られている。


『本物じゃなくてごめん』

そう言って彼は目を伏せていたけれど、病室から出られない私を気遣って桜を見せようとしてくれたことが。それが心の底から嬉しくて、来年は絶対に本物を見に行こうとふたりで指切りをしたことを思い出す。
 
彼は時々花束を持ってきてくれる。形式的なお見舞いの花じゃなく贈り物としての。私が花を好いていたのを覚えていてくれたんだと思う。夏には太陽のような眩い向日葵の花を、クリスマスにはポインセチアを。記念日には新しいチューリップの花束を贈ってくれたりもした。その度に特別なんだと思えて本当に嬉しかった。

造花の花弁に触れる。表面はざらざらとしていて、感触は本物の桜とは程遠い。

以前に一度だけ、ふたりで桜を見たことがあった。下校時刻、通学路の並木道。中学の制服を纏ったまま、ひっそりと桜の樹の下を並んで歩いていた。その頃の私たちは今よりもずっと瑞々しくて、桜吹雪に掻き消されてしまいそうなほどに脆かったと思う。繋いだ手から彼の暖かい体温が伝わってきて、彼の頬も桜色に染まっていた。だから、私は花が好きだった。

約束、守れなかったな。半ば諦念に近いような感情が心を軋ませた。造られた白い花弁を見つめる。その姿をそっと心の奥に仕舞うと、私は病室を後にした。

空になった点滴のスタンドを杖にして足をゆっくりと動かす。さながらヴァージンロードを歩くみたいに。皮肉なことに、向かう先は本物の人生の墓場だったけれど。足がわずかに震える。久しぶりに自分の足で歩いたからか、それともまだ私は怖いと思えているのか。どちらでもあるように思えた。

床を踏みしめながら屋上は続く階段の方へ歩いてゆく。アルコールと死臭の混ざり合った匂いが病棟の隅々に漂っていた。覚束無い足取りのまま廊下を抜けると、点滴のスタンドを置いて階段に足をかけた。20段。死刑台までの段数よりもよりも僅かに長い。けれどもそれが死への行進であることに変わりはなかった。

大丈夫。怖くなんてない。そう自分に言い聞かせる。1段登るごとにスリッパの乾いた音が響いた。

記念日は今日だった。桜が咲くにはまだ少し寒くて、でも優しい春の空気が漂う季節。毎年、今日の日だけは必ず彼が隣にいて、贈られた春の花が生けられた花瓶があった。でも、今日は違う。ふと足が止まる。

彼も、死んでしまったのだろうか。

ああ、できるだけ考えないようにしていたのに。私がいるのに先にひとりで天国に行こうだなんて、全く身勝手な人だ。そう笑うと、視界が白昼夢みたいに歪んでぼやけた。

「死にたくないなあ」

本当はもっと生きていたかった。病気が治って、彼と結婚して、走馬灯に流れる優しい思い出たちを愛おしんでトゥルーエンド。ただそれだけで良かったのに。病気だって、ようやく良くなってきて。舞い落ちる桜吹雪の中、綺麗だねなんてふたりで笑い合いたかった。

でも、もうそれが叶うことはない。彼も死んでしまったんだろうし、自分だけが取り残された世界で幸せに生きようだなんてできるはずがない。堰を切って止まらない涙を手の甲で拭う。錆びた金属のドアノブに手を掛けた。


春風が吹きつけ、ふわりと髪を靡かせた。花壇に咲いている春の花が穏やかに揺れなる。なんてことのないたおやかな春の日のように思えた。脱いだスリッパを揃えてフェンスを乗り超えた。ざらついたコンクリートの感触を通して、ほんのりと日差しの温かさが伝わった。屋上から見渡す街は抜け殻のように静かで、終末の存在を改めて突きつけられる。

別に死ぬのは怖くなかった。病気に蝕まれた体には、いつだって死神が付き纏っていたから。空気を肺いっぱいに吸い込み、吐きだす。

次に目が醒めた時にはきっと、私はすっかり元気で彼も隣にいてくれるんだろうから。だから、大丈夫。

「天国で逢えたらいいな」

地面を蹴る。空中落下。仰向けの体制で大空の底に沈んでいく。視界を独占する青は、アクリル絵の具のチューブからそのまま出したように鮮やかで、1点の曇りもない。最期に独り占めするのには勿体ない程、美しい光景だった。

ああ、これで本当に終わりなんだ。思わず笑みが溢れる。じきに私の物語を映し出すスクリーンにはfinの文字が浮き上がって、きっと私のエンディングに音楽は流れない。

それでも。

だんだんと地面が近づいてくる感覚がした。

それでも、もしもまだ希望があるのなら。終わりを諦めない人がいるのならば。その人の幸運を祈って。私たちのエンディングを託して。体に纏わりつく春風の冷たさがどうしようもない孤独を感じさせる。

頭に衝撃が走った。



終末エンディングに音楽は流れない。

いつか聞いたような独白が頭に浮かぶ。あの時も春だったか。仄かなピンク色の花弁が粉雪のように頭に降りかかるのをうざったらしく思いながら、僕が桜の造花を抱えて歩いたあの日。

『もしも、世界の終わりに音楽が流れたりしたらロマンチックで素敵だよね』

記憶が投影機で映されたように脳内で再現される。君の手には桜の精巧な造花が抱えられていて、口元は嬉しそうに緩んでいる。急に突拍子もないことを言うものだから、僕は思わず聞き返す。

『どういう意味?』

『ほら、映画とかって最後の方で音楽が流れるじゃん。この世界が終わる時もそうなったらいいなって思って』

流石にそれは起こらないんじゃないかなと返すと、夢がないねと君が言う。ロマンチストとでもいうのだろうか。君は夢みがちな人で、でも君のそんなところを僕は堪らなく愛していた。映像が不鮮明になって、視界が暗転する。


ゆっくりと目を開く。ぼやけた視界に映るのは灰色の天井。痛んだ首筋と、窓から差し込むおだやかな暖色の光が僕がまだ生きていることを非情に告げてくる。スマホを開き日時を確認した。いつかのツーショットを背景に2019年3月4日の文字が浮かんでいる。3年目の記念日。そして、君の命日。

花を手向けようとした。その為に今日まで自分を必死に言い聞かせていたから。夜にだけ蕾を綻ばせる茉莉花の花束。共に過ごす最後の夜を装飾するのにはちょうどいいと思って。早朝、僕は祈りながら病院へ向かった。

遅かった。

地面に横たわった肢体は、まるで糸が切れたマリオネットのようで。もう二度と開かないようにぐったりと閉じられた瞼と、その下に広がる紅い血を見ても、脳は現実を受けいるのを拒んでいた。

どうしてもそれを信じたくなくて、血溜まりから君の体を掬い上げた。けれども、触れた肌はとても冷たくて、思わず力が抜けてその場にへたり混んでしまう。声にならない嗚咽が漏れていた。目の背けようのない事実だった。君は死んで、生き返ることはない。やり場のない怒りと無力感が喉を焼くようにして込み上げてきた。ピントの合わない君の顔、その横に流れた吐瀉物の匂いが他人事のように鼻についた。

本当にどうしようもなくて、ふつりと糸が切れた。君も、もう何もかもを失った世界に希望を見出せなかったから。だから、首を吊って死のうとした。そのつもりだったのに、僕は死に損ねたわけだ。

もう一度死のうかとも思ったが、とっくにそんな気力も消え失せていた。これからどうしようか。考えたって仕方ないような気もしたから、外を歩きながら死に場所を探すことにした。世界は明日終わる。それまでに僕らは死なないといけない。重い体を起き上がらせて、スマホだけを拾い上げる。部屋を出ようとすると、渡すことができなかった咲きかけの茉莉花の花束が視界の端に佇む。僕はそれを片手に抱えて、玄関の扉を開けると外へ踏み出した。


初春の柔らかな空気が優しく流れていく。

薄明、空がパステル調の色彩を纏う魔法のような時間だった。空のキャンパスには橙や紫がマーブル状に塗り広げられている。その光景はどこか現実離れしていて、終末の存在を思い出させた。鉛の足を持ち上げて一歩一歩地面を踏みつける。誰もいない街をただひとり、亡霊のようにふらふらと徘徊する。まさに映画のエンディングにありそうな場面だった。

そういえば、エンディングには音楽が流れるんだっけ。

少し考えて、なんとなくクラシックピアノのプレイリストを再生してみる。君ほどではないが、音楽が流れないなら自分で流せばいいだなんて発想に至る自分もきっと大概だ。

上着のポケットに入れられたスマホから流れる軽やかな旋律が空虚に響く。それが春の空気によく似合っていて、この世界のエンディングに流す音楽としては最適解かもしれないと思った。僕自身のエンディングに流すとしたら些か勿体ない気もするけれど。

ぱっと街頭が光を放つ。感傷に身を委ねている間に夜の帳が落ちたようだ。空に広がる幻想的な色合いはいつの間にか夜の色に塗り替えられていた。茉莉花の芳香を含んだ空気が肺を膨らませる。視界の端で、淡い街灯の光に照らされる道にふと何かの影が過った。視線を上げる。

「は」

文字通り僕は目を疑った。花束がかさりと音を立てて地面に落ちる。咲き誇った白い花弁が宵闇に染まって薄い紫色に見えた。まだ夢の中に閉じ込められているんじゃないかと思って頬をつねる。痛い。夢なんかじゃない。


君が踊っていた。光を落とす街灯の下で。

真っ白な肢体にイブニングドレスの濃紺を纏って、スカートの裾を翻させながらひらひらと僕の目の先で回っている。それは間違いなく君だったけれど、僕のよく知るあどけない表情はそこにはない。姿こそ付き合ったばかりの頃の——まだ元気だった頃の君のように見えたけれど、どこか神秘的で危うげな雰囲気を醸し出していた。まるで精巧な造花のような、そんな感じの。

思わず膝から崩れ落ちた。君がいる、死んだ筈の君が。どうして。夢でも幻覚でもない、実体を持った君が確かにそこで踊っている。

嬉しいとも哀しいともつかない感情が脳内でぐちゃぐちゃになって混ざり、涙となって頬を伝う。何が起きているのか理解が追い付かなかった。君は僕のことなんて気にも留めずゆるやかにターンする。ただ回っているだけのようだったけれど、それはひどく美しく見えて自然と目が釘付けになった。


ふと手にずっしりとした金属の重みを感じる。掌中には1丁の拳銃が握られていた。確信めいた考えが過る。僕はこれで君を撃ち抜かなければならない、さもなければ永遠に世界に夜明けは訪れない。天啓だった。

「綺麗でしょう?」

透き通った硝子細工のような、繊細な君の声。じわりと額に汗が滲む。早まった拍動が高鳴る。君は僕の方を見て微笑んでいた。緊張と狼狽で声が思うように出せない。言葉がゆっくりと空気に融けて、ピアノの音色だけが僕と君の間に取り残された時、ようやく口から言葉が零れ落ちた。

「どうして、君が」

「時間を許されたの。茉莉花の花弁が落ちるまで、私はここで踊っていられるから」

歌うように言葉を紡ぐ。曲が切り替わり、夜想曲が流れ始める。感傷的な旋律は舞曲のように、街灯の光はスポットライトのように思えて、君が舞台上にいるかのように錯視させた。深い夜を映した双眸が僕を捉えている。

「だから」

白くて細い指先がこちらに差し出された。


夜が明けるさいごのときまで踊らせて」
 

——死に損ないのワルツを踊ろう。

君の手を取る。上質な夜の空気が頬を撫でた。



ワルツを踊っている。街灯の光に照らされながら、あるはずもないエンディングを飾るように。端末から流れる3拍子に合わせてステップを踏み、春風になったかのようにふわりと回る。掴んだ掌は遺体の冷たい温度とは違って、微かに温もりが存在していた。

終末を警告するリマインド機能の通知音はすでに2度鳴っていた。23時と、その30分後。けれども僕はそれを無視して踊り続けていた。夜が明けてほしくなかったから。君を撃ち抜いてしまいたくなかったから。訊ねる。

「夜が明けるのが怖くないの?」

「君は怖い?」

滑らかでどこか掴めないような声が細い喉から発せられる。もう何時間も踊っているのに、不思議と身体は疲れていなくて足取りは軽やかだった。このままふたりで永遠に踊っていられるような気さえした。そう信じていたかった、今だけは。

「怖いよ、とても。このままずっと踊っていたい」

本当に怖かった。

君の手を離したくなかった。もう二度と君を失いたくなかった。たとえこの時間が刹那のものであって、どれだけ儚くて脆いものだったとしても。手をつないだまま緩やかにターンをした。

直後、曲が止まり軽やかな電子音が鳴る。リマインド機能の最後の通知音が23時50分を知らせた。終末が差し迫っている。君もそれに気がついたようで言葉を発する。

「そろそろエンディングが終わる頃かな」

どこか憂いを帯びた声色でそう言った。月の出ていない真夜中の花紺青。君の言葉がいつかの台詞と重なる。

さぞ苦しかっただろう。本当は死にたくなんてないのに、あんなに莫迦げた終末論の所為ですべてを終わらせないといけないだなんて。それでも、君は死への道を決断した。僕は一度終わったはずの君の物語を延命しているのだ。それは君の選択を、決断を無駄にする行為に過ぎない。

手を離す。君は始めと変わらず、夜空と同じ色をしたスカートをひらひらと靡かせながらそこで回っていた。取るべき行動はわかっていた。

僕が君のエンディングにピリオドを打つ。

地面に落ちた拳銃を拾い上げた。震える両手でそれを握って、君の胸元に——レプリカの心臓に向ける。君はそれでいいんだと言う風に笑っていた。

今朝の血溜まりに横たわった君の冷たさが頭を過る。思わず拳銃を握る手の力が緩む。もしここで引き金を引かなかったらふたりでずっと踊り続けられる。もう誰もいなくなった世界で一緒に終焉を迎えるのだ。でもそれは駄目だった。拳銃を持つ手に再び力を込める。僕は自らの手で君を終わらせるのだ。君の意志を無下にしない為に、そしてちゃんとお別れをする為に。

言葉が口を衝く。僕が最期に贈る、君への終止符。

「愛してるよ。永遠に」

「私も愛してた。おやすみ」

引き金を引く。耳を劈くような大きな音が鳴る。君の無邪気な笑顔が曖昧に瞳に映ったような気がして、一瞬後には君は水になって地面を濡らした。花束を水に浸かるようにしてそこに手向けると、白い花弁が離反して水面に漂った。


ふらふらとその場に座り込む。君がいなくなった世界にもまだピアノの音色は流れ続けている。君の物語はもう閉幕したはずなのに。ああ、まだ僕の物語が終わっていないのか。

ワルツ第9番、別れのワルツのコーダが哀しく、優しく響き渡っている。ショパンが愛し合っていた女性と悲恋の末に別れを告げるために贈った曲。

もう目は背けない。君の死にも、期限付きの夜の存在にも。君を貫いた拳銃を自分のこめかみに押し当てる。今度は僕の番だ。終末の所為ではなく、僕が愛したすべてに決別を付ける為にここでちゃんとお別れをしよう。

ピアノの音色が鳴り止み、辺りが静寂に包まれた。月の出ていない静かな春の夜。さながら映画のラストシーン。本当の本当の最後だ。空気を肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。


もうここには居ない君に、そしてエンディングに告別を。

銃声が鳴った。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。