あるエージェントの決別
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面会室は三畳くらいの小さな部屋だった。無駄に白い壁と蛍光灯の光は、生を拒絶するように冷たく見えて寒い。
分厚いプラスチックの板は声を通す穴すら開いてなくて、パイプ椅子の前で孤独なマイクが待っている。
面会時間は20分です、天井から響く機械的なアナウンスが、耳から入って出ていった。

椅子に座った途端に何かが込み上げてきた。ぐしゃぐしゃに絡まった毛糸を気体にしたような何か。胸がどうにも苦しくて、ため息と一緒に吐き出した。ああ、こんな。こんな最後なんて。これからも続くと思っていた日常は、いつだって突然幕を引く。

覚悟は出来てると思ってた。周りの誰がいつどこでどんな理由でいなくなるか分からない。それでも、一度家族を奪われた身だから、きっと耐えられるって思ってた。
でも、こんな仕打ちなんて。おれの考えが傲慢だったと、大罪だとでも言うのか。ここで最初に奪われるのが、いなくなるのが、よりによって。

向こう側のドアが開いた。板は防音加工でもしてあるのか、開く音はしなかった。
先輩が入ってきた時の足音も、反対側のパイプ椅子を引っ張って座り、マイクのスイッチを入れるまでの音も、一切聞こえなかった。

「よ、錦戸」

壁のスピーカーからトランポリンみたいな軽い挨拶が聞こえた。最後に話した時と声も姿も変わってなくて安心する。
こんな場所でなかったらきっと、明日もいつも通り一緒に過ごせると錯覚していた。

「お久しぶりです、先輩」

挨拶を返したと同時に疑問と不安が一緒になって襲ってきた。
おれがここに入ってから、ずっと指導に当たってくれた先輩。おれが誰よりも尊敬する、大事な存在。
財団できっと誰よりも見たその姿は、どんなに見てもいつもの先輩で、だからこそ不思議だった、不安だった。
何も変わっちゃいないのに、どうして先輩は処分されなきゃいけないんだ。収容じゃなくて処分されなきゃいけない程の異常ってなんなんだ。

「さてはお前、異常を探してるな?」

みぞおちに軽い一発を入れられたような感覚。どんなに取り繕っても、どんな隠し事をしても、先輩にはすぐにバレてしまう。
お前分かりやすいんだよ、と言われたことを思い出す。同期の中じゃ一応成績は良いほうなのに。否定してもムダなのはわかってるから、素直に頷いた。

「理由とか、どんな異常だとかは話すなって言われたから言えんけど」
「はい」
「……早い話が助からんとさ。今回の任務に当たったメンバー全員、生きてるだけで後々ヤバいって分かったとか」

さらりと告げられたその言葉が、おれを深海へ突き落とす。信じたくなかった、信じられなかった。本当に、本当にいっちゃうんですか。

「せんぱ、い」
「忘れんな、これがオレたちが対峙する怪異だ」

こうして最後の時間を取らして貰えんのも、何なら安楽死させて貰えるってことすら、ここじゃ良い方なんだぞ?
そう言われても慰めになんかなりゃしない。先輩が生きて戻ってくれなきゃ、何の意味もないのに。

「本当に、戻って、来れないんですか」
「無理だな、収容すら意味ないとさ」

収容すら意味がない。何の慈悲も希望もないその言葉が、今度こそおれを海底に叩き付けた。
今のおれではまだ現実を受け入れるには早かった、幼かったとひしひし感じる。光ひとつ射さない絶望と圧力で、身と心が悲鳴を上げる。
せめて手を握って欲しい、そんな願いすら叶わない。

「まぁお前の方は元気そうだな、変なことないのが一番だし」

あっちこっち怪我して出てきたらどうしようかと思ったよ。と冗談なのかホントなのか分からない言葉がまた耳をすり抜けて消えていく。
続けて何か喋ってるのは見てわかる。でも何を喋っているのか分からない。脳が先輩の声を意味のある言葉に変換してくれていない。

一言一句しっかり頭に焼き付けておかなかったら後悔すると、思考が最大音量で警告を出しているのに肝心の頭が付いていかない。
おれは今この瞬間を記憶したいのに、頭は脳内のストレージから勝手に過去を再生している。過去を思い出したいなんて誰が言った。なぁ、やめてくれよ。
白い部屋、白い光、透明な仕切りに遮られた手。あの日の集中治療室が、今の部屋と重なった。延々と脳裏へ蘇る記憶に、全身の力が萎えていく。


真っ白のカカシは赤い顔。絶対に見るな、気が狂うぞ。ガキの頃からさんざ聞いた話で、それでもあの頃は遠い話だと思っていた。
弟と遊んでケンカして、そのまま二人で大人になるのが当たり前と、きな粉の一粒程も疑わなかった柔らかい過去。それが、あの日。

「なぁ起きろよ、わらび餅おれが全部食べちまうぞ」

バタバタ動き回る白服の人間と、その中心に寝かされた弟。声なんて聞こえてないなんて分かっていても、おれに出来ることは呼ぶことだけで。

「おれはここだって、お前何見てんだよ」

どこにも合わない視線が、何を見ていたかなんて今でもわからなくて。あの日、結局弟はおれを見てくれることはなかった。

「こっち向いてくれよ」

虚空に怯える弟の目。窓にしがみ付く幼い頃の自分。喉と引き換えにした絶叫は、平坦になった心電図の音にかき消された。


「錦戸?」

気遣うような声がぼんやり聞こえる。でも、それに応える力がもうない。どうして、運命はこうも残酷なんだろう。
おれから一体どこまで奪えば気が済むんだ。同じ空間で別れを惜しむ事すら許さないなんて。

「先輩、おれ、悔しい」

口から声が漏れていく。勝手に出ていく言葉を止めようとも思えなくて、自分の中身が少しずつなくなるのを呆けたまま味わった。

「弟だけじゃなくて、先輩まで」

これが本当の別れだというのに、先輩の顔を見上げる力すら入らない。どうしようもない無念が俺そのものを嘲笑う。

「こんなの、理不尽だ、あんまりだ」

子供の駄々みたいだ、頭の中で白いカカシが笑った気がした。黙れ、弟を返せ、先輩を返せよ。おれから奪ったものみんな返せよクソが!

怪異が、憎い。そいつをのさばらせているこの世界も、憎い。
何より、何も変えられない無力な自分が、憎い。


「本当ならここで一喝でもしてやるべきなんだろうがなぁ」

どこか彼方から聞こえるような声に頭が勝手に持ち上がる。自然と見えた先輩の口角は不思議とゆるく上がっていた。
やっぱりオレそういうの無理だわ。そうして頭をがりがり掻く音が聞こえる。何か言いたくて、でも何も言えなかった。
もう残された時間は長くないのに、先輩は何かを頭の中で探している。

ちょっとの間を置いて、姿勢を軽く正しておれを見た先輩。オレなりの言い方で言わせてもらうぞ、なんていつもの顔で言われて、どんな顔を返したら良いのかわからなくなった。
何でもいい、早く言ってくれ。わずかな空白すらもどかしくて、拳に熱がこもる。早く、早く─

「お前、弟さんの亡霊ばっかり追ってないか」

途端に熱が引いた。それすら通り越して体の芯に氷柱でもぶっ刺されたみたいに寒くなる。
全身が硬直して動けない。フラッシュバックする弟の最期。

「お前の過去は聞いたし、どんな理由でもやる気があるってのはいいことだ、でもなぁ」

また頭を掻く音が聞こえる。んー、なんて間延びした声も聞こえた気がしたが、おれの方はがたがた震えそうになる体を必死に押さえつけていた。
図星だった。やっぱり、先輩にはみんなお見通しだった。

講義の時、訓練の時、現場に立つ時、いつだって弟の最期が頭に張り付いていた。
怯えて助けを求める弟の顔、宙に浮いた手。それすら取ってやれなくて、ただ呼ぶだけしかできなかった。あの過去がおれをここまで連れてきた。

同じ事は繰り返させない、絶対人々を守ってみせる、そう決意してここに来たんだ。
何もおかしくない、そうだ何も間違っちゃいない。なのに、何が言いたいんだよ先輩、なぁ─

「お前の側にいる奴等は、お前の世界に入っているか」
「は」

息が、抜けた。何かが、ひび割れた。

「お前の目に映ってるもんが弟さんと怪異だけって感じがするんだよ、もう視野狭窄どころの話じゃなくて」
「……」
「なんかオレの事すら見えてなかった時あったろ、結構淋しかったぞ」

けらけら軽く笑う先輩に、おれは今度こそ何も言えなかった。先輩の背中を追いかけてきたつもりが、その先輩すら見ちゃいなかったのか、おれは。

「これからチーム組んで動くこともあるだろうし、後輩もできるだろうな、先輩面してるお前をからかえないのは残念だけど」
「……」
「今のままだと、周りにいる奴らそっちのけで突っ走るところしか想像できなくてな、そこだけが心配なんだ」
「……」
「こっから先は、もう責任取ってやれないから」

勝手に一人で燃えていたおれを、先輩はいつだって連れ戻してくれた。落ち着け、一つ一つ対処しろと。
失敗したときは隣で一緒に謝ってくれた、時にはかばってもくれた。先輩に頼りきっていた事実を改めて思い知って、恥ずかしくなった。
おれは半人前ですらなかった、親に甘える子供だったのだ。

「オレは怪異の影響で処分される。お前、腹立ってるよな」
「当たり前です!」
「だよなぁ、家族も奪われたお前にとっちゃ、もう暴れ倒したいくらいだろうよ」

真意がわからない。先輩、何が言いたいんだよ。混乱してても時計は見られる、別れが来るまで後10分。
なぁ、どうして黙ってるんだよ、何で目を伏せてるんだよ、先輩、

「なぁ、お前、このままいけば」

すっ、と顔が上げられる。その顔は心配と警告に塗りつぶされていた。

「この先、三人目を奪われる日が来るぞ」

……今度はお前のせいで、な。

何かが、完全に砕けた。粉々の欠片が血管を通って体を巡る。尖ったそれが俺の内側をずたずたにしていく。
いたい、いたい、涙が止まらない。さっきの比じゃない、傷口から溢れた血がみんな目から出て行こうとしている。

『兄ちゃん』

弟の声が響く。

『兄ちゃん、どこ』

おれは、

『錦戸』

先輩。

「……せんぱい、だれも、せんぱい、おれ、せいで、もう」

いたい、いやだ、さむい、たすけて。こわい、せんぱい、さみしいよ。
もう、おれこのさきどうしたらいいんだよ。
何も分からない、決められない。迷子になって怖くて泣いた昔のおれみたいだ。情けないなんて百も承知で、でも中身が溢れ出して止まらない。
顔面ぐちゃぐちゃになって泣きじゃくるおれを、先輩は黙って見ていた。


貴重な時間の半分を泣いて費やして全身の力が抜けた頃、おれを呼ぶ声が落ちてきた。
何とか顔を上げて見た先輩は、いつもの表情に戻っていた。一切笑わないでいてくれたことに感謝する。

「錦戸、オレの事で憎悪に囚われるんじゃないぞ」

無念は誰よりも、お前が分かってるだろう。そう静かな声で諭されて、じわりと壊れた内側が癒えていく気がした。

「今のお前は力も技術も付いている、だが怪異にはそれだけじゃ足りない」

全ての怪異を一人で対処するなんて不可能だ。当たり前のことなのに、おれは傲慢だった。世界を俺一人で相手取ろうなんて。

「お前と共に戦う仲間を、寄り添う存在を、大事にしろ」
「……はい」

何とか返事を絞り出す。よし、と満足そうに笑った先輩を見ていたら、内臓がゆるゆると押しつぶされるように痛んだ。
あんたはもうすぐ死ぬってのに、どうしてそんな木漏れ日みたいな視線を送れるんですか、先輩。
どうしてこんなにあったかいのに、こんなに辛くてたまらないんだろう、おれ。
あぁ、まだもう少し、陽だまりに座っていたかった。

「時間です」

無機質なアナウンスとドアの開く音。時間が来た、おしまいだ。おれが立ち上がるのと先輩が立ち上がるのは同時だった。
もう駄々をこねるつもりはない。最後はちゃんと見送ってみせる。

「じゃあな、錦戸」

軽く手を挙げて立ち去ろうとする先輩に声をかけた。こっちを向いたその目が軽く潤んでいるのは気のせいだ、きっと。

「今までありがとうございました」

背筋を伸ばし、45度の最敬礼。今まで育ててくれた先輩へ、込められるだけの感謝と敬意を。

「当分お前の顔は見たくないな」

先輩の声は、少し掠れていた。

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