「今日のレッスンは以上になります。どうでした?お鍋で炊いたご飯って、格別だと思いませんか?手間も時間も必要だし、毎日できるものじゃないとは思いますが。たまにはね。炊飯器じゃ味わえない食感のご飯、ご家庭でも楽しんでみてほしいと思います」
土鍋の中にこびり付いたおこげとおねばを拭き取りながら、私は次々に部屋を出るみなさんに会釈をしていた。私の声はどうも小さいみたいで、イヤホンマイクがないと水の音にかき消されてしまうから。
「根元先生は家でも、ご飯炊く時に土鍋使うの?」
先生、って呼ばれるような生活に憧れがあった。今の私は、ただの料理を教えてくれるおばあさんでしかないけれど。この教室の生徒のみなさんや、同僚と話している間だけは、かつて教職員を志していた時のことなんかを思い出して、毎回、感慨深いような気持ちになっている。
「私、家じゃ料理はあまりしないのよ」
「あら、そうなの?」
「娘が作ってくれるし、お弁当も買ったりしてる。この歳になってくるともう、自分の料理のために台所に立つ気力なんて、なくなっちゃうものよ……今は、週一のこの教室でしか料理する機会がなくなっちゃって。でも私はここの生徒さん達はみんな優しいし、料理自体は好きだから。続けていきたいものだけれどね」
「そんなもんよね〜……私も娘たちみんな家出ちゃって結構経つし、そこまで凝ったものは最近作れてないわ」
私は料理も好きだったし、人に物を教えるのも好きだ。長いこと教室を続けてくれているスタッフのことも、私たちと一緒に料理を楽しんで、偶に「先生に教わったレシピ、うちの家族にも好評でしたよ!」なんて伝えてくれる生徒さん達のことも、大好きだった。
だから私は、レッスンが終わる度に、酷く寂しい気持ちになっているのだろうか。
「ばあちゃん、うるさい」
孫の歩は携帯ゲーム機を見ながら、居間でひっくり返っていた。何も言葉を発していなかった私がキョトンとしていると、
「やかん!火止めなって!」
やかんの注ぎ口につけられた笛は、これから徐々に音量を上げていくというところだった。私はいっつも沸騰しきってからコンロの火を止めていたのだけれど、最近は誰かに咎められる方が先のことが多くなっていた。
「ばぁちゃん耳遠いからなぁ……」
私は先月に3万円の補聴器を買ったばかりだった。そのことは、歩と千秋さんには大して伝えていない。
「歩。昔はね、やかんの中で熱湯を沸かして、熱くなったやかんを服に当てて、アイロンみたいにしてたことがあったんだよ。やかんの底は丸いから、シャツの隅っこなんかは伸ばしにくかったんだけどね……」
「それ前も言ってた」
戸棚から茶葉の袋を取り出して、小さいスプーンで少しづつお椀に移していく。やかんの注ぎ口が震えて、標的が定まりづらい。これがあるので、あまり水を多めに入れてはいけないのだけれど、今日はうっかり、やかんを重たくしてしまった。
腕を震わせながらお湯を注いでいたせいで、注ぎ口がお椀縁に引っかかってしまった。こぼれ出た熱湯は、やかんを持つ私の手にかかった後、食卓の上のティッシュと薬入れに届くほどに池を作った。そして、そこの端から、私のチュニックとズボンに向かって流れてくる。
「何やってるんですか」
床にやかんを落とした音と、思わず立ち上がった私の椅子が倒れる音を聞きつけた千秋さんが、和室から様子を見に来た。息子の婚約相手である千秋さんには、いつも迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちになる。
「お義母さん、何回目?もうやかん使うのやめてくれません?」
「ごめんなさい。でもまだ、お茶が残ってるから」
「湯沸かし器買ってそれでやればいいんですよ。ティファールとか……」
「……ああいうのは、私、分からないのよ」
「簡単ですよ。コンロでやかん使ったり土鍋でご飯炊いたりするよりはよっぽど簡単です」
料理教室の後に、家で土鍋を使って炊飯してみた。ずっと湯気が吹き続けていて家が暑いと文句を言われ続けたし、歩にも「いつもの方が好き」と言われたので、二度とやらないことにした。
両手がひりひりと痛むのに気付いたころには、千秋さんが雑巾で机と床を拭き終わったところで、“なにボーっとしてんだ”という風な目でこちらに訴えかけていた。
「なんでそんなに機械が嫌なわけ……」
嫌だなんて──
さっきまで千秋さんがいた和室から、モーター音を鳴らしながらロボットの掃除機が出てくる。彼女が「賢いんです」と買ってきたものだった。私が箒で掃除をするいつもの流れなんか知らんぷりで、足元を縦横無尽に、鬱陶しく動き回る。「賢い」が何なのか、未だによくわかっていない。
ひっくり返った真新しいやかんの、錆の一つもない底を眺めながら、私はもうどうしようもなく古い人間なんだ。と思うことしかできなかった。
「どうしたんですかその手!料理で怪我でもしたんですか」
草野さんは今日も明るくて、元気だった。私以外にも、この街で彼の笑顔に癒されている人間は多いだろう。ここで家電を買うときは必ず、彼の案内で買うと決めていた。
「いつものちょっとしたドジよ。ずっとやかんを使っていたのだけれど、今日は電気のやつ買ってみようと思ったの」
「そうだったんですか、お大事に。初めてだと探すの大変ですよね!結構種類あるし」
「まぁ……ねぇ草野さん。私って、機械が嫌いなわけじゃないのよ」
「そりゃあわかりますよ!根元さんにはずっと当店を使っていただいてますから」
「大体は頼まれごとですけどね。私って、根っからのアナログ人間だから。今まで使ってた道具じゃないと、安心できないのよね。例えばルンバは勝手に掃除機をかけてくれるけど、私がいっつもやってるみたいに畳の上にお茶っ葉を撒いてはくれないから、結局私がやるしかないのよ。家電って便利だって言うけど、できることは限られちゃうのよね」
やかんで沸かしたお湯でお茶を飲んで、畳の上にお茶の葉を撒くのが私の日常だ。四角い部屋は隅まで箒で掃かなきゃいけないし、電気釜は土鍋ほど美味しくは炊いてくれない。そんなことを確かめながら生活しているのが、娘たちには面倒くさく映るみたいだけど。
私は包帯を巻いた手を庇いながら草野さんの話を聞いていた。きゅうりをすりおろして塗ろうとしたら「そんなことに使わないで」と千秋さんに𠮟られたのを、ふと思い出してしまった。
「でも、家族にはもう、迷惑かけていられないから。いい加減やめなきゃね」
「やかんも悪くないと思いますけどね〜、じゃあ根元さんのために僕、良いもの紹介しますよ!このケトルなんかいかがですかね、転倒したときに中のお湯がこぼれるのを防ぐロック機能がついてまして──」
歩の具合が悪そうだ。私が家電屋から電気ケトルを買って帰ってくると、歩がソファーで横になりうなされているのが見えた。夏風邪だ。エアコンの効いた室内でいっつも薄着で過ごしていたり、夜遅くまで起きていたのを見ていたので、私は彼の免疫が少しだけ心配だった。
「歩、大丈夫?ちょっと待っててね」
「別に大丈夫だよ……なに」
私は野菜室のキャベツの、外側の葉を一枚だけ剝がす。それとペットボトルを取り出して、歩の脇に挟ませる。キャベツの葉はおでこの上に被せた。
「ちょっとやめてよ、なにこれ」
「お野菜の葉っぱはね、熱出てるときに効果があるんだよ。それと、体温を下げるのには脇の下が一番いいの。冷たいのも持ってくるから、待ってて」
「……食べ物で遊ぶなってまたママが怒るよ」
やかんはまだ仕舞われていなかった。私は外側を軽く拭いて、中に氷とちょっとの水を入れる。氷嚢代わりにしたやかんを、歩のおでこにあてさせた。
「ほら、気持ちいいでしょ。私のお母さんがね、こうしたら氷枕みたいになるってよく教えてくれていたの……」
私が幼いころに熱を出した時から、ずっと忘れずに染みついている、生活の知恵。自分の子供や孫、教え子にも伝えていきたいとずっと思っていた。家族には、お節介だと思われるかもしれないけど。赤みがかった歩の表情も少し和らいできていた。
その時だった。
「ああああああ!痛い!痛い!痛い!痛い!」
突如叫んで悶えだした歩の顔の上では、私がさっき氷を入れたばかりのやかんが──見る見るうちに白くなり、表面に霜を張り始める。転げた歩の顔の皮膚にはやかんがぴったり張り付いてしまっていて、紅潮していた頬は目も当てられないほどに紫色に染まっていた。やかんの周囲からは血が流れ始め、まるでコンロで円形に揺れる火のようにぐらぐらと勢いを増していく。
「ああああ、ああああ、痛い、寒い」
血と涙の張り付いた床に歩は何度も頭を打ち付けてのたうち回り、やがて動かずに震え出していた。腰を抜かして呆然としていた私は、息が白く、指が動かなくなっていることに気づいた。やがて、この事態を引き起こしたそれがこちらに転がってくる。霜まみれになった彼の剥がれた顔は、もう見ていられない。
私の心拍数が激しく上昇する。私は……歩の熱をちょっと抑えたかっただけなのに。
凍えて、息苦しい。目が閉じる直前に、部屋の真ん中で横になっているやかんが見えた。真夏のリビングだったはずのこの部屋は、いつしか手入れされていない冷凍庫のような景色になっていった。
⚠️取り扱いの際の注意⚠️









