灰色
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無機質な音で目が覚める。鳴り続ける目覚まし時計を黙らせて、ベッドに預けていた体を持ち上げる。
まだ眠い目を擦りながら、カーテンを開く。どんよりとした灰色が空を埋め尽くしている。今日は曇りのようだ。
少し、嬉しくなる。煙草を取り上げて外に出る。
ベランダに立ち「世界が新しい色に包まれてどれ程経っただろうか」そんな事を考えながら手すりに寄りかかった。
朝の街を見渡すわけでもなく、おもむろに空を見上げる。雨や曇りの日には、いつも決まってそうする。
 
 
私は空が好きだ、この空が好きだ。他人からしたら、腹痛や頭痛がしたり、暗い気分になるような空であってもだ。
明滅する派手なビルや信号の灯り、濁った到底クリームには見えない色のマンション、濃淡のない緑を茂らせた街路樹が連立する通り、そんな目がチカチカするものを見なくてすむ。
あの頃に近い景色を見上げながら、煙草に火を点ける。鈍い銀色のライターの先から、明るすぎるオレンジが顔を覗かせる。
十数色しかない絵の具の中からとってつけたような火の灯りと、灰色の立ち昇る紫煙が、この世界を体現しているように思えた。色が色に混ざり溶けていた橙や藍のグラデーションも、今や明確な境界としてしか見ることができない。
 
 
私はこの世界の本当を知っている。あいつが残したあの言葉を、その意味を、過去と現在いまの線引きを。だから、日常の何気ないことにまで、その考えが浮かぶ。
真実というのは、時に残酷だ。変わらないものが鋭利な刃物に姿を変え精神を、肉体を抉る。晴れた日には、水色のペンキをひっくり返しただけのような空が目に入る。外に出るのも一苦労だ。
忘れようと頭を何度も打ちつけたり、このベランダから身を踊らせようとしたこともある。
知らなければ、この曇り空以外の他の全ての景色を、純粋に綺麗だと思えたかもしれない。無様に嘆くことも無かったかもしれない。
 
また、煙草を吹かす。違う灰色がひと時視界を埋め、広がって見えなくなる。
雲の色が少し濃さを増した。煙草の灰を皿に落とす。
 
雨が降り出した、今日は雨かもしれない。まだ小雨だが、じきに強くなり辺りを覆ってくれるだろう。
雨の色も昔も今も変わらない。ただ灰色の群れが視界を通り過ぎるだけだ。
たったそれだけのことだが、今を忘れるには好都合だ。変わらない色は心を落ち着かせてくれる。
 
 
目を瞑り、微かな雨音に耳を傾ける。
雨が強くなってきた。遠くの山は霧に覆われ、近くのマンションも雨粒の群れにかき消された。
何も考えず、雨音があたりを包む時が過ぎる。私を現実から引き離すようであり、現実から逃げようとする私を一斉に嘲笑しているようでもあった。
 
半分ほどになった煙草を吹かし、溜め息を吐く。
着信音と共に真っ黒な画面に文字が現れる。仕事の連絡だ、面倒だが行かなければならない。
 
煙草の残りは灰皿に任せて、いつもより心なしか軽くなった、寄りかかっている体を持ち上げる。
たったそれだけの間に、強かった雨は止んでいる。若干の寂しさを覚えながらも部屋に戻り、身支度をする。
アイロンがかかった白いシャツに袖を通す。新調した黒いスーツを羽織り、昔から仕事を共にした紺のネクタイをする。ネクタイもこんなぼやけた色だっただろうか。
 
 
ふと、思う。「いつまで、ここに寄りかかっていればいいのだろうか」溢れ出そうとする感情を、思考を押し殺す。
死にぞこなったあの朝も、出掛けさせられている今も、一度塗られた絵の具のように変えられない。
 
壁に掛かった写真が目に入り心臓が跳ねる。昔、晴れた日に撮った写真だ。何度も見ているはずの写真が、まるで一級と認められる絵画のようだ。
この世界は、ここまで美しかった。まだ、世界の美しさを忘れるには時間がかかるだろう。この写真が色褪せ、新しい色を持つまでは。
 
 
そこまでで思考を止め、机の上にひっそりと佇む銀色の拳銃に一瞥をくれて、玄関へ向かう。
手入れが終わり、あの頃と同じように艶やかに黒光りする革靴を履き、ドアを開け、空を眺めながら歩き出す。
 
 
遠くの方にはあの空が、私の嫌いな空が見える。それを見つけ、顔をしかめる。
午後からは晴れの予報らしい。私に、晴れた空を、あの青い空を、子供がクレヨンで描きなぐったような世界を、美しいと思える日は来るだろうか。
 
 
 
鉛色の雲よ、今しばらく、この空を覆っていてくれないだろうか。
 
 
 
私の心を、覆っていてくれないだろうか。

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