悪い事は往々にして重なるものだ。9/16もそうだった。その日はたまたま、SCP-163-JPの収容に使うアンモニアの補充と、それとは別にサイト-8182の非常用ディーゼルエンジン発電機の水冷機のメンテナンスが同じ時間に行われていた。今にして思えば迂闊だったと言わざるをえないが、誰があんなことが起きると予想できただろうか?
午後2時ごろ、私は同じ部署の研究員であった████と共に、ラボで機材の点検をしていた。その時、原因不明の停電が起きた。とはいえ私たちは慌てることもなく、予備電源が付き、辺りが非常灯の赤い光に包まれるのを待っていた。しかし、いつまで経っても非常灯も誘導灯も付く事はなかった。発電機のメンテナンスを終えてなかったんだろう、作業員がそいつを終わらせればすぐに明かりがつくさ、と████は気楽な調子で言っていた。私たちはまさか、その作業員達が既に死んでいるなんてことを考えもしなかったのだ。
とにかく、私と████は懐中電灯を手探りで探し当てると、それらを持ってラボから出た。廊下には同じく不安そうな顔をした職員達が、さながら幽霊のごとく立って、何が起きているのかひそひそと話し合っていた。のろのろとした時間が過ぎ、何人かの賢明な職員達は懐中電灯のバッテリーを節約するために明かりを消した。知っての通り、機密保持・保安上の理由から財団施設には窓がない。そのため、何人かがライトを消しただけで廊下は重苦しい暗闇に包まれた。私はその時、高校の避難訓練のことを思い出していた。丁度、それとよく似通った雰囲気が流れていたのだ。まるで緊張感がなく、ただそこにいて誰かが「もう大丈夫だ」と言いに来るのを待っている。
そして、悲鳴が聞こえた。遠くからだったが、何人かの職員はあたかも彼らの耳元でその悲鳴が聞こえたといわんばかりに飛び上がった。研究主任の1人が、シェルターに避難することを提案した。もちろん拒否する者はいなかった。10分ほど歩き、特に何事もなくシェルターに到着すると、私たちの間には安堵するような空気が流れた。しかし、本当の地獄はそこからだった。
空調が止まっていたため、若い研究助手と私たちは暑さから逃れようとシェルターの外に座っていた。シェルターの扉は開け放しており、何か少しでも危険を感じたらすぐに閉めようということになっていた。そこへ、1人のエージェントが走って来た。
「163、あいつが逃げた。収容扉がエラーで開いて、で、アンモニアも切れてて、それで俺は目をつぶって……」
彼はそれだけ言うと、そこでぜぇぜぇと呼吸した。私は████と顔を見合わせたのを覚えている。
「あの、なんで電気がつかないんですか? UPSは? 発電機や非常用電源バッテリーは?」研究助手が尋ねた。
「俺にわかると思うか。今さっき死に物狂いで逃げてきたのに」
研究助手は黙ってしまった。
そこで突然、廊下からまた別の足音が聞こえた。エージェントと研究助手、それに私と████はそちらへ顔を向けた。そこにはへらへらと笑いながら、陽気ともいえる様子でシェルターに近づいてくる武装警備員の姿があった。
彼は「こうしたら見えない! こうしたら見えないんだ! 奴の姿を見なくて済むんだ、こうしたら見えないぞ!」と叫びながら、両手に何かを掲げて歩いていた。彼の手に載っていたのは、彼自身のくり抜かれた目玉だった。右手に載った無垢な瞳が、私をじっと見つめていた。武装警備員はそのままシェルターから5mほど近くに来たところで、おもむろに両手でぎゅっと目玉を握りつぶすと膝からうつ伏せに倒れて動かなくなった。私たちは言葉もなく武装警備員の死体を見つめていた。エージェントだけはすかさず死体から小銃を奪って、弾倉の中身を確認し始めた。
我に返った私と████は急いでシェルターの中に戻ると、一番奥まで潜り込んだ。何人かの職員は武装警備員の末路を知らなかったようで、慌てた私たちをうさんくさそうな目でじっとにらんでいた。
「あ」シェルターの外にいた研究助手の1人が、そう言って廊下の先を指差した。エージェントは見るな、と叫んだがもう遅かった。研究助手の目は恐怖に見開き、口は声にならない悲鳴をあげていた。彼は首をがくがくと振り始めると、自分の親指を両目に突き立てた。私に見えたのはそこまでだった。████が無理矢理に私のまぶたを閉じさせたからだ。
「絶対に開けるな! 何があっても見るな!」彼はそう言った。
私の耳に、シェルターの扉を閉めろとエージェントが怒鳴るのが聞こえた。
「ダメだ、重すぎる! 誰か手伝えって!」誰かが悲鳴に近い声で言った。彼の言う事も当然だ。なぜ誰もそのことに気付かなかったのだろう? 機械制御で閉まるはずのシェルターの扉は、電気が通らないせいで頑として動かなかったのだ。あと何人かが手伝えば、あの扉は閉まったかもしれない。今更だが。
やがて、シェルターの中は恐怖の叫びで満たされていった。何かが侵入してきたのを感じた。誰かが絶望から笑い声をあげるのを聞いた。小銃の発砲音がシェルターにこだましたが、それもやがて聞こえなくなった。
そんな中、████はずっと私の右手を握っていてくれた。彼の震えた汗ばんだ手だけが、私に恐怖を忘れさせた。やがて、生物が動く音がしなくなった。私の鼓動の音と、████が歯の隙間から漏らす怯えた声、そして何かが蠢くような音だけがシェルターにこだましていた。しばらくすると、ぐぶっ、という音が████の方から聞こえ、彼の手が私の手から離れた。強い不安とパニックに襲われそうになったが、すぐにまた私の手の上に手が重ねられた。その手はもはや震えておらず、安心させるように私の手をさすった。長い事そうしていた。163がもうどこかへ去ったのではないかと思う時もあったが、恐れから目を開けることだけはしなかった。何時間かが経過したように感じられたその時、アンモニアの臭気が漂いはじめ、私の手から████の手が離れていった。私の手は離れた手をもう一度掴もうとしたが、空を掻いただけだった。何度か咳き込みつつも████の名前を叫んだが、返事はなかった。そして次の瞬間、私は突然ガスマスクを乱暴に付けられると脇を抱えられ、どこかへ引きずられて行くのを感じた。
「もう大丈夫です! 目を開けて下さい。我々は即応部隊です、危機に対処しました」
サイト-8182の外でガスマスクを脱がせられると、そう声を掛けられた。
「163-JPを収容に戻すことに成功しました。よくご無事で」
恐る恐る目を開けると、骸骨のフェイスマスクを付けた機動部隊員が私の前に立っていた。多くのエージェントや機動部隊員、医療用車両や運送トラックに偽装した輸送車両がその背後に見えた。その若い即応部隊員のふざけた様な格好が、私に現実が戻ってきたことを実感させた。聞けば、あちらこちらのサイトやセクターで収容違反が同時に発生したのだという。
「多くの命が失われました」即応部隊員は沈痛な面持ちで言った。
「ところで、████は? 彼はどこに?」私は医療スタッフに身体を調べられながらも尋ねた。
「さぁ……? 探してみましょう」
しかし、████はサイト-8182の外には居なかった。
彼は、あのシェルターの中で、えぐり出した自身の目玉を飲み込み、喉に詰まらせて死亡していた。医療鑑定チームによると、████は即応部隊が到着する1時間以上前に死んでいたという。私はそれを聞いた瞬間、自分の右手に震えが走るのを感じた。あの手。私を安心させるようにさすっていたあの手。あいつはずっと私の側にいたのだ。私の気がゆるみ、目を開ける瞬間をすぐ近くで待っていたのだ。もう全ては終わったのだと、悪夢は消えてなくなったのだと自分に言い聞かせ、私が目を開けるのを。そして、もしもその通りに目を開けていたら、どうなっていたのだろうか。いま思うと、あれが手だったのかは怪しい。手のような何かだったのかもしれない。それか、私がそれを████の手だと思いたかったのかもしれない。
この事件の後、私はサイト-8182からの異動を願い出た。それはすぐに認可された。
人は、絶望の暗闇の中では、希望の光を見たがるものだ。だが、もしそれが偽りだったとしたら? あいつはそれをよく知っている。暗闇の恐ろしさを。そして、希望の光がもたらす一瞬の油断の恐ろしさも。
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