かなしみはちからにみちびかるべし
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これらのわたくしのおはなしは……





瓶のあぶくのかがやきの、ひとつひとつを惜しむが如く、わたくしは豊沢橋のたもとを駆け降りる。晩秋十一月の花巻は、殊の外肌身を切るように底冷えが厳しく、手の赤みはその濃さを増すばかり。川原に薄く積もるベタ雪を、ぞっく、ぞっくと踏みしめると、豊沢川の畔に宿ったと見える白鳥が泡を食って飛び立っていく。ゴム長をそろり脱いで豊沢川に足を浸すや、針にて苛むが如き冷気が身の芯まで染み透る。両手に抱えたサイダー瓶を川の中へ沈める。瓶の硝子の内外を、泡がすうっと駆けあがる。しばらくそうして体の冷えるのも忘れ、くるくる回る泡を見つめる。

そう、すべてはこのようなとおりなのだ。泡が流れて登り弾ける。硝子の内と外、どちらにもそれは起こる。わたくしのなかでもおこり、自然のなかでもおこり、またみんなのなかでも起きている。それはある種の虚無であって、同時にその景色それだけを意味するものであって、わたくしに何らかの感情という現象を惹起するものであって、あらゆるみんなにとってもそうであると言える。泡の弾けることそれ自体は現象であるが、そして同時にわたくしやみんなの中に作用するものである。それらはおそらく相互に有機的に作用するものであり、泡の流れに手を差し込んで変えてやることもできる、はずだ。それならば……。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ。霜の降りたる豊沢の、川に氷雨の降るなかを、Miyazawaの娘旅立てり、弔砲三つで送ります。ガタンコガタンコ、シュウフッフッ。
唐突に、ぼう、ぼう、ぼおう……と大音声が響く。思わず身をすくめて顔を上げると、西のほうに黒煙を引いて橋を抜けていく汽車の姿があった。しまった、思いのほか長居したか。気づくと川の中に浸けた足が不平を訴えている。歯の根も合わぬほどに芯から冷えてがたがた震える体を引きずりながら、大路をとぼとぼと歩いていく。肩に引っ掛けた上っ張りに、冷たい霙が溜まっているのが分かった。
ドッテテドッテテ、ドッテテド。でんしんばしらのぐんたいも、みな敬礼でおくります。ドッテテドッテテ、ドッテテド。
こんなことで肺炎など患っているわけにもいかぬ。さりながら、冷やしたサイダーが胸元で温まらないで済むと思えば、震えながら体を冷やした甲斐もあったと思うべきだろう。……なにより、熱の責め苦の中にある身を想えば、この程度のことがなんであろう。西の空の厚い雲の向こうで、陽の光が乱反射しているのが感ぜられた。

とし子。わたくしのけなげないもうとよ。


すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから





家の門柱を曲がると出し抜けに、「何としたナニドシダ!?」と背から声がかかる。

「お父さん、なんとも無ェです」
「ンだば、ほれ、早ェく拭けほれ!そったら、ガダガダと震えてハ!どごさ行ってらっだ?」

……豊沢の川に浸かっていた、とも言うに言えず、なんとなしに押し黙る。無用の沈黙を挟んでいると、父の方が先に耐えかねたか息を吐いて顔を寄せてくる。

「お前まで倒れられだら困るはんで、まんず中さ入ェれ。なもぇばトシの傍さ居でやるんだハ。こったら塩梅だば……」父が言いよどむ。その先はわたくしも聞きたくはなかった。

「旦那様、旦那様」お手伝いさんが、丸い背を更に丸くして父のもとへ駆け寄る。こそこそと何事か伝えられると、父の目もそれに負けじと丸くなる。そうか、と唇が動いた気がした。

気分は、良くはない。ゴム長からずぼりと足を抜いて玄関先で拭いていると、思いがぐるぐるとめぐる。トシが悪いことをしたことが一度でもあったろうか。あのようにこそこそと話されるのを見れば、山より下りてくる靄が宿ったように心中に曇りが立ち込める。まして、あれが熱と寒気と咳に喘いでいるのを思うと、生きている人間までがそのような扱いをするなど追い打ち以外になんであろうか。

……さりとて、わたくしに何が言えた立場だろう。奥の寝室のほうから、青く暗い風が吹いてくる。ここのところ1年、農学校で畑に入り、田を分け、林と街の空気を胸の奥まで吸ってきたわたくしを、おまえはなんと見ていたか知れない。畑の虫たちを追い、田の蛙に親しみ、林の鹿や街の猫の視線を浴びてきたよ、と。花巻の土と空気を愛しているお前にせめてもの気晴らしになればと、願っても得られないものの話をするわたくしを、おまえはなんと思っていたのか。

髪のしずくが瓶へと落ちる。しずくは瓶の汗と混ざり、床へと流れて染みを作る。手拭いでそっと瓶の肌を撫でてやってから、首を一振りしてしずくを飛ばす。行かねば。どうあれ、行かねば。力及ばずとも、行って戦わねば。ぺたり、ぺたり、ぺたり、と足の跡が縁側の板床に残る。わたくしは修羅を行くのだ。あれのために戦いにゆくのだ。


けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ





暗々とした青い仄かな光が、縁側を曲がった奥座敷の、屏風の更にその向こうから感ぜられた。ひゅっ、ひゅっ、ぜろぜろ、ぜろぜろという喉鳴りと、終わるともない咳の音が交互に続く。汗とも何ともつかぬ、よからぬものの迫りくる予感が、鼻をついてくる。ああ、と息を吐いたきりその後が継げない。そっと中を覗くと、母が膝をついて濡れ手拭いを替えているところだった。

「トシさん、具合はどうあんべなじょだ?」
「ああ、賢さん。ちょっとだけぺぁっこばり咳したほんで、今かた起きたどこだ。ほれ、トシ、賢さん居だぞ」

枕元の手焙り火鉢の炭がパツンと弾ける。……トシは、見違えるようだった。数日前よりも目はくぼみ、肌は浅黒く、病衣から覗く鎖骨の浮き様ときたら、餌にありつけなかった晩秋の蛇のアバラのようにも見えた。
龍は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。
「あいや、兄さん、ずいぶんぜんぶ唇青ぐして、どうしたなじょしたの?」
「うんにゃ、何も。喉渇いたべなど思ってな、こいづ豊沢の川で冷やしてきたのす」

カンカンに冷やされた瓶の表面にまた雫が流れる。硝子越しに瓶の中を上る泡に、トシの目がくりんと開かれる。

「あや、なんたらな……賢さん、そったなとこまで。もう冬だなはん、とんでもなく寒かったほんでねくれぇシバれたべした。」
「ありがたいども、兄さん、大丈夫だすか。風邪なんどひいたらとんでもなく大変ぜんぶこどだじゃ」
「なんも、なんも。まず飲んでくない。お前なはん、まず我のこと、いっとう心配するんだなはん。」

栓を開けるや、閉じ込められたあぶくが、泉の底のようにしゅうしゅうと吹き上げる。零さぬように、母がとっさに差し出した茶碗へサイダーが注がれる。ころころころころ。転がり落ちたあぶくで半ばほどまで満たされた茶碗をそっと差し出すと、トシの白樺の小枝がごとき手が受け取る。

「ほんに、兄さん、ありがとう。」
「川の中とおなじくらい冷たいはっこいから、ゆっくり飲んであがってけらいん」

くっ、くっ、と喉を鳴らして飲み込むトシの姿に、昔の姿が重なる。精養軒のアイスクリームを買ってきた時だったろうか。あの時も、こんな風に後生大事に少しずつ少しずつ口に運んでいた。心が沈み込む。顔を上げると母と目がかち合う。目尻が引き下がり、瞼だけが不自然に上がっているのが分かる。堪えている人の目だった。わたくしもこのような顔をしているのだろうか。

けほ、けほ、けほ。

けほん、けほん。かはっ、けほん。

破裂音に我に返る。思わず身を乗り出す。体ぜんたいをふるふる震わせながら咳き込んでいる。母もまた身を乗り出して背を叩いてやっている。トシの顔に赤みが差す。

わたくしの心中はその赤にひどくかき乱された。あの土気色の頬にようやく人らしい血色が入ってきたことが、わたくしという精神の一部分に安堵をもたらしたという事実が、自身でたまらなく恐ろしかった。苦しげに咳に喘ぐのを見れば、このうえなく気の毒に思う。しかしてその一方で、トシの体が血を運び、酸素を肺と脳とに巡らし、臓腑の底から悪しきものを吐きだそうと苦闘していることを、嬉しく思うわたくしがいる。心身がともに生きんとしていることを、尊く思うわたくしが確かにいる。

「あいやな、なんたらな。咽たかや?炭酸だば飲み込むのっこむのさ、ちょっとしんどかったぺぁっこひんでかったすか?」

……わたくしの頬にもまた赤みが差す。肺病みで咳き込んでいる相手に炭酸!なんたる不調法!喜ぶだろうかと思って、よもや浮足立っていたか?病臥の妹に!……ひとたび気づけば申し訳なさと情けなさばかりが先に立つ。

申し訳ないもさけね!大丈夫だっか!?」
「なんも、なんも。豊沢の川の匂いしたっけも。雪降った日の川の匂いだっけァ、思い切りたんだ吸ったっけ、咽てしゃんた」

とし子。お前はそうやって、わたくしにそんな顔を向けてくれるのか。わたくしが、お前のそれに何度助けられたか知れない。

「へば、兄さん。外、雪降ってらったもな。」
「こづさ、この茶碗さ、あめゆきとつてきてくださいあめゆじゆとてちてけんじや


ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ





庭の松は相応に冬じたくが済んでおり、ずいぶんにりっぱな櫓の冬囲いに守られていた。櫓に囲まれて撓んだ松枝がそこここに霙を受け止めて、まるでそいつを緑の皿に載せて祭壇にでも捧げたような塩梅だ。ざらざらと枝ごと茶碗の中へ入れてやれば、あっという間に器丸ごと冷えて掌へと吸い付いてくる。
クラムボンはわらったよ。
考えてみれば、こんなものを病人の体に入れて良かろうはずもない。漉しても煮てもいない雨水なのだから。それでも、あれにはこれが必要なのだと確信めいた叫びを心があげている。天と地とを巡り、われわれと宇宙のあわいよりやってきて、この一椀の中に宿ったこの霙が、トシの内を如何に満たすか知れない。
クラムボンはわらったよ。
分かっているのだ。われわれや当人の意思にもよらず、死の方角へと惹かれていることが。誰しもが分かっているのだ。それでも、皆何かしらをしなければならないことも、また同じように分かっていたのだ。トシは、われわれをそうさせるものを体ぜんたいから放っていた。

奥に戻ると、屏風の奥は一層蒼白く、極光にも似た模様だった。ますますもってかき乱される心に鞭をくれて、萎えそうな足に力を入れる。ええい、来るなら来い。自分が先に屈してなるか。こん、こん、こんと一人ばかりの咳が響く。母は外しているらしい。

「トシ、トシ、取ってきてけだぞ」
「あや……兄さん、申し訳ないですもさけねがんす……」

蓴菜柄の茶碗の中に、半ばほどまで盛られた霙。その中にミントさながら、というにはやや大振りすぎる松枝を立てる。トシは受け取ったそれを、悪熱に浮かされた体の芯へ浸み込ませるように、両手で包み込んだ。

冷たくてはっけくて良いなや。具合も相当良くあんべぜんぶえぐなるよんだ」

その様をわたくしはなんとはなしに、クリスチャンの聖職者のやる、聖別のように見ていた。無論、トシがクリスチャンであるとか、何か神的なものがなどというつもりはない。しかし、確かにその手は今何らかの、人から離れた動的な力を放っていた。確かに、確かに蒼白い光だった。トシの手によって、この一椀は清浄な、胃の腑の外までを満たす糧に変わったのだ。

わずかに震える指先が霙の玉をつまみ上げる。病みがちな熱がそれをとろかし、雫となって口元を濡らす。ある種の連想ゲームで、クリスチャンが前教えてくれた神の食物だという幻の『マナ』というのも、存外こういうものだったかもしれない、と巡らせていた。白く甘く、熱によって溶ける。その糧は全ての人に開かれている一方で、しまいこんでいては何らの役に立たず腐臭を放つ。

思えば、トシにどれほどのものをわたくしは分けてもらい、また分け合ってきたことだろうか。幼くしては真宗の信仰を、やがて互いの悩みを、信念の持ちようを。たとえ父や家族と心ならずもぶつかる時にも、その存在がいかに心のよりどころであったか。

私はこの雪の一椀よりほか、この期に及んですら渡すものもないのに。

「あんまりガッヘガヘと口さ入れるしぇるなや。ゆっくりどな」
「あいや、なんたら恥ずかしいおしょすじゃ。んだどもす、おらこれが一番美味しいこづがいっとううんめのす。」

今や畳針ほどにも見える骨の浮く指が松枝を拾い上げる。矯めつ眇めつした挙句、出し抜けに鼻先から顔へきゅっと押し当てる。
クラムボンはわらったよ。
「じゃじゃ、何してら。そったなごとせばハ、顔さ刺さるじゃ」

細い肩がゆっくり上がり、下がる。また上がり、ゆっくりと下がる。
クラムボンはわらったよ。
「……大したいい匂いだ。青くて、ぺっこ苦くて、ほんにいい」

上がり、下がる。また上がる。下がる。
クラムボンはかぷかぷわらったよ。
「ああ、いい。さっぱりした。まるで林のながさ来たよだ」


鳥のやうに栗鼠のやうに
おまへは林をしたつてゐた
どんなにわたくしがうらやましかつたらう
ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ





そろそろと顔が上がると、肌の上に松の針の跡をいっぱいに付けて、ふわりとした目で呟くのがわたくしの耳にも届いた。言語に尽くしがたい不安が去来する。ああ、トシ、頼む。その目をしないでくれ。そのまま彼方の、私の見ていないところへと吸い込まれていくような、そんな目をしないでくれ。

だめだわね、体さ障る」
「なんてことねぇです、こづはいいものだから。クラムボンの匂いのするのは、みないいものだもの」
クラムボンは立ち上がってわらったよ。
ぼう、と時の止まった思いがした。

「おめ、なんとなにしたづ?クラムボンが、なんだってなにど?」
「なにも。こづ、クラムボンの匂いするったのす。」

妹の目は、至極正気のそれだった。

クラムボンの話は、わたくしの個人的な……生来の書き物の虫が疼いたがために生まれた一本の童話である。東京暮らしの中で盛岡の山川を思い出しながら、また戻ってきたこの花巻の街の空気の中から、わたくしの中に去来するあれこれを捉えて形におこしたものだった。

「あれァ、おら考えた話コだべした」
「だども、間違いねァなす。クラムボンの匂いは、青くて、甘くて、冷たくはっこくて、ちょうどこったな塩梅だなや」

『やまなし』と名付けたあの2枚の「物語幻燈」をトシに見せたのは、ちょうど夏頃のことだった。昔からトシもわたくしと同じで、なにくれとなく書き物を読むのが好きな性質だったので、病床の慰めにならばと次々届けてやった。軽口に、「おら子供作るわらすコこしぇる代わりにこづ書いたのだもや」などと言ったりしたものの、今にすればあながち冗談というものでもなかったようにも思う。

「兄さん書いたもな、みなほんとうだもの」

にっこりと見据える目がわたくしの動悸を煽る。トシが話をどう読解したとか、そういった類のものではない。シンパシーと言った風かもわからない。正確に言えば、わたくしの中に存する『通奏低音』に対して、今トシが強く『共鳴』しているというのがしっくり来る。不快ではないが、鼓動が早鐘のごとく鳴る。子供のころ、自分の隠していた悪戯を母に見透かされていた時のような。

「あれァ、おらの創作はなしかだりで……」
「兄さん、ほんとうだもの。兄さんはほんとうのことしか書いてないもの」
「『やまなし』で書いたクラムボンのことだか?」
「んだ。あや、んだどもな。ぺっこ違うどこもあるども。一緒だども一緒でないよな……」

トシの言ったことは、『やまなし』を書いた時のイメージのままだった。水草のように青く、流水のように甘く、川底のように冷たい話として、あれは書かれた。クラムボンは、あの物語幻燈を映した、入れ子構造で物語の中に投射された物語世界そのものとして描いていたはずだ。しかし……。

「あや、クラムボン、そこさも居たじゃ。」

ぱちん。手焙りが爆ぜる。背中の方に松林の甘い香りがする。

それは、縁の沓脱石に溜まった霙の上にいた。立ち上がって伸びあがっていた。こちらを見て、かぷかぷ笑っていた。

「兄さん、兄さんの語って聞かせたのハ、みんなほんとだもな」

ぱちん。手焙りが爆ぜる。ぱちん、ぱちん、ぱちん。やがて炭はぱちぱちぱちと鳴る。

「ほれ、そこさも」

灰炭の中からぱちぱちと鳴る度、やおら団栗がぽこぽこぽこぽこ飛び出す。あっという間に10個が20個になり、20個が40個に、100個を超えると、それらがみんな何事か言い合いをする。頭の丸いのがいちばんえらい!いいや、背の高くて細いほうがえらい!いやいや帽子の硬いのが一番!きゃらきゃらの声で奥座敷がいっぱいになる。

「ああ、山猫の御主人も」

屏風の陰から、黄色い陣羽織を引っ被った山猫がしゃんと現れる。ええい、静まれ!静まれ!という響く低声が重なる。わたくしはもう何が何やらだった。口の開いたまま、周りを見渡す。トシから感ぜられた蒼白い極光は、今や現実に部屋を照らし、ここだけが気圏を脱け出たかのごとき有りようにすら見えた。

鴨居の上に2人の童子が座り、銀笛を吹き鳴らす。縁から吹き込む秋風の中から鹿が飛び出して、わたくしたちの周りをぐるぐると回る。塀の向こうの電信柱が腕木を回して敬礼する。挙句の果てに、遥かに向こうの森までがもっこもっこと蠢いて、背伸びでもするようにこちらを覗く。

「なんたら……なしたのだ?おら、頭ぐらぐらしてぐれぐれづくなって……」
「なんもおっかないことねェです、兄さんの話コはいっつもこったな塩梅なはんで」

まるで幻燈物語を部屋いっぱいに投影したようなかたちだった。次々表れてはどこかに隠れ、同じ陰からまた違う幻燈物語が立ち表れる。床の間の大壺から雫を落としながら表れた龍は『龍と詩人』か。押入の襖の闇の中で尚黒くちらちら動くあいつは『烏の北斗七星』か。いや、まばたきした間にぎょろりと覗くまん丸目に変わる、あれは『注文の多い料理店』だ。

「兄さん、兄さん。さっきの話コな、クラムボンは元々このあたりさずっといたのす
「おら、兄さんの創作はなしかだりしたの読めば、こったな塩梅でみな出てきてくれたけだから、全然いっこど寂しもなにも無かったじゃ」

「クラムボン、いっつもかぷかぷ笑ってらもの」

ぐるぐると部屋の中を幻燈物語が駆け巡る。トシとわたくしはその中心で、恒星のように座り込むばかりだった。

クラムボンはこのあたりにずっといたのだ。トシの言うことが真ならば、わたくしがこれらの話を語るのは、ここにいたものを拾い上げるのと同じだ。まさに言葉の通りに。わたくしは、花巻の街中から、小岩井の牧場から、岩手山の山肌から、北上川の川岸から、岩手の土を掘り起こして拾い上げていたのだ。

ひゅうひゅう、ひゅうひゅう、音がする。次第に極光は赤く、暗く、そして穏やかに収まりつつあった。

「おら、兄さんの話コ好きだがら。またいっぱいいっぺ聞かせてけで」
Ora Orade Shitori egumoあたしはあたしでひとりいきます

刹那、胸元が麻縄で締めあげられる思いがした。待ってくれ、という声が出るより先に、眼前の光が消失点に向けて縮退するのが見える。トシの姿を懸命に追いかける。いくつもいくつもの声が溢れようとして、喉元を閉塞させる。


幻燈の消える間際、わたくしはこういうものを見た。

布団の中から飛び出て、押入へと消えていく栗鼠の姿。

ああ、それは間違いないことだった。


信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ





それからは、割合にあっさりしたものだった。

トシはその夜、丁度半分欠けた月が冷たく光る中、ひとり旅立った。

無論、わたくしだけではなく、父も母も、妹も弟も、お手伝いさんや隣近所にいたるまで悲しまぬ者はいなかったと言っていい。ただ、荒波のただ中で、船を元の方向に戻そうと必死に櫂を漕ぐうちに、あらゆるものが過ぎていったという方が正しいだろう。

わたくしは……あまり覚えていないが、押入に顔を突っ込んで泣いていたと聞く。口内に残る喀血の跡が痛々しく、一方で土人形ほどに真白な頬をしていたことだけがやたらに思い出され、感覚野を苛む。そうしてみんなが疲れ果てて、夜半には泥のように眠りに落ちたようだった。

明くる朝、わたくしはぐすんぐすんという声で起こされた。ごそりと布団から身を起こすと、隣の布団の中で妹のシゲが身を丸くして泣いているようだった。師走を目前にした朝の空気が、のっそり這い出た体に痛いほどに刺さる。

「あいや、どうしてなして泣いでら?トシさんの夢でも見だったか?」

シゲがようやく突っ伏した枕から顔を上げる。よく眠れなかっただろう、目に赤い筋が走り、寒さと涙と水っ洟にやられて目元や鼻先はがさがさ。トシに負けず劣らず、痛々しい風だった。

「……そいだってなはん、一人で黄色な花っコ取るべかなって言ったっけも」
「トシさん、夢で黄色い花っコ取るべって言ったったか?」
「うんにゃ、ひとりで取るべって言ったっけったっけ。……姉さん、ひとりで取りさ行ってしゃんたもな!」

耳の奥でぱちんと音がした。



ぐずぐずと泣き崩れ、シゲはまた布団の中へと戻ってしまった。……わたくしはふらふらと部屋から出て、トシの眠る奥座敷へ向かう。

幻を見ているようだった。トシは白布を被せられ、表情はうかがえない。

黙って枕元に座っていると、思い出される。

トシが五月の野原で、黄色い花を摘んでいる様子が「思い出される」。

豊沢川でサイダーを冷やしていると、通りがかりの汽車がトシの様子を気遣ってくれたのが「思い出される」。

トシの手焙り火鉢に、龍が火の朱い珠を焼べて暖めてくれたのが「思い出される」。

松の冬囲いの中で、トシの枕元で、霙を盛った蓴菜の茶碗の中で、クラムボンが笑っていたのが「思い出される」。

あの奥座敷が、わたくしの拾い上げた幻燈物語で満ちていたのが「思い出される」。

……トシが栗鼠の姿となって、あの幻燈を連れて北へ向かったのが「思い出される」。

現実ではない。あれは現実ではなかった。だが、同時に現実だった。そして幻燈物語だった。

トシはなぜ、あれをわたくしに見せてくれたのだろうか。いや、あれは非現実であって、同時に現実なのだ。目の前にあったのだ。あれは、わたくしが岩手の土から拾った現実なのだ。きっと、見せてくれたのではなく、一緒に見てくれたというほうが正確なのだ。

膝をつき直す。冷たい畳の感触も、足の痺れで次第に分からなくなりつつある。

ほう、と息が漏れた。我が事ながら、見えていなかったのか。角灯ランプを持てば、手元が一番暗くなるのと同じか。書いている人間には見えていなかった。唯一、わたくしの片割れだけが「それ」を見ていた。

わたくしが渡した幻燈を、トシは受け取ってくれた。わたくしは今一心に信ずる。大きな力で死の方向へと向かったトシが、あの幻燈を道標に足元を照らして歩いてくれることを。

膝元に置いた拳に力が入る。これが、わたくしの生涯をかける使命ミッションなのだろう。わたくしの妹が明るい道を進めるように、世界ぜんたいが明るくなるように、幻燈を灯し続ける。土から、水から、風から、あるいは宇宙から拾い上げた幻燈を作り続ける。

吹き付ける雪が雨戸を叩く音を背に、手を合わせ、無心に祈る。

目を開けると、隣でクラムボンがかぷかぷ笑っていた


ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから




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