地上波の受信能力を失って久しいVHS一体型のテレビがブーンと音を立てつつ、Dクラス向けの案内ビデオを流し続けている。湯飲みに注がれた茶に暖かな14時の陽光が落ち、飲み止しの麦茶をいつまでも60度に保っていた。談話室と呼ばれる共有スペースは13時から解放されていて、窓からは柔らかく陽射しが差し込んでいる。
11月に入り、茶棚の上に常備してある麦茶は薬缶入りの冷たいものからポット入りの温かい麦茶に切り替わっていた。そうなると消費のペースが半分以下になるのだったが、それは不人気さを示唆するものではなく、むしろ茶飲みのスタイルの変更を示すものだった。ゆっくりと飲む温かな麦茶はじんわりと胃の腑を落ち着け、間食でも食べたかのような満足感がある。ここで管理されているDクラス職員達の数少ない嗜好品の一つだった。
「完成しそうかい? 絵」
茶渋の染みついた碗で手を温めるようにしながら、中年の男が青年に話しかける。テーブルの端に座り絵を描いていた青年は少しだけ鉛筆を止め、返事の代わりにした。
「語らず語る、ってヤツ? 味だねぇ」

愚者はその時が来るまで学ばない。
中年の男はツナギの上半身部分を脱いで腰に結んでいる。ツナギの脱衣は入浴時以外は禁じられていたが、そんなルールを守っている人間はこの施設では少数派だった。肌着ともTシャツともつかない支給品の白いTシャツはおろしたての物であるらしい。整頓はされているが経年劣化は隠せない薄汚れた談話室で、純白のシャツが妙に浮かび上がっていた。
「見せてもらって良いかい?」
聴きながら、白シャツは既に青年の後ろに回り込んでいた。拒絶の言葉も態度も表明しない絵描きは、鉛筆の擦れる音で許可の意を表明する。
生産性のないタコ部屋とも言える「お払い箱」のようなこの施設だったが、「地域人材管理融和部門」という福祉めいた修飾がなされている以上、最低限の娯楽は供されている。受信能力のないテレビデオの隣には埃を被った映画のテープが並んでいるし、小さな書庫もあり、青年が今まさに使用している画材なども、職務へ望む態度や申請次第では手に入る。
「ここ最近ずっと描いてるよな、この人魚の絵……」
青年は筆を止めない。鉛筆の滑る音で創作の継続を語っている。
「そっかァ。ほとんど完成してるみたいに見えるけど」
青年は筆を止めない。ひたすらに、黒鉛の削れる音で創作の継続を語っている。
「ほとんど完成に見えて、ずっと長いこと描いてる。なのにいつまでも未完成の、不思議な絵だな……」

見せよ聴かせよ。死者すら気付くように。
アラームと赤色灯が談話室を染め、満たす。窓の電動シャッターがガリガリと降りる音が鳴り響き、暖かな休憩時間の景色を剥がしていくようだった。
不意に中断するアラームの音に、中年男性の何だ、という声が重なり、未だ点いたままの赤色の明かりに溶けていく。青年は変わらずスケッチブックに絵を描き込み続けている。
この青年は、この絵に何か月前から取り掛かっていただろうか。いつまで経っても完成直前の、人魚の絵──。
『D-8888、聞こえますか』
スピーカからアナウンスが聴こえる。「決まり」を思い出す。ココに入所した日、誰もが教わるルール。「Dクラスのナンバーで呼ばれたら必ず復唱せよ」
「ハイ! D-8888、聞こえます!」
その管理番号からハチと呼ばれる中年Dクラス職員は、年齢相応の落ち着きがない、不必要に明瞭な返事をした。
『D-8888、あなたは──なぜそこに居るのですか?』
部屋の四隅の監視カメラからの視線を感じつつ、中年男性はアナウンスの声に答える。
「なぜって、休憩時間だし、今日はニンムも無い日だから……えっ、予定表、見間違えたとかですか!? ごめんなさい!」
スピーカ越しの声は一拍ほど沈黙し、Dクラスの返答が的外れだったことを表明する。異界と化した談話室の中で、テレビデオだけが異変の前と変わらず教習ビデオじみたガイダンス映像を流し続けている。
『D-8888、あなたは、いつからそこに居るのですか。』
「食堂で昼ごはん食べてからここでお茶飲んでて、今14時だから、1時間くらいです、多分」
ハチと呼ばれる男は、他人より愚鈍で、怠惰で、察しが悪い人間であった。しかしながらスピーカの向こうのアナウンサーは、そんな「平均的Dクラス」に対して効果的に現状を知らせる訓練を積んでいた。
『昼食を思い出せますか。あなたが話しかけている青年の名を思い出せますか。──Dクラスを含めた他の職員は、一体どこですか?』
離乳食のようなあまりにもかみ砕かれた現状の説明を、理性に流し込まれた中年男性の悲鳴が薄汚れた共有スペースに響く。後ずさった中年Dクラスが壁際に積まれた古雑誌の山を崩し、青年の持つ鉛筆の動きは加速した。今や人魚の絵はほぼ完成しているように見え、しかしながら青年が鉛筆を走らせるごとに、まだまだ完成まで「詰める」余地があるのだと語るようであった。

人の話を聞きなさい。あなたが生涯で最も多く聞いた言葉だろう。
悲鳴が止み、声の持ち主の男が叫び疲れた事を雄弁に語った。
もはや部屋には赤い照明と、永久に未完成の人魚の絵画と、鉛筆が走る音だけがあった。
『落ち着いたのなら、指示を聞いてください。その青年は既に特別人材ではありません。持ちうるすべての方法を使って、彼を無力化してください』
特別人材職員。地域人材管理融和部門で徴用されたDクラスを彼らはそう呼んでいた。尤も、この呼称は昨今の人権保護の潮流を読んで作られたものだ。多くの特別人材職員は自身のことをDクラスと呼称していたし、教育が必要な特別人材職員に対し「鞭を振る」役目の連中もそうしていた。
「……殺せ、って事?」
『いえ、まずは彼のスケッチブックを破壊してください』
中年男性は立ち上がる。職員は青年がもうDクラスではない、と言っていた。それどころか人間ですらないのだろう。ここでは良くあることだ。否。ここでも、外でも、良くあることだった。昨日まで友人とまではいかずとも、少なくとも隣人ではあった人間が「化ける」。
心の中に育った怪物が肉体を変容させているのだ。
いや、感染性の現象だ。
もとい、これは人間が元から有していた性能なのかも──。
多くの学者が、専門家が、国が、色々なことを語り、最終的に一つの結論に達した。
それはそうと、「変化した奴」を「収容」しなくてはならない。
そうか、「変化しそうな奴」に「収容」をさせれば良い。
いつもならとっくに散弾銃を持った職員がやってくる頃合いだった。最初に非致死性のゴム弾を撃ち、二発目以降は鹿撃ちの散弾だった。時にはもっと重武装の、この国では見る事の無いであろう恐ろしげなマシンガンをもった黒ずくめが押し入ってくることすらある。しかしここは「閉じている」らしいという事はハチも理解していた。助けは来ない。自分でやるしかない。
「好きなんだな、絵を描くの」
そんな、いつかの自分が、談話室で絵を描く青年に向けて発した言葉を思い出しつつ、中年男性はスケッチブックに手を伸ばす。スケッチブックを破壊しろとアナウンスは指示をしてきた。でもこの絵はこいつが一所懸命書いてたものじゃないか。それこそずうっと、こいつがニンゲンだったころから、想像もつかない時間をかけて描き続けてきたんだろう?
「俺も好きなんだ、この時間帯を談話室でお茶を飲みながら過ごすの。ずっとこうしてたいよな」
あるいはこの状況の引き金にすらなったのかもしれない、談話室での会話を思い出す。俺達はどれだけの時間をここで過ごしたんだろうか。けど分かるよ。命の保証がない任務に駆り出されるくらいなら、ずっと休憩時間が続いたほうが良いよな。
でも、休憩時間は終わりが無いといけない。いつまでも茶飲み時じゃあ、夕飯も食えないし、風呂にも入れないじゃないか。10分間の制限があるシャワーの時間も、今一つな食事の時間も、ここでは数少ない楽しみの一つなんだから。

人道の落第者たる彼らにはあまりにも難しい仕事だ。
それでもやってもらうしかない。
「完成したんだな! 絵! よく、描けてるじゃねえか!」
ハチの声を聞いた、かつて青年だったものが振り返る。脂汗を垂らしながらもにこりとハチが笑って見せると、永遠の怪物はスケッチブックに向き直る。さっきまで未完成に見えた、とっくに完成品のスケッチブックに描かれた人魚の絵。それがスイ、と泳ぎ出し、スケッチブックの枠の外へと泳いで行った。薄汚いテーブルクロスをかき分けて泳ぐソレを目で追う。彼女は卓上の湯飲みの中、飲みさしの麦茶に飛び込み、ちゃぷん、と音を立てて。
その音で、目を覚ました。
起き抜けに目に入ってきたのは湯飲みに注がれた飲み止しの麦茶だった。暖かな15時の陽光を浴びながらもすっかり冷めてしまっている事を、もはや消えてしまった湯気が語っていた。談話室と呼ばれる共有スペースは13時から15時まで解放されていて、窓からはいつも通りに柔らかく陽射しが差し込んでいた。
もう休憩時間が終わる。ハチと呼ばれる中年男性は、温度の下がり始めた空気に身震いしつつオレンジ色のツナギの上半身部分を身に纏い、茶碗の中、すっかり冷めた麦茶の最後の一口ぶんを覗き込む。
何だか長い事こうしていた気がする。そんなことを想いながら、弛緩した昼下がりの陽光の空気と共に、すっかり味気無くなった大麦の煮汁を飲み込んだ。
黄ばんだ壁に掛けられた絵が目につく。簡素な額縁に入った鉛筆画。明らかにプロの描いた物ではないが、少なくとも味があるという評価は得られるであろう人魚の絵は、気怠い休憩時間の談話室に永遠を幻視させるようだった。点いたままだったテレビデオの電源を落とす。ほぼ同時に、休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。