博士の世界
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「梁野博士。」

僕はやっとのことで彼を見つけた。

「……ん? ああ、『野々村』君。おはよう。」

このサイトに配属され、彼と共に仕事をするようになってからもう何度目だろう。この博士を探し回るという行為。本来、これは必要のない行為だ。そう、博士が自分のオフィスで仕事をしてくれていれば、こういった手間も省ける。
それもこれも、皆、この梁野武一という男のこの「癖」の所為だ。

「……おはようじゃないですよ。どれだけ探したと思ってるんですか。」

今日も今日とて、博士は廊下で寝転がっていた。この人はいつもそうだ。決まった場所に留まっていることがほぼ無く、その所為で僕のように提出期日の迫っている書類の受け渡しに苦労する人間が後を絶たない。その御蔭もあって、今じゃ配属したてのはずの僕の方が他の職員よりもここいらの道に詳しくなってしまう始末だ。

「ああ、それはそれは。」

この前だって、別の職員が博士を探しまわった挙句このサイト内で遭難してしまうという事件が起きたばかりで、当の本人がいた場所は会議室の机の下だった。この話を聞いた時、僕はその職員に大いに同情したのを今でも覚えてる。

ここへ来たばかりの頃は確かに驚いた。エージェントに博士を紹介された時、案の定彼は廊下で寝ていた。しかも、丁度女性職員にセクハラまがいの行為をしている最中で、彼は女性職員の足首を掴んだまま引きずられて大笑いしていた。
自分の上司になるかもしれない人物のプロフィールぐらいは頭に入れていた。だから、一時期は主任研究員にまでなった『立派な』職員だと言う勝手なイメージを持って僕は梁野博士の元へと向かったのだ。誰であろうと、そのような経歴を持っている人間だと知ったら優秀な人間でかつ人格者であるという理由のない人物像を思い描いてしまうものだろう。しかし、それは違った。当然、僕はそのギャップに面食らってしまった。

「いや、苦労をかけたね。暇つぶしに本を読んでたらいつの間にか寝ちゃってたよ。」

「暇つぶしって……頼まれてた仕事はどうなったんですか? 」

僕は彼を探していた本来の目的を伝えたつつ、小脇に抱えている報告書の入ったファイルを持ち直した。

「頼まれた書類? ああ、うん。はいこれ。」

そう言って梁野博士は書類の束を取り出す。電話帳ほどもあるこのA4の束を何処にしまっていたのか、僕には皆目検討がつかない。僕はそれを受け取り、それぞれの書類をめくりつつじっくりと中身を確認した。

「……終わってますね。」

「終わっていたからこそ、暇だったのさ。」

そもそも、何で廊下でここまでの仕事ができるのか、それが分からない。自分のデスクで働いている自分がバカバカしくなる。こんなの納得できるわけがない。僕はそんな気持ちに加え、何か虚無感にも似た感覚を抱きつつ、書類をファイルへとしまった。

だが、内心こんなことになるだろうと予想はしていたのだ。

確かに梁野博士はいつも廊下で作業していて、就寝の時ですらこのサイトの何処かで寝転がっている。それなのに、どういうわけか仕事だけはまともに終わらせるのだ。一体いつ、どこでそのような作業をしているのか。全く持って不思議であり、僕のような「ごく普通の」職員からしたら皆目見当もつかない。

このことに関して、理不尽と思っている職員は僕だけじゃないはずだ。以前、博士のこれらの行動を叱咤した主任研究員がいたが、博士の仕事の早さに勝てずに結果を残せなかったという事件以来何も言わなくなったのは記憶に新しい。

「……仕事が終わっているのなら別にいいです。でも博士にはちゃんとしたオフィスがあるじゃないですか。決まった場所にいてくれないと、正直探すのが面倒です。」

僕は博士に言った。これを言うのも何度目だろう。もう伝えたところで、彼が自分のオフィスで仕事をすることなんて無いと分かっているのに。
本当は、もっと強い口調でかつ声を大にしてぶつけてやりたい。だが、そんなこと彼は何も気にしていないといった顔で聞くのだろう。本当に、何も気にしていない、何も感じていないという顔で。

「そう言われてもねえ。ここが一番落ち着くんだよ。」

やはり予想通りの返答だった。その顔は、いつもと同じ穏やかな笑顔だ。

しかし、この人は本当に不思議だ。

僕は、ふとそう思った。どうしてそんなことを思ったのか。
その理由は明白だ。何故なら、僕がここに配属されて彼の下で働き出してから彼が誰かを叱ったりだとか、誰かに対して何か文句を言ったりだとか、とにかく人に対して何か感情を爆発させた姿を一切見たことがないからだ。

少し問題になるようなセクハラまがいの行為は良く話題には上がるが、彼が誰かに対して好意以外の何かをぶつけた姿など断言出来るほどに一回も無い。そして、また不思議なのが逆に彼が誰かに何かをされたとしても、彼の中にある相手に対する好意の様なものが無くなることが決してないということだ。

つまり、誰かを嫌いになるということが無い。コーヒーを服にこぼされた時も、悪口を言われた時も。大げさなことと思われるかもしれないが、彼はたとえ殺されそうになったとしても、その自分を殺そうとする相手にすら好意を抱いていると伝えるのだろう。

それほどまでに梁野博士という人物は、何かが人と違うのだ。

「……落ち着くとか落ち着かないとか、関係無いでしょ。僕は困るって言ってるんです。」

僕は少し怒気の混じった口調で博士に文句を言った。しかし、相変わらず彼は何を言われても変わらない。

彼は初めて僕と出会ってからずっと同じ調子で話し、同じ態度で接してきた。彼の僕に対する対応は、あの時から全く変わっていない。機械と触れ合っているとまではいかないが、声の調子、態度、身振り手振り、それらがまるで統一されているかのような印象を受ける。

いや、僕だけじゃない。僕以外の人間とも、この彼の雰囲気は変わらない。まるで器用に皆を平等に扱っているようだ。全てが平均化され、全てに好意を持っている。しかもその好意すらも平均化されていて、寸分の狂いもないのだ。そんな人間が本当にいるのだろうか。全ての人間と、完璧なまでに平均的に接することの出来る人間が。

ふと僕は足元に視線を移した。先程から博士が読んでいた文庫本がそこに置いてあった。よくよく見れば、その本はとてもぼろぼろな状態で紙が茶色に変色している。一体いつから読まれているのか想像もできない。表紙に印刷されたタイトルが目に入る。僕はそれを読んだ。

「……人間失格? 」

「ん? ああ、これか。これはね。」

博士の表情が少し物悲しげなものに変わる。この人がそういった感情を表に出すのを見たのは、僕が知るかぎりではこの時が初めてだ。

「私の半生のようなものだよ。」

「……半生? 」

「別に、この中の誰かに自分を当てはめているわけじゃないよ。」

「え。」

「ただ私は、これと共に生きて、これと共にここにやって来た。それだけ、私はこれと付き合い、それに費やすための時間が多かったというだけさ。」

まるで、僕の考えを見透かされたようだった。

その時、僕は博士の半生とは一体どのような物なのだろう、どの登場人物と重なるのだろうと考えた直後だった。

以前もこういったことがあった。僕が心のなかでとどめた博士に対する悪態を、彼はそのまま口に出して再現してみせた。まるで、僕のことを僕よりも知っているかのような物言いで、博士は言うのだ。その時だけ、僕は博士がまるで人間じゃないかのような錯覚に陥る。

「そうだ『野々村』君。」

「あ、はい。 」

僕は思案を止め、唐突な呼び止めに何とか応えた。

「今日、新たに収容されるオブジェクトの一回目の実験が行われるんだ。君はここに来て間もない。だから、まだ収容手順の流れとかよく分かっていないだろう。それの見学がてらに連れてきてくれって主任が言ってたんだ。どうだろう。」

博士はゆっくりと起き上がり、僕の顔を見つめる。

「はい。分かりました。」

僕は二つ返事でその誘いに応えた。

「そうか。良かった、良かった。」

そう言いながら、博士は歩き出した。

「あ、それと最後に一つ。」

と思うと即座に立ち止まり、僕に背を向けたまま話し続けた。

「今日の『子』は、私が見る限りとても怖がりだ。」

「……はい? 」

「気をつけ給え。わけが分からなくなって暴れだした子供ほど、扱いのむづかしい者はない。」

その時、僕はまだその言葉の真意が分かっていなかった。


「私は、『全ての他者』を愛しているんだ。」

僕は脇腹を押さえながら、痛む体に耐え悶絶していた。しかし、そんな僕の存在などには目もくれずに博士は喋り続けていた。

「だから、君のことも愛しているんだよ。」

サイト内の収容区画手前の廊下は辺り一面血の海となっていた。そこら中に人間だった物が散乱している。それらは既に肉片へと成り果て、一部ではゲル状に変異しているものまであった。視線を移せば、頭部と内臓が片隅にかためて置いてあるのが目に入り、ついこないだまで食堂で談笑していたはずの同僚たちの死体が山積みにされているのだ。

暫く気絶していた僕は意識が鮮明になってはじめて、この光景を目の当たりにした。そして、その凄惨さからその場で吐き出してしまった。吐瀉物の中に交じる胃液の苦味が僕の舌を襲う。涙が滲み、ただ苦しいという感情だけが僕を支配していった。

護送中のオブジェクトが逃げ出すなんて。サイト内の事故。講習でも非常事態に備えてどう動けばいいかよく理解していたつもりだったが、ここまで凄まじいものだとは思いもしなかった。

今日だけで、一体何人の人間が死んだのだろう。こんなにも簡単に人が死んでいくものなのか。誰にも気付かれない極秘施設の中で、こんな戦場が存在していたなんて。

何人かの職員は生き残ってはいる。だが、ほぼ死にかけと言ったほうが正しいだろう。ある者は助けを呼ぶために悲痛な叫びを上げ、ある者は無くなってしまった両足を引きずったまま逃げようとしている。そのあまりの衝撃的な状況で、僕は抗ったところでどうにも出来ないという、明確かつ理性的な絶望に飲み込まれていった。

先程、僕はそのオブジェクトによって壁に投げつけられた。その所為で、今はこの血溜まりの上で腹ばいになって倒れている。体中に痛みが走り、まともに動くことすら出来ない。

死というものがすぐ目の前にある。僕は、生まれて初めての本格的なそれを感じた。

「君は凄い。これだけのことを、一瞬でやってのけたんだから。」

梁野博士が話しを続けている。僕は霞んでいる視界の中で、それを確かめた。その博士の声を頼りに、僕は何とか目と頭を動かした。

「……でも、これは君が好きでやったことなのかい? そうじゃなかったら君は本当に可愛そうな子だ。……ああ、かつて『他者』として認識していた者達のことも愛していたよ。だけどね? それも結局、死んでしまっていたらどうやっても愛することが出来ないみたいなんだ。……私は、まだそこまでには到達できていないらしい。悲しいね。私は。」

『他者』という言葉がとても引っかかった。博士の言うその言葉には、とてつもなく冷えきった物が根底にあるようでならない。

この惨劇の中で、彼はどうしてこうも、いつもと変わらない平然とした態度で誰かと会話が出来るのだろう。そもそも、先程からしゃべっている内容自体が僕には理解し難いものだったのだ。

分からない。情報が少ない。いや、違う。分からないんじゃない。分かりたくないと言ったほうが正しいのかもしれない。そう思うと、僕のぼやけた頭でも嫌な想像ができてしまった。他に誰も居ないのなら、僕以外で会話を試みようとするものがいるとすれば、その答えはひとつだけだ。

「ん? やあ、『野々村』君。生きていたのか。私は嬉しいよ。」

博士が僕の存在に気がついた。その嬉しいという言葉が、どこと無く遠くを見て、恐らく僕のことを心配しているのではなく、そうすることが正解なのだという理由で行っているのだと感じた。

「……博士……一体、何を……。」

「彼女と話していたんだ。見給えよ、この光景を。彼女一人でやったんだ。どうだい? 凄いだろ。こんなことを一瞬でやってのけてしまうなんて。彼女は素晴らしい力を持っているよ。だけど、どうやらこれは彼女が望んだ結末ではなかったらしい。だから、私は彼女を慰めてあげていたんだ。だって可哀想じゃないか。……おっと、そうだ忘れていたよ。」

おもむろに博士は、僕の業務用の携帯電話を僕の白衣の内ポケットから抜き取った。そして、先程の朗らかな口調とは打って変わって、とても真面目な言い方でこの惨劇についてを上層部に連絡した。周りでは、未だに阿鼻叫喚の声が鳴り響いている。

可哀想という博士の言葉が出てきた瞬間、僕は動けない体で心だけがざわついた。彼の口調は本当に変わらない。いつもの日常を謳歌するときと、全く同じなのだ。

僕の近くに博士が駆け寄り、倒れている僕を起こした。僕の背中を支え、壁が背もたれの代わりになるように座らせる。

そして、僕は見た。博士と並んでいる、この惨状を創りだした当人を。そこにいる存在を明確な言葉で言い表すのにふさわしい言葉がある。それ以上でも、それ以下でもない。

「化け物かい? 」

博士が、まるで僕の心を見透かしたかのようにそう言った。まただ。また、この感じだ。僕のこの気持とは裏腹に、博士のその顔は本当に穏やかだった。

「確かにそうかもしれない。だけど、この子はただの臆病な『女の子』でしか無いんだよ。『野々村』君。それ以上でも、それ以下でもない。そうは思わないかい? だからこそ、彼女のこの行いを私は肯定してあげなくてはならない。じゃなきゃ、この子は自分の心を壊してしまう。君も、ただやったことを責められてるのは好きじゃないだろ? それと同じさ。そう、全く同じなのさ。」

「でも……こいつは、みんなを……。」

その瞬間、博士の表情が変わった。先程からの穏やかなものから一変し、そこには一切の感情の起伏も存在しないのだ。まさに鉄仮面だ。人間味というものが、消えて、無くなってしまったのだ。

「……『野々村』君。」

梁野博士が僕の顔に彼自身の顔を近づける。距離はほんの数センチ。彼は両手で僕の顔を掴み、ぐっと僕と自分自身との距離を縮める。

「私は、私の生涯を全くそれとは無縁なもので統一してしまった。だからこそ、私はそれを取り戻さなければならないんだ。私は皆を愛さなければならない。生きとし生けるものを、ずっと、心から愛し続けなければならないんだ。私の『母』に注げなかった愛を、今こそ、私の中に創りださなければならないんだよ。じゃなきゃ、じゃなきゃ私は、きっと、恐ろしいモンスターになってしまう。やっと、やっとここまで来たんだ。私は、あそこにいる『彼女』も愛しているんだよ。『君』のことも愛しているんだよ……! だって、そうだろ……! 」

博士の目が、僕の目を見続ける。その目からは、何も感じられなかった。虚無。それが妥当だろう。空っぽなものが何を求めたとしても、所詮は叶えられないのだ。僕は、その眼差しからそれを強く感じ取った。

いつの間にか周囲の声は止んでいた。というよりも、皆が梁野博士の言葉を聞いていたのだ。先程まで、殺戮の限りを尽くしていたそれも動きを止め、そこでは今の博士の悲痛な叫びだけがこだましていた。

博士は一旦僕から視線を離し、自身の周りを見回した。皆の視線が彼を見つめている。皆が皆、博士の先程からの文句に対して、恐らく僕と同じことを思っているのだろう。

博士は再度僕の方を見る。その顔は先ほどと変わって、いつものように笑っている。

「だから、私はここにいるんだよ。『野々村』君。 」

博士は最後にそう言って、何も言わなくなった。


機動部隊の介入により、事態は収拾された。僕と梁野博士は、この事件においての複数人いる内の生存者として保護された。そして、その後事件の概要について色々と聞かれた。

当時の状況、オブジェクトはどのようにして人を襲ったのか。その他、なにか気が付いたことはなかったかなど。大体一時間ほどこれらの質問が続き、担当の職員の方と話して、僕は取調室を出た。扉を開けたそこには、僕と交代するのを待っていた梁野博士がいた。僕の出てきた取調室の向かいにあるソファーに彼は座っていた。

「終わったのかい? 」

博士が訊いてきた。僕は声を出さずに、小さく頷く。

博士は、そうかと言って軽快に立ち上がり、僕とすれ違って部屋へと入っていった。横目で見たその顔は、相変わらずいつもと変わらない表情だった。

梁野博士に関しては、あくまで脱走したオブジェクトの活動を一時的に制御していたという名目で、ある意味今回の事件の功労者として扱われたらしい。だけど、僕はそう思えない。あの人は、普通の人間とは違う。決定的な何かがずれている。あの、いつも温厚そうな顔に隠した何かが、あの時一気に漏れだしたんだ。僕にはそう思えて仕方がなかった。

「…だから、私は、ここにいる。」

博士が最後に言った言葉を復唱した。博士がここにいる理由。博士が、ここに自分の意志でいる理由。僕は少し放心的な動きをしながら、サイト内の廊下を歩いていた。一応の向かっている方向は僕のデスクのあるフロアへと続いてはいたものの、その足取りはおぼつかない。

僕は考えた。博士の言った言葉の意味を。

「私は全ての『他者』を愛している。」

僕はその言葉を思い出し、ふと後ろを振り返った。このサイトの、財団のとても無機質な廊下が延々と続いていた。

僕は思う。多分、あの人は壊れているんだ。

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