白線渡り
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それは、白昼夢のような光景だった。
大通りからは外れた、何の変哲もない住宅街の道路。
昼過ぎの太陽が照らすその黒々としたアスファルトから、人の右手が生えていた。
 
 
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ここは財団日本支部サイト-81KA、エリアB1の端にある住宅街だ。
新米エージェントである桜木は、先輩エージェントの千代巳と共に、自分の担当する地域で発生した異常な事件の初期調査を実施していた。
切断された人体が道路上に放置されるという凄惨な事件。それも、1週間の内に3件。
それだけなら異常性の無い猟奇的犯罪の可能性もある。しかし、現場での調査はこの案件が異常であることを示唆していた。

その根拠の一つがこれだ。

「やっぱり、切断面がおかしいですね」

現場保存を行った機動部隊隊員の撮影した写真を見て、桜木は顔をしかめながら呟く。
こんな仕事だ。訓練や座学でグロテスクな現場写真を見ることはあったが、やはり実際の人体の切断面を見るのはキツい。

「そうだな、前回の2件と同じ…アスファルトの細かい凹凸に綺麗に沿って千切れてるように見える…あんま見たくないな」

そう、発見された人体の一部は、指、頭頂部、そして手首。そのどれもが、ギザギザの…しかし妙に綺麗な切断面を持っていた。そのどれもが道路の上で発見されており、丁度、それが落ちていたアスファルトの表面の細かい凹凸にピッタリとハマるように切断されていたのだ。

まるで、アスファルトに体が削り取られたように。

危険なオブジェクトだ。サイト本部はそう判断し、次の事件に即応できるよう専門の研究員と機動部隊、そして担当エージェント、つまり千代巳と桜木を待機させていた。故に、事件現場は事件発見後1時間で既に視界を覆うように封鎖され、即席の調査用の様々な装置が配備されていた。

その一つを黙々と弄っていた小柄な女性が、体に不釣り合いな程大きな端末を持ってこちらに近づいて来る。

「えーっと、千代巳サン、と…桜木サン。初めまして、サイト-8110所属、研究員の間車まぐるまです。依頼されてた調査結果が出たのでお伝えしますね」

「お願いします」

千代巳が愛想よく笑って、ディスプレイに目を落とす。桜木も少し背伸びして千代巳の後ろから端末をのぞき込んだ。

桜木達が彼女に頼んでいたのはアスファルトの下の成分調査だ。そしてディスプレイには、地面の下に白い点が無数に存在している画像が映し出されていた。それは点描のように一つの形を作り出していた。手を伸ばした人型のような形だ。そして右手首から先が無い。手首から先は、地面の上なのだ。

「あまり気持ちのイイ話じゃ無いンですが、大切な事なンで説明しますね。白くプロットされてる部分は人体のような有機的な組成です。まァつまり地面の下に見つかッてない人体が存在する、ンですが」

桜木は頷いて続きを促す。少し外国訛りのある彼女の言葉のその先に、何か不吉な言葉が待っている気がした。

「普通、人の体をこの装置でプロットすると、真ッ白な人体として出力されます。ですが、この地面の下の組成のプロットは点々で表示されています。つまりこれは、点の場所、ところどころにしか人体組成が存在していない、という事を意味しています」

つまり、どういう事だろう。
聞くよりも前に、千代巳が大きく息を吐いて、呟く。

「…そうか、人体は…地面の隙間に入り込んでるのか」

「ご名答です。この人…恐らく右手の持ち主の体…は、アスファルトの隙間、地面の隙間などの僅かな空間に沁み込むようにしか存在できていません。早い話が、人の形をゆるく保ったまま、数えきれないほどバッラバラになってます」

桜木は右手首の凹凸を思い出した。アスファルトに沿うように切断されたのではなく、人の体がアスファルトの無い部分だけ残ったのだ。だから地面の下の隙間にしか人体が残らず、地面の上はそのまま残されていたのだ。

「レインボー・プロジェクトで似たようなのを聞いたことがある」

見解を述べる千代巳に間車研究員はニヤリと笑う。

「強力な磁場発生装置で軍艦をレーダーから消そうとした、フィラデルフィア実験の事ですね。軍艦はレーダーから消え、不明な原因により瞬間移動した…その際の座標のズレから船体と人体が重なり、躰から船体のあった部分が削り取られる事例がありました。実はそれ以外にも、このような事例は現実改変者の行った瞬間移動のミスという形で良く知られてるンです。機動部隊から逃げようとした現実改変者が誤ッて壁と重なる位置に自身の体を移動させたことで壁に切断されてしまッたり、左足がコンクリート塀に削り取られた現実改変者もいましたね。こッちはまだ存命ですが」

「って事は、現実改変者が改変による移動をミスってアスファルトに突っ込んだ、って事ですか?」

現実改変者の発生する確率にピンと来ていなかった桜木の疑問に、千代巳がナイナイと手を振る。

「被害者3人が3人とも現実改変者って事はまず無いだろ。現実改変者が誰かを移動させてこんな風にした、というのはあり得るかもだけど、うーん」

「まァとにかくここで調べられるのはこのぐらいで、後は地面の下の人体のDNAが落ちてた右手首と一致するか、ッてところをこれから調べていきます。で、もう一つ。地面の下に人体が沈ンでいた以上、地面の上に残ったパーツが無い、全て沈み切ッた人体はまだ見つかっていない可能性があります。例えば下水のパイプ等の地面下の空間に切断された人体が見つかッて大騒ぎ、ッてのがあり得ますンで、そッちは…」

「げ、そりゃ大変だ。解った、情報部に言って地下の空間、配管を調べて貰って、機動部隊での探査まで依頼しとくよ」

「助かります、千代巳サン。さて、私からはこのぐらいですかね。お二人は今後は該当地域のパトロール、ですか?」

「そんなところだ。桜木と組んでランダムな時間と場所でやってみる」

「気を付けてくださいね。最低でも3人、この事件で死んでます。危険度が高く原因が未判明。いくら慎重にしたッてしすぎる事はありませンから…」

「解った。忠告ありがとう」

その他の資料を受け取って、桜木と千代巳は目隠し用の工事フェンスから外に出た。
お昼時で明るく、異常などとてんで縁が無さそうないい天気だ。
近くの大通りには車が行き交い、買い物に出かけた主婦や学校帰りの子供の姿も見える。
こんなに近くで、アスファルトに飲み込まれて、異常によって死んだ人が居る。
その事実を、そしてこれから自分が対処する異常の危険度を考えて、桜木は小さく身震いした。

 


 

異常が発生した箇所を中心に、千代巳と一緒に朝昼夜と数日間見て回っていたが、何も遭遇しなかった。その間に、担当研究員達が遺体のDNAから行方不明状態になっている人達を探し出し、記憶処理・調整をしたと聞いた。少しほっとしたが、それ以上に桜木はいたたまれない気持ちがあった。

自分の担当する地区で、異常による死者が出たのはこれが初めてだったのだ。絶対にこの異常の原因を突き止めよう、そう思うと長時間の実地調査も苦にならなかった。

パトロールを始めてから6日目の事だった。

夜、人気がなくなり冷え切った街を千代巳と一緒に歩いて回っていた時、桜木はかすれるような波音を聞いた。余りに普通の波音だったので、一瞬違和感に気付くのが遅れた。だが、住宅街のど真ん中で波の音が聞こえるはずが無い。

「チョミさん、今」

「静かに。……聞こえる、近い」

目立たないよう早足で角を曲がって、波音の方向へ近づいていく。
サササ――と、薄い水の層が地面の上を滑っていくような音が、段々大きくなってくる。

急に、先頭を歩いていた桜木の体が真下に沈んだ。
大きな水音がするまで、いやそれ以降も数秒は、何が起きたか解らなかった。

「わっ、っと、くそっ」

地面があるはずの場所に、いつの間にか黒々とした水面が揺蕩っていたのだ。
市街地の道を歩いていていきなり水の中に沈むという展開に頭がついていかず、体が浮かぶ方法を思い出すまで時間がかかる。

「桜木、掴まれ。早く上がれ!お前、今アスファルトが元の地面に戻ったら、4体目の遺体になっちまうぞ!」

桜木は慌てて千代巳の差し出した手を掴んだ。
そのまま、千代巳の細い体躯からは考えられないような力で黒い水から引き揚げられる。

「電柱につかまれ。足は白線の上、いや、側溝の方が良いか。アスファルト以外は普通に立てるみたいだ」

心臓がまだ跳ねている。桜木はいきなりの異常な出来事に、早まった鼓動を抑えるので必死だった。

「ちょ、チョミさん、すみません」

「あんなのは反応しろってのが無理だ。まずは応援呼ぶぞ、アスファルトが向こうまで全部黒い水みたいになっちまってる。ここ一体封鎖しないとまた犠牲が出る」

千代巳が携帯端末を操作し、オペレーターに地域の封鎖と情報統制の依頼を出していく。いつもなら千代巳の仕事のやり方を一言一句聞き逃すまいと集中しているのだが、桜木は今は気持ちを落ち着けたかった。足元の、本来アスファルトがあった場所に揺蕩う黒い異常な水面をじっと見る。波が白線に当たって跳ね返る。かすかな波。得体のしれない異常な黒い水が、まだ固体のままの白線と側溝に当たってたてる音。

この音を聞いてこっちに来た。波の音を。
……波打っている?風も無いのに。

桜木が落ちた時の波紋とは違う、直線的な、作為的な波。自然と桜木はその波の先を見た。

玩具のように小さな一隻の帆船。
2つのマストに海賊船のような黒い帆を張った美しいブリッグ船が、街灯の青ざめた光に照らされて、アスファルトの海を悠々と進んでいた。
 
 
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「チョミさん、船です!船が道路を!」

「何!?」

桜木の指さした方を見て千代巳が息を呑む。

「船か!良く見つけた、追えるか?」

「もちろん!」

「良し、頼んだ!白線と側溝使え、落ちるなよ!クロちゃん2、封鎖プロトコルはそっちで頼む!桜木がオブジェクトの本体っぽいのを見つけた!私もすぐに追う!」

千代巳がオペレータに説明している間にも、桜木は駆け出していた。

アスファルトだ。あの玩具の船は、アスファルトを海に変える。恐らく船を中心に海が広がっているのだろう。幸い、船の速度は速くない。だが、地面と同じ黒色の帆を張った小さな船は、少し目を離せば夜の闇に紛れて簡単に見失ってしまいそうだった。見失わないよう、慎重に白線の上を走る。

そういえば、子供の頃こんな遊びをした気がする。
白線渡り、だったか。
アスファルトはマグマで、学校から家まで白線から落ちないように帰るとか、そういう他愛もない遊びだ。だが、今回の異常は、落ちたらマグマより酷いことになる。恐らく、海になったアスファルトから出れないまま、アスファルトが正常に戻った時、地面に沈んでいた体は元の地面に食われてしまうのだろう。だから、海から出ていた手首だけが残っていたのだ。

考えているうちに桜木は帆船に追いついていた。帆船の速度はそんなに早くない。白線を渡って船についていくのは難しくないが、道路の真ん中を進む船を捕らえる方法が無い。並走しているうちに千代巳が追い付いてきた。

「ナイスだ桜木、良く見つけた、マジで」

「ありがとうございます。問題はこれ、どうやって捕まえるかっすよね」

「どうにかして深夜の間に捕まえちまわないとえらいことになるな。と言っても、今出来るのはコイツがどっかに行かないように見守るだけだ。映像ログは今も送ってるから、本部ですぐ対策を考えてくれるだろ……いや、マズいな」

船の行く先を見て、千代巳は舌のピアスを噛んだ。
大通り。車は通っていないとは言え、どこに行かれるか解らない。

「まずいっすね。車はもう規制してるんですか?」

「信号操作はしてるが、本格的な封鎖はまだだ。機動部隊がまだ展開出来てないからな。それよりも」

千代巳は早足で白線の上を歩きながら、懸念を口に出した。

「この先の大通り、近くに横断歩道が無いんだよ。もし船に通りの向こう側に逃げられたら、見失うかもしれない」

そうか。アスファルトが海になる異常の中では、アスファルト上に描かれた白線だけが唯一の地面、海を渡る橋になるのだ。橋、そういえば少し先に歩道橋がある。それなら、向こうに渡れる。

「チョミさん、この先ちょっと行けば歩道橋があったはずです。俺は歩道橋に先回りします。歩道橋の上から船を見て、船が向こうに渡ったら歩道橋渡って俺が追います。チョミさんは後から付いてきてください。もし船が別の方向に行ったら、チョミさんが追っかけて下さい」

「良い判断だ。足を滑らせるなよ」

その通りだ。白線の上を走るから、いつも通り全速力とはいかない。特に、このあたりは道が古くなっていて、白線が途切れている箇所も多かった。慎重に足場を選びながら船を追い越し、先回りする。

幸い、大通りは全て赤信号で封鎖されており、人通りも無かった。タイルの敷き詰められた、幅の広い歩道がありがたい。沈まないから思いっきり走れる。信号二つ先の歩道橋の階段を乾いた金属音を響かせながら駆け上がり、そこで桜木は初めて「船」とその異常の範囲を俯瞰的に目視した。

アスファルトの海を進む黒色の帆船。その船から信号半分、50m程度の範囲のアスファルトがさざ波を立てていた。タイル張りの歩道や信号の柱に、黒い波が打ち寄せる光景はどこか幻想的だった。

そして、船はそのまま進路を変えず、まっすぐ大通りを突っ切ろうとしていた。歩道橋からの方が早い。桜木は端末をチョミに繋ぐ。

「チョミさん、船は大通りを渡ります。先に追いかけるので、後から追いついて下さい」

「解った、異常の範囲に入るときは気をつけろよ。花壇とか電柱とか、いざって時に掴まれそうな足場を見繕っておくんだ」

端末から聞こえるいつも通りの千代巳の声に、走って高ぶっていた気持ちが少し落ち着いた。

もうすぐ大通りを渡り切る。船は……船はどこだ?通りの道路の上にいない。

慌てて周囲を見回すと、船は歩道の上に浮かんでいた。
いや、正確には歩道に引き込まれたアスファルトの上に。
大通りに面した、大きな建物の地下駐車場に異常な船が潜り込もうとしていた。

建物には、見覚えがある。

千葉国際科学大学 医学部付属病院

この地域は比較的財団のサイトから近く、フロント組織も多かった。
帆船が逃げ込もうとした先は、よりによってこの春から稼働する財団フロント大学の新しい病院施設だった。

「チョミさん!」

「どうした」

「船が、地下駐車場に向かってます。財団の、附属病院の」

「マジか、追えるか?」

「地下駐車場への道には白線が無いんです。地下には入れないかもしれません。船が十分離れた後ならアスファルトの上でも歩けますけど、船が目視出来ない以上、アスファルトはいつ液体化するか解らないので……」

「建物はウチのフロント大学の、って言ってたな。附属病院は半年後から開業予定だ、建設終わって資材搬入途中だったはずだから電源系はこっちで動かせるはずだ。オペレータに依頼しよう」

少しの間があって、端末の会話にオペレータが参加した音が聞こえた。

「クロちゃん、オブジェクトが千葉国際科学大の附属病院の地下に入った。病院のセキュリティや電源系はオペ側で動かせるか?」

「フロント関連の設備なら可能です。電気と鍵を開けますね」

「頼む。オブジェクトの回収の目途は?」

「機動部隊の編成と並行して間車研究員がお二人の情報を見ながら回収機材の選定中です。封鎖は進行中。サイトから輸送するので最大一時間後に到着です」

「それまで二人で抑えなきゃいけないわけだな、了解」

千代巳が黒木オペレータと話している間に、桜木は附属病院の入り口の前に到着していた。
地下駐車場は袋小路だが、可能なら回収班が到着するまで逃げられないよう、オブジェクトを目視しておきたかった。

こんな危険なオブジェクトは、今日捕まえなければならない。

タイミング良く病院内の電源系が遠隔作動し、誰もいないがらんとした白いフロアを無機質な光が照らした。入り口の大きなドアが、桜木を招き入れる様に開く。

「桜木、中に入るのか。」

追いついた千代巳が息を切らしながら聞く。

「チョミさんは駐車場の入り口を押さえておいて欲しいんです。アスファルトはここにしか続いていません。船が逃げたらすぐに追えるように」

「なら、回収班が来るまでここを二人で抑えておくほうが安全じゃないか?」

「いえ、あれだけ大規模な異常を発生させているのにこのオブジェクトは数週間捕まりませんでした。地面の移動以外に逃げる方法が無いとも限りませんし、可能なら回収班が来るまで目視しておきたいんです」

「なるほど。病院に入って地下まで下りて、船が見える場所を探すのか」

「行っても良いですか?」

「そう判断したなら、行って来い。何かあったらすぐに呼べ」

「ありがとうございます」

桜木は頭を軽く下げて、すぐに開かれた病院の自動ドアに飛び込んだ。エレベータは調整中だったので、階段で地下まで下りる。

 


 

館内地図を頭に入れて、地下駐車場への道を進む。
誰も居ない静かな病院は、無機質な明るさも相まってやけに不気味だった。
悪い想像を頭の中で打ち消す。エージェントは常に冷静でいなければ。

「解ってると思うが、駐車場のアスファルトには入るなよ。白線があろうと、そこまで危険をおかす必要は無い」

「承知です」

端末から聞こえたアドバイスを受け止めて、桜木は駐車場まで続く真っ白な廊下を最短距離で進む。
どの廊下も同じように見える。装飾も無く、無機質な白い廊下に、方向感覚が狂わされそうになる。

その時だった。

桜木が踏み出した右足が、地面を踏みしめることなく廊下に飲み込まれた。
ついさっきアスファルトに溺れかけた時と同じ、フッと真下に落ちる感覚。
バランスを崩し、咄嗟に左手を壁に突っ張ろうとする。
その左手も、壁にどぶんと沈む。

異常だ。異常に飲み込まれている。
何故?地下駐車場はこの先だ。
ここはアスファルトじゃない、ただの廊下なのに!

パニックになりそうな桜木の視界に、すぅ、と廊下の角を曲がって、帆船が姿を現した。
桜木が追っていた帆船と同じ形だと確信できる。だが、帆の色が違う。
あの船の帆の色は、黒だったはずだ。だが、今はさっきと違って真っ白な帆を張っている。
真っ白な、廊下の色を。

そう言う事か。色だ。色鬼だ。
アスファルトを海に変える異常じゃない。
船が浮かんでいる床と同じ色を、海に変える異常なんだ。

「チョミさん、」

助けを求めようとして、端末を持っていない事に気付いた。白い海に落ちた時、一緒に落として飲み込まれたのだ。
まずい。
早く何かに掴まって、体を廊下から引き上げなければ。
この船が遠くに離れてしまったら、その瞬間に俺の体は元に戻った廊下に削り取られて死んでしまう。

だが、周りは一面白色だった。一面の白い海の中、体を預けられる他の色は皆無だった。
機材搬入前の病院。その廊下は絶望的な程真っ白で、なめらかだった。

白く重い液体が体にまとわりつく。普通の水よりも抵抗が大きい。海じゃなくて、底なし沼かもしれない。
とにかく船から離れたら死ぬ。死ぬのに、船との距離はどんどん話されていく。
桜木の背後から、ピシ、ミシ、と音がした。
あの音は白い沼がもう一度廊下として再構築されている時の音だろうか。
俺の体ごと、廊下が再構築されてしまうのか。

「チョミさん!」

叫んだ声に、遠くから返答が聞こえた。

「桜木!端末から水音が聞こえたから、来て……ああ、クソ!」

階段を下りる音、そして見慣れた細長いシルエットが帆船を挟んだ廊下の先に見えた。
千代巳は別のルートで降りてきたのだ。

「チョミさん、気を付けて!この船、白色を液体に変えてます!」

「解ってる!桜木、周りに掴まれるものは……無いか、じゃぁ船に追いつけるか?」

「無理です、これ、海ってより沼みたいで、抵抗が大きくて、泳いでも遅い……!」

どこを見ても白、白、白だ。
このまま死ぬわけにはいかない。
色、色、色。
どこかに他の色は無いか?沼になっていない色はどこだ。
船が海にできない色。泳げない色。

無理に泳ぐ反動で頭が廊下に沈み、周りが見えなくなった時。
桜木の体は探していた色を見つけた。
考えすぎて無意識のうちに歯を食いしばっていたのだ。
舌が鉄の赤い味に触れた。

再度浮き上がる。体はもうほとんど沈んでいる。どうにかこうにか頭を水面上に持って行って、桜木は叫んだ。

「チョミさん、銃は?!」

「ある!どうすればいい!」

「撃って下さい!」

大きく広げた右手を水面の上に突き出す。
反動で、体が大きく沈む。

「手を!」

赤色を。
血の赤色で、沈まない地面を作るのだ。

もはや頭まで沼に沈んでいた。再構築は、すぐそばまで来ていた。
桜木は呼吸を止めて、千代巳が自分の言葉を理解してくれる事に賭けた。

ほんの少し、痛みだけを待つ時間が流れた。
突然の注文にも関わらず、千代巳の判断は予想通り早かった。

「外したら、ごめん!」

財団の銃に、初弾の空砲などは無い。
掛け値なし、本物の銃声が響き、同時に経験したことの無いほどの衝撃が右手を弾き飛ばした。
 
 
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暖かい血が腕を伝う感覚。
痛みで咄嗟に考えた手順まで吹き飛ばされそうになるが、必死にやらなければいけない事を頭の中で暗唱し続ける。

右腕を振って、血だまりを作る。そして、出来た赤色の足場に、右手をつく。体を持ち上げる。

白い沼の中で、初めてはっきりとした地面の感覚を右腕が捉えた。
体重をかけて、体を沼から引き揚げる。
頭が重い水面を突き破って、大きく荒い呼吸で体に酸素を送り込む。
もう一息。
左手も使って、胴体、足を沼から引っこ抜く。

五体が沼から出た後に、ようやく桜木は自分の体の現状を確認出来た。

桜木は、小さな赤い血だまりの地面の上に立っていた。周囲は白い沼だった。
血だまりは更に大きくなっていく。
右手から、血が流れている。
右手の親指と人差し指の間の肉に、穴が開いて赤色が噴き出していた。
千代巳は骨と骨の間の肉だけを撃ったのだ。

「大丈夫か!」

「大丈夫では無いっすね、でも何とか、」

生きてます。遠くで桜木の声がそう言った。
じくじくと右手の傷から熱が広がり、意識が遠ざかる。
周りの廊下は、既に普通の地面に戻っているようだ。
血だまりの赤い地面なら、座っても平気だろう。
体が熱い。ああ…

 


 

「俺、どれだけ寝てましたか」

「安心しろ、2時間も寝てないよ。何しろあの船を捕まえるまでは救急隊も病院に入れるわけには行かなかったから、ウチと機動部隊で応急処置はした。大分血も無くなってるだろうから、もうちょっと寝ときなよ」

「捕まえたんですか」

「桜木のおかげでな。……まだ回収はしてないから、そこにある。間車ちゃんが良いモノ持ってきたからな」

桜木はよろよろと立ち上がる。
千代巳は一瞬座らせようとしたが、あー、と歯切れ悪く頷いて、桜木に肩を貸した。

「お、桜木サン。起きたンですか。いや、まさか血で色をつけて異常な液体化を無効化するとは、良い解決策を頂けて助かりました」

眠そうな目をした間車研究員が口の片端だけを上げて笑った。

その先に、帆船が留まっている。だが、廊下は液体化していない。廊下が細かく色分けされた迷彩色で塗り潰されているのだ。帆船は少し進んでは戻り、を繰り返していた。

「この船は地面に浮かぶ船ですね。浮かンでいる地面と同じ色の地面や壁といッた固体の性質を液体化して進んでいます。ですが、浮かぶために必要な地面に、二色以上の色がある場合…どちらの色を液体化しても船は座礁する。捕まえたからくりはこンなところですね。収容手順も同じようなギミックが付くでしょう」

「間車さんは、異常性が解ってたんですか」

「まさか。桜木サンが赤色で異常性を無効化するのを千代巳サンの端末から見てたので、回収機材に迷彩塗装用キットを突ッ込ンで、機動部隊の方々に頼んでトラップを仕掛けたンです。半分以上桜木サンの手柄ですね」

「そうですか、…良かった」

安心して、気が抜けた。
桜木はもう一度床に座って、硬い地面と壁に体を預けた。
今度こそ眠ってしまいそうだ。
千代巳の口数が少ないのが少し気になっていたが、ぼやけた思考の中でそんな疑問も溶けてしまった。

 


 

千代巳が不機嫌そうだった理由は、すぐに解った。
治療の為に財団施設に入院して、包帯も取れ、復帰してエリアオフィスに久しぶりに戻った時。
千代巳はしかめっ面で桜木の右手を取り、まじまじと見つめた。

右手には皮膚が引き攣れたような弾痕が残っている。
 
 
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「痕、残したのか」

財団の技術なら、痕を残さないように整形も出来た。それでも、桜木は弾痕を残すことにした。
何となく、千代巳がつけているピアスの意味が解ったからだった。

「ダメでしたか」

「いや。でも、お前、ホラ。右手は……大事だろ」

何のことか解るまで少し間があった。
そうだ。高校時代、俺はピッチャーだった。それも、甲子園で投げたピッチャーだ。
その右手に痕をつけてしまった事を、千代巳は今更気にしていたのだった。

なんだ、チョミさんもそんなこと気にするのか。

何だかおかしくなって、口の端が上がる。

「なんだよ。心配って言うか、悪かったな。手の腹に掠らせるつもりだったんだ」

「十分です、っていうか死にかけたんですし、マジで助かりました」

「まぁそうだけどさ」

千代巳はまだむくれている。

「チョミさん、俺は駆け出しですけど、一人のエージェントっす。そりゃピッチャーだった頃の思い出は大事ですけど、今更っすよ。」

胸を張ってそう言うと、千代巳はようやく薄く笑った。

「悪いな、でも心配ぐらいはさせて欲しい。それにウチ、高校野球が好きだからさ、何ていうか」

もう堪えられなくなって、桜木は声を出して笑った。
何だよ、と千代巳が訝し気に桜木を見る。

千代巳が、届かない憧れのエージェントから、少し身近な存在になった気がした。
自分が持った初めての部下に、自分が銃で怪我をさせた。そういう見当違いな負い目の感情を、千代巳は全く隠せていなかった。

いや、貴方は俺の命を救ってくれたんですよ。

そう言おうとしたがやめる。本気で困っている千代巳に対して、その言葉はどうしても薄っぺらくなりそうだったから。それよりは。

俺だって、チョミさんと一緒に修羅場を潜ったんだぜ。

右手の痕がそう言っている気がした。

千代巳の懺悔とも後悔とも八つ当たりともとれない言葉を聞き流しながら、桜木は野球のチケットでも取るかな、と考えた。勿論2枚。秋はもうすぐ終わりそうだった。

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