「今、アノマリーを使った詐欺が増えています。意図せず加害者、被害者となってしまったアノマリーたち。犯罪に利用されたアノマリーに寄り添いつづける男性がいました。この後23時からの密着でお届けします。」
モノクロの給与明細に書かれた数字は年々減っていくばかりだ。世界に異常が増える度、その異常を隠すために必要な金も増えていくというのに。
「ではここで、年々増加していく捨てアノマリーについて専門家のお立場からご意見をお聞きしたいと思います」
つけっぱなしだった携帯から流れてくる聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには元財団職員というテロップの上で熱弁を振るうコメンテーターの姿があった。沈みかけの泥船から逃げ出した見覚えのある顔は生き生きと何か喋っている。彼に対するスタジオの目線は生温いが、少なくとも財団職員が世間に向けられるそれよりはまだマシだった。
密着映像の男性の下にも、元財団職員の文字が踊っている。コメンテーターが財団をネタにしたジョークで失笑をもらう一方で、スタジオの人々はアノマリー保護の男性を尊敬のまなざしで見つめている。アノマリー保護のため計上される費用を何とかひねり出そうと現在進行形で四苦八苦している組織なんて、まるで存在しないみたいに。
「私からすれば財団の管理のずさんさ、もしくは職員に対する態度も一因としてあるのではないでしょうか。先日の給料未払い訴訟についての報道も記憶に新しいところですが」
コメンテーターがそう言い放ったところで携帯の電源を切った。深夜に無駄にWiFi使ってると怒られるんだよ、と誰にともなく胸の中で言い訳をして。忘れようと思ったその言葉はシミのように頭の中にこびりついて、頑張ってるやつだっているのに元財団職員があんなことを言うから職員の立場が低くなるんだよ、と耐えられなくなって吐き出す。
世間からの眼差しには隙間風のような嘲笑と憐憫が入り交じり、こちらの肩身はどんどん狭くなっていくというのに。親に仕事を言えない理由が、機密保持の観点からもっと情けないものに変わった。以前は機密事項として喋った瞬間に即時終了ものだった秘匿は、もうとっくに様々な形で世間に出回りつくしている。
今やヴェールは捲られた。もう、人類を恐怖から逃げ隠れしていた時代に戻さないためにご大層な任務に邁進している財団職員なんていやしない。少なくとも、ここにいるのはため息をつきながら残業を片付けている冴えないブラック企業勤めのオフィスワーカーだけだ。
パソコンの動きが緩慢になり、やがて止まる。このおんぼろパソコンは、情けないことに気をつけていたわってやってもすぐ悲鳴を上げる。デスクトップに反射する自分の顔に、画面に映っていたコメンテーターの先輩の姿を思い出す。
楽しそうだった。ともすれば見苦しいほど必死で、でも生き生きと喋っていた。自分のことを必要としてくれる場所で、あの人は鈍く輝いていた。お給料もさぞ出てるんだろうなと思って、自分の発想が嫌になる。
世界を救う大切な仕事に就いていると思っていた。意味の無い行動なんてここには無くて、全ては隣人を異常から遠ざけるためにあるものだと。お金なんて関係なかった。とあるオブジェクトの研究補佐になってほしいと頼まれた時の自分は、今の半分以下の給料でも頷いたことだろう。自分が研究補佐を務めていたオブジェクトはとうに財団から逃げている。今はどこかのご家庭かアノマリーカフェでたいそうちやほやされていそうだ。
いっそ自分もそうなりたいと机に突っ伏した時、ふと疲れきった視界に何かが見えた。
お盆に乗ったおにぎりと、ペットボトルのホットのお茶。それとメモ用紙。ラップ越しでもまだ暖かいおにぎりの湯気に隠れるように置いてあったメモには、何だかよく分からない文字列とVサインのような誇らしげな顔文字。なんとなく、気が緩んだ。なんだかもう、これくらい許されると思った。
何も考えずに、ご丁寧に添えてあったおしぼりで手を拭く。それから手に取ったおにぎりのラップを緩めて、一口ゆっくりと噛む。
塩おにぎりはどこまでも甘くて、少しだけ塩辛かった。
二つあったおにぎりとペットボトルを空にして、おんぼろのパソコンに向き直る。ブルースクリーンと寒さに震えながらパソコンをなだめすかすのに四苦八苦。悪戦苦闘してなんとか完成させた時には、とうに日付は変わっていた。
安堵の息がどっと漏れる。明らかに体によくない高揚感と疲労に負けて机に突っ伏して、そこから意識がぷつりと途切れた。
夢を、見ていた。
こんな風に残業していたら夜食と訳の分からないメモが出てきて、そういえばこんな話を先輩に聞いたことがあるな、と考えていた。画面の中でコメンテーターになっていた元財団職員の先輩は、思い出の中ではまだ職員で、何でもないような顔で残業の天敵の話をしていた。
「お前は会う機会が多そうだ。無理しすぎんなよ、ここから逃げるタイミングだけはいつでも考えとけ」
そう笑っていた先輩のところにも、この風変わりな夜食お届け便は届いているのだろうか。届いたことが、あったのだろうか。まだ財団に差し押さえられた部屋なんてなかった頃の思い出は嫌になるほど懐かしくて、その一つ一つが自分をここと結びつけていることを実感する。
サイトがどこぞの団体の構成員に襲撃されたこともあった。指導を担当してくれた研究員の笑顔はもう二度と見られなくなった。サイト全体がおかしくなったこともあった。同僚が二人、上司が三人帰ってこなくなった。
どれもこれも外から見れば埃をかぶったトロフィーだ。悲劇と呼ぶには容易い景色でも、それがあるからこそ、生き残ったからには胸を張ろうと立っていられた。
とうとう逃げられませんでしたよ先輩、このやり方しか知らなかったから。そうオフィスで自嘲気味に呟くと、景色がどんどん薄くなっていった。
ばっ、と飛び起きる。体から目が覚めて、頭も徐々に冴えていく。いつの間にか部屋は明るくなっていて、時刻を確認すると午前七時前。慌てておんぼろパソコンを叩き起こすと、どうやらデータは飛んでいないらしかった。
「寝落ちかよー……。」
思わず笑いがこみ上げる。何が財団の管理のずさんさだ、何が財団職員の立場だ。その職員がこんな体たらくで救える世界の一つもあるものかと笑い飛ばす気になったのは、久しぶりにゆっくり寝られたからだろうか。シャワー浴びたいけど冷水しか出ないんだっけここ、と考えて、ふと机の上のメモを見る。文字化けみたいなメモの中で唯一分かるVサインに微笑み返して、席を立つ。
船はまだ沈んでいない。逃げられなかったわけじゃなく、ここにいることを選んだんだ。
給与明細の数字が減り続けても、世間の目線が冷たくても。ひとにぎりの幸福があって朝の青空が綺麗だと思える限りは、何とかやっていける気がした。