初めて幸福になれた日
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原始の海により生命が誕生し、生物達は差異を持って進化を繰り返してきた。海に残るもの、羽を持って宙を舞うもの、陸上を闊歩する巨大な爬虫類、そして後年の世においては知力をもって世界を支配する人類の祖先。支配者として生活圏を広げていくことにより、その差異は生物の中でもより複雑なものへと変化していった。それによる迫害、差別、虐殺や戦争。今こそ愚かな行いを行ってきた報いを受けるべきときなのかもしれない。もたらされた一部の差異は喪失し、人類は皆等しく「幸福」となった。

もし世界の全てが赤色で構成されていたら、そこに住む人間は赤色の概念を持つことはできないだろう。赤色でないものがあるからこそ赤色は赤色として認識されることとなる。人間はものを理解するときにそれ以外のものと比較することで認識をするのだ。つまり逆に差異がなければあらゆるものを認識することは不可能となる。光がなければ闇を認識することができないように、死がなければ生という概念も認識することはできない。

だからその日、僕はカバンに包丁を忍ばせ登校することにした。


朝、目を覚まし顔を洗い学校へと向かう。繰り返される日々のルーチンワークである。街行く人々は一様に同じ笑顔をして通り過ぎていく。皆人と同じであることに満足感を感じているのだろう。小鳥は歌い木々は輝いているようだ。こんなに「特別」気分のいい日はたまには違う道を通ってみようと思っても不思議ではない。「特別」な日には「特別」なことをしたくなるものだ。
公園へと差し掛かった時、ベンチに座って本を読む女生徒を見かけた。制服から察するに同じ学校の生徒だろう。読んでいるのは小説だろうか。今時珍しい人もいたものだ。それが気になってしまい彼女を注視してしまう。そのとき彼女の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。それを見た僕の心臓は跳ね上がった。こんな表情をする人がいるなんて思いもしなかった。今まで見たことのない表情。「特別」なそれに対し、僕は心奪われてしまった。ぼうっと見つめる僕に気づいたのか彼女は見たことのない不思議な眼差しを僕へと向けて去っていってしまった。美しい人であった。
この「特別」な日に、「特別」な人に出会った。



その日の夜は眠ることができなかった。彼女の顔を思い出し、顔が熱くなるのを感じた。こんな感覚は産まれて初めての経験だった。この感情の正体が知りたい。だから僕は翌日から公園を通って通学することにしたのだ。

次の日も僕は公園を通って通学をした。おはよう、と彼女に挨拶をしてみる。不思議な生き物を見ているような視線をこちらに投げかけた後、ぼそっとおはようと返事をしてくれた。この日から毎日彼女に挨拶をするようになった。



彼女を観察し続けた結果、不思議な表情について多少理解が進んできたように思う。それを真似ることでなんだか彼女に近づけたような気もしてくる。この日は「財布を家に忘れて困ってしまったよ」と彼女が読むべき本を家に忘れてきてしまったときと同じように、眉をひそめ口をへの字にして言ってみた。彼女は一瞬不思議な表情をしていたが、なんだか嬉しそうだった。「理解できないなら教えればいいのね」なんて言っていたけどなんのことかさっぱりわからなかった。



そしてまたある日、挨拶のあとに彼女の持っている小説について聞いてみた。いつもここで本を読んでいるけど、一体何を読んでいるんだいってさ。それを聞いた彼女の表情が今までとは打って変わってぱあっと明るくなり、早口で本のことを教えてくれた。彼女曰く、病気の男性とそれを支える女性の恋人同士のお話で死別してしまうシーンがとても悲しく感動的なのだそうだ。彼女はそれを説明し終わると息を整えて、これから毎日一緒に読んでみましょうと提案してきた。僕には悲しいといった感情があまり理解できないと言おうとしたのだが、それも含めて教えてあげるとのことだ。それから毎日彼女との朝の読書会が始まった。



そこから毎朝少しずつ本を読み進め、1か月後には読み終わった。どれくらい理解できたかと食い気味に聞いてきた。すごくよかった、彼が亡くなるとき気丈に振舞い笑顔で彼を見送った彼女はとても気持ちの強い子なんだねと、あらかじめ用意しておいた文章で僕は答える。彼女はそれを聞くと満足そうな表情になり、嬉しそうに僕の肩をたたいた。本の内容は僕にはきっととても難しいもので、彼女の解説無しではとても読み切ることなんてできなかっただろう。それからどこがよかったとかこのシーンが最高に感動したとか彼女の話に彼女との会話で学んだ情報から適切に相槌を打ちながらお互い笑顔で本について話し合った。そのとき僕はやっと彼女の笑顔を手にすることのできた達成感を感じることができたのだ。そう、彼女は「僕と同じ笑顔で」僕に話しかけてくれるようになったのだ。

後はあの時の、彼女に恋した表情さえ理解できれば、彼女に好きだと伝えることがきっとできる。だからその日、僕はカバンに包丁を忍ばせ登校することにした。



そして翌日、もうすぐあの表情が見れる。僕の心は踊っていた。いつも通り彼女に挨拶をする。他愛もない会話をして、そろそろ学校へ行こうとお互い立ち上がる。

そして、歩き出そうとする彼女を後目に、僕は自分の腹部をカバンに潜ませた包丁で突き刺した。

倒れこんだ僕を彼女は不思議そうな顔で見る。ああ、違う。その表情じゃないんだ。もっともっと深くまで。もう一度を突き刺す。絶叫している。違う。もう一度突き刺す。必死に止血しようとしている。違う。もう一度突き刺す。涙を流している。少し違う。もう一度突き刺す。ああ、見たかったのはこの表情だ。これが悲しい顔なんだね。
どれほどこの瞬間を待ちわびただろうか。一瞬、あの時と同じ表情が見れて僕は満足感に包まれながら、彼女を見上げる。ありがとう、こんな感情を教えてくれて。きっと君以上の女性は僕の人生には後にも先にも現れることはないだろう。

素晴らしい気分のまま流れる雲を観察する。景色は潤み、傷口は熱く火照る。きっとこの時初めて、僕は「幸福」を認識することができたんだと思う。

ああでも、告白する時間がちょっと足りなかったかな。

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