緋い蜥蜴、硬い鳥
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見る見るうちに酸の底から体を上げた爬虫は、密閉された空気を吸った。透き通った瞬膜が丸い角膜を舐める様子は、事態を見守る研究者たちの記憶から或る生物を呼び起こしていた。講義で、図録で、論文で、会話で、展示で、液晶で、道路で、野山で、公園で、  星霜重なる日常の彼方までその生物は溢れていた。








あれはペトリコールの香る午後だった。雨が窓を叩かなくなったのを見届け、私は長靴を地面で鳴らし、近所の公園に足を運んだ。広がったぬかるみは同級生の足痕を見せることなく、澄み亘る水を湛えていた。ゴムに身を任せたまま中へ一歩踏み出ると、ぱしゃり、ぱしゃりと波紋が鳴った。

目についたのは枝葉を揺らす玉水実るシイの樹だった。見ると、水の垂れる葉を傘にして1羽のスズメが留まっていた。レースのように粒を纏い体を縮めたその鳥は、翼を振るって水を散らすと、枝を揺らして飛び出した。

入道雲にスズメは消えた。ランドセルの無い自由があった。




あれは赤色の散る午後だった。色づく秋の訪れる土手に伸びる道路脇は、犬や人の賑わう頭上に無数の葉を焚いていた。燃え上がる空と対照的に、かつて火照ったアスファルトは夕暮れの風に冷めていた。過ぎ去った夏を想ううち、こんと音を立て何かが落ちた。クルミがそこに転がっていた。

エンジンをふかしタイヤが通ると、重量と回転に屈してその実は散った。自動車の去った後、軽い羽毛を風に乗せカラスがふわりと舞い降りた。撒かれた果実を啄むと、くいと首を持ち上げて大気の中へ飛び出した。

夕焼けの中にカラスは溶けた。黒く強かな知性があった。








これは冷気の聳える午後だ。コンクリートの窯の内に大気の8割が凝結する中、一つ大きな影が泳ぎ  否、荒れ狂う。壁を微塵にせんとする骨肉の嵐を前にして、窒素の波頭は砕け散り、ダイヤモンド・ダストが宙を駆く。

SCP-682。世界を憎むその生命は数多の試練を突破した。単純な力と残虐性、大絶滅を避く適応力。"人類は進歩した種に滅ぼされる"、単純でありふれた未来予想図が浮かび上がる。

かの大蜥蜴はとろみのついた酸に浸り、無数の銃口にその身を晒し、よろずに亘るミームの殺意を浴びてきた。手を変え品を変えそれでも届かぬ爬虫の命に、候補の山の一角に過ぎぬ低温試験で迫りうると信じる者はいるだろうか。せめて記録を繋ぐため研究者たちはペンを執る。



その時、轟音が響いた。大地を割るマグマの如く噴き上がった液体窒素は、重力を追いかけ崩れ落ちる。その場の皆が息を呑んだが、彼らの肺を広げたモノは崩落に向かう水柱でなく中で脈打つ命だった。

研究対象は姿を変えた。変容を、変態を、変質を  変化をその身に遂げていた。

破壊不能の爬虫類は進化に似た何かを開始した。

20年前。雫を滴らせ、微小な飛沫を湛えるスズメを見た。

10年前。人を嘲笑う、巧みな謀りを剥き出すカラスを見た。


SCP-682はアンタレスだ。SCP-682はベテルギウスだ。大きく膨れる蜥蜴の体は断熱効果を蔓延らせ、内部の蒸気機関が熱を撃つ。鱗は雲母の剥離を繰り返し、細らむ繊維を押し広げ、空気を捕らえ地層をなした。毛先の窒素は大気へ還り水の果実が消えていく。浮き上がるカロチノイドは羽毛を染め、あの日の紅葉よりも、夕焼けよりも、毒々しいマグマメルトが煮え滾る。

"個体発生は系統発生を繰り返す"  どこかで耳にした言葉。1億年を優に超す鳥類の進化が変奏される。



SCP-682は巨大な爬虫類のような生物で起源は不明です。





燦然の翼を高くはためかせ、緋色の鳥は地を離れゆく。大気をなぞる散りゆく羽は焦熱の花弁にほどけ、立ち上る紅蓮の霞はフラクタルへと薄れゆく。この世の系に囚われず、認識の界へ昇華する。

凍て付くこの世界から爬虫は消えた。

獣脚は越えた。次元の狭間を。

鳥は辿り着く。桃源の都、幻覚の園へ。

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