この日、サイト-8181のカフェテリアにはいつにない異様な空気が漂っていた。本来は清掃が行き届いているはずのテーブルや床には蜘蛛の巣が張り巡らされ、あちこちに蝋燭風の電飾が揺らめく。普段は無機質な白さに輝く壁も今日はどこかぼやけ薄暗く、毒々しい色のオカルトめいた文様と血文字の「Go to Hell!」が踊り狂う。
「トリックオア……トリート!」
そんな黄色い声が波戸崎 壕の耳に届いたのは、10月31日の昼下がり、世に言うところのハロウィン当日のことであった。聞き覚えのある声に、波戸崎はあえてゆっくりと振り返る。そこには制服姿に黒い長マントを羽織った声の主、御代 美紗姫の姿があった。美紗姫は人なつっこそうな笑みを浮かべ、上目遣いに波戸崎へ話しかける。
「壕さん久しぶり!」
「やあ美紗姫ちゃん。その仮装、吸血鬼?似合ってるね」
「そうでしょ?兄さんと準備したんだ」
美紗姫は見せびらかすかのようにくるりと回り、ひらりひらりとマントを翻す。その度に彼女の真っ白・・・な髪が黒を基調とした衣装を背景にして克明にコントラストを描き出すものだから、橙光りしたジャックオーランタンや毒々しい色の飾り付けが並ぶこのサイト-8181の中でも、波戸崎にはその姿が際立だって非現実的に見えた。
「そうか、美紗姫ちゃんは今日インターン実習か」
美紗姫の"御代みしろ"と壕の"波戸崎はとざき"。2つの家にまつわる古い関係は、本来年の離れた彼らを繋ぐ、ささやかながら腐れ縁じみた繋がりであった。特に美紗姫と、彼女の"兄さん"とは、遊び仲間として彼らが幼い頃から昔馴染みの付き合いがあった。昔のハロウィンも美紗姫ちゃんにお菓子をあげる側だったっけ、などと思いつつ波戸崎は白衣のポケットを探ってみる。
波戸崎壕が財団に入って学んだことの一つは、糖分補給手段を常に備えておくことが頭脳労働者のたしなみであるということである。波戸崎が知る先輩職員の中には金平糖やひなあられを業務レベルで買い込む人も居れば、「糖分があればどこまでだって生きてられますよ」とさえ言い張る人も居た。そんなわけで、飴玉の1つでも持っていなければ格好が付かないのだが
「……何にも無い」
しかし、今日に限って波戸崎はお菓子と呼べそうなものをただの1つも持っていなかった。ついさっき託児所の悪ガキたちたちが、彼のズボンを引っぺがさんとする勢いで全ての菓子トリートを奪い去トリックって行ったからだ。なんとも間が悪い。
「そっかぁ残念だなぁ、せっかく頑張って仮装してきたんだけど……」
美紗姫はわざとらしく悲しげに俯いてみせた。波戸崎壕は根が小心者である。どれだけ切っ掛けが小さなことだろうと、自分の不手際が原因でこんな風に誰かが苦しんでいると、もうおろおろするしか無い。
「ご、ごめん。埋め合わせは別の何かで……」
「本当!?」
今までの悲嘆が嘘のように目を輝かせて顔を上げた美紗姫は、マントの内側からポップな装飾のパンフレットを壕へ差し出す。
「ええと……新人職員のためのレクリエーション inハロウィン?」
「そう。ゲームみたいなことをしつつ職員としての知識を身につけられるらしいよ。私は今のところ新人職員ですら無い実習生ではあるんだけど……将来職員になる予定だし、経験は積んでおきたくって」
「それに参加を?」
「うん、壕さんと一緒にしたいの」
「僕と2人で?」
波戸崎の心臓は、急にその動悸を速め始めた。波戸崎壕は根が小心者の上に女性経験がほとんど無い。それ故、美紗姫のような可愛げのある少女と2人きりで仮装パーティに参加するというのは、彼の精神衛生上あまり好ましい状況ではないのである。美紗姫の意味深長な言葉に、波戸崎壕の思考は遂に暴走を始めた。
2人きり、これは美紗姫ちゃんが僕を好いていると言うことだろうか、いや彼女のような年頃の少女が好きでも無い相手を誘うわけが無いしということはもしかして、確かに僕自身彼女のことを可愛らしいとは思っていたけれど、それは飽くまで妹のような範疇で言っていたのであって、でも彼女の方が好意を向けてくれるというならそれを無下にするのはあまりにも、いやまさかそんな
しかし、そんな壕の思考暴走を止めたのもまた、美紗姫の一言だった。
「ううん、2人だけじゃ無いよ。兄さんも呼んだ」
その言葉と同時に突如、浮かれていた波戸崎壕の意識は後方からの殺気を感知する。反射的にそちらを振り向いた彼が見たものはこちらを睨め付け、細身ながらすさまじい威圧感を発する男の姿であった。フランケンシュタインの怪物のつもりだろうか 縫い目柄のタトゥーシールを険しい顔に貼り付け、青筋が立つこめかみには太いネジが突き刺さっている。
そうした波戸崎の緊張を知ってか知らずか、美紗姫は嬉しそうに男へ「あ、兄さん!」と声を掛ける。
「ま、マサ……来てたのか」
「我が妹みーちゃんを誑かそうとしている奴がいないか心配でな、ゴウ」男性は、上ずった波戸崎の声を意に介さずそう答える。
御代 將まさる。この怒れる妹想いの男こそが美紗姫の兄であり、波戸崎壕のもう一人の幼なじみなのであった。
一般的に、財団への入りかたは2通りあると言われている。1つは引き抜き型。おおっぴらに求人を出すわけにも行かない秘密組織たる財団は、目覚ましい成果を挙げた研究者や、軍・警察出身の体力自慢に至るまで、何かと切っ掛けを見つけては優秀な人材をヘッドハンティングすることを好む。オブジェクト絡みの事案に巻き込まれた際、適切な初期対応を行ったことが評価されて……なんてエピソードもよく耳にする話だ。
しかし、この方法では安定した人材の供給にはほど遠い。財団が選んだ解決策は、"天然モノ"を引き抜く代わりとして、若い時期から養成機関で育てることで優秀な職員を"養殖"することだった。そうした機関の1つが、親を失った子供や財団職員の子女向けの教育機関であり、美紗姫・將・波戸崎三人の出身校、プリチャード学院である。
キャンパスご自慢の広い芝生に寝転がって見る青空が、波戸崎 壕の一等好きな景色だった。天に落ちていくような錯覚は、愛する鳥が飛び交う様を彼自身が追っているような気にさせたからだ。そんな夢想にふける波戸崎の頭に、ぽこんという愉快な音を立てて何かが当たる。目を開ければ、彼の頭へ先ほどもらったばかりの卒業証書をぞんざいに振り下ろすスーツ姿の將がそこにいた。
「……どうせ今日で最後になるんだからさ、マサ」
「ゆっくりしてる暇はないよ。そろそろ移動して祝賀会だ」
「まだ親父たちは"職場付き合い"してるだろ?もう少しだけ」
ため息をつきながら、將は寝そべる波戸崎の傍らに胡坐をかく。
「ゴウは、配属どこになるんだっけ。動物飼育課?」
「そ。じいちゃんが口をきいてくれたんだ。好きが活かせるようにって」
良かったなと気のない相槌を打つ將に、波戸崎は体を起こす。「そっちこそ、第一希望の現実論部門だろ?うらやましい」
「ああ、うん、そうだな」
上の空な將の意識を辿れば、その視線の先には彼の義父がいた。波戸崎や將とは違う、体に染みつくようなスーツ姿。財団のエージェントとしてこれまで数多くの案件に携わってきた、その経験と練度がシルエットからも立ち上っているかのように波戸崎は感じた。
「……おじさんと同じとこだろ。頑張れよ」
「ゴウも俺と同期なんだぞ、他人事みたいにいうけど」
「はいはい、お互い頑張りましょう!一応こっちが年上なのになぁ……」
「あんたが養成課程を留年してなければ、同期になることも無かったんだけどな」
「うぐ」
他愛のない語りは、暇で仕方がない待機時間にしびれを切らした美紗姫が、彼らを襲撃しにやってくるまで続く。そうして、最後の青空は暮れていった。数年前のことである。
「他人の妹を勝手に恋愛対象にするなんて、油断も隙もならないね。無害な鳩かと思っていたらとんだ狼だ」
そして現在。波戸崎の「誤解だ!」という訴えも聞こえないように、將は年上の同期へじっとりとした白い眼を向けていた。ここは殺風景なサイトの通路、レクリエーションの受付場所へと向かう3人道中である。暇つぶしに会話を続けるのは当然の流れなのだが、先頭を進む美紗姫は楽しそうに鼻歌を歌うばかりで波戸崎へ助け船を出してくれそうもなく、この話題を自然に逸らそうにもなかなか難しい。
「美紗姫ちゃんのことは小さい頃から見ているわけで、僕にとっても妹みたいなものだし、その範疇で可愛いと思っただけだから」
「いや、君にだって咲ちゃんという立派な実妹が居るだろうに」
波戸崎 咲。唐突に出てきたその名前は、波戸崎が妹に抱いている劣等感を予想外から刺激した。
「咲はねぇ!兄である僕よりも優秀すぎて可愛げがないんだよ!最近だってあいつだけ上級クリアランスに昇格したし……!」
「それは暗にみーちゃんがダメダメだから可愛いと?なんて失礼な」
ああダメだ。会話が泥沼に嵌まりつつある。と波戸崎は感じた。こと妹に関することになると、將のしつこさは極限に達することを失念していた。強引にでも流れを変えようと、波戸崎は「ところで美紗姫ちゃん!」と話を振る。
「このレクリエーションって、実際どんなことを 」
「あっ、見えた!あそこが受付場所だと思う!」
普段よりも張りあげたつもりの呼びかけをかき消すような、興奮に上ずった声とともに美紗姫が指さした場所には……。
「ようこそ壕兄ぃ!ハッピーハロウィン!」
波戸崎壕のよく出来た妹が居た。
なんでこんな所にまで……と頭を抱える波戸崎をよそに、咲は手元のタブレットに何事かを打ち込みつつ、てきぱきと参加手続きを進めていく。その間にも咲の操る撮影ドローンが周囲を飛び交い、360度から3人の姿をじっくりと見回し始めた。そのカメラに向かって美紗姫がノリノリでポーズを取る中、波戸崎はマルチタスクも得意な妹へより一層の敗北感を募らせ、肩を落とす。
「みさちゃんとまさくんは吸血鬼とフランケンかあ、キマってるね。壕兄ぃは……ねぇ、いつもと変わらないじゃん」
そういえば、と壕は自分が何の仮装もしていないことに気づいた。お菓子を切らしたり、仮装が無かったりと、つくづくハロウィン感の無い波戸崎壕であったが……。
「僕にはこのピジョンヘッドがある」
「いや、普段から被ってるやつでしょ」
バッサリ切り捨てられた。咲はあきれたように言う。「あのね、ハロウィンって言うのは普通の人が一日限りで真逆みたいなモンスターの格好をするのが面白ポイントなの。この理屈からいくと、普段から変な鳩マスクを被っている壕兄ぃは今日に限ってはそれを脱いで、人間っぽく振る舞うのが理屈じゃない?」
そうもいかない。これが無いとただでさえ苦手な女性との対面時に、話すことすら緊張でままならなくなるのだ。波戸崎はむっとして抗議しようとしたが、咲は慣れた様子でそれをあしらう。
「はいはい。もーしょうが無いなぁ。特別だからね」
はいと手渡されたのは、首に掛けるためのひもが通った紙のカードだった。例えるとしたら、ラジオ体操のスタンプカードか……壕がそんな感想を浮かべると同時に、彼の視界は前触れも無く暗闇に閉ざされた。
「14:22、対象確保」男の声が響く。
背後から目隠しをされたと気づくまでに時間は掛からなかった。暗闇と困惑の中で、波戸崎の頭に咲の声が響く。
「それでは、一日SCiP体験スタンプラリーのはじまりはじまり 」
目隠しが外されたのは、受付場所から歩かされてしばらく経った後のことだった。
十分暗所に順応した眼を天井の白い照明が灼く。ようやく目が慣れてきた頃、恐らく波戸崎らを連行してきたであろう機動部隊の格好をした2人の男が、そそくさと部屋を退出していくのが見えた。そして困惑する波戸崎の前に、とんがり帽子を被った女性がバサリと漆黒のローブを翻し姿を現す。
「私は魔女っ子潮海。ようこそ我が魔法の花園……もとい身体測定室へ」
「いや、ええと、確か化学測定員の潮海さんですよね?一体何を?」
「それは世を忍ぶ仮の名……今日は特別、魔女っ子潮海!」
帽子の広いつばを指できゅっとつまみ上げ、潮海と名乗る女は続けて言い放つ。
「ここでは皆さんの簡単な身体データを測っちゃいます!服は脱がなくてよいので、さあ早くこちらの台へ!あ!一列になってお願いします!」
少しうざったいくらいの勢いに乗せられるがまま、3人の身体測定が始まった。波戸崎にとっては、身長や体重など学生の頃に受けたそれと概ね変わりが無いように感じたが……。
「はい、鳩君のくちばしの長さは15.4cmね」
仮装の部分まで測定するのは、意味がよく分からなかった。いや意味というのであれば、職員としての知識を身につけられるという触れ込みのこのイベントで、なぜ拘束・移送されてから身体測定を受けているのかが、波戸崎には未だ分かりかねるところではあったのだが。
じゃあ今度はこのカント計数機使ってヒューム値計測するよ!という潮海の呼びかけに、そんなことまでやるのかと思いつつ、波戸崎はのろのろと足を動かす。「あ、こっちの娘はちょっとHm値高いね」と潮海が言ったのはその時だった。カント計数機を持つ彼女の手は、美紗姫に向けられている。
「あ、そうなんですよ。私小さい頃から何か病気?で現実性が不安定らしくて」
「そっかそっか、私も似たようなものだから分かるよ~。今もコスしてるせいかいつもより高まってる気がするし、君も今日は高い日なのかな?」
そんな理屈で上がるものなのだろうか?現実性の専門家で無い壕には分かりかねることだったが、潮海の発言はどこかの理論に喧嘩を売っているような気がした。そうして計測が終わると、3人は魔法の花園(身体測定室)とドア一枚隔てて繋がった別室に移される。
「笑って笑って……ってその鳩マスクじゃ意味ないか」
そんなジョークと共に撮られた写真を添付して、できあがった結果用紙をそれぞれに持たせた潮海は、最後に3人が首に掛けていたカードにポンとスタンプを押した。「じゃあ次はB棟の3号実験室に行ってね」と言い残して。
3号実験室で待っていたのは、目が痛くなるような真っ赤なロングコートを身に纏った、神藤と名乗る女性だった。神藤は顔のほとんどを覆うマスクを着用していたが、それでも隠し切れない日本人離れした灰色の眼やコーカソイド系の風貌を見て、波戸崎は彼女がサイトで勤務している技師であることを思い出すことができた。
「こんにちは、私は口裂け神藤です。早速実験を進めていきましょう」
「実験?」波戸崎はいぶかしむ。今から何らかの実験を行うなら、専門外の技師である彼女がそれを担当するのは不自然だった。そういえば神藤は、妹の咲と同じくドローンによる空撮が趣味であると聞いたことがあったが、その伝手で呼ばれたのだろうか。では実験とは一体……。
「あ、実験と言っても大したことは無いんです。ただあなたには"何ができるか"を伺いたくて」
波戸崎の沈思黙考をどのように捉えたのか、神藤はゆっくりと説明を始めた。
「出来る?」
「ええ、ここでは異常性試験をします。今の貴方はサイトに突如現れたオブジェクトですので、それぞれ個別の設定……すなわち何かしらの異常性があるはずですね。私はそれを記録します」
さあ私に、あなたの異常性を教えてください。と、神藤はやけにキラキラとした眼で波戸崎を見つめる。波戸崎にとっては、仮装をしていないことがここであだとなった。吸血鬼なら日光に弱い、フランケンシュタインの怪物なら力が強い、では自分は何なのだろう?なにせ世にも珍しい鳩人間だ、予想だにしないような新奇的な異常性を神藤も期待しているに違いない。悩み迷った末、限界に近い波戸崎の頭脳はようやく答えを絞り出す……。
「は、鳩と、しゃべれます」
その異常性は不明ですが、対象はハト科(Columbidae)の鳥類と発話による意思疎通が可能と主張しており…
そんなことを書かれた紙を手渡され、波戸崎は失意にトボトボと3号実験室を出る。ここまでくるとさすがの彼にも、やっとこの企画の趣旨がつかめてきた。
まずこのレクリエーションの肝は、ハロウィンの日に出現したさまざまなモンスター、つまり仮装した参加者をオブジェクトに見立てていることだ。そして確保、検査、実験と、オブジェクトが収容されるまでの過程を擬似的に体験させ、新人職員にそうした手順について身をもって知って貰うために企画されたのであろう……あるいはこうしてスタンプラリーと称し歩き回らせることで、サイト内の部署や構造を知って貰いたいという意図もあるのかもしれない。
種が分かってしまえば何も怖くないように思えた。波戸崎はこれまで美紗姫の前で見せてしまった失態を取り返すため、勇気を奮い立たせて次なる場所、E棟の取調べ室-7に向かう。
インタビュー記録
Record 20██/10/31
回答者: "ハトザキ ゴウ"(対象自称)
質問者: 国都博士
序: 国都博士はインタビューのため、事前にアカプルコ・レッドニータランチュラ(Brachypelma annitha)を模した仮装をしている。ハトザキは取調べ室に入りインタビュアーのことを目視した途端、激しく動揺し始めた。「何でこのイベントのスタッフは女性ばっかりなんだ」「こんな至近距離の密室で話せるわけが無い」などと叫びながら逃走しようとしたため、保安職員による制圧の後、対象を再度取調べ室へと入室させた。
[記録開始]
質問者: ではあなたのことを少々聞かせて頂きたいと思います。よろしいですか?
ハトザキ: [沈黙]
質問者: ええと……報告に寄れば、あなたはハトとの会話が出来るとか。これは事実ですか?
ハトザキ: [声量微弱により聴取不能]
質問者: はい?
ハトザキ: [対象は明らかに動揺する]
質問者: えー、では先に進みましょう。あなたがその能力を自覚したのは何歳の頃ですか?
ハトザキ: [対象は硬直し、質問に返答しない]
質問者: もしもし?大丈夫ですか?
[対象からの返答が無いため、安否を確認する目的で質問者により対象のかぶり物が外される]
ハトザキ: [質問者の接近に対し悲鳴を上げる]
質問者: [対象の反応に驚き、悲鳴を上げる]
終了報告: 対象はインタビューに非協力的であり、黙秘を貫いた。
もはや精も根も尽き果てたという様子の波戸崎を、御代兄妹が介助する形で次へと進んでいく。個々のチェックポイントを過ぎる毎に増えていく書類の束がそろそろ手に余ると感じてきたとき、次に辿り着いたのは見るからに埃っぽい資料庫であった。薄暗い書棚の間を抜けていくと、何やらツギハギの布を身体に巻いた人型の物体が、こちらに両手を突き出し歩いてくるのが見えた。
「ええと、ゾンビ、でしょうか?」
「ゾンビですか……私はミイラのつもりだったのですが」
美紗姫の尋ねに、転眼と名乗る布の塊は残念そうに唸った。ぼろ布のパッチワークみたいな包帯でそれは無理がある、と波戸崎は思ったが、もはやその程度のことで誰かに食い下がる気力は持ち合わせていなかった。
「時間がもったいないので早く進めましょう」そう言ったゾンビ(ミイラ)転眼は、ここで行うことについて簡単に説明をしてくれた。曰く、この後は報告書の執筆が待っているのだが、その前にオブジェクト関連情報の取捨選択をしなければならないらしい。
「ここには人事ファイルなど、あなた方の基礎的な情報が載った資料をいくつか用意しておきました。好きに選んで自分だけのオリジナル報告書を作ってみてください」
そんなノリで良いんだろうか、と波戸崎はまた声には出さず突っ込んだ。ただ、ここで取捨選択が出来るのはありがたい。いい加減小休止を挟みたい頃であったし……写りが良くない写真やインタビューなどでの醜態を無かったことに出来る。そう目論んで、波戸崎は資料整理を始めた。
整理の合間に友人らの様子を見ていて波戸崎は気づいた。人が変われば報告書の構成も変わるらしい。美紗姫はインタビューを中心に実験記録などを盛り込み、あまり堅苦しくない構成をしているのに対し、將は明らかに盛ることが出来る情報を全て盛った、最大量の報告書を目指すようだった。
「最初から思ってたんだが、オブジェクトについての報告書をオブジェクト自身が持ち運ぶのはおかしくないか」膨大なファイルを大儀そうに持ち歩きながら、將はいまさらながらの文句をこぼした。積み重なった山からちらりと彼の人事ファイルが見えて、波戸崎はある一文に眼が吸い寄せられる。
御代研究員は年少時に財団職員であった両親を失い,当時まだ学生であった叔父(現在のエージェント・神舎利)が彼と彼の妹の後見人・養育者となりました…
やがてスタンプラリーも終盤となり、後は収容プロトコルを埋めれば完成するだろうというところまでとなった。波戸崎は今一度手元に目を落とし、自分自身の報告書を読み返す。
アイテム番号: SCP-377-JP-HW
オブジェクトクラス: Euclid
特別収容プロトコル: [SCPオブジェクトの管理方法に関する記述]
説明: SCP-377-JP-HWは頭部が巨大なカワラバト(Colombo livia)のものに置換されているモンゴロイド系成人男性です。この特徴にもかかわらずSCP-377-JP-HWは一般的な食事や会話といった、人間の頭部では可能でも鳩の頭部では不可能な行動を不明な方法により実行することが可能であると推測されています。
またSCP-377-JP-HWは非異常性のハト科(Columbidae)の鳥類と発話による意思疎通が可能と主張しており、それらを財団職員の前で実践した例は無いものの、SCP-377-JP-HW自身はそれを実行することが可能であるという強い信念を持っているようです。これらの方法についての質問は、常にSCP-377-JP-HWの完全な黙秘という結果に終わります。
・・・
・・・
・・・
プロトコルを制定する収容スペシャリストが待つ部屋へは、また長い廊下が続いていた。波戸崎はその道のりで、急にうずくまる。「えっ、どうしたの壕さん!」と駆け寄る美紗姫を、波戸崎は手で制止した。
「ちょっと疲れちゃっただけ。マサ、肩を貸してくれないか?」
「……わかった」
「大丈夫?私も何かしようか?」
「ごめんね美紗姫ちゃん、大丈夫だよ。それより先に行って、チェックポイントがどうなってるか見てきてくれるかな。後で追いつくから」
ためらいながら、分かった、と美紗姫は駆けだしていく。心配そうに振り返り振り返りしつつ彼女が角を曲がり、向こうから波戸崎と將が見えなくなったところで、2人は組んだ肩を外した。
「それで」と切り出したのは將からだった。「こんな三文芝居をしてまで、みーちゃん抜きで話したいことがあるのか?」
「ああ」波戸崎は応える。マスク越しに見つめる波戸崎の視線に対し、將は俯いた。
「……少し、ほんの少しだけだ。まだ現実改変者と認定できるレベルじゃない」
「やっぱり悪くなってるんだな、美紗姫ちゃんの現実性疾患」
現実性疾患。それは潜在的現実改変能力が引き起こす一種の副作用であり、抑制しがたい不随意な現実性の移動がもたらす症候群。影響には個人差があるが、御代美紗姫の場合は直射日光への過敏な免疫反応、ビタミン欠乏などの症状……そして外見への顕著な影響として、頭髪の脱色による"白い髪"が確認されている。
現実性疾患の症状悪化とは、現実性移動の"暴走"による身体機能の完全な崩壊、もしくは"支配"による危険極まりない現実改変能力者としての覚醒、両極端の破滅の二択を意味していた。治療法は未だ確立されていない。2人は、美紗姫に決して追いつかぬよう、ゆっくりと歩を進める。
「神舎利おじさんはなんて言ってるんだ?」
「義父さんはいつも通りさ、"心配はいらない"とだけ」
將はハハッと乾いた笑いをこぼした。
「みーちゃんが生まれた時、現実性疾患の兆候はもう確認されてた。明らかに先天性だ。そしてその後、母さんが実験中の事故で死んだと聞かされた。その時もあの人は"心配はいらない"と言ったよ。だが、これが偶然か?」
現実論部門の研究によれば、先天的な現実性疾患発症の原因はある種の"母子感染"であるという。妊娠中に何らかの要因で母体の現実性濃度に子供のそれと高低差が生まれてしまった場合、改変能の内向的な発露が認められるケースがあると。
「義父さんは何かを隠しているよ。間違いなくね」
現実性の高低差、それが生み出すものはすなわち、現実改変。であるならば美紗姫の母親は……。波戸崎は予想される真実に、つい口を開いてしまう。「なあ、もし 」
「お話、終わった?」
遮ったのは美紗姫の声だった。曲がり角に隠れて將と波戸崎を待っていたらしい彼女は、先ほどまでと変わらずいたずらっぽい笑みを浮かべている。
「ええと、美紗姫ちゃん、あの」
「ああ大丈夫!ちゃんと耳を塞いでおいたから、内緒話聞こえてないよ。私に聞かせたくなかったんでしょ?」
うろたえる2人をよそに、美紗姫は事も無げに答えた。そして波戸崎の肩を引き寄せ「でも、準備ができたらちゃんと話してよね」と耳打ちし、また目的地へ向かって走り出す。將と波戸崎は慌ててそれについて行った。
もしかすると、將の予想通り彼らの母の死には後ろ暗い秘密があるのかもしれない。その秘密を探るなら、將は彼の義父とも対立しなければならないのかもしれない。そして、美紗姫はそれらをとっくに把握していて、大人たちの下手な芝居にずっと付き合っているだけなのかもしれない。
「さっき、"もし"と聞いたな」
少し息を切らしながら、將は波戸崎に呼びかける。
「それがどういう状況であっても、俺はみーちゃんを守ることに全力を尽くす。妹のことに関して、自分は少々しつこいんだ」
將はにやりと口角を上げていた。まるで彼の義父、そして財団という巨大な組織に対して不敵に挑戦状を叩きつけているかのように。それを見て、波戸崎もついマスクの下で微笑む。
プリチャード学院を卒業して芝生で語り合ったあの日よりずっと前から、波戸崎豪は鳥を見ていた。鳥になりたかったわけでは無い。高いところは怖いし、文字通り地に足をつけて生きていきたい。だから彼を突き動かすのは、鳥が美しく羽ばたくその姿を見て、自分がその手助けをできたらという思いだった。
波戸崎壕が財団に入って学んだことの一つは、この場所には大きな理想を持った職員が大勢いるということだ。新人として挨拶回りに向かうたび、彼らの奇態に驚かされ、そしてその信念に触れていた。將もその一人であるのなら、波戸崎は、彼がその理想を貫き徹す手助けをしてやりたかった。少なくとも、理想と現実に上手く折り合いをつけてやることくらいはできるはずだ。
やがて長い廊下の先、3人はある標準人型収容室へと辿り着く。収容室。オブジェクトが最後に行き着く場所。しかし進むことへの恐怖は無かった。3人は顔を見合わせ、せーのと息を合わせて分厚い鉄の扉を押す。
扉は、あっけなく開いた。
特別収容プロトコル: SCP-377-JP-HWはサイト-8181の標準人型オブジェクト収容室に収容され、このスタンプラリーを達成したことを盛大に祝われます。担当職員は、"いたずら"と称されるSCP-377-JP-HWの収容違反を防止するため、適切な量のお菓子を支給して下さい。
「ハッピーハロウィーン!」
薄暗い部屋だった。黒い立方体の一面を占めるモニターの中では、収容室で待ち構えていたレクリエーションの協力者たちが波戸崎と美紗姫と將を迎えている。それを見つめる一人の男と、その傍らに一機のドローンがヴゥンという音を立てて浮かんでいた。
『というわけで、レクリエーションはつつがなく終了しました』
「ご苦労だった。協力に感謝する」
『ほんとですよ!せっかく美紗姫ちゃんのために女性スタッフで固めたのに、壕兄ぃが来るだなんて予想外でしたし。それにしても回りくどいことしますよね……オブジェクト扱いしてみさちゃんの精神に負荷を掛けてみるテストでしたっけ?』
「結果は?」
『外部に影響を及ぼすような"ゆらぎ"の様子はなく、終始安定域でした。今のところ改変能として作用することは無いかと』
「そうか」
『そーんな無理のある建前にしなくても、いつもは行動制限が掛かっているみさちゃんを、義父として今日くらい楽しませてあげたいって素直に言えば良かったんじゃないですか』
男はもう一度、収容室のモニターに向かう。『あ、目ぇそらすな』という声を聞き流し、美紗姫と將を眺めていると、ふと、テーブルに置かれているオレンジのカボチャ飾りが男の目に入った。
ジャック・オ・ランタン、呪われし男。悪魔を騙くらかして地獄行きを免れたが、善人でなかったため天国へも行けず、この世の終わりまで永遠に地上をさまよう亡霊。
あの日、男の"現実"が崩れたあの日。誰もが事件を予期していなかった。男の姉……美紗姫と將の母が何年とかけて現実改変オブジェクトに関わってきたそのツケが、あの日に取り立てられるとは、誰も。だというのに、男の手は滑らかに動いた。
荒れ狂う現実変動の中で男が姉を終了したとき、誰もがそれは正しい行動だったと言った。のちに実験中の事故として片づけられたその事件の後、男が美紗姫と將を引き取って育て始めたときにはそこまで責任を背負う必要はないと慰められた。誰もが言う。お前は最善の選択をした、世界を救ったんだと。
だが、彼には自分が天国に行ける気がしなかった。
『もうそうやってすーぐ自分の世界に入るー。……夜にはメインフロアでサイト職員総出の大パーティやるんで、必ず来てくださいね』
「これから今回の報告書を作成する。建前上でも必要なものだ」
『そんなん明日でも良いでしょ!どんな引け目を感じてるか知りませんけど、みさちゃんとまさくんはあなたがいた方が絶対嬉しいんです。あなただって本当はそうしたいといつも思ってんでしょう。今日くらいそうしちゃいましょうよ』
「……やけに食い下がるな」
『あたりまえですよ』
咲はタブレットを操作する手を一瞬止めて、カメラ越しの男の顔と、目の前の美紗姫と將、そして兄の顔を眺め、つられてにやりと笑った。
『今日はハロウィン、普段と真逆の自分に変身できる日なんですから』