愛煙エージェント色牧の華麗なる始末書
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脇腹から背中から肩から血を垂らしながら、一人の男が打ちっぱなしのコンクリートの壁にもたれる。灰色のコンクリートに大きな「1」の数字を血で描きつつ、腰を床に落とした。幸い致命傷ではないものの、この出血量ではじきに失血死するだろう。本人もそのことは悟っている。

異常性持ちの捕虜の脱走。半狂乱で出口を探して暴れる捕虜に男は運悪く出くわしたのだ。フィジカルに自信があるエージェントとはいえ装備もろくに着けていなかったため、簡単に吹き飛ばされた。

男はスーツの内ポケットに手を伸ばし、小さなボックスを取り出す。煙草である。幸い藍色のボックスの中には一本だけメビウスが残されていたようで、先端を血で濡らさないよう震えながらも慎重に口元に近付ける。

次にライター。この状況で煙草もライターも無事とは、運がいいのか悪いのか。少なくとも脳内に快楽を感じたまま死ねそうではあるようだ。オレンジ色の半透明の容器にはなみなみとライターオイルが入っている。

「これが、最後の一服か」

男はフィルタの先からわずかに匂い始めた心地よい香りを感じながら、火を点けた煙草を咥えた。


その煙草をむんずと奪われた。むんずと、奪われた。


男は呆気に取られた。突如現れては自分の煙草を奪い取りスパスパ吸っているもう一人の男を見た。自分と同じくスーツに簡単な防弾チョッキを着た、軽装備の男だ。

「もったいねえな、死ぬ奴が煙草を吸うほどもったいないことはない」

何を言っているんだこの男は。

「いいか? 煙草は健康な時に吸うから美味いんだ、吸って不健康になるのは三流だ。お前、あれだろ。普段は親しい人物に禁止されている煙草を『死に際だから許してくれるだろう』といってカッコよく吸い、息絶えるとか、そういうタイプのプロパガンダに感銘受けちゃったクチだろ」

本当に何を言っている?

「ああいったドラマはほんと許せねえな。まるで煙草を不健康なものだという前提で当たり前のように話を進める。最悪のネガティブキャンペーンだよ」

煙草を吸い、口から離して早口でまくし立てることを繰り返し行う謎の乱入者に、男はいい雰囲気に水を差されたと憤ることもできない。全てが不可解なこの状況に、呆れたような、諦めたような言葉を男は絞り出す。

「おまえなんなんだ……死にそうだからほっとい」

「今は緊急時だからお前に煙草のすばらしさを説明する暇がない。俺は色牧、エージェントだ。脱走した捕虜をのしに来た。簡潔に状況を教えろ。捕虜はどこに逃げた」

「第3車庫の方だ……そこまで遠くには……行ってないはずだ……タバコ返せよ、もう意識が」

エージェント色牧は煙草を返そうとしない。男は「死に際に仲間に仕事を託す」というカッコいい死に方の妥協点を仕方なく受け入れようとした。

「なあに、安心しろ。捕虜は捕まえるし、お前も助ける。煙草好きに悪いやつはおらん。いいか、煙草ってのは不健康でも害悪でも、ましてや死に際に吸うものでもない。教えてやるよ。煙草は健康で、最高で、人を生かすためにあるってことをな」


エージェント色牧は車庫にたどり着いた。だだっ広いサイトの車庫の中には、どこに行けばいいのか分からずおろおろしている脱走者がいた。脱走した捕虜はどうやら若い青年、おそらく身体改造でもされた下っ端尖兵だろう。冷静さを失っているようであり、他人が近づこうものなら無傷ではいられないだろう。

「おいバケモン」

色牧は遠くから話しかけた。

「グルルル……ココカラダセエエ!」

脱走した捕虜は狂った獣のようなうなり声とかろうじて認識できる人間の言葉を発した。筋肉は醜く膨張し、いくつかの銃創は浮かび上がっているものの、その強靭な体は弾丸を貫通させなかったことがその傷の小ささから分かった。要注意団体の異常性持ち戦闘員にはよくあることだ。モラルと副作用を無視して薬物なりやばい手術なりを突っ込んで使える戦闘員にする。法と常識の外で暗躍する団体はこういった悲しきバーサーカーをよく作るのだ。

「悪いが出すことはできない、今すぐ牢屋に戻ってくれるなら痛いことはしないぜ」

「ウルセエエ!グルウウウゥゥ!マタゴウモンスルンダロウ!!!ギャーーーーァ!」

思ったよりも理性は残っているようだ。色牧が銃口を向けるのではなく話しかけたことによって、多少は考える余裕が生まれたのだろう。

「少し静かにしてくれよ」

「フザケヤガッテ!テメエミテエナ、ナメクサッタヤツガ、オレハキライナンダヨ!」

「いやいや、俺はお前を誠心誠意説得しに来たんだぜ? 頼むよ、収容房に戻ってくれ」

「ウルセエ!タバコナンカ、スイヤガッテ!ガアアアア!」

「『煙草なんか』……?」

その時、色牧の顔に青筋が立つ。先ほどの発言が愛煙家を怒らせたようだ。

ハァ~~~~~~。色牧は大げさにため息をついた。同時に、顔はキリリと鋭くなり脱走捕虜に強いまなざしを向けた。

「煙草、吸ってもよろしいですか?」

「アア!?」

色牧はスーツの膝ポケットから煙草のぎっしり詰まったボックスと携帯灰皿を取り出す。直前まで吸っていたメビウスはすっかり短くなっていたため、それを携帯灰皿に入れた後、ボックスからセブンスターを取り出し火を点ける。

「捕虜番号176番さん、ところで煙草は一日に何本くらいお吸いに?」

「ハア!?」

化け物の怒号など、色牧は意に返さず自分のペースに強引に巻き込んでいく。

「喫煙年数はどれくらいですか?」

「ア?アー、2ネンクライ?」

「なるほど」

色牧は右方向を指さした。

「あそこにベンツが停まっていますね」

「ソウコウシャ、ダケダガ……」

脱走捕虜は困惑した。色牧がいきなり何を話し出したのか、分からなかった。しかし色牧の言うとおりに右を見ていたことが、罠だったことに気づく。

「もしあなたが煙草を吸わなければ、これくらい避けられたんですよおおおお!!」




捕虜番号176の左、つまり死角から、全速力の装甲車が激突した。

喫煙健康流奥義28式、ニコチン抽出吸法。煙草の中に含まれるニコチンの鎮静作用を最大限に活かすため、口腔の形を変形させ、成分を余すことなく肺に送る。ニコチン、アルカロイドの一種。肺に吸収した後速やかに全身にいきわたり、協同的に作用する。効果は少量なら興奮作用、大量なら鎮静作用。間接的に血管を収縮させるため極めれば出血を抑えることも可能である。現代の科学では確定されていないが認知機能の上昇や冷静な判断力を与えるという説もある。色牧曰く、この奥義に身体への害は一切ない。

視点を戻そう。装甲車とベンツの値段は違うものの、大きめの人一人を撥ねる上での殺傷能力は同等である。車の中には先ほどまで瀕死だったもう一人のエージェントが活き活きとした目でハンドルを握っている。哀れにも車庫に逃げてしまった捕虜は撥ねられた後10メートル程吹き飛ばされ、金属製の壁にたたきつけられた。

「初めてにしては良くやったじゃねえか」

男が車から降りる。

「ああ、生まれ変わった気分だよ」

エージェント色牧は同僚に短時間で奥義を伝授したのである。色牧特製ニコチン大増量煙草を吸わせることで死にかけのエージェントは文字通り息を吹き返した。

「分かったか? 煙草は健康なんだ」

「そうだな。馬鹿馬鹿しいと思っていたが、分かったよ」

2人は晴れやかな気持ちだった。それが捕虜を倒した安心によるものか、ニコチンとタールによるものかは分からない。

「そういえば、あの捕虜多分死んじゃったが、いいのか?」

「何がだ?」

「いや、言ってただろ。『捕虜は捕まえる』って」

「大丈夫だ。うん、まあ、なんだかんだ喫煙が健康っていう思想はこの時勢では反対されるだろう? それをいなしてサイト内で堂々と喫煙できるくらいには、俺は弁が立つのさ」

色牧はすこし苦い顔を滲ませ言った。それも、10秒ほどの沈黙の後に。





始末書


サイト-8181管理官 ██ ██様

 ██月██日、私はサイトの所持する捕虜に対しての捕獲の失敗及びサイト内の規律の違反という重大な失態を犯してしまいました。許可なく機動部隊所有の装甲車を使用したこと、同僚に対し規律違反をそそのかしたこと、捕虜を捕獲する試みを全く行わず殺害してしまったこと、また禁煙区域内での喫煙、これらは全て私の不徳の致すところであり、申し開きもございません。サイト管理官およびご迷惑をおかけした関係者全員に深く、深くお詫びを申し上げますとともに、今後は絶対にこのような不始末を起こさないことを心から誓います。また、保安部門のマニュアルを全て履修していたにもかかわらず、それに逸脱した行動ばかりを犯し最終的に取り返しのつかない事態になってしまったこと、重々承知して十分に反省しています。このような失態をさんざん目をかけていただいた管理官殿に見せてしまったことも本当に情けないばかりです。改めて……



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