ひとりぐらしをしていた時に
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父が死んで、身寄りのなくなった私はひょろひょろと細長いだけの土地と父の家を売り払い、都会で一人暮らしを始めた。父を嫌っていたわけではないけれど、女が一人で暮らして行くには不必要だったし、維持していけるようなバイタリティも私にはなかった。
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引越し先のアパートは、父の遺産(大した額にはならなかったが)を奮発して、学歴も資格も、筋肉すらない女のフリーターが一人で住むのには十分な広さのものに決めた。住む上で問題はなかったが、壁だけが少し薄くて、隣のカップルの生活音がよく聞こてきた。楽しそうに食事をしたり、テレビを見たり、他にも色々な音が漏れ聞こえてきて、赤面しながらも少しだけ羨ましいと思ったのを覚えている。
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引っ越してきてしばらくして、隣の部屋の音はあまり聞こえなくなった。変わらず生活音は聞こえ続けていたが、その中に男性のものはなく、偶に聞こえる深夜のすすり泣きに、ああ、なるほど、と少し残念に思いながら、私はベッドの位置を窓際に変えた。
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またしばらくして、私はその部屋を出ることになった。真っ黒なスーツを来た男は、私を区役所に呼びつけて、いくらかのお金と、熱い緑茶と、なんだかやけに甘ったるいお菓子を出してきてから、「業者の不正が発覚しまして」と、申し訳なさそうに目を伏せながら、別の部屋を紹介してきた。もはやこだわりもなかったし、彼の計らいで3段階はランクの高い部屋を同額で斡旋してもらえるとのことで、私はその日のうちに判を押した。
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今でも、たまにあそこの前を通る。“耐震性に問題があるため封鎖中 近日工事開始”そう書かれたプラカードは、ヒビが入り黒ずんで、今やすっかり廃墟と化したアパートの雰囲気に溶け込んでしまった。あの頃とは年齢も苗字も変わったけれど、あそこの前を通るたびに私は、何も知らなかった若い日の気持ちと、隣に一人で住んでいた彼へほのかな恋心を抱いていた日々を、思い出すのである。
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あれ?

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