クレジット
翻訳責任者: Tetsu1
翻訳年: 2025
著作権者: Captain Kirby
原題: Hello, My Name Isn't
作成年: 2020
初訳時参照リビジョン: 41
元記事リンク: https://scp-wiki.wikidot.com/hello-my-name-isnt
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#144
この手の場所がいくら自動化されようとも、コンビニにはいつだって、2つの安いタバコブランドのどちらにするか決めかねて立っている誰かがいるものだ。今夜においては、その誰かとは私だ。優柔不断なメトロノームのように、2つの選択肢の間で揺れている。各パックが同じ広告を繰り返し映し出す画面の殻に入れられている。この決断はさして重要というのでもない。キューバ葉巻と普通のタバコの味の違いなど分からない。ましてマルボロとニューポートのどちらがいいなどとは気にするべくもない。私はただ2つの名前を選んでいるだけで、それ以外に何もない。
コンビニ全体がアルコールとポテトチップスの悪臭で満ちている。ここからでも、通りの向かいのナイトクラブからの、壁を振動させる低いドスンドスンという音が聞こえる。今では遊びのため外出する人もそう多くない。誰もが娯楽用に何かしらのVRヘッドセットか感覚没入デバイスを持っている。兄もまたしかり。夜は自室に引きこもって、彼の本当の名前を、本当の顔を、本当の身体を永劫知ることはないであろう人々と話している。あるのは、アバターとユーザーネームだけ。
私はマルボロのパックを掴み、ドアに向かう。どこかにぶつけないよう、両手をポケット深くに突っ込む。出口の前には2つの大きなコンソールがあり、客をスキャンして軽食やら酒やらを自動で支払わせる。今や店では誰一人働いていない。それどころか、誰も実際に店に行きもしない。外出といえばバーかパーティーに限られていた。だが私は、あの息苦しいアパートから出る口実が、窓のすぐ外にあるネオン広告から離れる口実が欲しかった。私は、ただ座って煙に身を包み込める、薄暗い路地が好きだった。そこは私にとっての小さな楽園だった。
「立ち止まってください!」
私は硬直する。コンソールが眩い赤色にフラッシュする。中央の画面には感嘆符が点滅している。
「あなたの個人識別インサートは無効です。あなたは未登録市民です」
インサート? 今日ずっと問題なく機能していたはず。何が起きた?
「動かないでください。市当局に通報済みです」
全市民は登録しておく必要があった。登録していないなら、それは逃亡者か、人身売買の被害者だ。未登録の人に会ったことはないが、交通規則を無視した歩行者や万引き犯が何をされるかは知っている。
「動かないでください」
私は逃げる。当然、逃げる。最高に愚かでどうかした決断ではあったが、とにかく私はそうして、逃げた。閉じた店や電気の切れたキオスクを過ぎる。見てつんのめりかけた、白服の男を過ぎる。道路標識や、バーチャルの指名手配ポスターで照らされた建物を過ぎる。角を曲がり、この街区で唐突に現れる唯一暗い場所にたどり着く。私の路地。私はゴミ収集箱に身体をぶつけ、地面に滑り落ちる。スタミナが以前よりも落ちている。あるいは単にタバコの代償が肺への負担となって表れただけかもしれない。
街中で通り過ぎた標識。あれは全て私の顔をしていて、私の説明をしていて、私の…… 待った、私の名前は?
#63
7:42 PM
よっ
ほっ
この暑さどう?
むごい 一日中父さんが庭世話するの手伝ってたんだけど 全身日焼けしたように思う
あれま こっちは一日中家の中いたんだけどエアコンが壊れてて暑いしむしむしする お母さんすごいストレスだって 気分落ち着けるためにタバコ半箱吸ったぽい
そりゃ大変だね 煙がどんだけ何もかも悪くするか想像つかない
まあこっちは慣れてるけど それでも明日は家出たいな 屋内スケート場があるの知ってるんだけど そこでブラブラしない?
そりゃ楽しそう! 親に確認取っとく 返事あったら知らせる
私はベッドに横になり、四度目となるメッセージの読み返しをする。彼が私をこんな風に宙ぶらりんで放っておくとは信じられない。カイルが最後のメッセージを送信したのは数時間前のことだが、まだ彼を煩わしくさせるわけにはいかない。押しが強すぎると思われてしまいかねない。だが、答えがないことには寝ることはできなかった。部屋はむしむしして空気はよどむ。好きな少年からの返事が欲しいだけだった。惨めだ。
私は起き上がり、過剰なほど飾り立てた部屋を歩き回る。壁はポスターやステッカーで埋め尽くされ、机は小物で覆い尽くされていた。お母さんは時折、タバコを吸いながらここをゴミ屋敷呼ばわりする。いつだって家全体に、タバコの臭いが充満していた。一度、その件でお母さんとお父さんが喧嘩していたのを聞いたことがある。二人は私が寝たものと思っていたが、あれは本当にうるさかった。最終的に、お母さんはストレスを感じたときだけタバコを吸うことを約束した。残念ながら、お父さんが出ていって以来お母さんはずっとストレス状態だ。
私が部屋に置くためのものを片っ端から集め出したのもそれからだったかもしれない。お父さんを失った経験は、大事なものから一瞬でも目を離したらどこかへ行ってしまうかもしれない、ということを教えてくれた。
そこでカイルの話に戻るが、彼はデートから離れようとしているのかもしれない。
もう一度電話を手に取る。十分長く待ったはず。
11:04 PM
ねえ、もう両親には話した?
少しして、振動するドットが画面に現れる。やっと返信してくれた! 私は画面に目をくぎ付けにする。
すみません…… そちらの電話番号間違ってる気がします
どういうこと? 今日さっきメッセージしたよね
こっちのスマホが何かおかしいのかも 名前は? 連絡先に追加し直す
何者でもない
なんて?
いや、今のは何者でもないって打とうと
だから何者でもない
何者でもない
何者でもない
電話を落とす。なんで他に何も打てないの? 私の指が— 言うことを聞かない。自分の名前を打てない! 打てな— 私の名前って何だっけ?
何者でもない。
頭がクラクラする。どうにもできない。私は慌てて階段を駆け降り、狂乱した足元で階段がきしむ。私の名前、どこに行った? 失くしてしまった。なくなった。暑さのせいかもしれない。脱水症状かも。本当かもしれない。参ってしまった。確かお母さんはストレス対処用のもの持ってたよね? それなら使えるかも。母のタバコの最後の一箱を求め、キッチンの引き出しを探す。震える手でライターをいじる。カチ、カチ…… そして炎が点く。
筒に火を点け、深く吸い込む。煙が肺を満たす。激しく咳き込む。これでお母さんは落ち着くの? 胸のこの燃えるような感じが? もう一服する。もう一服。それから別のタバコを。もうひとしきり咳き込んでから見上げると、お母さんが階段にいるのが見えた。どれくらいの間見られてた? 煙が十分に晴れると、お母さんの心配そうな顔が一瞬見えるが、それは母親としての心配ではなかった。すぐ後ろに、白服を着た男性のシルエット、もしかしたらお父さんかもしれない、が見える。一つの考えが頭をよぎる。
私はタバコをポケットに入れて、走る。
#29
彼が追いかけてくるのを止めたと確信してから、私はようやく速度を落とす。あんなきれいなスーツを着た人がこんなに速く走るのは初めて見た。銀行は間違いなく閉まっていたはずだ。別に出入り口で寝ていたからって誰が気にする? 他に誰も使っていなかったのに。それにもし仮に誰かが気にしていたとしても、わざわざ追いかけてくる必要はなかっただろう。いつものように公園で寝転がろうか。
私はいつも公園で睡眠を享受している。確かに、木々はせいぜい雨が降ったときに身体を濡らさないようにしてくれるくらいだが、草は柔らかいし、通りから離れられる。車はいつもとてもうるさい。父は、私が本当に小さかった頃に、通りはかつてほとんど馬が使ってた、と話していた。臭いはそっちのが悪いだろうが、少なくともエンジンはない。もし私に通勤する仕事や、退勤する家があればもっと車にも耐えられたかもしれない。
ホームレスになって数年が経ったが、そのことは特に気にしていない。常に状況を最大限活用する必要がある。それに、人生の周縁部にいるというのは、多くの期待を消し去ることになる。私がどこから来たのか、どこへ行くのか訊ねる者は誰もいない。私自身、いい答えを持っているということもない。ごみ入れの火を共有する人たちとさえ、多くは話さない。二度と私の姿を見なくなったとしても、私が何者か誰も気にしない。
やっと息を整え、もう一度新しい街角を眺めてみる。この数年で初めて、私は疎外感を覚える。別に前はどこかに属していたということもないのだが、人々が私からしっかり3フィートの距離を置いていることから伝わる哀れみと嫌悪感が、この感情を惹起する。この感情は私がどこにも属していないということよりも、むしろ…… どこか別の場所で必要とされている気がする。他の何かに。
奇妙なものだ。磁力が私を新しい通りに引っ張っているような。もしかしたら、新しい街へ。しかし今回は、私が必要とされる場所へ。本当に、本当に長い間、私が必要とされていると感じたことはなかった。誰かが、何かが、どこかが私に何かを期待している。ある意味では、恐ろしい。
久しぶりに、私は目的地を決めて出発した。
#8
疲れ果て、怯えきり、認識票も持たずに、重い足取りで塹壕まで戻ってきた。腐った死体と火薬の臭いで吐き気がする。私は名もなき戦争の犠牲者として死にたくはない。この36時間、私は自分を生かすためにあらゆることをしていた。そうしているうちに、私は臆病者になっていた。しかし塹壕は臆病者のいていい場所ではない。
私についてただ一つわかるのは、私が臆病者だということだ。私はドイツの軍服を着て、ドイツ軍の塹壕にいるが、もはや自分が本当にドイツ人なのかさえわからない。自分が兵士なのかさえ。
前線へと殺到する兵士の波に逆らって、私は進む。今朝は攻撃命令が入った。顔も名前も忘れられそうな男たちの大群が、私が上流に向かって泳ぐ魚であるかのように、襲い掛かる。
「そこの兵士!」
私は進み続ける。
「止まれ! 命令だ」
私は立ち止まるが、振り返らない。軍曹は葉巻とコーヒーの影響でザラザラになった声で話す。彼は私の肩を掴んで回す。
「俺が話しているときはこっちを向け」
「イエッサー」私は返す。敬礼だってする。私の動作は、私の発言は、全て無意識だ。
「どこへ行こうとしてた?」
「弾を回収しに、サー」
「それは攻撃の前にやっておくはずだよな」
「今戻ってきたところなんです、サー」
「どこから戻ってきた?」
「言えません、サー」
「俺を馬鹿だとでも思ってるのか?」
「いいえ、サー。ここ一日半は良くなかったのです、サー」
「お前の名は何だ、兵卒?」
「はっきり言わせてもらいますと、サー。どうせ覚えられないと思います、気にしないでしょうし」
軍曹はもう一度こちらを見つめる。そこで初めて彼は、私の裂けたズボン、首から流れ落ちる血、ヘルメットに入ったひびに気付く。私には戦隊も、大隊も、中隊もない。私はただ前線から出なければならなかった。そこには会うべきでない者が待っている。少なくとも、まだ会うべきでない。
その代わりに、私が招かれていない会議がベルリンであった。空白のページだらけのノートが置かれた私だけのためのアパートがあった。監視すべき公園のベンチがあった。注文する飲み物があった。
「銃は弾がなきゃ意味がない。さっさと行け」
私は頷き、先へ進む。私が攻撃に戻ってこないことは、二人とも知っている。
#0
どの移行も二つとして同じものはないが、最初は必ずパニックから始まる。そしてパニックが収まれば、何者でもない者は必ず足掛かりを得る。それが路地であれ、公園であれ、医療テントであれ。息をつく時間もあれば、時として一服する時間さえもある。
そして何者でもない者が新たに見つかった運命と目的を認識するとき、宇宙の相互作用が眼前で展開されるのを見たとき、歴史の進路を修正する道具を見つけたとき……
白服を着た男がいつも近くにいる。視界のすぐ外に、意識のすぐ外に。それからまた遅かったと、彼は嘆くのだ。









