それらすべては昔の話だ。
もうずっと、この何もないような空間に独りだ。かつてSCP-166と呼ばれていた少女はただ虚空を漂っていた。因果律が崩壊しすべてが曖昧になった宇宙で、彼女だけがたしかに存在を保っていた。
実例: タイムライン S-231
私の担当だね。ええと、この宇宙の現状はとても興味深い。それで、ええと……ゆっくりで大丈夫よ。ありがとう。大切なのは情報の正確さだからな。
どうして自分だけがこんな場所でこんなふうに残ったのか、彼女には見当もついていなかった。ここに来るまでの記憶すらあやふやだった。仕方がないので、幻想と記憶と記録の断片とのごちゃ混ぜが上映されるのに身を任せていた。
あなたには、一頭の馬が草原を走っているのが見える。馬の背には男が乗っていて、一人と一匹は全身に風を浴びながら走っている。向かう先には女が微笑んで立っている。
ここには何もない。幻みたいな現実の残滓が見え隠れするだけだ。
永遠みたいに広がる青空と、どこまでも広がる花畑にあなたは眠っている気がする。どこからかウクレレの音色が聴こえて、あなたはそれに安らぎを見出す。
手を伸ばしてみても、触れられるものはなかった。自分以外にたしかな存在がない。ここに地面や空はない。仕方がないので膝を抱える。腰まで伸びた金色の髪を指に絡めてみて、また解く。
手術台の横に置かれた金属製のトレーの上に、緑色のガラス玉が転がっている。球体の周囲では、現実性が揺らいでは固定されるのが繰り返される。
この状況自体が本当は夢で、わたしはまだ収容室の硬いベッドで眠っているのではないんだろうか。少女は思案する。
キーワードは『鹿』『犠牲』そして、『儀式』。3種の別個の神にそれぞれ捧げられた祈りによって発生した度重なる因果の再構築、それによってもたらされた崩壊。ざっくり言うとこんな原因で、この世界の現実は壊れてしまったんだ。
少女の周りに、もはや咲く花はない。草木は芽吹かない。時間を巻き戻したみたいに壊れてしまうような物はそもそも存在しない。このツノと、トナカイみたいな脚と。これさえなければ、普通の女の子と言ってもおかしくない状態じゃないだろうか、なんて。
自分以外が存在しないこの空間では無意味な思考だけれど。
現実の崩壊だなんて、だいぶひどい惨状みたいね。これまで見てきたタイムラインの終末とはすこし毛色が異なるかしら。財団風に言うならば、TK-クラス因果再構築イベントの繰り返しによる現実不全。相変わらず堅苦しい言い回しをよく覚えてくることで。パパのいた組織だから。パパのこと、何でも知りたいから。はいはい。
そしてまた、幻が見える。あるいは現実だったのかもしれない夢が。
男が一人、取調室で別の男に銃を突きつけている。銃口を向けられた男は冷えた無感情を以て沈黙に終始しているが、どこか傷ついた表情を浮かべているようにも見える。向かい合う2人を、あなたは記憶しているような気がする。
場面が転換する。
取調室のような部屋、先ほど脅迫されているようだった男に向かい合って座るのはあなただ。男の表情をまじまじと見たあなたはやがて、彼がうそつきだという結論に達する。
すべて詮無いことなのだ。ヒビの入ってしまった花瓶は、いつか必ず割れてしまう運命だった。誰が努力しても変えられなかったことだった。
それでも。
もしわたしがこんなふうではなかったら、もっと幸福な現在があっただろうか。もしも普通の女の子だったら、お父さんとお母さんと幸せに暮らす日々も在っただろうか。世界は終わらなかっただろうか。
解らないことだらけだ。世界が壊れてしまった今、彼女にできることは何もない。時間はもう戻せない。暗闇の中を漂いながら、考えることしかできない。
百合の花が緋色に咲いているのをあなたは目にする。薄暗がりの中、どこか俯いて咲く花に妙な恋しさを覚えた。
ある鹿擬きの神は、封じられるために儀式を必要とした。犠牲や苦痛を伴う儀式を。
別の神は、世界で生まれた儀式による犠牲のすべてを糧として存在していた。
もう一柱、神がいた。現代性を否定し理解を拒む過去の化身たる彼にとって、痛みは供物だった。
なるほど、まあ後はお察しだな。それ以上はわかっていないの?たとえば、どのように滅んだのか、だとか。
これは幻、というよりは記憶だっただろうか。
その日どうやってかあなたを訪ねた女は、カタリナ・ランドルフと名乗った。エデンの娘たちを自称した。ガイアのために世界を作り替えたいのだと。原始と自然への回帰を謳った。我らのエデンをもたらすのだ、と。
そして、あなたをガイアの現し身と呼んだ。女神の娘だと。
かつてもらった手紙を、あなたは思い出した。
エデンとは場所の名前ではない。存在の在りようのことだ。
父を名乗る匿名からの手紙だった。母を殺したのだと告白していた。もはや手元にはないその文面を、あなたは正確に記憶していた。
彼らは私たちをエデンへ連れ戻したがっていたので、私は彼らを止めた。
父は母を殺したらしい。解ったことといえばそれだけ。それが、エデンに戻らないためだったらしいということだけ。
私は再び楽園を私たちの身から遠ざけた。
「私たちと一緒に来ないか」、カタリナはあなたにそんなようなことを持ちかけた。そしてあなたの異常性を賛美した。
エデン。天国。神さま。信じていたもの、今となっては、信じるべきかわからなくなってしまったもの。財団の収容。あなたの出生。母の悍ましさ。父の罪と、その理由。
彼女に何と返答したのかは、あなたの記憶から抜け落ちていた。
宇宙の外部から痕跡を観測するのではこれが限界。何しろすべてが崩壊しているものだから、内側からの観測者が一時的に現実を固定して見て回るのでないと、何があったのかは分からない。まあ、今回は終焉を迎えた宇宙のカタログだからな。これくらいで充分だろう。そうね、深追いしてもあまりいいことはなさそう。
でもさ、私はもっと知りたいと思う。内側に入ってでも、何があったのか。
どうして世界が滅びたのか。少女はそれすら理解していなかった。そして真相を知りたいと願っていた。何があったのか。最初から、混じり気なしの真実を。こんな場所で展開される曖昧なシーンではなく、本当にあったことが何なのか。
湖のほとりに、花屋が一軒建っている。客が来て、女が出迎える。キッチンには男がいて、ちいさな女の子の遊び相手をしている。皆、幸せそうに笑っている。
目前に展開されるイメージとは裏腹に、溶け消えてなくなってしまった現実はもう元に戻ることはないんだろう。果たして、何が起きたのか?
あるいは別の人生は、こんな結末ではなかったのかもしれない。ほんとうに、馬鹿みたいな話。見せられるすべては幻想だ。この人生は違う。これはわたしたちの人生だった。変えようのないことに。わたしたちがかつて世界と呼んでいたものは崩れ去ってしまって、目の前にはただ暗闇が広がるだけで。
突然、視界が開けた。

二人の"私"には強く反対された。「好奇心は猫を殺すよ」なんて、ありきたりな文句を使ってまで止めようとされた。当たり前の反応だし、気持ちは理解できる。けれど私は、好奇心のためなら死んでもいいと思ったのだ。
ずっと、パパのことを知りたいと思ってきた。パパにまつわるすべてのことを。私の宇宙ではとうに死んでしまったパパを、あらゆる宇宙の彼を知りたいと願った。好奇心はいつのまにか膨らんで対象を広げて、壊れてしまった宇宙に危険を冒してでも脚を運びたいと思うようになるまで成長していた。
変わらず私は、パパを知りたいのだと思う。今度はパパ自身ではなく、彼の生き方を。探究する、研究する者としての在り方を。私とママを捨ててまで進んだその道を。
だから、こんな現実不全の宇宙まで遥々やって来たのだ。青空と地面を思い描いて、在ったものを復元して、何が起こったか理解するために。
予想外だったのは、五体満足の女の子がいたこと。データベース上で見覚えのある娘だった。
「ねえメリディアナ、本当の事を知りたくはない?」
混沌だった空間に青空を創り上げた黒服の女の子は、座り込んだわたしの手を取ってそう告げた。どうして名前を知っているのか、どうしてここにいるのか、どうして世界を固定できたのか、疑問は尽きなかったが、そんなことがどうでもよくなるような瞬間だった。いつだったかカタリナ・ランドルフはわたしを女神の娘と呼んだが、わたしが女神の娘だというのならば、このひとはきっと女神だ。あるいはひかりそのものみたい。
知りたいに決まっています。ずっと知りたかった。疑問から目を逸らし続けるなんて、もう限界だった。世界に何が起こったのか、父母に何が起こったのか、わたしに何が起こったのか。すべてを知りたいと思っていた。
女の子は笑った。やはり、女神のようだった。
「ねえ、二人で見つけに行かない?私、あなたとは仲良くなれる気がするの。」
« SCP-4231 - モントーク・ハウス | 邂逅、女王と馴鹿。 | 反復宇宙と現実の錨について »