青年と翼、ちいさな世界にて
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早朝6時。この1年ですっかり調整されきった体内時計が彼の頭の中で鳴り響き、取り留めのない夢の余韻を雲散霧消させる。
寝癖のついた頭をかきながら欠伸をひとつ。タイマーで起動した暖房が部屋を暖めきっていない中、青年は朝のルーティーンに入るために、なんとか身を起こしてベッドから脱出した。
トースターに食パンを2枚突っ込み、焼いている間に顔を洗ってヒゲを剃る。ワックスは使わないなりに、今の職場の先輩に勧められた寝癖直しで髪を整える。
今の職に就いてから、青年は洒落っ気づいた高校生のように身だしなみに気を使うようになった。とはいえ、その心境はと言えば女子からの視線を気にする男子と言うよりは、子に情けないところを見せまいとする親のそれに近いのだが。

『正義の心ついでに提案なんだがね』

青年があの翼の少女と出会った日。癇に障るあの白衣の男は青年に語った。フィクションの世界でしか、いや、フィクションの世界ですら聞いたことがないようなこの世の理の外にあるもののこと。その1つとしてあの少女が彼らの手によって社会の目の届かぬところで保護されるということ。

『君には彼女の世話係として勤務してもらいたい。どうやら、彼女は相当君に懐いているようでね、倫理委員会から君を採用した方が彼女の精神衛生上いいんじゃないかとせっつかれたのだよ。幸い彼女はそこまで賢くないようだから、君が断ったとしても君のお面でも着けていけば事足りると私は思うんだがね。
当然仕事は他の職員と段違いに簡単なものになるから、給与に関してはまぁ、一般企業に新卒採用されるより少し低いくらいになるだろうけど、福利厚生の面は一般企業と比べるべくもない程度に充実している。
仕事をしながら勉強していけば任せられる仕事も増えるし、そうすれば当然給与も上がる。転職するなら職場斡旋もできる。君にとっては悪い話ではないと思うんだがね?』

青年はその誘いに頷いた。少女の今後が気になっていた故に渡りに船だったことと、男の言い方に反感を持ったこともあるが、そもそも断れば少女に関する記憶を消すなどと――今思えば納得はできるのだが――脅しめいたことを言われれば頷くしかなかった。

青年が彼らの組織へ就職するために大学を中退することについて、彼の両親ははじめ反対していた。それなりのお金を払って入った大学を急に辞めて就職することに対する忌避感は当然のものだ。せめて卒業するまで待てないかと説得もされた。
しかし、就職先の人間が差し出した雇用契約書に書かれた福利厚生で、両親はコロリと手のひらを返した。今どき多少給与が低くても、ここまで福利厚生の整った職場もないだろう。大学を卒業したとして、そもそも新卒で就職できる保証もないのだから、両親の心情も理解できた。
そうして滞りなく就職まで事が運び、彼の住居は実家から就職先の寮へと移って1年。仕事の内容にも慣れ、初めて彼らの存在を知った時に抱いた不信感も徐々に抜けている。

チンというトースターの甲高い音が彼の追憶を遮った。彼は慌てて朝のルーティーンへと戻り、今度は逸れることなく準備を終わらせて職場へと向かう。
補佐とはいえ自分以外の命を預かる大事な仕事だ。一度助けたいと決めた以上、彼の青い正義感は責任感となって彼を今も突き動かし続けていた。
職場へ着くと既にいくらかの作業員が自分の仕事を始めていた。その中で、今日彼と仕事を行う予定の先輩職員の1人が「今日も早いですね」と声をかけてくる。
彼の始業以前であるとは言え、既に仕事を始めている職員が多くいる前でそう言われることに対する、妙な罪悪感が苦笑いとして溢れつつも挨拶を返す。
気分を切り替えて、自分のロッカーにかかっている清潔な作業服に着替えると、支給された端末からタイムカードを切り、健康状態をチェックする。
彼の仕事以外のことで彼に手伝えることは少ない。精々が雑用くらいのものだ。そもそも彼の仕事というのも内容自体は彼でなくても構わないような簡単なもので、わざわざ彼が選ばれたのも大まかに言えば倫理的な面が多数を占めている。
それに加え1年間やってきただけあって、彼の動きに迷いはない。棚から取り出したパックの中身を湯煎し、皿に開けて人肌の温度にまで冷ます。
内容は、栄養を添加したお粥のようなものだと聞いている。一度「食べてみる?」と言われ一口食べてみた時は、よく言えば優しい味、正直に言えば薄味と言った感想だった。
それに加え、クラッシュタイプのりんごゼリーを別の皿に出す。こちらは健康状態を改善するための薬剤が混ぜられているらしいが、味が日替わりするゼリーとして出しているのは嗜好品的な意味合いが強いのだろう。
皿をトレイに並べ、取っ手のついた持ち運び用のボックスへ収納する。前日に洗浄、消毒し乾かしておいた給水器――大きくしたハムスター用の水やり器に似ている――へ、薄めたスポーツドリンクに近い飲料水を充填して運搬カートに食事ボックスと一緒に積み込むと、別のカートの用意をしていた先輩職員に声をかけた。

「準備終わりました」

「うん、頃合いみたいですし、行きましょうか」

ガラガラとカートを押して、他の職員と一緒に廊下を進む。壁にかけられた案内プレートには『人型生物収容室-8141』と書かれている。
廊下に並ぶ扉のうち『SCP-020-JP』と書かれた扉の前で足が止まる。ここが彼らの目的地だ。広めの扉をカートと共に潜ると、準備用の控室のような場所になっている。カートはここで駐められ、他の職員がカートから荷をおろしている間に靴を脱ぎ食事ボックスを持って、先輩職員と共に先に部屋へ入る。
部屋に入ると僅かに足が沈む感覚。衝撃緩衝用にクッション性がある素材を、床と壁に採用しているためだ。
観葉植物が彩る部屋の中、女性職員に髪を梳かされていたその子――SCP-020-JPは青年の姿を認めると、パァッと顔を輝かせた。はじめの頃はすぐに駆け寄ってきていた彼女だったが、今はウズウズと体を揺すりながらも座ったままおとなしく髪を梳かされている。
苦笑した先輩に「行ってやりなさい」と促されると、青年はゆっくりとSCP-020-JPに近寄り、彼女の頬を撫でた。
青年にやせ細っているという感想を与えた体は、1年間の栄養状態改善で少しふっくらして、年相応の少女の柔らかさを取り戻している。骨の脆さは未だ健常と言えない状態であるらしいが、それでも大幅に改善されていると言えるだろう。
当然体重も増え飛ぶことは叶わなくなっただろうが、そもそも初期の時点から飛翔は不可能だったため、悪影響を与えているだけの不健康さは改善されるべきだと『倫理委員会』から指示が出されたと青年は聞かされている。

食事ボックスからトレーを取り出し、スプーンでお粥をすくってSCP-020-JPに差し出す。

「翼、あーん」

人型SCPの精神衛生のため付けられている名前で呼んでやると、SCP-020-JPは文字通り雛鳥のように口を開け、青年の給餌を受け入れた。
少女の綻ぶ顔を見て、あの日言われた痛烈な皮肉が頭をよぎる。

『彼女の外見が愛らしい少女のようではなく、たとえば人の腕のついた鳥でも君は正義の心で助けたろう』

実際のところ彼女を助けようと考えた原因に、その少女然とした容姿が関わっていることを彼は否定しきることはできない。しかし、人の腕がついた鳥であっても、やはり彼は変わらず助けただろう。
健やかとは言えないまでも、異常なりの日常を手に入れたSCP-020-JPを見て彼はあの日と同じ、守りたいという想いを強く心に刻んだ。

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