朝焼けのヒラヱス

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愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。

橙が帝都の街を、絢爛な百貨店を、雑多な下町を焼き尽くす。師走の鮮やかな朝焼けを背に、あの人は私の目の前で鮮やかなまでに飛び降りた。
ライターの炎がはためく着物に燃え広がるその様は、まるで火の鳥のようだった。
こちらに投げたライターに身をかがめた瞬間に、あの人は地面に鈍い音を立てて墜落した。二階から身を投げたその人の、肉が崩れる音が確かに聞こえた。
さっきまで目の前にいた人間が焼ける匂いが、窓から立ち上ってくる。とっさに窓を閉めて、でも、それしかできなかった。
人の気配がたちどころに消えて、あっという間にがらんどうになった部屋を見渡した。思い出だけが反響する南向きの部屋が、少しずつ明るくなっていく。
その日差しは夢から覚ます目覚まし時計の音のようで、時よ止まれと念じても、狂おしいほど美しくて平等な光は、無慈悲にあの人の痕跡を焦がす。
瞼を閉じても焼き尽くしてしまいそうなその光から逃げたくて、逃げられなくて、うずくまる。夢なら覚めてと思いながら畳を睨みつけても、時計は戻らない。
ふと、ピントが合った。
雪崩みたいな本の山からずり落ちた、紅い日記帳。息ができないままのろのろと四畳半を進んで、そっと手に取った。

ヒラヱスという言葉を教へて貰つた。つ国の言葉で、もう二度と帰れない場所への郷愁を指すらしい。嗚呼、まるで我々ぢゃないか。

鳥の描かれた栞に導かれるように、はらりとページが開く。懐かしい、あの人の文字。
白い紙に構想を広げて、ああでもないこうでもないと語り合った、過去未来への展望が、声が、蘇る。
急ぎ気味で、それでも繊細な書き文字を読む。
ヒラヱス。二度と戻れない昨日のために、あの人は今日を生きていたのに。

██が、連盟からの脱退を申し出た。

名前の二文字は乱雑に塗り潰されていて見えなかったけれど、誰のことだかすぐに分かった。義躯ギクだらけの老紳士で、とても快く我々の活動に協力してくれていた、はずの人だった。

ふざけるなあいつを恨むのはお門違いだ。羽ばたく鳥を恨んでもしようがない。

殴り書きの文字。殴りかからんばかりに憤った、夕焼けに濡れたあの人の背中。

ヱルマ教の連中から、異界へのテレポオトを持ちかけられた。馬鹿馬鹿しい。あんな提案に乗るものか。

その日から、あの人は人を寄せつけなくなった。会えないことも多くなった。この下宿に私が訪れることも自然と減った。無理やりにでも押しかけて、ドアをこじ開けて会えばよかった。そうすればいつかみたいに語ってくれるかもしれなかった。
ごみごみした下町の喧騒を慈しむような瞳で見て、
「一体どれだけの人が、進んでここにいたいと思つて居るのだらうね。栄華の恩恵は、デパアトに胸を張って通えるような奴らにしか降り注いでいないぢゃないか」
こんな風に、あなたを終わらせることなんかさせなかった。

どうして断はってしまつたんだらう

あの人が戻りたかった昨日は、異界にあったのだろうか。どうして、教えてくれなかったのだろう。 どうして。

江戸の田園風景は、しかして消え去り、懐かしむべき場所はこの世界から最早無い。夢のような安寧の帝都の夜明けに、郷愁の夏日の差す影も無い。

何かを悟るような文字、今月初めの日付。

心残りは、あの子だけだ。

心臓が音を立てて跳ねる。ページをめくる手が止まる。

まだ女學生ぢゃないか。親に學友に愛されて、あの子はまだ、明日を生きられる。過去に連れて往くのは、流石に忍びない。

どうして。あなたのいない明日に置いていかれることになんの価値があるというのか。
地獄だろうと極楽だろうと、あなたが見た朝焼けの向こうへ、手を引いて身を焦がして二人で飛んで。比翼の連理の片方を失ってしまったら、その鳥はどこへ向かえば良いのだろう。

左様なら、愛しい駒鳥。願わくば、どうか御元気で。

日記の最後に書かれていたのは、これまでとは違う綺麗な文字だった。
駒鳥の羽をたやすく折って、あの人は、ここではないどこかへ飛び去ってしまった。
義躯ギクが、俄に熱を持つ。
あの人に微笑みかけられる度に膨らんでいた感情の微熱とは違う、鋭利な過熱オーバーヒート
帰りたい場所なんて、本当はなかった。ただ、あなたのそばに、一秒でも長くいたいだけだった。
窓を開ける。誰もいない裏路地に、イカロスの翼が焦げる香りがする。
羽の折れた駒鳥の向かう場所は、たったひとつ。
ゆっくりと立ち上がって、白い義躯ギクを、燃え広がる朝焼けに晒す。
右腕を振りかぶって、思い切り、義躯ギクを窓枠に打ち付ける。
警告音が、轟音に紛れて響き渡る。半端に感覚を共有した腕の骨がきしむ。あの人は、きっともっと痛かった。
お願い壊れて。私の希望を、明日を、あの人の生きていた部屋で打ち砕いて。
動脈のあったあたりから、やがてどろりと動力源が、決意が漏れ出してくる。
しびれた腕を窓枠に立てかける。まだ微かに燃えているあの人の夢の残り滓に、血のような液体燃料を垂らす。
握りしめた日記帳を見つめる。墓場まで、地獄まで、新しい世界まで持っていって、絶対に誰にも見せたりしない。
左様なら、皆さん。左様なら、あの人が愛していたかった街。左様なら、絢爛豪華に狂った大正。
誰かの夢なら、よかったのに。
ぐらりとかしぐ上半身、お気に入りの浅葱の着物。せめて褒めてもらいたかったなと笑いながら、あの人の割れて燃えた頭蓋骨と、接吻キスするつもりで飛び降りた。

帝都新聞 大正一五〇年 師走五日

第七地区にてぼや
書生と女學生、炎による心中
痴情の縺れか

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