彼の死は、不幸な事故だった。
どことなく悲しげというか、憮然とした顔つきの受付の前を通りすぎ、隅のパイプ椅子へ腰かける。葬祭場の小さな祭壇には埋もれんばかりの仏花が供えられ、彼の棺をそっと見下ろしていた。読経の声はガス溜りのように低く低く弔問客の間を満たし、彼に先立たれた妻が子供たちの手を引いて、俯きがちに焼香に臨む。
父親の弔辞が読み上げられる。彼は勤務先の研究機関で実験中、閉所でのガス中毒事故によってその生涯を終えた、という。抜けているところもあるが、概ねしっかりした人だった。何より真面目だった。ガスが漏れないようにと扉をしっかり閉めてしまったのは、その生真面目さゆえだったろうか。参列した彼の同僚らは、伏した目の奥に悔恨の情を滲ませたようにも見えた。
棺の蓋についた扉が開けられる。ガラスの向こう、彼の顔色は土気色がかって蒼く、ガスの影響からか目は落ち窪んでいた。自然と頭が垂れ、合わせた手が胸元へと降りる。……最後の別れを惜しむ家族・親族らの手を優しく振りほどくように、彼は炉の中に向かって運ばれようとしていた。どれほど悲しくとも、1時間後には彼は肉の軛を離れ、軽く白い姿となって戻ってくる。彼は彼の生涯を全うした。誰もが、そう信じて待つばかりだった。
……彼の死は、不幸な事故だった。
彼の死は、不幸な事故だった。
受付の仏頂面に記帳の管理を依頼して、会場の設営を始める。鯨幕の下がる場内は、まだ忙しなさ故の活気が見え隠れするようでもあった。葬祭場の小さな祭壇に、埋もれんばかりの仏花を運び込む。祭壇の下には、見た目以上に重い彼の棺がそっと安置された。薄い鉛板をベニヤで挟み込んだ、財団特製の防護用棺。顔馴染みの僧侶と数週間前と同じように手短に打合せた後、御遺族の到着を待ち受ける。場内にずらりとパイプ椅子が並ぶと、存在の冷たさに場の空気が少しずつ冷えていくのを感じた。
やがて御遺族がパラパラと顔を出し始めた。いとこや伯父らが彼の子供を連れて。少し遅れて彼の奥様が御両親に付き添われて。最後に彼の御両親が支え合うように。追って同僚や友人らが揃い始める。
御遺族は知らない。彼が財団という組織で、身内にも明かせない研究をしていたことを。彼は自らが研究していたアノマリーの収容違反によって亡くなったことを。彼の遺体はオブジェクトの異常性に暴露しており、どこにどんな影響が出ているかも分からないことを。そして、彼の同僚らが彼の遺体を研究サンプルと考えていたことを。
式次第は滞りなく進んでいく。御遺族や友人が彼の人柄をいくら偲んでも、時計の針は止まらない。じりじりと、しかし確実に焼香の列が短くなっていく。読み上げる弔辞の原稿の紙幅が短くなっていく。
御遺体を送り出す段になって、列席者が棺の周りに集まってきた。……そっと、棺の蓋に付いた扉を開けてやると、鉛ガラス越しの彼の死に化粧が見えた。亡くなられてから時間が経ってしまったが故に、化粧のりは著しく悪い。土気色の肌と、白粉で隠された落ち窪んだ目元の影に向かって、ゆっくりと手を合わせる。……ご家族が最後に見る顔が、少しでも生前のそれに近いものに見えることを祈って。
……彼の死は、不幸な事故だった。
しかし、彼の死を不幸な事故だけで終わらせることこそが、私たち葬祭部門の仕事だった。
彼の死は、不幸な事故だった。
HAZMATスーツに身を固め、彼の遺体を前に手を合わせる。悪性ミームを自動検知し無効化するウェアラブルスクリーニングデバイス越しに、彼の姿は少しだけ焦点が暈けて見えた。慎重に瞼をこじ開け固定した後。……ひと思いに、眼輪筋に向けてメスを入れる。さくり、と刃が肉を掻き分ける。早くも蒸し暑さが纏わりついてきたスーツの中で、深めに息を吸う。
彼の担当オブジェクトは、反射するものを媒介に転写を繰り返す致死性の悪性ミームだった。初期収容を終えたばかりの隙を突いた偶発的な収容違反への対処のため、彼は自らの命を犠牲に自分の眼球内への転写を誘導し、目を固く閉じることでオブジェクトを収容することに成功した。その献身に、財団は死後叙勲という形を以てその労に報いた。
摘出された眼球が小さな保管容器の中へ納められていく。生体へのオブジェクトの転移はまだ研究チーム内では確認できておらず、このサンプルは今後の研究対象として実にお誂え向きだった。異常を被った対象の様子、転写された生体組織の変化、オブジェクトの転写が発生する条件。値千金だ。彼の空になった眼窩へシリコンの球が挿入される。瞼が縫合され、再度閉じられたのを確認する。不自然な目元の陰を見ない振りをして、そっと棺の蓋を閉めていく。
頼むからちゃんと研究してくれよ。収容違反の犠牲者、これで最後にしてくれ。そんなことを言っていたと思う。細部はぼやけてしまったが、ぎゅっと瞑った目を押さえて暴れる彼が絞り出した、無我夢中の言葉の重みだけは胸の中に蟠っている。デバイスとHAZMATスーツを外すと、短時間の作業にも関わらず腕から湯気が立っていた。
改めて棺の窓に付いた扉を開ける。鉛ガラス越しとは言え久しぶりに肉眼で確認した彼の顔は――眉間に寄った皴と術式の切開跡がすこし気になるが――生前の意思の強さを残していた。耳の奥で彼の声が反響する。あぁ、そういえば。生物がキャリアとなった場合、反射するものの無い鉛張りの容器に入れることで安全に収容できること。これも彼の遺体が教えてくれたことか。
……無駄にだけはするまい。エージェントであれ、研究者であれ、Dクラスであれ。保管容器を包み込む汗ばんだ手に、少しだけ力が入った。
……彼の死は、不幸な事故だった。
しかし、彼の死を不幸な事故で終わらせないことが、私たち研究チームの仕事だった。
To: 倫理委員会申立窓口
From: SCP-XXXX-JP研究チーム
Subject: SCP-XXXX-JP研究に資する献体の件
倫理委員会 御担当者様
標記の件、先日のSCP-XXXX-JPの収容違反による研究班メンバーの殉職について、倫理委員会より御遺族へ献体の依頼を何卒お願いいたします。
本オブジェクトは初期収容完了後間もないことから、異常性の発現要件や異常に暴露した人体への影響など基礎的研究が未だ完了していません。幸いにして、初期収容に先立って確認された財団外部でのSCP-XXXX-JPの影響は最小限に抑えられました。しかしながら、そのために人体への影響を仔細に確認するだけのサンプル数が確保できていないのが現状です。また今回の収容違反を鑑みて、実験を目的として新規にDクラスの暴露者を増やすことも、無視できない施設保安上のリスクとなると考えます。
上記の事由から、本オブジェクトの異常性の解明、ならびにその人体への影響の研究に資するため、御遺族より献体の御承認をいただきたく存じます。何卒、倫理委員会より本件お力添えのほどよろしくお願いいたします。
To: 倫理委員会申立窓口
From: 葬祭部門
Subject: インシデントSCP-XXXX-JPの御遺族への対応について
倫理委員会 窓口御担当様
お疲れ様です。
今回のインシデントSCP-XXXX-JPで犠牲となられた研究員の方について、速やかな葬儀・埋葬を行うため、倫理委員会より各部署への調整をお願いいたします。
今回亡くなられた研究員の方からは、従前より葬祭部門に対して死後の遺体の取り扱いについて希望要件の申請がありました。以下がその概要です。
- 心臓停止後、心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸のうち無事な臓器について臓器提供に同意します。
- 上記の臓器提供に伴う摘出手術において、可能な限り外見が損なわれない術式を希望します。
- 葬儀にあたっては、日本において一般的な仏式ならびに火葬によるものを希望します。
- 上記葬儀の喪主は妻・子ども・両親・きょうだいの順で依頼し、上記の人物が無い場合、葬祭部門に依頼いたします。
- 埋葬は家族代々の墓への合葬を希望します。
また自由記述欄に、『家族へ心配をかけないよう、著しい外傷などが無ければできるだけ生前の姿を残してほしい』と記載があります。今回の事案では、幸いにしてオブジェクトの特性から目立った外傷は無く、死亡前に身体抑制をかけたことによる怪我のみと聞いております。御遺族からも既に御遺体の返却の要請があるため、急ぎ対応が必要な状況です。職員の御遺志を尊重するため、御遺体の取り扱いに際して格別の御配慮をいただけますよう、倫理委員会よりご指示いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。
To: 倫理委員会申立窓口
From: 廃棄部門
Subject: インシデントSCP-XXXX-JPの処理
倫理委員会様
先日発生したSCP-XXXX-JPの収容違反インシデントですが、異常に暴露した遺体の処理方法について、加水アルカリ分解による液体火葬の実施、および廃棄部門での遺骨を含めた遺体の廃棄処理の承認をお願いします。実施検討の事由は以下の通りです。
第一に、本オブジェクトは初期収容完了後間もないことから、SCP-XXXX-JPの異常性の全体像が不明であるため、体組織にどのような影響が及んでいるかが不透明です。また、先述の事由により、動物を含めたSCP-XXXX-JP影響に暴露した生体の処理事例が少なく、他の手法による処理は環境への予期せぬ影響を齎す可能性が否定できません。従って、今回の事案では一般的な火葬や土葬による遺体の処理は不適当であり、処理に伴って発生する残渣やガス等の全量回収と処分が容易な手法を取ることが望ましいと考えます。また、同様の理由から遺骨の遺族への返還も、異常性暴露物品が財団管理下を外れることに繋がるため、廃棄部門として反対いたします。
加水アルカリ分解による液体火葬を選択した場合、処理後の溶液の回収のみならず、燃焼に伴うガスが火葬処理の25%に抑えられることから気体の回収も含めて容易と考えられます。そのため、他の手法と比較して外部環境への予期せぬ異常の拡散のリスクを抑制することが可能です。更に遺骨についても比較的綺麗に残存することから、燃焼後に行う残渣への異常性スクリーニングを容易ならしめ、その後の廃棄処理も短期間に行えるでしょう。
以上の事由から、首記の通り対応いたしたく、御検討・御承認をよろしくお願いいたします。
To: SCP-XXXX-JP研究チーム; 葬祭部門; 廃棄部門;
From: 倫理委員会
Subject: SCP-XXXX-JPの収容違反に関する申立について
関係者各位
表題の件ですが、SCP-XXXX-JP研究チーム、葬祭部門、廃棄部門より、今次の遺体の取り扱いについて申立てがありました。
倫理委員会内の協議の結果、対応が決定しましたので、後程担当者より各部門へ対応方針と作業要領の説明をいたします。今しばらくお待ちください。
彼の死は、不幸な事故だった。
受付の芳名帳と御悔みの整理が終わる頃、葬儀の執り行われている式場の方からマイク越しの奥方の声が漏れてきた。仏花の香りが仄かに鼻腔に届き、しばらくの後に抹香の香りが追いかけてくる。頃合いかとばかりに腕時計にちら、と目をやって受付を離れた。
炉の裏側の隠し部屋へ回り、礼服を脱ぎ捨てる。HAZMATスーツを着込み、ウェアラブルスクリーニングデバイスを装着する。携帯の向こうで制御室の担当者の報告が聞こえ始める。耐熱フィルターの設置確認。排気パイプのルート切換完了。排気冷却管への引き込み開始。こちらも向こうの声に配置完了、と手短に答えてやる。
ガチャン、という炉の表扉の閉まる音を確認して、こちら側の扉を開ける。棺を引っ張り出して蓋をガバリと開ければ、彼の死に顔がこちらを見つめ返してきた。棺から鉛板を抜き出すと、見た目からは想像もできないほど軽くなってしまった。棺の主の顔をもう一度見下ろすと、自分が奥歯を噛みしめていたことに気づく。長く息を吐きながら蓋を閉じて、炉の中へと戻してやった。
携帯の向こうに向けて、再設置完了、点火願いますどうぞと声を掛ければ、5分もしないうちに炉へと送り込まれるガスの噴射音と轟々とした炎の響きが部屋に満ちた。スーツ内の籠った熱気の中でひたすらに待つ。『彼の死』が、リン酸カルシウムを中心とした組成の粉末に変換されるのを。
1時間もする頃、炉を開けて火葬台の上の粉末を根こそぎ収容容器へ詰める。数日すれば、分析担当官が物性の安定と異常暴露の影響の有無を確認し、適切に「処分」するだろう。火葬台の上には、代わりに非異常のリン酸カルシウムが袋の中からブチ撒けられる。
ゴミは廃棄されなければならない。良心がいくら咎めようとも。
異常は投げ捨てられてはいけない。放射性廃棄物をゴミ箱に投げ入れておけないのと同様に。
『遺灰』が炉へと戻され、再度重い音を立てて扉が閉まる。……収容容器を抱えながら、頭を軽く垂れて目を閉じた。
……彼の死は、不幸な事故だった。
そして、彼の死を単なる廃棄物として終わらせることが、私たち廃棄部門の仕事だった。
To: SCP-XXXX-JP研究チーム
From: 倫理委員会
Subject: インシデントSCP-XXXX-JPに関する遺体の取扱について
SCP-XXXX-JP研究チーム各位
表題の件、申し立てのあったSCP-XXXX-JP研究に関する献体の要望について以下の通り回答いたします。
今次の遺体については左右の眼球のみ、貴チームの責任の下で摘出・保管のうえ、研究に使用することを承認します。ただし、術式にあたっては切開跡を最小限とする、眼腔内にシリコンや義眼等を挿入するなど、外見を可能な限り損なわないよう配慮してください。
要望された全身の献体は、葬祭部門の理解が得られませんでした。本件判断は、故人の「死後に容貌が損なわれないように」という意図と、死亡直前に示した「SCP-XXXX-JPの研究を進めてほしい」という遺志を両方勘案した結果です。また、SCP-XXXX-JPの異常性を鑑みれば、その異常性が及ぶ中心となる眼球部だけの献体に絞ることでも、その目的に対し必要十分を満たすと考えます。
倫理委員会として、本件を上記の通り裁決します。関連部門と調整のうえ、対応を進めてください。
To: 葬祭部門
From: 倫理委員会
Subject: インシデントSCP-XXXX-JPに関する遺体の取扱について
葬祭部門各位
表題の件、インシデントSCP-XXXX-JPにおいて殉職された研究員の要望に関する申し立てについて、以下の通り回答いたします。
本件葬儀について、以下の付帯条件のもとで、基本的方針として故人の遺志を尊重してください。
- 遺族の遺体への直接的な接触は一切認めない。
- 遺体の左右眼球をSCP-XXXX-JP研究チームがサンプルとすることに同意し、摘出が完了するまで葬祭部門は接触しない。
- 臓器提供はこれを認めない。
- 通常の火葬による遺体処理を認めるが、その手法ならびに遺骨と遺灰の取扱いは廃棄部門に一任し、その指示に従う。
遺族が一般的な様式に則った葬儀・埋葬を望んでいる点について、倫理委員会として一定の理解を示す声はありました。しかしながら、異常性の拡散を未然に予防することは財団の業務の本旨であり、故人の遺志であっても一定の制約下に置かれる点について理解を求めます。
そのうえで、故人および遺族が求める、一般的な様式に基づく葬儀を挙行することを倫理委員会は支持します。一方で、廃棄部門の申立の通り、異常性に暴露した生体の遺骨・遺灰を遺族に渡すことまでは支持できません。葬祭部門は、あくまで一般的な葬儀の外形を維持する点に注力し、それ以上の事柄について単独での判断を差し控えるようにしてください。
倫理委員会として、本件を上記の通り裁決します。関連部門と調整のうえ、対応を進めてください。
To: 廃棄部門
From: 倫理委員会
Subject: インシデントSCP-XXXX-JPに関する遺体の取扱について
廃棄部門各位
表題の件、申し立てのあったインシデントSCP-XXXX-JPにおける遺体の処理方法について以下の通り回答いたします。
本件遺体は、財団関連施設併設の火葬炉を用いて、廃棄部門の管理下で火葬によって処理してください。火葬によって発生する燃焼ガス、遺骨、遺灰、その他残渣物も同様に廃棄部門が処理することを認めます。それ以外の葬儀に関連する業務は葬祭部門が所掌し、火葬前の遺体の取扱いはSCP-XXXX-JP研究チームと協議してください。
申立内容について、倫理委員会内でもその意図するところは概ね賛成するという声が多数でした。しかしながら、処理の効率性と故人の遺志の尊重を比較検討すれば、前者の利益は後者の利益を措いてまで絶対的に優先されるべきものではありません。
常に命を危機に晒すこととなる財団の業務に携わるにあたって、死後の扱いについて一定程度個人の意思が尊重されると葬祭部門が保証することは、生死に関わる極限状態に置かれた職員のパフォーマンスにプラスに作用すると考えられます。倫理委員会は、「道徳のコストのバランスを保つ」という私たちの目的に照らし、一般的な様式の葬儀を行うことは廃棄部門の業務の効率改善に優先されると判断しました。
倫理委員会として、本件を上記の通り裁決します。関連部門と調整のうえ、対応を進めてください。
……彼は、数キログラムの白く軽い姿で戻ってきた。
遺族の手で骨上げされた彼は、静かに骨壺の中へ納められ、家族の胸の中に帰っていく。両親が、きょうだいが、妻が、子供が。それぞれに、唇を噛みしめる。永遠に引き延ばされたような数秒の後に、震え声が絞り出される。
「本日は、御列席いただき、誠にありがとうございました。」
彼の死は、不幸な事故だった。
しかし彼の死は、『私たち』の中で確かに、彼の遺志に変わっていた。