ポーランドのSCP財団──ポーランド収容プロジェクトの歴史

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記録・情報セキュリティ管理局からの通達

以下のファイルは概史資料です。ここに記載されている情報には多少の虚偽・捏造があるかもしれませんが、それでもこれが財団の現状の公式見解です。

— ジェームズ・ムーア、サイト-120 RAISA局長


イントロダクション

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ポーランド収容プロジェクトのメンバーたちと当時のO5-█の会合、1931年

ポーランド収容プロジェクト (The Polish Containment Project) は、今は亡きO5-111により1914年2月に設立された組織でした。主な目的は妖精 (Homo sapiens sidhe) の活動調査と、 旧ポーランド王国チェンストホヴァ近郊に所在する、妖精が数多く居住する異常のフリーポート・エスターバーグ (後にSCP-5373に指定) の存在確認ならびにその後の保全でした。

しかし時代とともにプロジェクトの目標は移り変わっていき、その主任務は第一次世界大戦後に誕生したポーランド共和国における財団の橋頭堡確立に変化しました。古典的手法でSCP-5373を確保しようという当初の目論見は、1923年に国際連盟がフリーポートの独立を保証する法を承認、保護下に置いたことで頓挫しました2。しかしこの状況下においても、財団は何度か図らずもこれらの法を破り、無許可でエスターバーグに侵入することがありました。とはいえ、こうしたいくつかのインシデントを除けば、財団はSCP-5373の確保計画を中止して、都市の監視と、法の抜け穴に乗じた非武装調査の実施にシフトしていました。

ポーランド収容プロジェクトは、第二次世界大戦 (異常界では第七次オカルト戦争3としても知られる) の終結後、1945年10月に解散を迎え、財団へ統合されました。

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O5-11 - “預言者”ザ・ビジョナリー [故人]

男性。年齢不詳。ユダヤ・スラヴ系。その生涯をかけて、オカルト、エソテリシズム、奇跡術と強い関わりがあった人物。存在力学部門の設立に関与し、その初代管理官であった。現代の奇跡術を用いた生命延長術の分野におけるパイオニア。

財団の影響力を世界各地、とりわけ中欧〜東欧に拡大するうえで大きく貢献しており、特に1914年にポーランド収容プロジェクトを始動している。実験に人材、特にDクラスを用いることに対して非常に批判的だった。

[前O5-11の死の詳細に関してはレベル5以上の職員のみに制限される]


組織体制

ポーランド収容プロジェクトは独自の組織体制を有し、様々な分野を担当する複数の専門部署に分かれて活動していました。


歴史

ポーランド収容プロジェクトはおよそ31年間に渡って存在していましたが、更にその活動期間は大まかに3つに分けられます。

1914年〜1918年

プロジェクトは1914年2月、O5-11により始動されました。トップとして、サイト-30の管理官を務めた経験のあるハンナ・リベラが管理官の任を与えられました。1914年6月、彼女の指揮下でポーランド王国への調査遠征が開始されましたが、これは第一次世界大戦が開戦する1ヶ月前のことであり、その影響でプロジェクトの当初のミッションには大きな支障が生じました。このような情勢下にあったものの、1916年初頭には彼らは妖精の活動がチェンストホヴァ地区に集中していることの立証に至りました。フリーポートの捜索中、SCP-52924 (後にPL-X0R38/0124に指定) が偶然発見され、その周辺に暫定サイト-120が設立されました。同年、GoI-120 (“トリウムヴィレイト”) として知られる妖精のテロリスト集団の襲撃により、SCP-5292が被害を受けるとともに、プロジェクト管理官であったハンナ・リベラが殺害されました。

ハンナの死後、科学部門の前部門長で神学専門家であったレイア・マイケルズがプロジェクトリーダーに抜擢されました。同年5月、レイアの要請により、サイト-120は正式な施設5となり、ポーランド収容プロジェクトの司令部が置かれました。その後数年間に渡り、財団はエスターバーグの監視に注力し、何度か掌握・確保を試みたものの失敗しています。

1919年〜1938年

第一次世界大戦の終結と独立したポーランド国家の成立に伴い、プロジェクトの目標は大きく拡張されました。この頃から、プロジェクトはポーランド共和国のアノマリーに対処する財団の代理機関として活動し始めました。この時期、プロジェクト管轄下の人員・アノマリーは最大規模を迎えました。また、1923年に国際連盟が異常のフリーポートを保護する法律を制定したことを受け、財団はエスターバーグを確保/収奪する試みを取りやめたものの、財団の法律違反に関した事件が何度か生じています。

またこの頃、プロジェクトは数多くの異常組織と遭遇しました。第六次オカルト戦争の終結後から既に進行していた、所謂“超常ルネッサンス”が当時最盛期を迎えており、それにより大きく活動を増加させたのがこれらの組織でした。このうち特に重要なものを以下に列挙します。

1933年から、財団は大部分の欧州資産をアメリカや他の安全な場所へと避難させ始め、ポーランド収容プロジェクトもその対象となりました。これはアドルフ・ヒトラーがドイツで権力を強めたことで、欧州で新たな国際紛争の可能性があったことを受けてのものでした。大戦勃発の前夜には、ポーランド収容プロジェクトの管理職員、保安職員、補修職員のみがポーランドに在留していました。

1939年〜1945年

財団は1944年まで第二次世界大戦/第七次オカルト戦争では表向き中立を貫いていましたが、これにもかかわらず、サイト-120地上部や他多くのプロジェクト施設が空爆で破壊されることとなりました。1944年9月、財団は連合国側で公式に参戦しました。このきっかけとなったのは、オブスクラ軍団研究長であったコンラート・ヴァイスが逮捕され、AOI・財団の下にオブスクラ軍団が“ソロモンの儀式”として知られる強力なオカルト儀式の実行を計画しているという情報が渡ったことでした。財団はAOIと共に、1945年1月のオペレーション・イオン・ドーンでその実行を食い止めることに成功しました。この間ポーランドに残ったプロジェクトの残存者たちは、ワルシャワ蜂起の敗戦6、首都をチェンストホヴァに移したポーランド地下国家7の支援に乗り出し、エスターバーグをその拠点として利用しました。

また言及しておくべきこととして、この間、前述のポーランド神秘事務省はスリーポートランド8に大部分を移転し、その職員らはAOIの共同設立を援助しました。彼らはまた、1943年のスリーポートランドの戦いで、オブスクラ軍団特殊部隊に対する連合国の勝利に大きく貢献しました。この攻撃は、合衆国と英国間で重要な補給路となっていたポートランズを妨害するために行われたものでした。

第二次世界大戦、またの名を第七次オカルト戦争の終結から数ヶ月後の1945年11月、プロジェクトは遂に解散を迎え、財団の体制に吸収されました。戦後ポーランドで財団が良好なポジションにつけるように、この時点で新興政権であるポーランド人民共和国との交渉も始まりました。


解散とそれ以後のポーランドにおける財団の活動

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サイト-120の現在のロゴ

1945年10月21日、監督司令部の全会一致の決定で、ポーランド収容プロジェクトは正式に解散され、財団の標準体制に吸収されることになりました。また、財団は新たに成立した政権であるポーランド人民共和国との交渉を開始し、将来的に良好なポジションにつけることが保証されました。これにもかかわらず、財団の活動はGRU "P"部局やポーランドのZM “魔導殺し” 部局の活動に押されてある程度減少しましたが、とはいえ、東ドイツやチェコスロバキアなどの他のワルシャワ協定締結国と比べればずっとましな状況でした。

当初、エスターバーグは新たな共産政権と協力する傾向にあり、政府は同市に大きな自治権を保証していました。ポーランド人民共和国は、エスターバーグのオフィシャルな呼称として“ティションツレチェ・グルネ” (Tysiąclecie Górne)9を採用していましたが、この名前は今でもちらほらと使用されています。とはいえ、こうした関係性は、1950年代には大きく悪化しました。

ポーランド収容プロジェクトの前管理官であった (同時にサイト-120の管理官でもあった) レイア・マイケルズは最終的に1959年に亡くなり、これまで副管理官として、そしてプロジェクトの最後の活動期間には戦術作戦司令部長として働いてきたマッカーシー10がサイト-120の管理官を継承しました。サイト-120は、ポーランド共和国における財団の主要活動拠点として今も活躍を続けています。


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