パンドラボックスは開け放たれた。災厄は地を覆い、空でさえそれに賛同するようであった。
とろけるような、百年のような睡りから醒めた、それは綺麗な日だった。
SCP-076がその灰色の瞳を瞬かせたとき、収容エリア25bは既に世界へ呑み込まれていた。
鎖骨を隠す髪は、彗星の如く尾をひく光芒に線引かれ、ますます黒く滲んでいる。
彼の心臓を包む天国の模型のような平穏が、不気味に感じられた。
蹠を舐める静水に無数の波紋を落とした。
琥珀色に絡まった火花が一滴一滴溶け落ちる。
いつもなら空気さえ切り刻まんと叫ぶアラートは、そのひびわれに蔦を這わせ口をつむいでいた。
首筋を闇雲に掴み、その首輪に指を掛けた。
彼をかの戦士より、誰より殺した其れは、あっけなく崩れ落ち硝子片と化す。
柔らかく冴えた天日をその中に秘め、眼を射抜くそれは、ぱきり、と悲鳴をあげた。
アベルの足は切れ、幾千のルビーを集めて燃やしたような、朱殷のような血を流す。
美しい赤は、彼の距骨に絡みつく水に希釈され、名残惜しそうな淡紅色を残して消えていった。
背中を伝った汗は、焦りから来るものだったのだろうか。
割れた青天井から幾千砕ける煌めきは、最後の足掻きのように透き通っていた。
静寂を切り裂いたのは、零れた雫の音だった。
陽々を透かす水滴が滑り落ちる足で扉を蹴り開けた。
「だれか、いないのか」
泡沫のようなはじけた声に、応えることができる者はいない。
獲物をまえにした隔壁さえ動かない。
崩壊を辿る日々は全てを壊して、それでも動かして流れていく。
息も凍るような「異常」をはなむけに、人は全員消えていた。
アベルは、ここには人間がひとりもいないことを知った。
殺せる人間は。
滲んだ雲を背にして見つめる、誰が書いたのかもわからぬメッセージ。
溶け散るような硝子が結んだ色は、血の匂いがした。
こんにちは、SCP-076-2。
わたしたちは、財団の新しい方針、「人類の根絶」に基づき、あなたを解放します。あなたは外に出ることもできますし、ここに残ることもできます。外に出たところであなたは誰も殺せませんが。
わたしたちからのささやかな贈り物、あなたへのお詫びとも言えますが。受け取ってください。
爪がぶつかりあった、石造りの箱を開ける。
片手でゆうに持ち上げられるはずなのに、両手を使った理由は彼にもわからなかった。
冷たい棺桶を思い出す、重苦しい箱。
そこには少女がいた。
無造作にその金髪を紡いだ少女の顔には、表情が感じられなかった。
古き戦友の、陶器のように白い瞼の奥には、青い、青い空を秘めた瞳が隠されていることは容易に想像できた。
そして、彼女とともに箱に詰められていたのは夢のように蒼い、滲んだアイリス花言葉は「希望」だった。
落日の星が微睡みを残して消えた。
冷たくなった戦友の名残夢、希望を求めて彷徨う風の旅人のように。
夜空は回っていた。
足元に弧を描いて溶ける彼の血と、人に似た其れの血が混ざり合っている。
彼は、争いを殺した。
彼は、不安を殺した。
彼は、死を殺した。
箱の中に入っていた災厄を殺した。
アベルは、箱を出ることなく眠りに落ちた。
いつの日か希望を思い出すことを、夢見ながら。
兄弟達の子孫が作り上げた、数多の矮星の煌めき。
幾許の永遠を約束されていた、彼らの時はそこで止まった。
命が擦り切れ火花を散らす世界を、パンドラボックスそのものと成り果てた世界を。
災厄の一となることなく、彼はその蓋を閉じた。
パンドラボックスは開け放たれた。やはり最後に、希望を残して。