蛍池のほとりにて
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とある山の奥深く。心霊スポットとして地元では有名だった小さな池を囲うように建てられたサイトがある。
表向きは蛍の保護活動のための研究施設と偽装しているそのサイト。言ってしまえば本当に蛍の研究をしているし、実際に研究の成果を学会でいくつも発表している研究所としてその道では有名だ。それは何故か。簡単なことだ。収容しているオブジェクトが蛍の生息域そのものだからだ。
夏場に一晩だけ発生する現象を一般市民から隠匿するために建てられたそのサイト。しかし、建設後の数年間は異常な現象は発現しなかった。その後の研究でわかったことは、特異性の発現には発光する蛍が一定数以上飛翔している環境が必要だったということ。サイトの建設により池の周辺の生態系が乱れ蛍の個体数が激減したことが原因だと思われた。特異性の喪失並びに変異の可能性を恐れた財団はただちに蛍の人工繁殖を開始。有力な昆虫学者を研究所に招き入れ、各地の研究機関と連携をとり、ビオトープによる試験を繰り返し、各種メディアへ露出での研究に対する印象操作など、気が付けば蛍の育成と保護は環境保全の一環として全国的な活動へと変貌していった。
故に、特異性が再び確認された時、研究所は歓喜に沸いた。財団としては複雑かもしれない。しかし、蛍が池に戻って来た事実は、自然を再生させた事は、研究者達にとって喜ぶべき事だったのだ。


「そろそろ始まるぞ。」

月と星の明かりが照らす暗闇の中に男の囁く声が小さく響く。その声に合わせるように一つ、また一つと淡い萌葱色の瞬きが現れ、池の水面の輪郭を浮かび上がらせていく。

「不思議なもんだよ。あれから何年も経ったって言うのに、毎年この翔んでる蛍の光を見るたびに達成感が溢れてくるんだ。」

男は着ている白衣が汚れる事を気にする様子もなく池の畔に腰を下ろす。

「いや本当に、息子にも見せてやりたいよ。……前にも話したかもしれないが、うちの息子な、小学生になったばっかりなんだけどカブトとかクワガタなんかに興味があるみたいで、虫を戦わせるゲームに夢中でさ。いやぁ、血は争えないって言うのかな。お父さんがこの蛍の池を復活させたんだぞ! って言ったらさ、お父さんスゴいって言ってくれるかな? どう思う、新人。」

男は後ろにいる若い男性研究員に顔を向ける。新人と呼ばれた研究員は言葉を返すことはなく、ただ男を見つめている。

「……わかってるよ。真面目に記録するって。若いもんの意見を聞きたかっただけなんだって。そんなに睨まなくてもいいだろう……。」

耳に挟んでいた鉛筆を手に取り、男は再び池に視線を戻す。

「しっかしなぁ、この池に蛍が戻ってからもう10年か……。早いもんだよ。新人は財団からの出向組だから実感ないかもしれないが、昆虫学者として外部から呼ばれた俺にしてみれば潤沢な資金で研究させてもらえるってのは幸せなことなんだよ。どこのスポンサーだって自分達の利益になりそうもない、破壊された自然を再生させるなんて研究に興味はないんだ。」

夜の風が柔らかく頬を撫で、呼吸をするたびに肺の奥にまで草と土と水の匂いが満たされる。それは、コンクリートで固められた都会では決して感じることのできない、抱き締められていると錯覚するほど自然の温もりだった。

「まずは1人目だ。」

ガサリと草を掻き分ける音と共に、池の反対側の岸に着物の女が現れる。走ってきた様子の女はよろめきつつ池の畔に腰を下ろし、少しずつ息を調えていく。

「続いて2人目。」

男の目線の先にはいつの間にか旧日本軍の軍服を着た若い男が虚ろな目をして立っていた。両者はお互いに気が付く様子はなく、ただ、静かに水面を見つめ続ける。

「あれらが資料にあったこの池に発生する異常性。一年に一度、夏の夜に出現する霊的人型実体群だ。」

男の声にも両者は反応することはない。

「こちらからの問いかけに反応することはない。触ろうとするとすり抜ける。夏の夜に現れる幽霊。いや、幽霊なのかもわからない……夏の夜の夢。ただ、それだけの異常性だ。」

草の踏む音が耳に届く。目をやると杖を突いた老婆が同じ歳の頃の老爺に手を引かれてゆっくりと歩きながら現れる。夫婦だろうか、老爺は足元に注意するよう老婆に優しく話しかける。

「出現の理由は不明だが、こうやって毎年必ず現れる。現れる順番も、現れる時の様子も寸分の狂いなく、毎年必ず現れる。服装もバラバラで、恐らく生前の年代も違う存在だろう。だが、一つだけ共通点がある。」

スゥ、と、蛍の淡い光が目の前を通り過ぎた。

「蛍だ。」

着物の女は顔を上げ一筋の涙を溢した。

軍服の男の虚ろな目に光が灯った。

老夫婦は深く皺の刻まれた顔を綻ばせた。

「彼らは一様に蛍に目を奪われるんだ。」

宵闇は深く、森は外界と寸断され、月は煌々と輝き、星光は地上に降り注ぎ、水面は揺らめき反射して、蛍は自由を舞い踊る。

「年齢も、性別も、時代も関係ない。美しいものを美しいと思う心に違いなんて無いんだ。そして、一度は破壊されたそれを復活させ、更には次の世代に繋げる研究に携われたことを、研究者として…人として俺は誇りに思っているよ。」

男が語る間にも霊的実体はまた一体、また一体と現れていく。

「こうして、およそ2時間の間に何体も何体も霊的実体が現れては消えていく。まるで蛍の光のようにな。現在は主に実体の出現理由の解明を中心に研究している。」

ふと、男は一組の親子連れの個体が目に止まる。父親が子供を肩車し、蛍に手を伸ばした子供がバランスを崩して転げ落ちそうになる。それを危なげなく父親が支え、子供は蛍の瞬きに負けない光を灯した瞳を再び蛍に向け笑い出す。それを見た男は力を抜いて笑い、自身の腕時計を確認する。

「……さて、引き継ぎは終わりだ。後の記録は新人に任せるよ。」

男は立ち上がり池を背にして歩き出す。

「実体が出現したらリストにチェックを入れて、未確認の個体が出現したらメモをする。ペースはゆっくりだし、記録装置も作動しているから後でチェックをし直すこともできる。いくら新人でも簡単にできる仕事さ。そんなわけで、俺は先に帰らせてもらうよ。明日からの休暇は家族サービスで遊園地に行くんだ。息子との約束でね。」

手をヒラヒラと振りながら新人にチェックリストの紙を挟んだバインダーを渡す。しかし、新人はそれを受け取ろうとしない。

「いいえ、貴方は帰れません。」

新人が口を開く。

「貴方は家に帰ることも、家族で遊園地に行くこともありません。」

男の手から離れたバインダーは光の粒子となって闇に溶けるように消えていく。

「この2時間後、サイト内で倒れている貴方が発見され、救命措置を施すも死亡が確認されます。なんの変哲もない心臓発作だったそうです。」

すれ違いざま、男の肩が新人の肩にぶつかるも、その衝撃は一切無くスルリとすり抜ける。

「そして、その翌年から貴方の霊的実体が出現するようになった。貴方のおかげで解ったんです、出現する実体の共通点。……この池に訪れた後ですぐに死んだ人達だったんです。」

新人が振り返ると、そこに男はいなかった。いくらか光で輪郭が残っていたように見えたが、それが蛍の光か、消滅の際の光の粒子なのか。それを判別することはできなかった。

「山賊に襲われ逃げていた女性、徴兵から逃げ村人から追われていた男性。老々介護に疲れ心中をする老夫婦。遭難して滑落死する親子。ほとんどの実体の身元は財団の調査で判明しています。」

新人は再び池に目を向ける。もう何体かの実体は粒子となり、新しい実体が現れている。

「死の直前に見たものの記憶。辛くても、苦しくても、それよりも美しいものを見た記憶が鮮烈に残っていて、池がそれを写真のネガのように記録していて、蛍の光で投影している……憶測ですがね。」

新人は自身の古い傷だらけの腕時計に目を向け、チェックリストが表示された電子端末を持ち直す。

「貴方は帰ることはなかった。でも、貴方は次世代に繋いだんです。貴方が新人と呼んでいた人は倒れた貴方に気付けなかった負い目からか、貴方の研究をそのまま引き継ぎ異常性についてだけでなく、蛍についても幾つもの発見をしてこの研究所の所長にまで上り詰め、私はその所長から直々にこの研究を引き継いだ。」

ポタリ、ポタリと端末に雫が落ちる。

「貴方を知れて良かった。貴方を恨まないで良かった。昆虫学者になって良かった。この研究所に引き抜かれて良かった。何より……引き継げて良かった。この池をまた次の世代に引き渡す手伝いが、貴方の研究を、想いを繋げることができる。」

新人の目から涙が止まることなく溢れてくる。

「仕事のせいで忘れてたわけじゃなかった。遊園地の約束……。仕事が忙しい時期に子供の我が儘に応えるのが、それがどれだけ難しいことか……この歳になって解ったんだ。」

口は震え、言葉は詰まる。それでも、溢れる気持ちは抑えることはできない。

「スゴいよ……お父さん……。」


明けない夜はない。それはすなわち、また夜が来ると言うこと。

昼夜は交互にやってきて、次の日へと歩みを進める。

夏は終わり、秋になり、冬が来て、春も過ぎれば……また、夏が来る。

来年も、再来年も、その次も、そのまた次も……。

蛍池のほとりにて、

きっと蛍は翔ぶのだろう。

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