世界の上を過ぎ去る夕暮れ
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わたしは夕暮れが好きだ。

星々の川は濃い青から橙色へと流れ、やがて乾ききって夕日には白っぽい灰青色を浮かべる。 川べりのきらきら光る礫が赤い薄雲の間に見え隠れしている。 夕暮れの風が、乾いて、爽やかで、麦の黄金を思わせる様で好きだった。 私は夕暮れの野原が好きだった。柔らかく、大人しく、幾重にも重なった陰に隠れている。

わたしはいつも一人ぼっちだったが、それでもこの木の傍をうろうろしているから問題なかった。 その木もまた一人ぼっちだった。 それはこの草原にある唯一の目印であり、まるで世界の原点、瞳の中の瞳孔の様であり、それが視界にある事で自分の居場所が分かって安心していた。

その日、わたしは少年に出会った。

額には青い刻印が描かれ、露出した関節は金属に置き換えられている。 数歩も行かないうちに、彼は跪いて身をかがめ、大地の声に耳を傾ける様に首を傾げた。 その表情は冷たく硬く、目には何も映っていなかった。 近くまで来て初めて私に気づいたらしい。淡々とした表情が潮のように引き、乾いた顔に不安そうな表情が浮かんだ。

「坊や。」彼はわたしと同年輩だったが、老人の様だった。 彼は言葉を切り、わたしの反応を待つかの様にわたしを見た。 しかし、わたしは何も言わず、彼の額の刻印を見つめていた。 その印は、すでに起こってしまった取り返しのつかない悲劇を示していて、わたしの心を痛めた。

「坊や、男の子を見なかったかい?」

わたしは首を横に振った。

「君と同じくらいの年齢だ。君より少し年下かもしれない。」彼はわたしを見た。「君も知っているだろう。」

隠れた恐怖がわたしを怯えさせ、名状しがたい苛立ちがわたしを怒鳴りつけさせた。「誰の事を言ってるんだ?わたしは彼の事を知らない!」

辺りが急に暗くなり、混沌とした夕暮れが夜の中に落ちていった。 「もう行く。」そう吐き捨て、わたしは少年から逃げ出した。振り返ると、その少年は再び膝をついて俯せになり、首を傾げて大地の声に耳を澄ませていた。


私は夕暮れが好きだ。 私の想像では、夕暮れは二色のメビウスの帯の継ぎ目だ。ある存在が黒と白のリボンを半回転させ、その端と端をつなぎ合わせ、その継ぎ目にある種の混沌を見せている。世界は帯の上を滑り、果てしない昼と夜の入れ替わりを見せている。これは素晴らしいアイディアだった。しかし、こうして世界が永遠に捻れながら回り続けることは、明らかに不安定で完璧ではないということを、私はすぐに思い出した。私の心の中の世界は変化し、世界は無限のエーテルの中で静止し、世界の上を昼夜が通り過ぎて行く。それは私の心を救う。

思い出の中の声を聞こうと、私は跪いて身を屈めた。まるで歯車が噛み合うように、現在の感覚が過去の記憶と重なり、思いがけず心の中を満たした。それらは不連続な断片でありながら、連続的に私の思考を通過していく。辻褄の合わない場面と場面がちぐはぐに繋がり合う。一瞬の思い出の中で、私は自分が現世に存在していることを感じた。思い出の雨粒が不意に降り注ぎ、私はそれを避ける事が出来なかった。それは、永遠の後悔と罰。

声を聞かないまま、私は起き上がった。遠くに一本の木が見える。平面上の果てしなく遠くまで見渡せるのだから、それが存在した時から、私はそれを見ていたに違いない。ある存在を表す言葉が同時に頭の中に浮かび、私はそれを知っている事を自覚した。一一空から言葉の雨が降ってくる様に、それらをひとつひとつ拾い上げていった。しかし、私はすぐにそれを拾い上げるべきではない事に気づいた。世界の原点、瞳の瞳孔、あの木は特別だった。

青い刻印がある事に気づいた。それから少年の姿に気づいた。その姿を見回す事によって多くのことを知ることが出来た。例えば金属に置き換えられた剥き出しの関節。私の心の中に突然、「心は表現出来ない」という悲しみが生まれた。内的言語は全体的なものであり、外的言語は離散的なものである。意味の橋渡しをしてこそ、心は思考過程を断片を回り道や捻じ曲げて表現することができる。青い印が、私の心の中にすぐに浮かび上がった。私は意味を通して、この印が外部の言語に対応するものを見出したー永遠の罰を受ける罪人への加護。私の心は痛んだ。

私は目の前にいる少年が彼の居場所を知っているのかもしれないし、知らないのかもしれないと気づき、不安になった。私は声を出した「坊や」。けれど、その思いは、外部言語に入ることに失敗し、内なる言語の胎内で死産し、すぐに忘れ去られた。私はまた声を出す事しか出来なかった「坊や、男の子を見なかったかい?」目の前の少年は首を振った。私は声を出し続けた「君と同じくらいの年齢だ。」どうやって彼と向き合っていけばいいのだろうか。突如として、この少年が彼を知らないことを願う気持ちが湧いてきた。 少年は怒鳴った。「誰の事を言ってるんだ?わたしは彼の事を知らない!」その瞬間、混沌とした夕暮れが夜の中に落ちていき、世界の上をメビウスの帯が通り過ぎていく。私はその事実を受け入れた。

主はかつて地上での彼の答えを聞いていた。私は跪いて耳を傾けなければならなかった。私は永遠の罰を受けなければならなかった。私は永遠に探し続けなければならなかった。二色のメビウスの帯の光の継ぎ目が世界から消え去ることがなくなるまで。全てが無限のエーテルに落ちていく。


遠くで二人の少年が言葉を交わすのが見える。その二人の少年は同じ顔立ちをしていた。

彼は額の印に手をやった。 それはかつて起こってしまった取り返しのつかない悲劇を示し、永遠の罰の為に存在する永遠の庇護を表している。

突然、足元から荒野が現れ草原に広がった。 遠くに見えた二人が煙のように消えていく。

枯れた草むらの中、木の下に横たわる少年は、羊の放牧から帰ってきたばかりのようで、薄暮の中で一息ついているような、穏やかな姿をしていた。


カインは夢から目覚めた。柔らかな日差しが部屋に満ちていて、まさに夕暮れだった。

彼は自分の受けた呪いを夢の中でも忘れていなかった一一彼に殺された兄弟の様に、大地を永遠に死なせてしまった。

なぜ自分が兄弟を探しているのか、その理由は分かっている。 二色のメビウスの帯の継ぎ目が、もはや世界の上を掠めることもなく、全てが無限のエーテルへと落ちる前に、弟に伝える為だ:

“すまない。”

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