起源とフランコ政権の独裁政治
特別保安局(Comisaría Especial de Seguridad / CES)は1938年に国家サンディカリスト攻勢議会(las Juntas de Ofensiva Nacional Sindicalista / JONS)の専門機関から生じ、防衛最高司令部情報課の秘密機関"セカンド・ビス"として設立されました。その後、1939年の秋には、公式な存在となり、常に強い国家カトリック的思想傾向の下、異常と未知に対し軍部として活動するようになりました。
当初、保安局は、外部の助けを借りずGRU"P"部局の助言や訓練を受けた共和党側の人物の行動に対応するために結成されたものでした。その後、徐々にスペインの他の地域にも活動範囲を広げ、後には西サハラや赤道ギニアにも職員を派遣するようになりました。
セラーノ・スニェルは他のスペイン政府関係者と、ハインリヒ・ヒムラーを伴ってベルリンを訪問した。
スペイン内戦終結後、保安局は困難な3つの任務を負っていました。まず、南米や中米のような地域において、比較的少数であるものの多様な性質のアノマリーから、残留しているスペイン人を保護すること。陸海空の軍隊にとって利用価値があり、"純粋"であると思われるアノマリーを特定すること。海外の要注意団体の脅威に対する継続的な警戒を維持すること。ここには、GRU"P"部局のような政府系の団体、SAPHIRのような反宗教団体や、境界線イニシアチブの宗派のような保安局の国家カトリック思想に反対する超宗教団体、財団のような正常性維持機関が含まれます。
かつて保安局の職員から助言を受けた、青師団の有志達。
1940年代は、スペインの他の組織にとってそうだったように、保安局にとっても厳しい時代でした。保安局は異常に関する知識が浅く、装備も時代遅れで、第二次世界大戦後に残った政治ブロックに対しても無力であったため、保有するアノマリーの調査に専念し、マキが作成/使用したアノマリーによる脅威の可能性が疑われた場合にのみ派遣されるという、地道な活動を余儀なくされていました。
1950年代は保安局の活動の最盛期でした。飢餓が蔓延していましたが、政府と将来"マナによる慈善財団"と呼ばれることになる組織の共同活動はオーキリオ・ソーシャルに統合され、飢餓の緩和に繋がりました。冷戦による漸進的な世界開放とその地理的位置から、アメリカ等の国々はスペインを、GRU"P"部局やソビエト連邦に対し、反共産主義的な立場と経験を持つ戦略的同盟国だと考えていました。
経済においては、貧困状態が蔓延していたにもかかわらず、保安局は威信を得ていました。孤立主義の終焉の立役者とされ、軍事予算の大部分が保安局に配分されました。これにより、業務範囲が拡大し、隔離されているものの危険なアノマリーも扱い始めました。
しかし、スペインが孤立主義から脱却すると、要注意団体や財団の注意を再び引くことになりました。ペンタグラムと保安局の合意によりトレホンとサラゴサに空軍基地が建設されたにもかかわらず、保安局は孤立した場所に司令部を建設し、テルエル等の地方の土地の地形を改造することを主張しました。将来境界線イニシアチブの1宗派となる集団が、保安局とSCP-ES-101に興味を示し始めましたが、平和的に拒絶されました。さらに、ビダソア渓谷周辺で押収された映画のオブジェクトを巡って、フランスの反宗教団体が文化戦争を起こす可能性があるという噂が流れていました。
一方で、これらの本部の所在地について、フランコ独裁による「沈黙の掟」の強制と、一般市民らの外国人恐怖症によって、財団の潜入の試みは失敗に終わりました。
1960年代は、近代世界への開放による保安局の文化的変化の始まりの時代でした。当時新興であった境界線イニシアチブとの関係は円滑化し、キリスト教徒の職員の移行が可能になりました。ペンタグラムとの関係は強化され、保安局の若い職員らの間で文化的な変化がありました。これは1977年の解散まで続く少数派の分裂の原因となりました。
H82RIの特異兵器を回収し、USS Petrelに搭載。
1966/1/17、B-52戦略爆撃機とKC-135タンカー機が給油作戦中に衝突し、特異兵器2個と非異常熱核爆弾2個が落下し、乗員7名が死亡するという事故が発生しました。特異兵器と非異常熱核爆弾は、地中海または陸地に落下し、破損しました。
ペンタグラムと保安局は、後者の了承の下、該当地域の安全と福祉のために、異常物質を中心に除染作業を行いました。マヌエル・フラガ情報観光大臣と在スペイン米国大使の入浴映像を放送する他、ペンタグラム、アンジー・ビドル・デューク氏と連携してNO-DOやTVE テレビチャンネルを用いた大規模な情報隠蔽活動が展開されました。
フランコ政権の最後の年には、シモン・サエス・ロコが率いる保安局で最も開放的な派閥と、ルイス・カレロ・ブランコが率いる保守的な派閥との間での分裂が明確になりました。彼らはペンタグラムのスペイン領への影響力を制限することで合意したものの、保安局自体の存続については深い意見の相違がありました。サエス・ロコは、財団との関係を確立し、将来的には完全に吸収される事を計画しており、余剰資金を他の州の施設に配分すべきだと考えていましたが、カレロ・ブランコは、将来のスペイン国王ドン・フアン・カルロス1世の下での、保安局の中央集権化を望んでいました。
しかしながら後者の派閥は1973/12/20に発生したテロリスト集団ETAによるカレロ・ブランコの暗殺、緑の行進、フランシスコ・フランコの死に伴う社会全体の混乱のために弱体化し、そのような諜報機関の解体を条件とする、バルナール=サエズ協定への署名に繋がりました。
移行後
段階的に、保安局の職員は、財団の組織構造へと上手く統合されました。当初は本部での活動を許可されていましたが、1980年代には、財団による吸収に反対した保安局とフランコ独裁政権の残党と疑われる人物による一連の攻撃が行われ、保安局出身の財団職員は国際エリア-08への異動を余儀なくされました。その後、国際エリア-08から収容困難なアノマリーを持つ本部への道路が開通し、中・低レベル収容度のオブジェクトは、それぞれの異常性に応じ、国際エリア-08のサイト-34とサイト-313へと運ばれました。
現在、要注意団体 特別保安局(GoI-134-A)の構成員の所在、目的とその為の手段及び人員については不明です。
特別保安局は第二次世界大戦の初期から存在し、フランコ独裁政権の崩壊を超え、なんとか生き延びました。この間、多くの要注意団体は新興または拡大しており、構成員や関連するアーティファクトが何らかの理由でスペインのような戦略的な地点に流れ着くのは当然のことです。
政府系GoI/正常性維持機関
アーネンエルベ・オブスクラ軍団
当初、保安局の前身組織や、その対人戦術の師と同盟を組んでいましたが、保安局はその異常兵器の起源を突き止め、その起源が奇跡論であり、さらにその一部が悪魔的な技術であることを理由に使用を拒否していました。保安局はこの事をラモン・セラーノ・スニェルにに警告し、戦争を避ける為にスペインから出した禁止条件と合わせ、オブスクラ軍団との関係を断ち切りました。
その後、青師団の存続を保証するための便宜上の短期間の同盟がありました。
世界オカルト連合
スペインの非難を受け中立的な立場にあった連合は、ペンタグラムが残した米軍基地に外国軍を派遣し始めました。保安局が合併し、スペインがNATOに加盟してから数年後の1982年から、スペイン人が連合に加わるようになりました。効率化のため、財団は、スペイン領内の脅威にさらされている団体の管理を支援するための連絡手段を、元保安局職員と連合との間に設けました。
GRU"P"部局
共和党政権を支持しており、保安局の主な敵でした。当初はスペイン国内の異常の状況を完全に掌握していた"P"部局でしたが、共和党側の内部分裂、反乱軍側への壊れた神の教会の構成員の参入、オブスクラ軍団の支援を受けた保安局の前身組織の存在などにより、その力は弱まり、スペインからの撤退を余儀なくされました。
終戦後、青師団の排除に失敗したヨシフ・スターリンは、スペインへの復讐を誓い、スペインへの本格的な侵攻のために"P"部局を組織し始めました。この攻撃は、不釣り合いだと考えたアメリカとイギリスによって差し止められました。
その後、共和党の難民を実験台にした疑惑があるものの、"P"部局との直接的な関係は無くなりました。
財団
最初は互いに認知していませんでしたが、アストゥリアスにある壊れた神の教会の痕跡や、ウンベルト・ブマロの行方等から、財団はスペインに興味を向けました。保安局とフランコ政権は、彼らのイデオロギーに沿わないあらゆる要注意団体の侵入を防ぐために指令を出し、地域を調査したり、聞き込みをする外国人に対し、黙秘するように定めた法律を制定しました。
フランコ政権末期には、保安局の開放派が財団と買収に関する交渉をすることになりました。国家から独立する事で、保安局とその効率性の維持のための費用をスペインが支払う必要を無くすためです。
ペンタグラム
保安局の戦略的な味方でした。当初は、ソ連に対する先遣隊を設置する事と、ペンタグラムの意向に反する動きがないか、フランコ独裁政権を監視する事の2つの任務のために派遣されましたが、パロマレス事件では快く協力しました。その後、保安局の両派は、ペンタグラムは保安局の使命と独立性を損なうものであると考えました。
非営利団体/宗教団体
偉大なる緑の神のカルト/蔓の子供達
バスク地方の森林やナバラの共同体で発生した失踪事件について、このカルトの母系宗派の関与が疑われています。具体的な証拠は得られませんでしたが、財団はその周辺を徹底的に調査しています。
マナによる慈善財団
保安局の味方でした。当初は敵対的な姿勢でしたが、組織拡大が上手く行っていなかった保安局は、アノマリーの不使用と引き換えに、スペイン人職員をこの慈善財団に参加させました。その代わり、慈善財団は保安局にSCP-ES-127の確保を要求しました。1970年代初頭には、フランコ独裁政権による不当な扱いに不満を持った新世代が保安局を脱し、マナによる慈善財団のヨーロッパ本部に参加しました。
壊れた神の教会
一部は保安局の味方でした。ウンベルト・ブマロと彼の最も献身的な信奉者たちが、反乱側を助ける条件としてカトリックを容認していた一方、共和党に所属する歯車仕掛正教会と壊れたる教会のグループはアストゥリアスに定住し、未知の目的のために周囲の鉱山を改造し始めました。
保安局は鉱山に探査隊を派遣しましたが、帰還者はおらず、具体的な証拠は得られていません。財団はこの周辺を徹底的に調査しています。
第二ハイトス教会
独裁政権下ではオルトサン信仰の信奉者は見られませんでしたが、共和国側の最後の砦では、戦争に勝つために必死でヨル・ルーサンのアバターを覚醒させようとしたと考えられています。
その試みは失敗しましたが、アバターは定期的に覚醒し、保安局はその一時的な封じ込めのため、人員の大部分を動員せざるを得ませんでした。
境界線イニシアチブ
将来、境界線イニシアチブとなる各宗派は、"ユダヤ人フリーメーソン"との関係や、モロッコ人の土着信仰を支持していることから、常に保安局の拒絶に苦しんでいましたが、そのほとんどは平和的でした。
境界線イニシアチブの設立時には、保安局の開放派を説得し、キリスト教徒のスペインへの入国を許可させ、SCP-ES-101やその他の宗教的な異常を調査しました。
その他
SAPHIR
1950年代後半から1960年代にかけて、共和国亡命者の過激派数人が、時代に逆行的とみなされたフランコ独裁政権を崩壊させるため、SAPHIRに参加しました。主にRUBIS、時折EMERAUDESへと、スペイン領に潜入したエージェントとして組織され、ビダソア渓谷の密輸ルートに沿って、サイコセラピー効果のある映画のノーカット版を輸入していました。
理由は不明ですが、SAPHIRはスペイン共和国出身者をコミュニティから追放しました。その後、「後進的で迷信的な民族」に属することによる外国人恐怖症や、「ソビエトにおける個人崇拝」戦略との比較等が原因だった可能性があることが判明しています。
ここまでの背景があるので、保安局について書くのは難しいと思われるかもしれません。しかし、以下のガイドラインを頭に入れておけば簡単です。
- 彼らは人間である: オブスクラ軍団による記述や、世界オカルト連合と財団による解釈に反して、保安局は白黒はっきりしたものというよりは、グレーゾーンの中にいます。局の職員はその加虐嗜好のために共和党の囚人を虐待することがあり得ますが、彼は仕事をしていないことを理由に他の職員から叱責されるでしょう。局の職員達は、救えない者を隔離して拷問するよりは、町を異常事態から救い、彼らを治療するか殺害したいと思っています。
- 手段の不足: 彼らの活動の多くは戦後から1950年代にかけて行われたため、目的を達成するために、多くの場合、非異常な手段を使いました。記憶処理の代わりに検閲と弾圧とNO-DOの放送を併用しました。異常な武器を持つ代わりに、保安局はあらゆる手段を使ってアノマリーを疲弊させようとしました。オブスクラ軍団が残した技術のリバースエンジニアリングの進行は遅いものでしたが、保安局は"人を超えた、あるいは神を超えた力"に頼ることに懸念を抱いていました。
- 彼らは戦いの選択を知っている: 彼らの一般に時代遅れの装備にもかかわらず、保安局の初期の職員は、ほとんどが軍出身者であり、戦場での経験を積んでいました。1960年以降、軍部の割合は減少しましたが、常に保安局の重要な立ち位置を占めていました。
- ゼノフォビア(外国人恐怖症)の傾向: スペインが他国の手に落ちるのを防ぐためか、保安局は、財団を含む要注意団体が自国の領土に入ることを嫌っており、他団体との協力にも消極的でした。ただし、資金提供を受け、共産主義を倒すことを条件としたペンタグラムのような例外もあり、要注意団体はすでにスペインに常駐していました。
- 時代による精神性の変化: 前の項目を見てください。当初、彼らは外国人恐怖症でしたが、開放後、大部分の職員は、その役割を継続するために非保守的な立場を採用するようになりました。
- 過去からの反響: 財団に吸収された後、様々な理由で保安局に残されたアノマリーの引き継ぎをしなければなりませんでした。よく見られるテーマは、財団のアーカイブに保安局の文書が含まれていることと、2組織の間の対照です。
- 仲間意識: 独立した組織としても、財団の一部としても、保安局はその職員の間で非常に親密な態度をとります。