潔癖な合理性は人を容易く殺すのだろうか?
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 雨粒は男の頬を何度も転がり落ちた。男はただ黙って俯いていた。冷え切った彼の右手には、そこに眠る女性の写真が握られていた。

 彼は唇を緩やかに上下させた。言い訳と懺悔を織り交ぜ、重苦しそうに。

──俺はただ人間で在り続けたい

 神は無口か、あるいは無関心か。少なくとも降りしきる雨音は彼の懇願を聞き入れないようだった。

 男の名はケニー・ネルソン。今しがたそうしたように、同僚を埋葬するのが彼の仕事のすべてだ。


 薄暗い倉庫の中で、ケニーは苦悩していた。目の前にあるのは乱雑に積まれた納体袋とその中身。それと同じ数だけ厚くなった簿冊を軽く捲り、間延びした溜息を漏らした。

 焼け爛れた女性の遺体。臍から下が食い散らされた男性の遺体。空洞の眼窩で何かを見つめ続ける少年の遺体。甘い香りのするミートボールのような遺体。

 しかし、ケニーが真に苦悩していたのはバラエティに富んだ遺体の数々ではなく、もっと別の原因にあった。彼は簿冊を鞄に押し込み、代わりにタブレット端末を取り出した。物静かな空間に鋭いタップ音が数回鳴り響く。

 チャーリーは欠伸のようなニュアンスで電話口に出た。数週間前から繰り返され、そして今からその回数に1が加えられるのに違いないと予感していたからだ。ケニーは苛立ちを隠しつつ用件を述べた。

「記録用紙に"氏名欄"が設けられてないようだが?」

「当然ですケニー。私は指示を変更していませんので」

 ぶっきらぼうに、そして辟易した様子でチャーリーは答えた。ケニーは拳を強く握り締め、あらゆる罵倒を胸の中に押し留めた。

「チャーリー、お願いだ。"D-74432"も"D-41922"もただのラベルだろう。俺が知りたいのは彼等の本名だ。でなければどうやって天に祈りを捧げればいい?」

「クリスチャンの真似事をするのは止しましょう。貴方が祈ってる相手は誰でしょう? 裾のない聖職者? それとも厚さ40mmの強化ガラスの向こうで能書き垂れる神もどき? 後者なら上層部に貴方の異動を口利きしてあげてもよいですが」

「お前と神の存在証明について議論を交わすつもりはない。俺はただ、あの白紙の墓碑に見下されるのは堪えられないと言っているだけだ」

 チャーリーの軽妙で1セントにも値しないジョークにとうとうケニーは激昂した。チャーリーの執務室の解除パスワードさえ知っていれば、今頃その胸襟を掴みに階段を駆けていただろう。ケニーの憤慨を、チャーリーは呆れたような溜息で容易くかき消した。

「Dクラス職員の名前など上級職員や実験に必要でもない限り知るはずもないですし、その必要もありません。いいですかケニー。彼等の登録分類は"人的資材"、つまり備品なのです。それに彼等の大半は目も背けたくなるような大罪人です。腐敗防止剤付きで埋葬されるだけマシな人生だと思えませんか」

「お前の娘ほどの少女が大罪人? 口元に笑い皺を刻んだ老人も? そうは見えないね」

「これは驚きました! 間抜けなクリスチャンかと思ったらご立派な犯罪アナリストでしたか! 毎晩娘にプリズン・ブレイクを観させる必要はなくなったということでしょうか、先生?」

 ケニーはタブレット端末を床に叩きつけた。沈黙した皮肉屋に唾を吐き捨て、常に胸ポケットに忍ばせている損害報告書に事の顛末を乱暴に書き殴った。

 ケニーは積み上げられた納体袋の山をもう一度見上げ、己の無力さを嘆いた。納体袋は何も語らない。しかし床に転がったボールペンから漏れ出た黒インクは、彼等を代弁しているようだった。


 今日もケニーの元には見知らぬ同僚達が運ばれてくる。コンテナの中身を知れるほどのセキュリティクリアランスを持ち合わせない作業員の青年は、気怠そうに伝票を差し出して収納のサインをケニーに求めた。

 ケニーはいつも通り簿冊と中身の突合を済ませようとしたそのとき、突然ハッとした様子で墓地の図面を取り出して納体袋の山としきりに見比べ始めた。そして不謹慎なパズルゲームに興じたかと思えば、汚らしい言葉を叫んで乱暴に倉庫から出て行った。どうやらピースが余ってしまったようだった。

 ケニーはいくつかの階段とエレベーターを経由してとあるオフィス前に辿り着いた。肩で息をしつつ彼はオフィスの持ち主に入室を求めた。向こう側からの間延びした返事とともに、無機質な電子音がロックの解除を報せた。

「失礼。チャーリー、共同墓地のスペースがとうとう足りなくなった。今日はいつもより数が多くてええと……とにかくすまない」

「Mr.ケニー、どうか深呼吸を。あなたの要望を推理するに、"共同墓地の敷地拡大"といったところでしょうか」

「そのとおりだホームズ。大至急、作業員の招集と遺体を保管できる冷蔵庫を確保してくれないか」

 チャーリーは少しだけ考えた後、何も言わぬままデスクの上に置かれた小綺麗な封筒を指差した。促されるようにケニーは封筒を手に取り、中から一枚の紙を引き抜く。指の腹にやたら馴染む上等な紙質のその文書は次のように題されていた。

本部から通達:
Dクラス職員に係る埋葬マニュアルの大規模更新並びにそれに伴う共同墓地の解体について

「そういうことです。わずか12年間で4.3倍にも拡がった共同墓地、遺体の運搬費用……我々の管理能力、予算には限りがあります。あと数年も続ければ次に埋葬されるのは我々とその家族です」

「ああクソッタレ。"特殊液剤により遺体を完全に溶解、月に一度周辺の河川に排水すること"とも書いてあるな。まるで廃棄物みたいな扱いだ。こんなことが許されると思っているのか?」

「本件に関して、我々倫理委員会は午前中に決議を取りました。結果は全員一致の賛成、つい数分前にO5に向けてその旨のメールを送信したところです」

 ケニーは人の皮を被ったサイボーグの胸襟を掴み、壁際まで追い詰めた。背中に走る鈍痛と目の前の青筋を立てた老人の気迫にチャーリーは一瞬たじろぐも、すぐさま視線を落として乱れたネクタイを正した。彼は足元に落ちた通達文を拾い上げ、ケニーの土埃の足跡を不愉快そうに手で払った。

「収容プロトコルの申請書にサインして、時々手を痛めて、またサインして……今はそれの繰り返しです。あなたが副代表を務めていた頃の倫理委員会は過去の威光、不合理な慣習に踊らされていたに過ぎません」

「なら俺達の倫理は何処にあって何の為に存在する。Dクラス職員を"備品"呼ばわりする前に、自分に血が通っているかその鼓動に伺い立てるべきだな。それに──」

「もう結構です、ケニー。あなたは数年前まで私の上司でしたが、今は状況が違います。室長と再任用された職員、その意味が分かりますね? 先程の暴行はサービスしますので、どうかお引取りを」

 チャーリーの合図で無機質な電子音が鳴る。彼は応対用の椅子に深く腰掛け、ケニーを一瞥すらせず退室を促した。ケニーもそれ以上口を開くことなくドアノブに指をかけた。互いに顔を背けた彼等の間には、実際にはテーブル一脚以上の距離感が生まれているように見えた。


 気づいたときには、ケニーは共同墓地に足を踏み入れていた。物言わぬ死者の代わりに、今旬初めての北風が彼を迎え入れた。

 ケニーはあてもなく共同墓地を歩き回ったかと思えば、ふと糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。往復分の疲労以上に、彼の中で複数の理屈が崩れ落ちたのがそうさせた。

 近くの墓碑に肩を寄せ、ケニーは立ち上がる間を惜しんで項垂れた。彼の瞳には何も映っていない。震える右手はやがてグラスを持つような形を作り、無名の墓碑に人差し指の関節を軽く当てた。そしてまっさらな側面に架空の同僚を思い描き、そいつを相手に語りはじめた。共同墓地の解体のことや元部下の話を。墓碑は頷きもしなかったが、彼の気分を幾らか和らげた。

 辺りがほんの少し暗くなったところで、ケニーはようやく倉庫に放置してしまった納体袋のことを思い出した。彼は最後まで話に付き合ってくれた墓碑の前に立ち、堂々と胸を張ってみせた。そして告げる。

潔癖な合理性よりも──

 彼は緩やかに唇を上下させた。自身の正義に言葉を委ね、どこか晴れやかな表情を浮かべて。

 ケニーは共同墓地を立ち去った。北風に吹かれた雑草の細波は、彼にエールを送っているようにも見えた。

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