選択の先に
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ハーマン・フラーの不気味サーカス。それはどこからともなくネズミの様に現れ、ヴェールを捲った先に広がる世界へと人々を魅了していく神出鬼没のサーカス一座。彼らは多くの不思議な能力を持ったアクターを抱えているが、ここ最近、一座を知る人間の間である噂が流れていた。

ーサーカスにとても美しい歌姫が加わった、と。

今宵行われるショーでも麗しの歌姫を一目見たいと、チケットが完売した後も受付は人で溢れかえっていた。幸いにも団長の粋な計らいにより立ち見ができるようになったため、来場したほぼ全ての客がショーを見ることができるようになった。

どれほど美しい女性なのだろうか

どれだけ素晴らしい声を持っているのだろうか

一体どんな不思議な力が使えるのだろうか



開演前からテント内はその話題で持ちきりとなり、皆歌姫の登場を今か今かと目を輝かせながら待ち望んでいた。



「……ン………ノン……ルノンってば、起きてって!」
「ん…んぅ…?」

元気よく響く声に堪らず目を開けると、そこにはにこやかなイッキィの顔があった。

「おはよ、ルノン」
「イッキィ…もう少し優しく起こしてくれたっていいんじゃないの?」
「嫌よ。このくらい大声出さないと、貴方起きないじゃない」
「それは…そうだけども……」

私は自分で起きるのが苦手なため、いつもこうやってイッキィに起こしに来てもらっている。最初は自分でちゃんと起きろと叱られていたが、今ではこれが日常風景になっている。

「ほらほら、さっさと起きて顔洗ってご飯食べる!3時間後には開演よ!」
「いいじゃないの…どうせ私、今日も最後でしょ?出番までまだ5時間はあるじゃない…」
「だーめーよ。レディなんだから、ちゃんと髪を梳かして、洋服も綺麗にして、歌の練習をしておくべきよ。なんてったって、貴方は歌姫なんだから、失敗するわけにはいかないでしょ?」
「もう…その呼び方やめてって言ってるでしょ?あんまり好きじゃないんだから…」
「わかってるわよ。ちょっと揶揄いたかっただけ」

そう言ってイッキィはチロリと舌を出し私に笑ってみせる。この顔をされてしまうとどうも怒る気になれず、彼女のおでこにデコピンを一発おみまいしてやった。イッキィはふてくされたような顔をしたが、すぐにいつもの人懐っこい笑顔に戻った。

「ねぇねぇ、紅茶淹れてよ紅茶。私この前飲んだやつがもう一度飲みたいわ!あとサンドイッチも!」
「はいはい。全く、それが起きたばかりの人間にするお願い?ほんと厚かましいんだから…」
「だってルノンが淹れるお茶とお茶請け、本当に美味しいんだもの!」
「はいはい、それはどうもありがとうございます。具は適当でいいよね?」

冷蔵庫の扉を開け、使えそうな食材を見繕う。卵にマヨネーズ、ツナ缶にハムとチーズ、それにトマトとレタスを…と野菜を取り出す直前、グローブをつけ忘れていることに気が付いた。ベッドに戻り、枕元に置いてあるグローブを手にはめる。その上から濡れないようにビニール袋を被せ、ようやく野菜が扱えるようになる。以前寝ぼけたまま素手で料理をしようとして野菜を全部だめにして以来、常に気を付けるようにしていた。

「ねーえーまだー?」
「そんなに催促するのなら少しは手伝ってよ。食器を準備したり、パンの耳切ったりさぁ」
「はいはい、しょーがないから手伝ってあげる」
「しょーがないじゃなくて、いつも手伝ってよね。全く…」

そんな風におしゃべりをしながら、私達はお茶会の準備をてきぱきと進めていった。こんな風に彼女と話しながら料理をする時間が、このサーカスでの数少ない楽しみの一つでもあった。

 
 
 



「ふぅ……ご馳走様!やっぱりルノンの作るサンドイッチはおいしいわねー」

お世辞を言うルノンに、デザートとして作っておいたスコーンを用意しながら誰が作っても同じよとそっけなく返事をした。

「結構変わるものよ?この前ローリーがサンドイッチを作ってくれたけど、貴方のとはだいぶ違ったわ。もちろん、あの子が作ったのもとってもおいしかったけど」
「ふーん…。そういえばローリーは?いつもあなたの側にいるのに、今日は見かけないわね」
「えぇ、マニーと一緒にバーゲスの所に行ってるわ。多分、もうすぐ戻ると思う」
「バーゲスって…あぁ、今日はアレの日ね」

その言葉に、イッキィは軽く頷いた。月に一度、マニーはMC&D社の元に出向いて、アクターに向いている商品があるかどうか品定めに行く。私みたいに彼に拾われたり、自分から進んでここに来た変わり者以外は皆、そのようにして彼に買われた人ばかりだ。

「ところで、最近ショーの回数が多いと思わない?マニーは相変わらずだし、おかげでアクターの入れ替わりが激しいし…」
「確かにね…。でもまぁ、最近あまり売れ行きが良くないからね、無理にでも回数を増やしたいって気持ちはわかるわよ」
「でもそのせいでお手入れする時間もあまり取れないのよ?見てこれ、肌もちょっと荒れてきてるのよ。イッキィは?」
「私も少しね。今度二人でフラーに文句言いに行きましょうよ」
「良いわねそれ!サーカスのメインアクター二人が文句言えば、流石のマニーでも少しは考えてくれるわよ!」

そんなことを話しているうちに話題に火がつき、フラーへの愚痴や噂話で盛り上がった。次第に話題は出て行ったアクター達に移り、各々思い出を語り合っていた。

「こうやって振り返ると、皆いい人たちだったなぁ…。愉快で、どこか個性的で」
「そうね…皆それぞれ思いをもってこのサーカスにいたものね」

スコーンを一口食べながら、この間出て行ったジェイクの事を思い出す。彼はこのサーカスでもかなりの古株で、来たばかりでルールがわからず、コミュニケーションもままならなかった私に色々と丁寧に教えてくれた。ショーでの人気も高く、皆に慕われるとてもいい人だった。彼が出ていく前、私に「ルノン、あいつは変わってしまったよ」と言っていた時のあの寂しそうな表情は今でもはっきりと覚えている。

「皆、今どこで何してるんだろうねぇ…」
「どうだろうね。皆何かといい人だからさ、きっと上手くやってるわよ」
「……ねぇ、イッキィ」
「ん?なぁに?」

一瞬口にするか迷ったが、思い切って前から考えていたことを彼女に投げかける。

「あのさ…もし自分が他の所にいたら、って考えたことない?」
「他の所って?」
「うーんと、能力を隠したまま学校に通ったり、ショッピングに行ったり、結婚したり…とか?」
「なるほどねぇ…。私はあまりそういうのは考えたことないかな。そんなこと考えても、今私がここにいることは変わらないわけだし、私はここが好きだからね。なーに?そんなこと言うなんて、ここが嫌になった?」

「そういうわけではないわよ。ここの皆はいい人だし、フラーが私を拾ってくれたことにも感謝してるわ」

口ではそう言いながらも、どうしても考えてしまう。あの日、私がこんな体になってしまった日、他に道があったのではないだろうか。あの時差し出されたフラーの手を取っていなければ、もっと違う自分になれたのではないだろうか、と。スコーンを一口齧る。さっきと変わらず、甘くておいしい。だけれど、さっきより少し味気ない気がした。



「これはこれは、我らが麗しの歌姫様じゃありませんか。練習とは性が出ますなぁ」

本番に向けて軽く練習をしていると、能天気な声が後ろから降ってきた。振り返ると、見上げるほど高い身長、パリッとしたスーツに真っすぐなネクタイ。道化と呼ぶにふさわしいであろう、何を考えているのか全く分からない瞳。そんな男が私に笑顔を向けていた。

「はぁ……。フラー?私その呼ばれ方好きじゃないって前言ったわよね?いい加減1発お見舞いしないとわからないかしら?」
「ははっ、悪かった。そう気を悪くしないでくれよルノン」

苦笑いするフラーを睨みながら、一つ大きなため息をつく。相変わらず、この男と会話するのは苦手だ。

「開演1時間半前とは、随分と遅いお帰りね?お眼鏡に適うものはあったかしら?」
「いや、残念だが今月は空振りだ。相変わらずどれも素晴らしいかったが、イマイチグッとくるものはなかったよ。今日の公演には、ウィルに入ってもらうことにするよ。ところで、今少しいいかね?少し君とおしゃべりしたいと思ってね」
「んーそうねぇ…いいわ、お話しましょ。誘ったからには、ちゃんとした話題があるのよね?」
「勿論だとも。何の考えなしにレディに声をかけるなんて、私はそんなナンパのようなことはしないよ」

そう笑いながらフラーはベンチに向かい、ハンカチで座面をサッと拭いて私に座るよう促した。こういう所だけは本当に紳士だ。

「さて、と。このサーカスにはもう慣れたかい?」
「えぇ、もうすっかり。最初はコミュニケーションもままならなかったけど、お蔭様で今はご覧の通りペラペラよ」
「それは良かった。でももし君が望むなら私は日本語で話すし、君を本名で呼んだって構わないがね」
「良してちょうだい。もうあの頃の私じゃないんだから」
「わかってるわかってる。だからわざわざ、古い言葉で花と氷を意味する言葉を合わせて"ルノン"って名前にしたんだものね」

彼の手を取った時から、私はもう自分の名前は使わないと心に決めていた。それは今まで普通の人として生きてきた「私」の名前。こんな体になって、こんな場所に来た「私」とは別人だ。だから名前を変えたことは、ある種今までとの決別の意味もこめていた。

「もう、あの頃の私には戻れないから……。地元の友達と仲良くカフェでお茶したり、映画を観に行ったり…」
「そうだね…君達には窮屈させてると思っているが、これも君たちの事を思ってなんだ。悪く思わないでおくれ」
「わかってるわよ」

そう、もう私は普通じゃない。もしうっかり街路樹を凍らせでもしたら、それこそ取り返しがつかない。どれもこれも、この体のせい。普通に過ごしている分には不便はないし、綺麗だから私自身気に入っている。でも、普通の女の子らしくできないと考えると、いまの自分が少し嫌になってしまう。

「ところで、まさかそんな事が聞きたくて私を誘ったの?私も安く見られたものね」

暗い考えを吹き飛ばすように、私はややオーバー気味に明るい声でフラーに質問する。

「まさかまさか。実はある情報が耳に入ってね、君は興味はありそうだから教えてあげようと思ったのさ」
「あら、どんな面白い情報が手に入ったのかしら?長年の飲酒が祟って肝臓でも悪くした?」
「はっはっは、残念だがそうじゃないんだよ」
「じゃあ一体なぁに?」
「ジェイクの居場所さ」

予想外の言葉に、思わず息がつまる。

「……それ、本当なの?」
「あぁ。信頼できる筋からの情報さ」
「それを知ってどうするの?まさか、連れ戻しに行くの?」
「うーむ…彼は人気があったし、そうしたいのは山々なんだけどねぇ…。場所が場所だから無理だろうねぇ」
「どういう事?彼はどこにいるの?」
「財団さ」
「……っ」

考えられるだけ最悪の場所と考えるか、一番マシと考えるか。

──財団

人類を守るため、私のような特異な能力を持った物や生き物などを確保、収容する団体。これまでも、ここを抜けたアクターの何人かが財団に収容されている事はイッキィから聞いていた。

「ねぇ、ルノン。君は自分はサーカス以外の場所にいたらって考えたことがあるかい?」

なにげないであろうその質問に、思わず胸がドキリと鳴る。

「……どうしていきなりそんな事聞くの?」
「いや、君は前から何が悩んでいるような顔していたからね。団長として、アクターの悩みを出来るだけ解決したいのは当然じゃないかい?」
「はぁ…私、やっぱり貴方と話すの苦手だわ」
「はは、褒め言葉だと受け取っておくよ」

フラーは私達に怖いくらい優しい。それと同時に、私達の全てを知っている。ほんの小さな悩み事も、バレないような規約違反も、この男は全て把握している。床や壁に、この男の目と耳が生えてるのではと疑うことも少なくない。だから皆、あまり彼と話したがらない。

「……貴方の言うように、ここじゃない別の所に居たらって何度も考えたわ。能力を隠して普通に暮らしたり、財団にいたらなんてことも考えたわ。あそこ、私みたいな能力を持った人間も雇ってるらしいから」
「そうだねぇ。でも今の君じゃ難しいんじゃないかな?」
「そうよねぇー…今からじゃ、あそこは好きになれそうにないわ」

今の私からすれば、あそこは「普通でない」という理由だけで私たちのような人の自由を奪っているだけだ。ここでの生活も幾分不便だが、同じ部屋に死ぬまで閉じ込められ続けるよりは何十倍もマシだ。

「でも、時々考えちゃうのよ。もっと違う自分になれたんじゃないか。もっともっと、他に道があったんじゃないかって」
「なるほどねぇ…確かに、アクター能力はほとんどが生まれながら持っているものだけど、君の場合は事故で手に入れたものだからねぇ。他のアクターよりそう考えるのは仕方がないと思うよ」
「意味がないってのはわかってるの。でも、それでも…」
「そうかい。私に言わせれば、そんな必要は全くないと思うがね」

フラーはそうあっさりと言い捨てた。まるで服についた虫を払うくらい、何でもないことのように。

「どういうこと?そんなことしても無意味だって言いたいわけ?」

言葉が尖る。自分がずっと悩んでいることをあっさりと流され、怒らない人間などいないだろう。

「いやいや、そういう意味じゃない。別に君の悩みを軽んじているわけじゃないさ」
「じゃあ何?どうして必要ないなんて言い切れるの?」
「あくまでこれは私の主観でしかないのだがね?君は多分、君が思っている以上に今の環境を楽しんでいるよ」
「……はぁ?」

楽しんでいる?何を言っているんだろう。確かにイッキィやほかの仲間と過ごしている時間は楽しい。でも、私が思っている以上に?意味がわからない。

「どういうこと?全然ピンと来ないんだけど」
「まぁまぁ、気づいてないんだからわからないのも当然さ」

そう言ってフラーは立ち上がり、ひとつ大きく伸びをした。

「じゃあ、私はそろそろ段取りの最終確認に行くとするよ。今頃受付は、君目当ての客で溢れかえっているだろうしね」
「待ってよ!ちゃんと教えて頂戴!」
「そうカッカするものじゃないよルノン。なに、今日ショーが終わればすぐにわかるさ」

私の返事を待つことなく、フラーは奥に建てられている大テントへと歩いて行った。「私は私が思っている以上に今を楽しんでいる」何度咀嚼しても言葉の意味は理解できず、私はただフラーの後ろ姿を見送ることしかできなかった。





「皆様いかがだったでしょうか!炎に晒された男、アランによるホットなショーは!目標を全て狙い撃ち燃え上がらせる様は、さながらかの魔弾の射手のようではありませんか!皆様、今一度彼に大きな拍手を!」

テントに響き渡るフラーの大声に続いて、大きな拍手がステージ上で燃え盛る男に送られる。男は静かに一礼し、そのままステージ裏へと下がっていった。炎の男のショーが終わり、残すアクターはあと一人となった。観客がその1人に寄せる期待を考えれば、これまでのアクターの演技は全て前座と言っても過言ではないだろう。

「さぁ、いよいよ本日の演目も、あと一人を残すのみとなりました。恐らく、ここにいるほぼすべてのお客様は、彼女を一目見たくてやってきたのではないでしょうか?」

そんな問いに対して、怒号に近い歓声が沸き起こる。常識では考えられないようなアクターがそろっているハーマン・フラーの不気味サーカスの中でも、「異質さ」ではなく「美しさ」でトップに躍り出た前例など存在しない。だがそれは、彼女の実力の高さを証明しているただ一つの事実でもあった。

「さて、焦らすのも野暮というものですし、皆様も待ちくたびれたかと思いますので、登場してもらいましょう!我らが一座の花形!極東の歌姫ルノン!その美しく透き通った歌声を、皆様どうぞ最後までお楽しみください!」

直後、全ての照明が消えBGMが止まり、テント内はしんと静まり返った。だが歌姫を待ち望んでいた観客たちがその静寂を保ち続けられるわけがなく、すぐに会場は歌姫コールで包まれていった。だが30秒、1分と時間が過ぎても、一向に歌姫は現れない。音楽が流れる雰囲気もない。何かのトラブルか?と観客がざわつき始めるが、そんなアナウンスは流れないし、スタッフも対応する様子もない。だがそんな中でも、観客席最上段、入り口にほど近い席にいる客は違和感を感じていた。

「なぁ、なんか寒くないか?」
「そう言われりゃ…確かに。さっきまでなんともなかったのに。空調がイカれちまったのか?」

体感にして2,3度と言ったところだろうか。先ほどのアランのショーと観客の熱気で会場の気温が高まっているのは確かだ。それ故に空調を強め、テント全体の気温が下がるのならば理解できる。だが最上段入口付近、その限定的な場所にいる人だけが、空気が冷たくなったのを感じていた。───ただ一人を除いて。

バシャッという音と共にスポットライトが一斉につき、全てが同じ方向を照らし出す。照らす先は、最上段入口前。そこには透き通るような白いドレスをまとった、一人の小柄な女性が立っていた。その体には所々にガラスのように透明な植物の蔓と思わしきものが巻き付き、蕾や花をつけている。ドレスはその箇所がはっきりと見えるように作られており、ライトの明かりを反射し輝いていた。靴は履いておらず、小さな素足がドレスの下で見え隠れしていた。不思議なことに、女性の右手には場違いとしか言いようがない、一組のスケート靴が握られていた。そんな女性の登場に、観客達は動揺を隠せずにいた。

「え、アレが歌姫?嘘だろ?」
「極東つってたし、日本人か?」
「おいおい、どう見ても子供じゃないか。コリャ期待はずれだったかな」

そんな困惑と失望が入り混じった声がポツポツと聞こえ始める。無理もない。一見すれば子供ではないかと疑ってしまうほど小柄な体躯、華奢な脚に童顔。彼女を外見だけで歌姫だと判断できる人間はいないと言っても過言ではないだろう。歌姫はそんな声を気にする様子はなく、ゆっくりと通路を下り、半円状のステージへと向かっていく。だが向かう先にあるはずのステージはいつの間にか姿を消し、ステージとほぼ同じ大きさのプールが顔をのぞかせていた。深さは30cmといったところだろうか。だが歌姫はそんなことを気にする様子はなく、何の躊躇いもなくプールに足を延ばした。つま先が水面に触れる。あったことと言えば、それだけだった。だが直後、足先が触れた箇所から水は凍り付き、ものの数秒でプールの水全てが氷となった。観客からはおぉっと声が漏れ、テントは再びしんと静まり返る。歌姫は慣れた手つきでスケート靴を履き、用意されていたのであろうマイクを手に取り、凍ったスケートリンクを滑り始めた。刃先が氷を削る軽い音だけが、テントの中に響く。ある程度感触を確認したのか、歌姫はリンク中央で止まり、マイクをゆっくりと口に近づけた。


小さく息を吸い、1フレーズ歌う


彼女が観客を圧倒するには、それだけで十分だった



「When I am down and oh my soul so weary」

世界中で愛される名曲「You Raise Me Up」。その歌い出しを口にした瞬間、その場にいたほぼ全ての人間が息をのんだ。先ほどまで文句や疑問を口にしていた人々は言葉を失い、母親に無理やり連れてこられ退屈そうにしていた子供はゲームをする手を止め、皆零れ落ちるのではないかというほど両の目を見開いて歌姫に釘付けになっていた。それほどまでに彼女の歌声は鈴のように透き通り、ふわりと舞い落ちる雪の結晶のように美しいものだった。

歌姫はステージ上をゆっくりと滑り、時折席に笑顔を向けながら歌声を響かせていた。水を凍らせて以降、不思議な力を使うわけでもなく、ただ音楽に合わせて滑り、歌い続ける。一曲目はそれだけで終わった。だが、それに対し不満を抱いたものは一人もいなかった。観客は音楽が聴こえなくなったことで我に返り、初めて歌が終わっていたことに気付いた。そしてその後、大テントを震わすほどの大歓声と拍手が巻き起こった。歌姫は3方向にわけてお辞儀をし、息着く間もなく次の曲を歌い始めた。

曲は「Scarborough Fair」「Time To Say Goodbye」。過去の恋人への思いと、恋人たちの新たな旅たちを綴った曲。一曲目とは異なり、両曲が歌われている間、様々な演出が行われた。無数の蝶が群れを成してテント内を飛び回り、歌に合わせて美しい模様を作り出した。かと思えばいくつもの花を形どった後、一斉に花びらへと変化し、小さな花火となってはじけて消えた。3曲目では一人の男性アクターが登場し、アイスダンスさながらの滑りを二人で披露した。歌姫が登場した時には半信半疑だった観客たちはすっかり歌姫の虜になり、挙動一つ一つで歓声が巻き起こっていた。哀愁と希望、相反する感情が込められた2曲を、歌姫は完璧に歌い上げていく。だが歌っている最中、登場人物ではないかと思うほどの迫力を持った歌姫の表情には、歌姫自身が何かを諦めているかのような感情が見え隠れしていた。 

3曲目が終わり、テントは再び大歓声に包まれる。男性アクターは舞台袖に消え、再びリンクは歌姫だけになった。歌姫は唇に手を当て、観客に静かにするよう促す。テント内が静まり返ったのを確認すると、誰に向けるでもなく二回手を叩いた。すると大きな機械音と共に、リンク下の地面が持ちあがり始めた。十数秒ほどで上昇は止まり、氷の部分を除けば、歌姫が登場する直前の状態に戻っていた。歌姫はスケート靴を脱ぎ、舞台袖へと放り投げた。その後揃えたかかとを少し上げ、トンッと軽く氷を叩いた。

母親が子供の頭に手を置くように

眠っている恋人の髪をなでるように

優しく、静かに

歌姫は氷を叩いた

瞬間、リンクの氷は全て砕け散り、雪の結晶のようにテント内に降り注いだ。歌姫はペタリとステージに着地し、舞台袖に向かって小さくジャンプしながら手招きをした。その先から現れたのは、摩訶不思議なアクター達を束ねるサーカスの頭目、ハーマン・フラーその人だった。観客は彼を拍手と歓声で出迎え、これから何が起こるのかと期待のまなざしを向けていた。フラーは歌姫に深くお辞儀をし、右手に持っていた白いハットを手渡した。彼女が笑顔でそれを受け取り、頭にかぶった瞬間、全ての照明が落とされた。歌姫が登場した時とは違い、10秒程が経過したところで、最後の曲が流れ始めた。アンサンブルの声、一定の間隔で鳴る手拍子と足音。観客の大半はすぐに曲名に気づき、共に声を上げ、足を踏み鳴らし、手を叩いた。

「Ladies and gents, this is the moment you've waited for」

暗闇の中、ハットのつばに手を添え、ポーズをとったフラーだけが照らされる。彼が口にしたのは、昨年末に公開されたばかりの映画「Greatest Showman」の主題歌「The Greatest Show」の冒頭。『最初にして最高のショー』を謳うこのサーカスのフィナーレにふさわしい曲だろう。

「Been searching in the dark, your sweat soaking through the floor」

一度アンサンブルを挟み、今度は新たに真っ白の靴を履き、フラーとは反対向きで同じポーズをとるルノンだけが照らされる。白ハットをかぶっただけにも関わらず、先程までの静かで美しい雰囲気から一転、フラーのような形容し難い威厳と陽気な雰囲気を兼ね備えた明るい女性へと様変わりしていた。

「And buried in your bones there's an ache that you can't ignore」

再びアンサンブルを挟み、今度は2人同時に照らし出される。その後2人はゆっくりとステージ上を歩き、フラーの低音と歌姫の高音が重なり、見事なハーモニーを奏で始めた。始め「え?あんたも歌うの?」と困惑していた観客達も、すぐに美しいデュエットの虜となっていた。

サビに入ると同時に、テント内の照明が一斉に灯る。ステージ上にはいつの間にスタンバイしていたのか、大勢のアクターが2人と共に声を張り上げ歌い始めた。観客の熱気は最高潮に達し、歓声、地響き共にテントの外まで駄々洩れになっていた。サビが終わり、2番の歌詞に入ると同時に、アクター達はテントのいたるところに移動し、自由に各々の個性を生かしたパフォーマンスを行い始めた。中にはステージを飛び出し通路まで行き、観客の目と鼻の先でパフォーマンスするアクターもいた。

あるアクターは口から色とりどりの蝶を吐き出し

あるアクターは自分の頭を花火のように爆発させ

あるアクターは巨大なドラゴンを形どった巨大な折り紙を操り、自在に宙を舞わせていた

音楽に合わせるわけでもなく、アクター達はただただ自由にパフォーマンスを行う。だが誰一人として他のアクターの邪魔をすることはなく、むしろパフォーマンス同士が合わさり、ある種芸術と言っても過言ではない美しさを生み出していた。ステージを飛び出し、タネも仕掛けもわからない摩訶不思議なパフォーマンスが行われるテント内。ある種混沌としたその様子は、まるでテーマパークかおとぎの国に迷い込んだかのようだったが、同時に普通に生活している限り絶対に触れることのできない、隠された世界の神秘を覗き込んでいるかのようでもあった。曲が終わる最後までこのお祭り状態は続き、無数の花火、大量の金紙が舞う中、ショー終わりを迎えた。アクター達はルノンとフラーを中心にステージ際に並び、満面の笑みで深々と頭を下げた。観客は一人残らずスタンディングオベーションをし、何分経っても拍手が途切れることはなかった。こうして、今宵の摩訶不思議なショーもまた、大成功の裡に幕を閉じたのであった。



今回もどうにか無事に終えることができたと、息を切りながら心の中でほっとひと息つく。いくら練習しても、何度本番を終えても、この緊張だけはどうにも取れない。だがこの緊張のおかげで、毎回良い演技ができている気がするのも事実だ。……ところで、ショーが終わっても、フラーが言っていたことの意味が一向にわからない。何がショーの後にわかるさ、だ。適当言ってはぐらかされただけだったのだろう。まぁそういう男だし、元から期待などしていなかったらあまり気にはしていない。少しでも期待した私がばかだったと思うことにしよう。

「ルノンルノン、ルノンってば」

そんな考えを読み取ったかのようなタイミングで、フラーが小声で話しかけてきた。

「なに?まだお客さんの前よ?また冷やかすつもりなら後にして頂戴」

フラーは何も言わず一回ウインクをした後、下に目線を落とし、再び私を見やる。下を見ろと言っているのはすぐに伝わった。疑いながらも視線を落とすと、フラーの靴がキラリと光った。いや、正確には靴ではない。靴に仕込んであった小さな鏡が、光を反射していたのだ。なぜあんなところに鏡を?そう疑問に思い、お辞儀をしたタイミングでのぞき込んでみる。…特段何かが起きるわけでもない。いたって普通の鏡だ。どれだけのぞき込んでも、私の顔しか……。

「あっ」

ハッと気づく。鏡の中の私の顔は、これ以上ないほど嬉しそうに笑っていた。自分では全く意識していない、無垢な笑顔。この笑顔はまるで、友達と遊んでいる時のように、家族と笑いあっていた頃のように…迷いも後悔も一切ないただ今を楽しみ、喜びを噛みしめている…。そんな顔だった。

顔をあげ、観客席を見わたす。皆立ち上がり、笑顔で拍手をしている。私が出てきた時不満を口にしていた人でさえ、今はそんなこと忘れて私に拍手と称賛の言葉を送っている。

あぁ、そっか

私、楽しんでたんだ

嬉しかったんだ

普通の人としてではなく、見世物という形であっても

私という異質な存在を認めてもらえていることが

肯定してもらえることが嬉しかったんだ

だから、こんなに楽しんでショーができてるんだ


フラーに目をやる。彼は私の視線に気が付くと「ね?言ったとおりだっただろ?」と言わんばかりにウインクをしてみせた。少しだけイラっとしたが、今回は完全に私の負けだ。つくづく、この男は底が知れないと感心させられる。ため息が漏れる。ずっと悩んでいたものの答えがこうも近くにあったのだから、ため息の一つや二つ当然漏れる。だが反対に、心はとても晴れ晴れとしていた。答えは得た。もう悩むことはない。いつまでも輝かしい過去、ありえた可能性にすがるのはやめよう。今日でもう、神恵 凪雪とはお別れ。私はルノン。美しい氷の歌姫。今はそれでいいじゃないか。納得する答えを得たんだ。だったら今は、飽きるまで自分を楽しんでやろう。いつか自分に飽きる時が来たら、その後の事はその時考えればいい。

「ねぇフラー?」
「なんだいルノン?まだお客様の前だよ?」

私がさっき言ったことをいやらしい笑顔で返してくる。だがそんなことは気にせず、私は言葉を続ける。

「私決めたわ」
「何をだい?」

一呼吸置き、フラーに満面の笑みを向けた。冷たい氷ではなく、暖かい春の日差しのように明るく、子供のように無邪気な笑顔を。

「まだしばらくの間、貴方の口車に乗っといてあげる」

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