「ほら、しっかり食べないと」
皿によそわれた自分の脳入りスープをスプーンで掬い、彼女の口へと運んだ。彼女はそれをぼうっと見つめた後に口に含み、咀嚼し、嚥下した。こうして自分の身体を捧げるようになってから、数ヶ月が経ったように思う。
大学生の頃、彼女と出会った。なんてことのない平凡な出会いだったと思う。それから数ヶ月の交際を挟み、俺と彼女は同棲した。日常の全てが「楽しい」と「幸せ」でコーティングされていた。トラブルが起きたり、対立することもあったけれど、それでも彼女のことを愛していた。本気で彼女のためになりたいと思っていた。彼女が隣にいるだけで俺は嬉しかった。
それと同時に、彼女に隠していることもあった。自分は異常なまでの再生力を持っている。傷の治りが早いとかいう次元の話ではない。四肢をもがれようが、頭が吹き飛ぼうが、時間が経てば全て元通りになるのだ。過去、交通事故に遭った際にはこの異常性に助けられた。自分一人だけが助かった。でも、これは人の世で生きるにあたっては不要なものだ。戦場ならともかく、日常において四肢が消えることも、頭がなくなることもない。
だから、彼女には黙っていた。言ったところで信じてくれないのは間違いないし、だからといって実演することも違う。彼女とのコミュニケーション、生活、関係性。そういったものにおいてこの再生力は障害でしかなかった。邪魔の一言に尽きる。
特に何事もなく大学を卒業した俺達は仕事に就いた。俺が肉体労働系の仕事で、彼女が事務系の仕事だ。二人で生きていくには金がいっぱい必要になる。生活費を賄うためにも互いに働く必要があった。彼女は、そこで無理をしてしまったのだ。典型的なうつ病だった。
自室でずっと被害妄想を垂れ流し、自傷行為に耽る彼女を何とかしたいと思った。このままでは取り返しのつかないことになるのではと考えると不安だった。でも、俺には何も出来なかった。彼女の傍にいてやることも、話を聞いてやることも。俺にできるのは働いて金を稼ぎ、彼女の分の生活費を補ってやることくらいだった。
彼女は今も精神を病み続けている。部屋から聞こえてくるすすり泣く声が、頻繁に部屋から消えるガーゼとカッターが、彼女の痩せこけてしまった顔がそれを予感させる。俺はどうすればいい。どうすれば彼女を救える?
俺にはわからなかった。わからなかったから、ずっと悩んでいた。
仕事が長引いて帰りが遅れた日があった。彼女はもう寝ているだろうか、悪夢にうなされていないだろうかと心配しながら家のドアを開けた。明かりはまだついている。彼女はまだ起きているようだ。やはり眠れないのだろう。そう思いながらリビングに向かうと、彼女は寝起きさながらのボサボサの髪のままでテレビを見ていた。
「まだ起きてたんだ」
「うん……寝れなくて……」
「薬は飲んだ?」
彼女が首を横に振る。「ちゃんと飲まなきゃだめだよ」といってキッチンへ向かい、コップに水を汲み、薬の入ったケースと一緒に彼女へと持っていった。でも彼女は「やだ」というばかりで薬を飲もうとしなかった。何か事情があるのだろうか。
「なんで飲みたくないの?」
「だって……飲んでも何も解決しないんだもん……」
「……そっか。楽になったりもしないの?」
彼女は「しない」と言ってテレビの方を向き直した。俺もそれに釣られて視線を移動させる。テレビでは認知症患者に密着したドキュメンタリーが放送されていた。左上に表示されている時間と現在時刻が異なっていることから、恐らくこれは録画だろう。彼女にドキュメンタリーを見る趣味があるとは知らなかった。何かこの気付きから話を繋げないと──
「わたしね、認知症になりたいって思うの」
「……どうして? なんでそんなこと──」
「だって、認知症になれば辛いこと考えなくて済むもん」
でも、あなたのことも忘れちゃうね。彼女は微笑みながらそう言った。ここで確信した。彼女はもうとっくに限界を超えていたのだ。同居人、それも自分の愛する人の変化にすら気付けないなんて。
「わたし、死んだ方がいいのかな」
「……え?」
「辛いだけの人生なんて嫌だもん。ずっとそうなるくらいなら死んだ方がマシかな、って」
思わず絶句した。自分のことが嫌になった。「愛してる」んじゃなかったのか。彼女のために何かできることはないのか。あの時、あの瞬間、仕事を休んででも彼女に寄り添っていれば。後悔が押し寄せてくる。どうしよう。俺も、俺も何かしないと。
「みっくん?」
彼女が俺の名前を呼んだ。俺はただ一言、「大丈夫だからね」とだけ返した。
あれから数日間、俺は仕事の合間を縫って認知症を引き起こす方法について調べていた。これしか彼女を救う方法がないなら、それでもかまわない。俺は彼女のためならなんだってするつもりでいる。法に触れようが、非難されようが、彼女に嫌われようが。彼女のためならこの身体を捧げることだって厭わないくらいに、俺は彼女を愛している。
認知症になることが正しいのか、俺には分からなかった。一度なってしまったら二度と治らないのだから、本来であればもっと慎重になるべきだろう。でも今は時間がない。このままだと彼女は近いうちに自殺してしまうだろう。この前見せた希死念慮の片鱗が、あの時の彼女の無気力そうな顔が、感情が今ひとつ篭っていなかった声音がそう思わせる。
彼女に死なれるくらいなら、認知症になってでも生きてもらった方がマシだ。俺は働けるし、彼女の世話をすることだってできる。俺一人が我慢すればいいんだ。彼女を、大切な人を失いたくなかった。
そうして調べていくうちに脳機能の低下を引き起こすとされる疾患を見つけた。それは「クールー病」の名前で呼ばれていて、人の脳を喰らうことで発症する病のようだった。そして発症したが最後、徐々に脳に異変が発生し、最終的には認知症に陥るというのだ。
これしかない。俺はそう思いながら、ある一つの考えを浮かべていた。これなら彼女を救える。
ブルーシートに覆われた部屋で、のこぎりを手に持つ。緊張と興奮で体温の上がっている自分とは対照的に、のこぎりの持ち手は冷たいままだった。刃を首筋に当てる。それも持ち手同様に冷たくて、そこから体温が抜け出ていくようだった。息を吐いて、吸って、呼吸を調える。それに伴って手の震えも落ち着いた。自分で自分の首を切り落とすのはこれがはじめてだ。どれくらい痛いのだろう。自傷に対する痛みの面を心配していた。
意を決して、のこぎりを動かす。刃が動き、肉に食い込む。動かす度に深く深く抉っていく。痛い。痛いけど、予想よりずっとマシだ。これなら耐えることができる。交通事故に遭って全身がぐちゃぐちゃになった時と比べればなんてことない痛みだ。何度も何度ものこぎりを前後に動かした。頸動脈が切れて、血が大量に噴出する。部屋の壁に、床に、着ている服に血が付着する。それは生暖かくて、高揚している自分の内面を映しているようだった。
骨を断つのが一番大変だった。硬くて切れないという訳ではない。刃を動かす度、その衝撃が振動となって骨伝いに全身を駆け抜ける。それがどうしようもなく気持ち悪かった。内側が揺れている。ガリガリという骨を削る音が身体の内側から響いている。骨越しに音を感じている。未体験の感覚で気持ち悪くて、何回か吐いてしまった。首の切り口から溢れるように吐瀉物が排出される。口の中は鉄錆の味がして、嗅覚は嘔吐物による酸い匂いに占領される。耳の奥で鳴っている音に悩まされ、ぼやけた視界で首を切っている。
ごとり。
頭のなくなった俺を下から見つめる。しばらくして、頭部が再形成された。傷一つない俺の顔を見ながら、この後に起こることを確信した。覚悟はできている。彼女に身を捧げる覚悟はできているのだと言い聞かせながら、その時を待つ。
床に落ちた頭を拾いあげて、ブルーシートの敷かれたテーブルの上に置いた。もうこれは死んでいるから、どう弄ったって構わないだろう。テーブルの上に置かれていた包丁とハンマーを取り、後頭部にあてがう。包丁を動かして皮と肉を剥ぐ。柔らかな感触が手に伝う。切り口は最初こそ鮮やかであるものの、時間が経つ事に色を変えていった。血液が空気に触れて酸化したのだ。それを見た俺は「腐り切る前にやらなきゃ」という意思に襲われ、より素早く皮膚を切り取るようになった。
剥き出しになった頭蓋骨をハンマーで叩いた。ゴツという鈍い音が鳴る。骨には傷一つ付いていない。軽く叩いただけでは意味がないようだ。当然と言えば当然だろう。頭蓋骨は人体で最も重要な部位を守る鎧だ。それがこんな簡単に砕かれてしまうわけがないのだ。だからこそ、力を込めなければならない。ハンマーを手に持ち、思いきり振り上げ、力いっぱい叩きつける。ヒビが入った。同じ場所を何度も何度も叩いていくと、その場所には穴が空き、そこから脳をみることができるようになった。
スプーンを差し込み、脳を掬う。ぷるりとしたピンク色の物体を瓶に移し替えて保存した。彼女に料理を振る舞うタイミングで、これを彼女の料理だけに忍び込ませるのだ。
数日後、彼女の代わりに料理を作った。今だと思った俺は瓶を取り出し、ひとさじ分だけ掬い取ってスープの中に入れた。掻き混ぜて溶かせば、もう見分けがつかなくなった。これなら大丈夫だろうと思う反面、「もし彼女に拒絶されたら」と思うと怖くなった。全てが彼女にバレていて、スープを飲むことを拒否されたら。俺の行いは全部無駄になってしまう。それだけは嫌だった。
彼女がスープをスプーンで掬う。俺の中に緊張が走った。飲め、飲んでくれ。固唾を飲みながら彼女を見る。一口、スープを口に含んだ。彼女はそれを嚥下して、「美味しい」と言った。目に見えた効果のようなものはなかったが、嬉しさはあった。彼女は俺を拒絶しなかった。俺の行いは無駄にならなかったのだ。
これで確信した。この行為を続けていれば意味はある。だから、続けることにした。何回も脳入りのスープを振る舞ったし、何回も自分の頭を切り落とした。苦しみはなかった。あるのはただひとつ、彼女への愛情だけ。それに突き動かされて、俺は生きている。
「最近、頭がぼんやりして重いの。なんだかまるでモヤがかかったみたいで──」
最近、彼女はこの発言を繰り返している。恐らく、脳機能が低下しているのだろう。俺はそういった専門知識を有していない。だが、きっとこれは脳機能低下によるものだ。間違いない、自分の行いには意味があった。そう考えると、なんだか嬉しさが湧いてきた。思わず口角が上がってしまいそうだ。でもなるべく平静を装って、彼女にばれないようにする必要がある。
気付かれたら、彼女に拒絶されてしまうかもしれない。そうなってしまえば自分の行動の意味がなくなるし、彼女は一生を苦しんで過ごすことになってしまう。それだけは避けたい。彼女には苦しんでほしくない。だからこそ、俺は本当のことを言わない。全てをひた隠しにして振る舞うのだ。
「ねえ、聞いてる?」
「うん、聞いてるよ。大丈夫だからね、すぐに治るから」
「本当? でもここ最近ずっとこうだし……」
彼女に対して「大丈夫だから」と声をかけた。彼女は不安なのだろう。急に身体に不調が現れて、それがずっと続いているとなれば不安を感じるものだ。同じ状況なら俺も不安になるだろう。でも、これでいいんだ。こうすることで彼女は苦しみから解放される。被害妄想に襲われることも、自傷行為に走ることもなくなる。
これで解決するんだ、自分の行いは間違っていないのだと自分に言い聞かせる。これは彼女が望んだことで、俺にしかできないことなんだ。他の誰でもない俺が実行するべきことなんだ。
「このまま治らなかったらどうしよう……」
「俺がついてるから。安心して」
「でも……」
根拠のない、安心させるだけの言葉を投げかける。今は辛いだろうが、耐えてもらうしかない。ここを乗り越えれば彼女は楽になる。嫌なこと全てから解放されるのだと信じて、俺は寄り添い続ける。
これこそが正しい行いなのだ。俺は間違っていない。
結論から言うと、彼女の自傷行為は止まらなかった。どんどん悲観的な思考をするようになっていって、しまいには感情を制御できなくなってしまった。後になって知ったことだが、どうやら認知症になったところで鬱病は治らないようだった。つまるところ、俺は彼女に苦しい思いをさせていただけだった。彼女を楽にしたい一心で行っていた行為は全て彼女を苦しめるためのもので、結局のところ自己満足にしか過ぎなかった。
俺はどんどん精神的に壊れていく彼女を見ているだけだった。彼女には異常な再生力も、苦痛に対する抵抗力もない。このままでは彼女は衰弱していく。早死にするだけだ。自分はどこで選択を間違えた? 彼女を救うことはできないのか? 自責的な思考が押し寄せてきて──
「ねえ、みっくん。わたしのこと、愛してくれる?」
彼女はそんなことも知らずに、俺に向かって笑いかけた。無理をさせていることは分かっている。それでも、ここで止まるわけにはいかなかった。
彼女は真相を知らない。自室に隠された血のついた道具たちと、何度も使っていくうちによれてきたブルーシートと、張本人である俺だけが知っている。
──なんてことをしてしまったんだろう。
押し寄せてくる後悔に流されそうになる。彼女の問いかけに対して何も言えないまま、数分が経とうとしていた。



