われ思う ゆえに彼あり
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 まぶたに大きな火花が散る。
 次に目を開くと、視界は白い天井だけになっていた。コルセットをつけられたと理解するまでには、数秒を要している。
「………………」
 長い眠りは確実に脳髄の働きを弱体化させ、特殊部隊員として培われていたはずの状況把握能力は、彼に何も伝えようとはしてくれなかった。けれど、彼は自分が何者であるかについて確かな感触を持っていた。今まさに醜態を晒している泥云暁──本人──は、まだ目を覚ましてはおらず、相変わらず識閾の水底で滞留し続けている。
 そうした思考を薄く引き伸ばされた意識で続けていると、不意に部屋のドアが開く音がした。
「泥云暁さん」
 パステルカラーの服に身を包んだ中年の女性──師長だろう──は、何度か泥云の名を呼び続けた。
「──聞こえているなら、何か合図をしてください」
 返事をするべく気道に酸素を取り込むと、徐々に周囲の状況が知覚されてくるようになる。周期的なモニターの音。消毒用アルコールの匂い。やわらかな蛍光灯の光の下で、赤色に塗装された腫れぼったい唇がまだ何か続けている。頭にある圧迫感の正体は、きっと幾重かに巻かれた包帯がそれだろう。
 ベテランらしい師長は彼が返事をしようとしていることを察知すると、すぐに黙って待つことを選んだ。頬に力を込めて、舌筋を複雑に動作させようとする。
「つき……ぐに」
 やっと絞り出された彼の言葉によって、師長の顔面は困惑と疑念に塗り替えられる。月国龍斗がその人格を外界へ表出させたのは、これが初めてのことだった。

 
 

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「おはようございます。……今はどちらですか」
 心療内科/精神科医である諸知博士の対応は、慣れたもので淡々としている。月国だと答える彼は、露骨な反発心を持って医師に対峙していた。目の前の医者の書くカルテ次第で処遇が決定される"彼ら"の置かれている状況は、お世辞にも良いものとは言い難い。
 が、だからといってその相手に媚を売るような真似が、月国龍斗には出来なかった。何よりも、あの流し目がいけ好かないのだ。こちらを少しも余さず把握しているとでも言いたげな目が、眼鏡の奥で常に光り続けている。
「月国です。今日もお綺麗で」
「ご冗談を。眠る暇もありませんよ」
 そう言いつつ、化粧っ気が絶望的にない諸知博士の瞳には、一つの隈も見当たらない。謎めいた女医の態度は、軽薄と言う以上に希薄であった。掴みどころがなく、その上あとに残らない。
「昨日、泥云さんの方には管理隊本部から調査が来るという話をしたのですが、ご存知ですか」
「ああ、知ってるよ。あいつの記憶はおれも持ってる」
 それなら話は早い、と諸知博士は近侍の研修医に素早く耳打ちをした。緊張に強張った表情の研修医は、うやうやしくドアを開いた。
 その場の視線はその巨大な人影に注がれる。ドアの外には、180センチメートルはあろうかという偉丈夫が待ち構えていた。窮屈なスーツに身を包んではいたが、よく見るとそれは文民の出で立ちではない。胸に輝くバッヂは明らかに、機動部隊管理隊所属を表す赤と青のロゴマークをかたどっていた。「失礼します」
 肩幅に比して小さな白い頭には、頭髪の類が一切合切存在せず、黒いスーツと対照を成している。ただがそれ以上に注目を誘うのは、この大男が異様に大きな目と鼻と口を持っていることだった。狭い顔いっぱいに広がる各パーツは、人面と言うにはアンバランスな主張を繰り返している。
「こちらは、戸玉 運用評価調査官です」
 諸知による紹介は必要最低限、おざなりそのものといった風情だった。そのような口振りを全く気にする様子もなく、戸玉は律儀にもう一度月国へ頭を下げる。まさかこの男と一対一にさせられるのか──と月国が警戒したのもつかの間、「わたしは立会人です」と諸知が宣言する。読心術でも使ったのではあるまいかというタイミングに、病人の顔はいつものごとく曇った。
「わたくしは機動部隊管理隊本部 運用部運用評価課より派遣されました、運用評価調査官の戸玉と申します」
 改めて懇切丁寧な自己紹介をした戸玉の階級章は、よくよく見れば尉官のものだった。月国は慌てて敬礼を作ろうとしたが、張り巡らされた点滴と電極によって試みは阻止された。
「結構です。楽にしてください」
 機動部隊幹部らしい合理性を見せた戸玉は、懐から茶封筒を取り出した。太い指で器用に紙を展開し、すでに文面は暗記したとばかりに、表を彼に向けたまま内容を読み上げる。
「機動部隊隊規第13章██条の█に基づく運用評価調査です。ご協力願います」
 月国の表情は目に見えて、怪訝と納得のないまぜになったものへと変わっていた。戸玉はおよそ情緒に欠けた発音で、回収された記録装置から作成された戦闘詳報について基本事項を読み上げる。
「██月██日実行のSCP-███回収作戦において、貴官はツキシマ分遣隊隊員として機動部隊も-9("都の狩人")の麾下に参加しましたね」
「はい」
「よろしい」と言うやいなや、戸玉は胸ポケットからICレコーダーを取り出してスイッチを入れた。「以降の発言は運用評価調査目的で記録されます。また、運用評価調査官はRAISAより一時的に権限を委託され、作戦に関する機密指定が一部解除となります」
 頭部への受傷と長期間に及ぶ昏睡を経て、月国の思考スピードは極端に低下していた。どうにか運用評価調査官の長広舌についていく彼にとって、自ら時系列を整理して証言しろというのは酷なことであった。
「──まず一点、お聞きしてもよろしいですか」
 発言を咀嚼すべく中空の一点を見つめていた月国は、不意に投げかけられた質問によって意識を引き戻された。眼前の圧迫感ある顔面は、それでも多少は和らげようと微笑みを形作っている。
「泥云暁、いえ月国龍斗さん、貴官は自分自身についてどのように説明されるのでしょうか」
「……え?」
 難しい質問ではありません、と慌てて戸玉は表現を変える。
「つまり、あなたと泥云暁上等兵の関係について聞きたいのです」
 なるほど、と一旦納得してみせた月国は、それでもまだ疑念が頭から取り払われていない様子でいた。機動部隊管理隊による運用評価調査と、月国自身のプロフィールについて有意な関連が認められるのか、一見してもわからない。
「わたしは泥云暁から分裂した別の自己です。解離性同一性障害と、諸知博士がおっしゃっていました」
「なるほど。その原因についても、あなたは証言していますね?」
 どうやら戸玉はすでにカルテを読み終えているらしく、この尋問は答え合わせに過ぎないようだった。月国は無意味な形式主義に対する怒りを隠しながら、諸知にしたものと全く同じ説明を試みる。
「わたしの人格は泥云暁が分隊を失い、解離性同一性障害を発症した後にできたものです。ですが、わたしの記憶は彼がまともだった時からあります。彼は弱い。戦闘に対する恐怖感は分隊の仲間によって支えられていた所があったんだと思います。だから、仲間を失った時に耐えられなくなったのでしょう」
 戸玉は手に持っていた書類を一顧だにすることなく、なるほどね、とつぶやいた。背後の壁で待っている諸知は、戸玉から視線をもらうとうなずいた。非言語のコミュニケーションは、明らかに月国に対する隠蔽が目的のそれだった。
「……あくまでも、わたしの主観に基づくものですが」
 不意に芽生えた危機感によって、月国は弁解じみた言葉を付け加えた。戸玉はその言葉を聞いているのか怪しげに返事をし、「それでは」と二の句を継いだ。
「一時調査を中断とします。諸知博士、ご同行願えますか」
 白衣が背を浮かし、大男に連れられて部屋から出ていく。取り残された研修医は、月国の質問に晒された。
「どうなってるんだ、今日はまだやるのか?」
「ぼくも知りません。とにかく待っててください」
 カルテを更新して去っていく背中は、強烈な緊張を示す汗でぐっしょりと濡れていた。研修医という立場からしても、おそらく彼は本当にこの中断の意味するところを知らないと見える。だが、これがあまり良い意味を持ってはいなさそうなことは、なんとなく察しがつくというものだった。
「……どうなってんだよ」
 月国は急に訪れた疲労感によって、上体をベッドへあずけた。目覚めた日から変わらない、白い天井は、ただただ日光に灼かれながら月国を見下ろしていた。
 
 
 
 
 
 

「諸知博士、先日お送りした文書には目を通されましたか」
「ええ一応。前のわたしがバックアップ領域に残していたものを読みました」
 差し出してきたコーヒーを手で制した戸玉は、諸知が残念そうに自分の分まで飲み干すのを待った。調子はひどく呑気だったが、二人とも笑顔には程遠い。
「では視聴をお願いします」
 机の上へ置かれたメモリーカードには、小さく[部外秘]の文字が刻印されている。そういった代物に慣れきった様子の諸知は、戸玉が持参した専用プレーヤーへ差し込んだ。その先につながるヘッドマウントディスプレーには、[倫理委員会]の備品たる証が刻まれている。
「これでいいですか?」
「はい。では、行きます」
 暗い視界に、いくつかのテストパターンが映る。輝点がぱっと展開したかと思うと、シマウマの毛並みのような模様が、虹を伴ってフェードインする。
「こちらで編集した映像です。約1時間を数分の一に圧縮しています……」
 イヤフォンを装着した諸知は、その言葉をかすかに聞き──そして、泥云の記憶の中へと降りていった。

 
 
 
 
 

作戦名称: 機動部隊管理隊████████号 "████████作戦"
発令者: 機動部隊管理隊本部 運用部長 ████ ████ 機動部隊中将
実施日: 西暦████年█月██日
場所: 神奈川県████市████ ████ █-██ YB倉庫
参加部隊: 東亜地域サブコマンド(サイト-8181広域司令部駐留)機動部隊も-9 ("都の狩人")第3中隊 第1小隊 "ツキシマ分隊"
所属人員: 月島 曹長("キャップ" 死亡)、国広 軍曹("オーク" 戦死)、龍田 兵長("ワイルドボア" 戦死)、泥云 上等兵("ドラゴン" 生存)
作戦目標: SCP-███の奪還
作戦概要: "ツキシマ分隊"隊員4名による潜入および破壊工作。
付記: 泥云暁 機動部隊上等兵は本作戦に同部隊隊員として従事。

 

[再生開始]
[00:16:91]


 
 港湾都市の煌々とした灯りを対岸に据え、物流倉庫は月光の寒々しい帳の中にたたずんでいる。中小企業の倉庫として表向きの看板を掲げていたそこは、カオス・インサージェンシーの持つ中継基地として機能するセーフハウスの一つだった。
 かのゲリラの分派組織を叩くにしても、これを殲滅することは初めから予定されていない。深夜に作戦を実施するとはいえ、ヴェール・プロトコルへの懸念は払拭できなかった"都の狩人"本部は、最小限の人員による小規模な作戦を立案していた。
 実働4名、バックアップが同数。
 作戦開始から約15分。泥云がボディーアーマーの内側にSCP-███を収めるまでは、作戦は完全にうまくいっていた。
「国広先輩……」
 無数の鉄球が、先輩隊員の頭部を粉々にするまでは。
 トラップの発動と同時にEVE放射が観測され、外部との通信が遮断される。泥云たちは暗視スコープ越しに視線を交わし、自分たちがキル・ゾーンへ誘われたことを知った。

 
 

[00:18:56]


 
 

「総員、"キャップ"。"オーク"のことは残念だが忘れろ。状況把握に努めるように」
「"ドラゴン"了解」
「"ワイルドボア"了解」
 泥云は読唇デバイスで無線通信を続けつつ、視界右下の分隊戦術戦闘環境Squad Tactics-Combat Environmentに注目する。"オーク"──国広副分隊長を表す輝点が、まだ2つ隣の区画に取り残されている。ステータスはすでに死亡となり、緑色の三角は血の赤に変わってしまった。
 トリガーに指が触れるたびに、指を何度も折られたあの頃のことがフラッシュバックする。彼とは一度、大喧嘩をしたことがあった。訓練での失態かなにか──ともかく些末であったことは間違いない──が原因で、揉めに揉めた末に両者は殴り合いで決着を付けることを決めた。結果は言うまでもない。両名とも仲良く営倉へ押し込められ、数日を過ごすことになった。
 もうそのようなことは起こらない。いまそこで、ずぶ濡れの子犬のように捨て置かれる死体。この場を切り抜けられなければ、彼を持ち帰るどころか泥云すらも同じ結末をたどることになる。
「──ドラゴン、こちらキャップ。通信状況はどうか」
「こちらドラゴン。通信回復せず。強力な電磁妨害」
 通信装備を背負う泥云は、国広の頭が吹き飛んだ時点で中隊本部へ緊急通信を入れていた。それが無事に届いたかどうかは、まったくの賭けだった。
 倉庫内には、敵性戦闘員と結界が事前に準備されていた。それを察知できなかったのは、諜報機関の責任だが──恨み言は、生きている人間だけが伝えられる。
「射撃は可能な限り控えろ。接敵の場合は可能な限り感知されずに終了しろ」
 泥云は起動中の光学迷彩の様子を確かめた。電源はまだ数時間残余があり、少なくとも作戦行動中にこれが途切れる心配はなさそうだった。網膜スクリーンが映す輪郭によって、かろうじて同僚たちがナイフを抜いたことがわかる。
 COLLICULUSビューにしただけで、この場に仕掛けられた膨大なトラップが明らかになった。先ほどまでは、明らかに存在していなかった殺意の群れたち。SCP-███の強奪それ自体、このCI分派にとっては陽動に過ぎなかったのだろう。
「止まれ」
 光学迷彩対策にペイント弾を撒く兵士がいる。古典的だが、もっとも確実な方法の一つだった。蛍光色の毒々しい緑が、ダンボールや床に当たって弾け、周囲の地形を際立たせる。時間経過によって酸化し、色が変質するペイント弾は、地形追従型迷彩に対しても一定の有効性を持つ。
「こちらワイルドボア。排除する」
 ナイフが数度閃いた。頸部と左脇腹、それから大腿から血を噴き出して男が倒れる。静かに死体を寝かせた龍田は、男の持っていたペイント弾を死体に当てた。床と同化する緑色が、ほんの少しの間だけことの発覚を遅らせるだろう。
「ドラゴン、ワイルドボア。無線を拾った。傍受できるか」
 周波数帯が変更される前に、可能な限り情報を集めねばならない。無線から聞こえてくるのは、特定のミームを摂取しなければ解読できない暗号通信だった。泥云はしゃがみ、足元の死体の耳に無線のイヤフォンをつなげる。魔術コードが書かれた札を取り出すと、試験管から一滴血を垂らした。顎を抉じ開けて、舌に光り始めた札を押し当てる。
 疑似的な魔術によって、死体はミームを翻訳して通信内容を語り始めた。
「──────、──────。────」
「敵性戦闘員は15名から20名ほどほどと推測される。敵はわれの現在位置を失探している模様」
「キャップ了解」
 周囲のいたるところから、ペイント弾が飛び散る音が聞こえてくる。このような百数十平米の小規模な倉庫であれば、たった20名弱のロードローラー作戦でも、準備さえあれば十分発見できる。泥云たちツキシマ分隊が生き延びる道は、他部隊の来援まで発見も戦闘も避け、持ちこたえる以外にない。
「連携が取れる距離を維持しつつ縦列になれ。常に動き続けろ」
「了解」
 泥云を中心に三人は一列に並び、各自の間隔が10メートル以上取って前進を始める。敵はかなり密に連絡を取っているはずで、もうすでに仲間の死が露見していても不思議はない。無線のやり取りはまだ聞こえていたが、傍受によって混じったノイズに気づかれるのも時間の問題だった。
「こちらワイルドボア。後方7メートル、敵影。数、1」
 後衛の龍田が抑揚のない報告によって、前を行く二人に非常な緊張感が襲いかかる。月島分隊長は振り返ることなく、拡張された視界を使って後方を確認する。タクティカルライトの光線が一つ、こちらを向いていた。
「進行方向は」
「こちらにまっすぐ向かってきます。発砲する前に離脱しないと──」
 発砲音が続き、無線は一瞬静かになった。左右の棚へ断続的にペイント弾が撃ち込まれ、蛍光緑が空間をコの字に浮き上がらせている。
「ワイルドボア健在です。すぐにこの通路から離脱を」
 音響探査が前方十字路の周辺半径10メートルの安全を伝えていた。月島の合図で全員が一斉に走り出し、右折して隣の通路へ入る。足音は吸音ソールによって消されていたが、それでも振動や熱の発生を完全に抑え込むことは難しい。ましてや、大気の流れまでをも完全になくすのは不可能だった。泥云の骨伝導イヤフォンに傍受した無線が入り、ノイズにまぎれて切迫した声音が耳朶を打つ。
『レーダー、コンタクト。3名が座標T12にて移動中!』
「キャップ、こちらドラゴン。敵のレーダーです。こちらの居場所を探知されました」
「キャップ了解。この通路を直進する。各自散開。爾後合流する」
 喉の中でCOLLICULUSバイザーの無能を罵った泥云は、まったくその存在の見えないレーダーに背筋を寒くする。散開したということは、誰かが囮になることを前提とした作戦をとったということに等しい。泥云はオブジェクトのホルダーである以上、もちろん見捨てられるはずはない。
 だが、その逆はあり得る。
「おそらく大気中に散布されたナノマシンでしょう。電磁パルス・グレネードEMPGで機能を停められるかもしれない」
「ダメだ。効果が出るほど使用すれば、位置を特定される恐れがある」
 分隊戦術戦闘環境上の三角形として表示される班員たちは、同じ方向へ進行しつつもそれぞれが違う通路を進んでいる。後方からは各通路に2人ずつ、横一列に追手が並んでいた。
「通常のグレネードは一つ残しておけ」
 分隊長は言う。
「もしものときは、わかってるな」

 
 

[00:29:26]


 
 

「……ドラゴン、もういい。来るな」
 ワイルドボアの左脚の膝から下を飛ばした気体爆薬は、周辺3ブロックを火の海に変えていた。捜索から掃討へと舵を切った敵方の戦略は、泥云の持つオブジェクトの戦略的価値を切り捨てている。分隊戦術戦闘環境はワイルドボア──龍田の危機的状況を喚き立てていたが、泥云はうるさげにそのアラートを切った。
「ワイルドボア、あきらめないでください」
 トリガーを絞る人差し指が震えていたが、リコイルショックがそれを打ち消してくれている。照準補助レティクルが表示される視界に、青く縁どられる人型がある。棚を倒して遮蔽物とした龍田は、散発的な反撃を試みていた。だが徐々に包囲を狭めるCI分派構成員たちにしてみれば、それは風の前の塵に同じだった。
 赤く縁どられる人型の持つアサルトライフル──ハイライトされるおかげでそれがM4だともわかる──が、龍田に向いている。分隊の選抜射手だった龍田は、生真面目な性格だったが、その分怒らせればもっとも手が付けられない人間だった。間違いなく分隊で一番喧嘩が弱かった泥云は、たった一度だけ彼に殴られて歯を折られている。
 その龍田が、いま床に無様に転がり、死を待っていた。マガジンを付け替える。照準器の正面に敵を捉え、トリガーを絞る。
「──おい、待て、泥云」
 隊長が肩を掴んで制止するまで、泥云はトリガーを引くことを止めなかった。自分が援護をしている間は、龍田は生き延びていられる。平静を失いかけている部下の頬を、月島は殴り付けた。脳裏に怒っているときの龍田の顔がよぎったような気がしたが、目の前にあるのは怒気に満ちた月島の双眸だった。
 倒れそうになる泥云を引き起こし、隊長はその襟首を絞り上げる。
「お前まで死ぬつもりか」
「しかし、このままでは」
 倉庫の半分以上がすでにペイント弾で染め上げられている。時間は、そう多く残されているわけではない。龍田は可能な限り抵抗を続けるつもりらしく、泥云と月島がその場を離れてからも反撃を続けていた。
「ありがとうございました」
 ぼそり、と一言だけ通信が入る。泥云が振り返った刹那、グレネードが宙を舞っていた。赤い爆炎が一瞬だけ光学迷彩を脆弱にし、呆然とする男の輪郭を浮かび上がらせる。分隊戦術戦闘環境に、新たな戦死者が出たことを告げる赤い三角が現れている。
「財団の戦闘員に告ぐ。こちらは、██████である。これ以上の戦闘は双方にとって無益だ。投降せよ。そちらの位置は把握され、われわれはすぐにでも攻撃を再開できる。両人とも、身の安全は保障する」
「罠です。こちらを生かしておくメリットがそれほどあるとは思えない」
 泥云はすでに最後のマガジンの交換を終え、フルオートからセミオートへとレバーを親指で押し下げた。月島は背中を向けたまま、持っているアサルトライフルの状態を確かめている。瞳に映し出されるステータスの上では、彼はすでに残弾がほぼないことになっている。
「自分のを使ってください。まだサイドアームの9ミリが残ってます」
 月島は向き直った。その瞳には、今までとは異なる何かが宿っている。今や二人となった分隊は、その一挙手一投足が死に直結していた。敵の総数はまだ少なく見積もっても10人は超えており、救援が来なければ生きてここを出る望みはないに等しい。
 泥云が差し出したライフルを受け取らなかった月島は、オブジェクトはまだ持ってるか、と聞いた。泥云は怪訝な表情をしながらも、うなずいた。
「寄越せ」
 すでに月島の残弾は尽きかけている。このタイミングでオブジェクトを預かろうというのは、戦術的には不可解な発言だった。金属製のケースを手に取ると、月島は決然と敵の展開している方角をにらむ。
 泥云は疑問を口にしようとしたが、月島の表情の意味を解する時間すらもが惜しかった。この場で可能な限り敵に損害を与え、奴らの逃走を阻止すること。自分の生命は、もはや考慮の外にあった。死んでいった二人と再会する前に、やっておくことはまだ山ほどある。
 意識を研ぎ澄まし、ストックを肩に押し当てる。沈黙があった。額を汗の一滴が落ちていくことすらままならないほどの時間だったが、泥云には数刻にも感じられた。
 月島がやがて、一歩を踏み出す。トリガーガードから指を離した泥云は、射撃の指示を待つ。視界にいる敵の形をした輪郭たちは、もうずいぶん長いこと動きを見せていない。正中線へ照準を合わせた泥云は、横目で月島の様子を見やった。構えていたライフルを下ろして、しまったはずのオブジェクトを掲げている。違和感にとらわれ、その意図を確認しようと口を開きかけた途端、月島は大きく息を吸った。
「──投降する」
「…………は」
 視界がぐにゃり、と歪んだような気がしていた。泥云は眼前の上官が発した言葉を、呑み込めないまま固まっている。月島は光学迷彩を解除すると、暗視ゴーグルを外し、持っていたライフルから弾を排出する。呆然とする泥云をよそに、それが当然だとでも言いたげに、床に武器を置く。
「なにしてんだ、あんた……」
「賢明な判断に感謝する」
 交渉役とみられるカオスゲリラの一人が、ゆっくりと近づいてくる。後ろに二人ほどの護衛が続き、こちらに向けて銃口を固定していた。
「そちらの戦闘員は──」
 泥云はとっさに身を躍らせ、脇の下をくぐらせて銃床を打ち出す。月島は避けきれずに床を転がり、ケースを取り落す。護衛が撃とうとしたのは交渉人に制止され、泥云はオブジェクトを拾い上げ、月島の頭に銃を突きつける。左手でベルトに固定されていたグレネードを取り、レバーを握ったままピンに指を掛ける。それは月島自身が残しておけと言った、最後の一つだった。
「近づくんじゃねえ。もろとも吹き飛ばす」
「馬鹿な真似はよせ、泥云」
 黙れ、と怒鳴る部下に、月島は聞き分けのない息子を見る目で応える。たまらなく不愉快になった泥云は、絞り出すように「どうしてだ」と問う。月島は銃口が向いているにも拘わらず、落ち着きを払った様子で頭を起こした。
「……生きるためだ。冷静に考えろ──増援が来るかもわからない状況、潜入であるにもかかわらずおれたちは敵前に姿を晒し、すでに部下二人が死んだ」
「そうだ、副隊長オーク龍田ワイルドボアも死んだ。なのにお前はまだ生きてる」
「お話のところ悪いんですが、時間がない」
 護衛に取り囲まれた交渉人は、少し苛立たしげに煙草へ火をつけた。紫煙を吐くと、泥云の胸に集められたレーザー光が空中に浮かび上がる。彼はとうとう、たった一人だった。この場のどこにも味方はいない。
「貴官、上司の言うことには従う方がいい」
「泥云、生きていてこそだ。そう教えなかったか」
「ああそうだとも。だが仲間のために命を懸けろと言ったのもあんただ」
「あいつらは死んだ」
 ちがう、と泥云は叫ぶ。うるさげに手で頭を押さえた月島は、掌にべっとりとついた血に顔をしかめた。
「おれたちが生かすんだ、二人の意思を裏切るわけにはいかない」
「お前の感情論は聞き飽きた」
 血まみれの手の中に閃くものがあった。アーミーナイフがすねの肉を切り裂いていたが、骨まで達する前に泥云は飛び退いている。月島は分隊でもっとも徒手格闘を得意としていた。彼が喧嘩の絶えなかった"ツキシマ分隊"をまとめあげられていたのは、字義通りの手腕があったからに他ならない。
 即座に脇の通路へ逃れた泥云だったが、猛然と追いかけてくる月島を見て逃げ切れはしないと悟る。痛みをアドレナリンで飛ばし、泥云は自分の血で滑りながらも月島の斬撃を受け止めた。だがそれはブラフに過ぎず、月島は上段攻撃を支点に鳩尾への膝蹴りを繰り出している。ボディーアーマー越しに伝わる衝撃で身体を折った泥云は、ナイフの柄で頬を砕かれていた。血と歯を数本吐き出し、よろよろと後ずさる。
「泥云。現実を見てくれ。おれはお前を殺したくない」
 そう言って見せる月島の手には、オブジェクトのケースと手榴弾がある。切りつけられた脚に力が入らないのか、泥云は膝をついた。指が痙攣している。国広にも龍田にも、時には月島にさえも折られたことがある指だ。視界がゆがみ、両目から止めどなく雫が落ちて、血だまりに溶けていく。
 泥云は顔を上げた。月島が手を差し伸べている。
「行こう、奴らが待ってる」
「……ええ」痙攣を押さえるようにしてその手を握ると、温かく濡れた感触があった。泥云は脚をかばうようにして立ち上がり──ホルスターからサイドアームを引き抜く。「二人が待ってますよ、地獄で」
 躊躇いはなかった。6発の9ミリパラベラムが月島のあぎとを食い破り、即座にその命を辺獄リンボへ送り込む。銃声を聞いて駆け付けた護衛兵たちは、投げつけられた手榴弾によってまとめて吹き飛ばされる。
 交渉人らしき男の怒号が飛び、爆炎に向けて一斉に射撃が浴びせられる。数秒の静寂を破って飛び出してきたのは、月島の死体を盾にした泥云だった。照準も何も定めないフルオートの乱射だったが、数人の戦闘員が打ち倒される。交渉人の男は先ほどの柔和さが嘘のように、額に山脈のような皺を寄せている。
 誰が撃ったかはわからない。散弾銃の一撃が月島の遺骸を吹き飛ばし、泥云も床へ投げ出される。射手はだが、泥云の撃った跳弾に胸を貫かれて即死しており、数人の手負いの男たちがその場に残される。壁まで後退した泥云は、自らが血を流し過ぎていることを自覚していた。もって数分か、それ以下かもしれない。だが、まだ9ミリは1発だけ残っている──抵抗を諦めるには早い。
 くらむ視界に、かろうじて人影が見える。さっきの交渉人の男が、ピストルを構えたままこちらに近づいてきている。肩で息をしている男は、やはり無傷ではない。両手でグリップを包むように握りしめ、泥云の眉間に照準を合わせようとしているが、どうやら身体が言うことを聞かないようだった。
 先に引き金を引いた方が勝つ。
 泥云の痙攣した指では、安全機構で固くなっているトリガーを引き絞ることは相当な難事だった。交渉人の男はゆっくりと、それでも確実に距離を詰めてくる。
「この……クソファック……」
 もはや彼に策はない。すべての神経を指先に集中する。深く息を吸い、吐く。泥云に与えられたチャンスは一度しかないが──彼にはそれで十分だった。
 いま彼の中にあるのは、ただ後悔と自責でできた重い鉛のような感情だけだった。国広、龍田、そして月島──みな自分のために死んだ。月島の言っていたことは、正しかったかもしれない。生きて帰るために捨てるべきものがあったのかもしれない。それでも彼が敬愛し、信頼してきた分隊長の最期がああいった形になってしまったことは、どうしても認めたくなかった。これは先の二人の死を正当化するための、彼の中だけで完結する自己中心的な考えにすぎない。
 そんなもののために、みんなを殺してしまった。
 ──五指の感覚が戻ってくる。男の脳天へ向けて狙いを定め、最後の力を振り絞って人差し指に力を込めた。指はトリガーセーフを乗り越え、撃鉄が最後の弾丸を叩く。スライドが後退し、空薬莢が煙を伴って飛び出していく。弾頭は途中、交渉人の放った一発とすれ違った。お互いの弾道は変わることなく、直進していく。
 それは一瞬、永遠と見間違うほどの時間だった。泥云は力尽きて崩れ落ちる途上、男に弾丸が命中する様を見届ける。同時に、男の放った弾がその狙い通り、彼の額をめがけて飛んでくる。
 まぎれもなく彼は幸運だった。倒れ行く泥云は、額の中央をめがけて飛んだ弾を辛うじてかわしている。弾丸は右の前頭を貫通して、壁に食い込んだ。
 まぶたに大きな火花が散る。

 
 

[再生終了]
[本主観映像記録は、直後に突入した増援部隊により回収された]

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 記録の再生が終わった室内には、融けきってしまったアロマキャンドルのかすかな香りだけが残されていた。記憶処理医は、視聴した映像と所見を組み上げながら、部屋をくるくると歩き回っている。戸玉はその回遊の中心で静かに座ったまま、その思索を待っていた。
 数分が過ぎたころ、耐えかねた戸玉が先に口を開く。
「書面でご説明すると申し上げたはずですが、どうしてこのような手間を」
「映像の方が患者の治療に役に立つヒントが多い。戸玉調査官、あの自称・月国はこれを覚えていると思いますか」
 それはあなたの専門では、と嘆息まじりの返事を寄越したスキンヘッドは、やや考え込むようなポーズをとった。太い指が薄い唇を押し潰し、顎を覆い隠す掌からもう一度ため息が漏れ出てくる。
「わたしも尋問を請け負うことは何度かありましたから──その経験に照らせば、彼はあれで事実を述べているつもりでしょう」
「ふむ。これは単なる質問ですが、実際の記憶はどこに行ったと思います?」
「さあ、脳科学はさっぱりです」
「彼は頭部に重傷を負っていますから、物理的に記憶が破壊された可能性もありました。ですが、海馬を含む内側側頭葉に挫傷は見られない。ということは、泥云クランケの解離性健忘はやはり心因性であろうと医局は結論しています」
「これは記憶処理でどうにかなる類の疾患なのですか」
「疾患」心外とでも言いたげな発音が、戸玉に突き返された。「ええ、たしかにこれは重篤なこころの病です。ですが人間の心にあらかじめ実装されていた防衛システムでもある。大尉がおっしゃりたいのは、泥云クランケがまた戦線復帰できるのかどうか、ということでしょう。そういうことなら、記憶処理などに頼らず人格統合のための治療を実施すべきだと考えます。
 彼の本当の記憶は彼の脳内にまだちゃんとあるんです。まだ匙を投げて強引に上書きをするには尚早です。兵卒一人を長期にわたって治療するコストと、兵卒一人の周辺環境まで改変する形での記憶処理を行うコスト。……管理隊はどちらを取られるんですか」
 諸知の言種は、管理隊に対する要望というニュアンスからも外れていた。戸玉はあの無感情なはずの主治医が、珍しく語気を強めていることに当惑する。それはあるいは、この医師なりに組織にとっての最善を考えた結果だったかもしれない。
「わたしが決めることじゃない。治療方針はそちらに任せます。どのみちそのまま外に放り出せる人材でもない」
「彼は記憶を改竄している。でもそれは、あなたがたが当初想像したように、分隊長の裏切りを隠蔽するためではない。単に彼が、その事実を受け容れられなかったに過ぎません。その過程で解離性同一性障害を発症した」
「記憶処理部門の診断に異議を挟むつもりはありません。しかし何をもってそう判断されたのですか」
「その二つにはもともと、大した差はないんです。泥云クランケは、仲間たちの死と、分隊長を手にかけたことを自分自身に隠したかっただけ。結果的にあなたがたにも隠蔽したかのような格好になりましたが、それは偶然というものです」
 わかりました、と戸玉は立ち上がる。
「結局、彼には長期にわたって専門的な治療が必要、ということですね。しばらく戦術チームにも戻れそうにない」
 部屋を立ち去ろうとする戸玉の前に、諸知が立ちはだかる。
「人事ファイルは彼の言うとおりの記述にしてください。しばらく、彼のストーリーに付き合いましょう」
「事実を告げれば済む話では」
「事実とは相対的なものです。最終的には彼が納得しなければ同じだ」
 ご心配なく、と諸知は付け加えた。
「月国は、徐々に解体していきます。それには数年かかるかもしれませんし、数ヶ月かもしれない。いずれにせよ、そのときが、彼がようやく過去と向きあえる時です」

 
 

 
 

 半長靴の靴紐を結び直し、踵で床を叩く。作業服の上衣に袖を通し、ファスナーを上げていくと、それがひっかかった。食い込んだボールチェーンの先には、五枚のドッグタグがつながっている。
「……怖くなんかありませんよ」
 二枚は泥云自身のもの、残りの三枚には、知らない名前が彫られている。だが泥云は、これを常に肌身離さず持ち歩き続けていた。任務のときも──寝るときでさえ、手放したことはない。なんとなく、彼はこれを失くしてはならないのだと知っている。
 タグを襟の中に仕舞い込み、泥云は立ち上がった。月国はまだ病み上がりの彼の身を案じていたが、大丈夫と繰り返していると、やがて納得してくれた。
「おれは一人じゃありません。先輩がいるじゃないですか──あれ」
 ふとベッドの上の携帯を見ると、通話中だったはずが圏外になってしまっていた。さては照れ隠しに切ってしまったか。泥云は微笑むと、ドアを開いた。
 月国も笑っている。泥云には、なぜだかそれがわかるのだった。

 
 

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