もう一度だけ
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目が覚めると、いつもの寝起きよりも頭が重く、思考がうまくまとまらない。顔を上げれば、電源がつけられたままのパソコンが発する光が目に刺さる。時計を見ると、時刻は午前0時半。どうやらいつの間にか机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。伸びをしようと腕を前に伸ばすと、右手が何か硬いものに触れ、コロコロと甲高い音を立てて転がった。

「何これ…小瓶……?」

音の鳴る方向を見てみれば、明らかに見覚えがない小瓶が横倒しになっていた。中にはマーブルチョコのような形をした錠剤が20程入っており、ビンが回るのに合わせてジャラジャラと音を立てていた。持ち上げて裏返せば、そこには錠剤の概要が記載されたラベルが貼られていた。

「え、これって………」

ラベルに記入されていた薬の名前は「クラスA記憶処理剤」。異常存在などを目撃した人物に記憶処理を行う際に用いがられる、最もシンプルに記憶を消すものであり、その中でも特に軽い部類のものだった。だがどうして記憶処理剤が私の部屋に?あらゆる可能性を考慮する。昨日の飲み会の時?いや、あの時はまっすぐ部屋に帰ったはずだ。記憶もはっきりしている。しかしいくら考えても思いあたることはない。これ以上考えると頭痛が起きそうなので、今日はもう寝ることにしよう。そう思いパソコンと閉じると、表面に1枚のメモが貼ってあった。貼ってから時間がたっているのか、所々文字が薄れ、端々は剥がれかけている。いつ貼ったのか記憶はないが、これは確かに私の文字だ、私が書いたのに間違いない。内容は……。

私へ

これを読んでるってことは、どうして記憶処理剤が手元にあるのかいくら考えてもわからず、とりあえず寝ようとパソコンを閉じたんでしょう。そして今、行動が全部当たってることに驚いてるのでしょう。自分の事だもの、どんなことをしようとするかは察しがつくわよ。 

まぁそんな事はどうでもいいとして、本題に入るわね。まず、私…あなたは今このメモを6月29日に書いているわ。そしてその記憶処理剤は、あなた自身がこっそり拝借したものよ。まぁ最も、その記憶も消す予定だから身に覚えはないでしょうけど。

で、当然こんなことを書いているのだから、今のあなたは1回以上記憶処理剤を飲んだ後ってことになるわ。起きた時の頭の重さも副作用みたいなもんだと思っといて頂戴。
で、貴方が一番知りたいのは、何のために記憶処理をしてるのか、そうよね?

端的に言えば、貴方には忘れなければいけない記憶があるの。でもそれと同時に、あなたはその記憶を再び作り出す必要がある。

きっと今頃、矛盾してない?って顔をしてるんでしょうね。まぁ実際矛盾させてるわけだし、無理もない話よね。だけど残念ながら私はこれ以外に説明する言葉を持ち合わせてないの。

そしてあなたが次に気になるのは、一体どんな記憶を消しては作り直しを繰り返しているのか、そうよね?これはまぁ、今あなたに欠けているものを想像すればすぐにピンとくると思うわ。

ゆっくり思い出してみて。今日は何月何日か、そして次に自分の記憶を掘り返して、何が足りないかを考えてみて頂戴。あなたに絶対に必要な物。本来なら既に持っているはずの物。よーく考えてみて?それがなにか目星がついたら、もう一度パソコンを開いて、デスクトップを探してみて。そこに答えがあるはずだから。じゃあ、後は頼んだわよ。

私より



足りないもの?一体どういうこと?日付を思い出せって……スマホの電源を入れ日付を確認すると、今日は7月5日。そしてこのメモが書かれたのが6月29日で……。あれ、え、待って、だとするとアレがあったはずだ。そして次は自分の記憶を掘り返して……うん、ない。確かにない。アレに関する記憶が一切ない。本来なければおかしい記憶が何一つない。再びパソコンを開き、電源をつける。数秒のロードの後表示されたデスクトップには……。

「………あった」

あのメモで過去の私が伝えたかったのはこの事だったのだろう。そして、私がこれまで一体何をしてきたのかも容易に想像できる。ならばやることはただ1つ。なんとしても完遂しなければいけない、そして脳裏に焼き付ける必要がある。しかし、過去の私はわざわざ記憶を消してまでこれを繰り返しているということは、それほどの代物なのだろう。生半可な覚悟じゃ見ることなどできない。何度も深呼吸をして、自分を落ち着かせる。……よし、覚悟は決まった。過去の私があんなメモを残してまで伝えたかった事、しかと胸に届いたわ。さぁ、始めましょう。そして味わいましょう。何度目かの初めてを。



「………で、記憶処理剤をくすねて使っていた、と」
「…はい。その通りです……」

蚊の羽音のようにか細い声で、私は管理官の質問に答えた。

「どうやってくすねたのかね?そこまで強力なものではないとはいえ、それなりに厳重に保管していたはずだが」
「……多分、來山さんに睡眠薬入りのお酒を勧めたんだと思います。ほらあの人お酒好きじゃないですか。だから多分、勤務中でもちょっとくらいならいけるなと思ったんだと思います…」
「なるほど、確かに29日の宿直担当は來山君だ。後で彼にも話を聞くことになるだろうが、まぁ概ねそんなところだろう。彼の酒好きはサイトでは有名だからな」

淡々と話が進んでいくこの空気が恐ろしくてたまらない。オブジェクトへのインタビューとも、民間人へのインタビューとも違うこの緊張感。今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい。

「いやね、記憶処理剤がこうして盗まれることは少なくないから別にいいのだよ。度重なる実験で精神を病んだ新人がすべて忘れようとすることは少なくないからね。にしても、だ。にしてもだよ君。私もこのポジションに就いて大分経つが……」

管理官は1つ大きくため息をついた後、私を見据え言葉をつづけた。

「同じ映画を何度も見るために記憶処理剤をくすねた職員は、私も初めて見たよ」

そう言葉にされ、思わず顔が赤くなる。改めて考えなくとも、我ながらバカなことをしたものだと過去の自分を殴りたくなる。

「えーと、見ていた映画は……。これは…アニメかね?」
「……はい。映画館に行く時間なんてないので、ブルーレイが発売されるのをずっと待ってたんです」
「それが29日だったと。にしても、何度も記憶を消してまで見たくなるほど面白かったのかね?」
「えぇそりゃあもう!面白いなんて安い言葉だけで済ませることはできませんよ!」

管理官の何気ない質問に、私は勢い良く立ち上がった。

「まずですね、今回の映画は本編からは切り離されたオリジナルストーリーになってるんですよ。だから既存の敵キャラクターだけじゃなく、映画オリジナルの個性的なキャラクターが複数登場するんですけどそれがもう全員可愛いんですよ!ストーリーや脚本ももちろんの事なんですけどね、今回は作画にこそ注目すべき点が大量にあるんですよ!漫画本編の小ネタをふんだんに散りばめた背景の圧倒的な描き込み!ぬるぬる動くアニメーション!そしてなによりラストの戦闘シーンからのEDへの入り!あれをお見事以外の言葉でどう表現しろと!ほんと、インターネットでのネタバレ記事を全力で回避した甲斐があるってもんですよ。いやー、あれは間違いなくオタクが作った…」
「あー……君のその映画に対する熱意は良く伝わった。だから、もうその辺でよしてもらえるかな?」
「え?………あ、いや、その……これは……」

やってしまった。取り調べの最中だというのに私はなんてことを……。

「いやまぁ……そこまでして感動を味わいたいたかっという君の熱意は今ので十分理解した」
「…え?」
「反省の色も見られるし、悪用と言えば悪用だが、業務に害を及ぼすものでもない。初犯ということも加味して、減給10か月とサイト内の清掃6か月で済ませよう」
「そ、それだけでいいんですか…!?」

予想よりもはるかに優しい罰だ。クリアランスレベルの格下げと降格は覚悟していたのに、まさか減給処分と掃除だけとは。

「不満かね?お望みならばもう少し重くしてもいいのだが…」
「い、いえ!喜んで処分を受けさせていただきます!」
「そうか、じゃあ話は以上だ。あとは頑張ってくれたま…」
「あ、あの……」

部屋を出ようとする管理官を呼び止める。最後に一つだけ、お願いしたいことがあるからだ。

「何かね?」
「その……お願いがあって…」
「ふむ、どんな願いかね?」

ごくりと唾を飲み込み、言葉を吐き出す。許されないことだというのはわかってる。でももう一度、もう一度だけ…。

「もう一度だけ、記憶処理剤を使わせてもらえないでしょうか」

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