世間は、明日からお盆休み。
そんな時期も関係するのだろうか。昼の混雑ピークを過ぎたカフェテリアは閑散としていた。
開放的で大きな窓のある席に座りながら、私は呆けたように外を眺める。
元々冷房が効いているとはいえ、それに私の異常性が加わると、さすがに肌寒さを感じてしまう。
まだ微かに湯気のたつティーカップにそっと口をつけると、ベルガモットのやわらかな香りが、ふわりと鼻孔をくすぐった。
束の間の休息に、私は安堵の一息をつく。
外は、今日も茹だるような厳しい暑さなのだろう。
フィールドワークから戻ってきたのか、心底うんざりした表情を浮かべたエージェント達がエントランスヘ向かっていく様子が見えた。
北国育ちの身には、こちらの暑さはなかなかにきついものがあったけれど……異常性持ち職員として雇用された今の私には、もう関係のないことだろう。
風に揺れる木々の葉を見ていると───ふいに、幼い日のことを思い出した。
そういえば、丁度今頃だったかな。
それは遠い真夏の日。
大好きな祖母が仕立てた浴衣に身を包み。
金魚の尾鰭のようにゆらゆらと兵児帯を揺らしながら、慣れない草履を履いて歩いた石畳の町。
皺の多い祖母の手。
色めく立ち葵。
賑やかなお囃子の音。
微かに届く潮の香り。
そして、艶めく真っ赤なりんご飴。
「食べきれないのだからもっと小さいのにしなさいね」
祖母の忠告を無視して、幼い私は我が儘を言って買って貰ったのだ。
案の定、半分も食べられなくて。
それどころか溶けかけたりんご飴を落としてしまったものだから、こっぴどく叱られたっけ。
それらすべてが甘く、苦く、懐かしい。
もう戻れない、かつての私の残骸。
こうなってしまうのなら、こうなる事がわかっていたのなら。
「……もう一度ぐらい、ちゃんと食べとくべきだったかなぁ」
「何をです?」
突然の出来事に、私は情けない声をあげながら咄嗟に後方を振り返った。
「うわわっ、いきなり振り向かないでくださいー!」
聞き慣れた声の主は、やっぱり山月監視員だった。
自分から声をかけたのに、鳥肌をたてて後退りをしている。その手に持っていた珈琲を危うく溢しそうになりながら。
「なんでそっちが驚くんですか。おかしいでしょ」
「い、いやあ。すみません……これはですねー、もう反射的に……ああ、お隣ご一緒しても良いです?」
山月龍介監視員。極度の"異常恐怖症"保持者。
故に、異常性保持者に対して様々な拒否反応が起こることは私も良く理解している。
症状の度合いが異常性の危険度に相関することも、それを彼が本能的に察知していることも。
そう、表向きには。
「かまいませんよ。でも、山月さんのいう"お隣"は、3席も離れることをいうんですね」
「うぐっ……良いじゃないですかー、十分近いです!」
「あは、冗談です。本当に山月さんはからかい甲斐がありますね?」
「全く……神恵さんは今日も意地悪ですね……」
彼は、少しだけ口を尖らせてみせた。
これが、私達のいつもの日常。
淡々と過ぎ行く日々には慣れた筈なのに、どうしてもこの心は繋がりを求めてしまう。
───その根底にある感情の正体が一体何であるのかは、わかっていた。
「今日はこっちに来てたんですね」
「はい、ちょっと用がありまして……それで、何を後悔していたんです?」
「えっと……うん……非常にくだらない話なんですけど……」
本当にくだらない話なのだ。
私は良い歳をした大人なのに……こんな子供じみた、くだらない笑い話。
だから、彼にも呆れられてしまうのではないかとなかなか口を開けなかった。
「大丈夫ですよ、聞かせてください」
それでも、彼の落ち着きのある優しい声色に促されながら。
結局私は、重たい口を開くことになるのだった。
「りんご飴を、完食したかったなあと」
「りんご飴、ですか?」
「……幼い頃、おばあちゃんとお祭りに行ったんです。そこで、我が儘を言ってりんご飴を買って貰ったんですけど……やっぱり食べきれなくって。しかもそれ落っことしちゃって。……あの、別に、特段好きな訳じゃないんですよ?ただ……」
言葉が詰まる。
……あれ。今、私はどんな顔をしているのだろう?
「ただ、もう……ね。私、こんなんじゃないですか。出られないってことはもう諦めついてるし良いんですけど。なんか思い出しちゃったら、急にそのことが寂しくなっちゃって。ああ、あれやっとけば良かったなって……あはは。なんか、思っちゃったんですよね」
微妙な空気感が私達を包む。
駄目、だめ、ダメだ。平常心を保つんだ、私。
「す、すみません山月さん!変な話をして……っと、ああ、そうだ!報告書まだ途中だったんだ、ごめんなさい!早く片付けなきゃいけないのでお先に失礼しますねっ!」
「あ、ちょっと、神恵さ───」
「……話、聴いてくださってありがとうございます」
嗚呼、ちゃんと笑えていただろうか。
原因を作ったのは自分なのに、勝手にいたたまれなくなって。
つかなくても良い嘘を、ついてしまって。
私は、逃げるようにその場を離れた。
あれから5日。
休暇を終えた職員達が続々と戻って来て、研究棟は元の姿になり始めていた。
連休明けというのは、どうしてこうも忙しいのだろうか。あっという間に時間が過ぎ、19時を回ろうとしている。
「志文、ちょっとそこのソレ取って」
「自分で取ってくれませんかね、今手離せないんで。あんたのその2本の脚はお飾りですか?」
可愛気のない助手の言葉に、いつもならここで屁理屈のひとつでも返す所なのだが。
生憎、今の私にその気力はなかった。
あれから山月さんとは、まともに顔を会わせていない───いや、会わせる顔がないというか。
彼には、私の弱いあんな姿を見せたくはなかったのに。
山月監視員は優しい人だ。
私が毎度ちょっかいを出したり、困らせたり、まあ、悪戯が過ぎてたまに泣かせてしまったり。
こんなに意地の悪い私なのに(物理的に距離は置かれるけれど)彼から話しかけてくれたり、茶話会にも必ず参加してくれたり。
もし私が、今の私じゃなかったのなら、もっと貴方に近付けたのだろうか。
そう思うと少しだけ、普通のひとが羨ましい。
それでも、この鳥籠サイトの中でなければ、私達は出逢えなかった。
私も、彼も、同じだから。
「……辛気臭ェ顔してますね。あと寒い」
「子犬は良く吠えるなぁ。余計なお世話だよ」
「別に俺は、あんたの事なんてどうだって良いんですけどね。業務に支障さえ出なければ」
急に書類を差し出された。それはもう、つっけんどんに。
「なにこれ」
「見てわかりませんか?書類不備。あんたらしくないっすね。……訂正しといたんで、印鑑押してさっさと持ってって下さいよ。一応責任者なんだから」
書類を受け取り目を通す。
先日私が書き上げた書類。私の研究チームが担当していたSafeオブジェクトが、Neutralized判定になったことを示唆する数枚の報告書だった。
提出先は、Neutralized管理室。
「ちょっと志文───」
「はい、さっさと行動。早く行かねぇと帰って来られなくなるぞ。あとあんたいつもより寒ィんだよ、ちょっと離れててくれると有り難いんですよね」
「や、ちょ、待って、志文!」
抵抗も虚しく、体格差で押し負けた私はそのまま肩を掴まれ、背を押され、半ば追い出されるように研究室を後にした。
ため息しか出てこない。
まともに顔を会わせなかったことが、余計に自分の首を絞めることになろうとは。
管理室の扉の前で立ち往生をする研究員。
なんて滑稽な光景だろうか。
しかし、このまま引き下がるわけにもいかない。
これは立派な職務なのだから。
「……よし」
「何がよしなんです?」
それはまるで尻尾を踏まれた猫のように。
私は素っ頓狂な声をあげ飛び上がり、後方を振り返った。
「うわわっ、いきなり振り向かないでくださいー!」
デジャヴ。
彼は今日も自分から声をかけたのに、鳥肌をたてて後退りをしていた。
「だから!なんでそっちが驚くんですか。おかしいでしょ」
「い、いやあ。すみません……これはですねー、もう反射的に……ん、なんか既視感を感じますね?」
ふーむ?と顎に手を当て考え込む。
そんな彼の姿を目の当たりにすると、強張った緊張感や余計な不安が、全身から一気に抜け去った。
……全く、こちらの気も知らないで。本当に。
「……ふふっ」
自然と、笑みが溢れていた。
「ああ、すみません。うちへ御用でしたか?」
「っと、そうでした」
私は書類の入ったファイルを差し出し、深々と頭を下げた。
「この度は私の確認不足で御迷惑をおかけしまして、大変申し訳御座いませんでした。どうぞ、お受け取りください」
「先日の報告書ですね。拝見させて頂きます」
彼は書類を受け取り、中を確認する。
いつもの和やかな眼差しが、真剣な表情に一変した。
一枚。次を捲って、また一枚。
そして三枚目に目を通し。
「……はい、確かに。内容に問題ありません。お疲れ様でした」
そう言うと、彼は元の柔らかな表情に戻った。
「お手数おかけしてすみません。じゃあ、私はこれで───」
「あの!待って神恵さん!良かったら少しお時間頂けませんか?」
呼び止められるとは思っていなかったのと、予想外の誘いに、私は目をぱちくりさせながら戸惑ってしまう。
「え?あ、んと……はい、かまいません、が……」
「良かった、ありがとうございますー。えっと、少しだけ、中庭で待っていて貰っても大丈夫ですか?」
「中庭で?」
「はい。僕もすぐに向かいます」
じゃあまた後程。と手を振る彼と別れ、私は指定されたその場所へと向かった。
───夜の中庭は、まだ生温さが残っていた。
それでも此処は緑も多く、比較的涼やかな方だとは思う。
奥のベンチの周りには色彩豊かな花壇があり、これら約4割は私が育てた苗を提供していた。
例えばあのポーチュラカや八重咲きのインパチェンスは、挿し木で地道に数を増やしたり。
一人で作業していたら茶話会に来てくれた人達が手伝ってくれたっけ。
ああそうだ、あのスペースには千日紅でも置いてみようか。
緩やかな風がそよぐ中。ベンチに腰をかけて花達を眺めていると、向こうから誰かが近づいて来る。
山月さんだ。
「すみません、お待たせしましたー!」
「いえ、大丈夫ですよ。此処は好きな場所ですし」
そう、花は好きだ。
月並みだけど、心が癒されるから。
此処に植えようと思ったのは、お願いされたからというのもあるけれど。
疲れた誰かが、この子達を見て少しでも気が楽になれば良いと思ったからなのだ。
「神恵さん、頑張ってましたもんね」
「私だけじゃないです。山月さんも、みんな手伝ってくれましたから」
「お力になれてよかったです」
私はベンチの端に場所を移した。
「お隣、どうぞ?」
「えっと……ありがとうございます、じゃあ失礼します」
山月さんがベンチに腰をおとす。
ぎりぎり二人分あるかないかの距離。
近いようで遠い、私達の距離。
「実は、神恵さんに……どうしてもお渡ししたいものがありまして」
彼は持っていた紙袋を開いて、何かを取り出した。
その手に握られていたものは。
嗚呼、それは。
息を飲む。
「りんごあめ……」
差し出されたそれを、微かに震える両の手で受けとる。
透明なフィルムで包まれ、黄色いリボンが結ばれた、
艶めく、真っ赤なりんご飴。
「これを、私に?」
「三笠さんにお願いして、材料を調達して頂いたんです。作り方も習いました。ちょっと不恰好になりましたけどねー」
照れ笑いを浮かべる彼から、りんご飴に視線を移す。
遠い日の私の残骸を。
くだらない笑い話を。
子供じみた我が儘を。
この人は、私の為に。
「あのっ……開けても、良いですか?」
「どうぞ。お口に合えば良いのですが」
しゅるりとリボンをほどく。
フィルムを外すと、一層甘い香りが漂った。
その香りに誘われるように、口を開いて───
私は、再び口を閉じた。
「……どうしました?」
「なんだか、食べてしまうのが勿体無くて」
だって今の私には、この真っ赤な砂糖菓子が、宝石のように見えていたから。
「なら、また作れば問題ありませんね」
「え?」
「また来年、その次も。また作ります。それで、此処で食べましょう」
心臓が脈打つ。
「本当、ですか?」
「ええ、本当です。……約束しましょう」
───嗚呼、本当に彼は優しい人だ。
これ程までに幸福な約束があるだろうか。
顔の熱さに気付かれないよう、私は下を向いた。
「じゃっ、じゃあ……その……頂きます……」
「はい、どうぞ」
ぱきり。
薄い飴の部分を一口齧る。
それだけでもう、口一杯に飴の甘さが広がって、自然と頬が緩んでしまう。
「おいしい、です」
「ふふ、それは良かった」
かしゅっ。
今度は果実ごと。
姫りんごの飴は、昔見たりんご飴よりもずっとずっと食べやすくて、そして。
とびきり甘くて、美味しかった。
その味を私は夢中で、でもゆっくりと味わっていた。
ちらりと横を見ると、彼は目を細めて、優しい眼差しを向けていて。
とたんに恥ずかしくなって、私はふいっと反対を向く。
「……ね、神恵さん。覚えてます?」
静寂に口を開いたのは彼だった。
「僕ら、ここで最初に逢いましたよねー」
その言葉に、思わず彼に向き直す。
───そっか、覚えてくれていたんだ。
研究員1年目の冬の日。
私は、当時自分の面倒を見てくれていた志文の父───ヘイデン博士に連れられてサイト-81NNへ訪れていた。
その日は雪が降っていて。
博士が所用を終えるまでの間、私はこの中庭を散策していた。
誰もいない白い中庭は、何故だか懐かしくて、楽しくなって。
慣れない日常に息を詰まらせていた私は、このベンチに座って大好きな歌をうたっていた。
そうしたら、向こうから彼が歩いて来て目が合ったのだ。
それが私達の最初の出逢い。
「ごめんなさい、あの時は逃げてしまって」
「山月さん、今も逃げるじゃないですか。あーあ、傷つくなあ」
「もう、全く困った意地悪さんですね……」
あれからもう5年、か。
長いようで、あっという間だったな。
「……私は、逢えて良かったと、思ってます」
ぽつりと呟くような声が漏れた。
「ん?何か言いましたか?」
「……いいえ、なんにも」
最後の一口を齧る。
ゆっくりと味わって。そして。
「……よかった。今度は食べきれましたね?」
「はい。山月さんのおかげです。……本当に、ありがとうございました」
「いえいえ。喜んで頂けて、僕もなによりです」
心が、全身が、幸福感で満たされていた。
「神恵さん」
「はい?」
「くだらなくなんかありませんよ」
私は、大きく目を見開いた。
「何一つ、くだらなくなんかありません。その、上手く言えないのですが……少しぐらい、僕を頼ってくださいね」
「山月さん……」
あの日、あの場所に置き忘れてきた私の残骸へ。
もう大丈夫。私の生きる場所は此処にある。
だから何処へも行けなくても良いの。
だって、彼の隣ここが私の居場所なのだから。
「……あれ、リボン赤でしたっけ?」
「えっ?」
膝に乗せていたリボンの色。
───私は直ぐに察した。
これが彼の、彼自身にも言えない秘密の異常性。
「最初から赤色でしたよ?可愛いらしいラッピングで嬉しかったです」
「そうでしたか、なら良かったですよ。うんうん」
ごめんね。
これは貴方を守る為の嘘だ。
優しくて、そして残酷な嘘を、私はきっとこれからもつき続けるのだろう。
彼が穏やかに過ごせるのなら……私は、この愚かな行為すらも愛していこう。
だって、この胸にある感情だけは───確かに私だけのものだから。
それでも。
それでもいつか、貴方が前に進める日が来ることを。
その日が来ることを、私は願ってやまない。
───風が止み、あたりを静寂が包む。
まるで時が止まったような、世界には二人だけしか存在していないかのような、穏やかな夜。
「……夏も、もうすぐ終わりますかね」
「そうですねー。そしたら、あっという間に年が明けちゃいます」
「ふふ。約束、忘れませんからね」
「大丈夫ですよ。ちゃんと守りますから」
葉が茜に染まり、枯れ落ち。
白く切ない季節が来て。
春風が新たな芽吹きを運び。
また陽の輝く季節が来る。
そのどの瞬間にも、貴方と共に私がありますように。
近いようで遠い、私達の距離。
本当は私が思っているよりもずっと……案外遠くないのかもしれない。
だからこそ、この心はずっと震えていた。