開幕
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───幼い頃から、何度も同じ夢を見続けている。

細かな部分は違うけれど、全て筋書きの同じその夢は、私にとって悪夢以外の何物でもなかった。

夢の内容は単純だ。女の人が出て来て殺される、それだけの夢だ。

あるときは何処か深い森の中で、あるときはギリシアの宮殿の中で、あるときは怒号飛び交う十字架の上で、あるときは惨劇の中心たる戦禍の中で、あるときは薄汚い老爺の立つ薄暗い研究所で。
夢の女性はいつ、どんな時でも微笑んでいた。泥に埋まり、刃を突きつけられ、獣に食われようとも。

まるで、そうあることが役目であるというように。

女性は、多くの人から何かを受け取っていた。あるときは感謝、あるときは罵倒、あるときは恐怖。
人はその偶像に、何かしらを託していた。その全てに、女性は微笑みで返している。同じ、同じ微笑みで。
言葉も何も聞こえない、ただ、その女性はきっと、人を笑顔にしたかっただけなのだろうとだけ伝わった。

その女性は、いつも同じ顔だった。どんな世界、どんな場面であろうと、その女性は同じ顔だった。

───その顔は、私の愛する姉さんの顔だった。

だから、私にとってそれは悪夢以外の何物でもなかったのだ───。


「後醍醐さーん、そろそろお願いします」
「はい、今向かいます。剣、行こう」
「おう」

後醍醐兄弟、幸いにも近頃名の知れてきたアイドルとして、私、後醍醐鏡は活躍させてもらっている。今日も今日とて音楽兼バラエティーといった番組撮影がそろそろ始まろうかというところだ。

「おい、鏡。今日は姉ちゃんも一緒だよな」
「ああ、そうだね。」

楽屋を出、スタジオに向かう私の隣で双子の弟であり、アイドルとしてユニットを組む剣が予定を確認した。

私たちには姉さんがいる。姉さんも同業、いや、姉さんに惹かれるように私たちもこの世界に飛び込んだのだから、姉さんは色々な意味で先輩にあたるのだろう。姉さんは一言で言えば変人だ。常にどこか演じたような話し方をして、常にアイドル衣装を着こんでいる。どんな相手にも同じ態度を取るし、よっぽどなことじゃないとその口調は変わらない。

普通の人ならそんな話し方をする人間をマトモとは思わないだろうし、事実、「アイドル」という衣装だからこその所業だと思う。
でも、私たち二人はそんな姉さんが好きだ。愛していると言っても過言ではない。だから後を追って同じ業界に飛び込んだのだし、その背を追って行こうとも思っている。

「っと」
「…おう、すいません」
「いえ、こちらこそ。よそ見していて」

考え事をしていたからか、すれ違ったスタッフさんとぶつかってしまった。オレンジ色のつなぎを着たスタッフさんに軽くお詫びをして、何しているんだ、といった顔の剣に追いつく。

「何してんだよ」
「ごめんごめん、考え事してた」
「ったく、ちゃんと前見て歩けっての。…にしてもさっきのスタッフさん、えらく年寄りじゃなかったか?」
「そう?」

振り向いたそこに、さっきのスタッフさんの姿は無かった。

リハーサルも終わり、あまり緊張を感じない自分にとっては手持無沙汰な時間が続く。

「そういえば姉さんとまだ会ってないな」

姿は見かけたが声は掛けられなかった。まあ、あっちも売れっ子だし忙しいのはさもありなん、といったところか。

ふ、と目の前に影がかかっていたことに気づく。誰だ、と目をやると馴染のADさんが立っている。挨拶をしようとしたが、そこで私は気が付いた。

何かがおかしい、何かが歪んでいる。

彼の目は明らかにおかしかった。焦点があっていない。よく見ると表情もどこか虚ろだ。だが、動きには一切の問題が無い、仕事を確実にこなしている。徹夜明けかと思えばそう見えるが…。彼の手に握られている一冊の本、台本だろうか、それが私の目を引いた。吸い込まれるような、眠りに落ちる様な感覚。

私の意識はそこで途絶えた。


夢の中では、姉さんが笑っていて、私は剣と一緒に姉さんと肩を組んで。
何て満ち足りた、幸せな夢。私はそんな夢、見ることはなかった。

だから。

空白

目を覚ました時、そこには首のない姉さんが転がっていた。

空白

「…?」

間違えるはずはない、あの衣装は。
姉さんの下に赤黒い液体が流れている。姉さんの目は開かれている。
姉さんは、笑っていない。…それがむしろ夢じゃないという現実感を私に与えてくる。

姉さんは、死んでいる。

何かが胸をせりあがってきた、吐き気だと気付いたとき、私は嘔吐していた。

私の背を叩く誰かがいる。ああ、夢であってくれればどれほどよかったことか。私は、姉さんを護れなかった。
大切な姉さんを、愛する姉さんを、命に代えても留めておきたかった姉さんを。

違う、違う、違う。これは姉さんの終わりじゃない。姉さんの終わりは。
そうだ、顔だけじゃ分からない、身体に何か…。
そこでようやく私は背を叩く手に気が付いた。

空白

「落ち着いたか、鏡」
「剣、何でここに」

私を叩いていたのは剣だった。後ろにはさっきぶつかったスタッフさんが立っている。彼は私の近くに転がったそれを見て少しだけ顔を顰めた。剣は私と同様に嗚咽していた。静かな声。私は直感的に相手、彼が私と同じ世界を生きている人間じゃないと理解した。

「…これで3人目か」
「…貴方は」
「説明はあとだ。置いといてもいいが安全な場所なんてのは無い。俺の判断でとりあえず生きて帰ることを目標にする」
「姉さんは」
「…難しいってことだけ覚えておけ」

彼が私と剣を無理に立たせ、警戒するように出口に控えた。そこに来てようやく周囲の状況が見える。どうやら私がいるのは部屋の中のようだった。頻繁に使われているようには見えない。つまりが、廃屋の一室といったような場所だ。もちろん、こんなところに来た記憶はない。

「此処はまあ、偏屈で意地悪なとある作家の悪夢だ」
「悪夢…?」
「世界には予想もできないような異常なもので満ち溢れている。そしてそれを隠すのが俺達の上の人間だ」

…その異常なもの、が此処だということなのだろうか。まるでマンガみたいな話だと思う。新手のドッキリかとも思う。でも、少なくとも彼の目は嘘じゃなかった。

「何故隠す必要が」
「なら聞く。フィクションの怪物や化け物が全部生きてると知って、お前らはまともな精神状況を保てるか?」

無理だろう。剣も黙っているところを見るに同じ意見みたいだ。私たちの沈黙に納得したのか、彼が扉の先を改めて確認すると手招きする。

「理解が早くて助かる、じゃあ攻略と行くか。お互い死ぬなよ。最低限は護るが、あとはお前ら次第だ」
「此処の説明が」
「此処はな、とある本の中、誰かの欲望の中だ。よっぽど歪んだ奴だったんだな、彼女みたいに女性を狙ってる」

彼の指さす姉さんの死体。持っていきたいのは山々だが、そういうわけにはいかないだろう。無理に目を逸らし、彼に付いていく。せめて取り戻したい。護れなかったのならば、それくらいは許されるだろう。剣がじれったく問う。

「逃げ出す方法はないのか」
「ある」
「…可能性は」
「…俺はD-2930、まあ、呼びにくいからニックとでも呼べばいい。俺の組織の中ではDクラスって言われてる存在だ」

まるで明日の天気を話すようなD-2930、ニックの言葉。

「そして、Dクラスってのは基本的に犯罪者だ、…ここまで言えば分かるだろうが、その用途は」

犯罪者、落ち着いた雰囲気からは全くそうとも思えないが。何でもないことのように、事実を私たちに告げる。

「使い捨ての駒。こうなった場合の生還確率は試算で一%以下。ま、覚悟しときな」


定期的に互いの安否を確認しながら、私達三人は廃墟の中を進んでいた。姉さんはいない。

「その本ってのは、開くことを切欠に異常性を出す。で、開いた人間の異常な部分、誰しにもある歪んだ部分を少しずつ膨らませていく」

進むほどに広がるような錯覚を覚える。そのくせ扉を開けても壁しか広がっていない場所があったりと、どういう構造になっているのかが全く分からない。まるで、今まさに作られている途中のゲームを進んでいるみたいだ。曖昧で不確定な部分が多すぎる。

私たちを先行するニックは慣れているのか、すいすいと進んでいく。動きには無駄も油断も無い。武術の達人を思い浮かばせるような動きだった。

「そして、本にとって十分な程、持ち主がイカレたら次の異常性が出るんだ。つまり、持ち主の異常性を発揮できる場所を作る」

それでどうなる、そういったことを考えても意味がないのだろう。きっと意味なんてないのだ、ただ、そういうものがあって、私たちはそれに巻き込まれた、それだけなのだろう。でも姉さんが死ぬことはなかった。

「俺の予想も多分に含んではいるがそういう事だ、で、俺はそうなる前にとっつかまえる仕事を担当していたんだが」
「失敗したってことかよ」
「そういうことになる、俺が呼ばれてるってことは失敗を想定してたんだろう。ただ現在時点で何が終わる条件なのかが分からん」
「リミットがあるんですか?」
「正確には分からない。だが、おそらく本の筋、シナリオが終われば俺達もそれまでの可能性が高い。生き延びた事例はあるが、それはかなり特例だ。少なくとも相手が生存を認めない限りは不可能と考えるべきだろう」

確かに、ドラマでも何でも、終わってしまった物語はそれで終わりだ。続きがあるとしても、現状私たちはエキストラのようなもの。同じ舞台には出られない、そういうことか。

「…相手に何か覚えはないか? 俺の方でも下調べはしてるが、実際接した人間の意見は聞いておきたい」
「特にないな、まあ、優しそうな人だったのは覚えてるけど、それくらいで印象の薄い人だった」
「まあ、そんなもんだよな。まっとうな顔してるやつの方が腹ん中に色々抱えてるもんだ」

ニックがデジタル端末を取り出した。電波などは一切ないし、通信は遮断されている。

「まあ、オフラインなのは覚悟のうえだ。…なるほどな」

呟きながら、ニックは指折り何かを数えている。

「何を数えているんです?」
「死体の数だ。今のところ襲われてるのは女ばかり。おそらくあの場のほとんどが巻き込まれてると考えられるんだが…」
「全員の数は私たち含め男性35、女性20くらいですね。全員が巻き込まれているかは分かりませんが」
「そうか、で、死体のあった場所を一応マッピングしてるんだが、なんとなくの行動パターンは把握した、いる場所もな」

しれっと言ってるがそれは結構凄いことなんじゃないだろうか。死体の中には姉さんも混ざっている。
密かにそんなことを思っていると、彼は私たちに向き直り尋ねた。

「…さて、一応聞くがお前たちは俺につく必要はない。危険なことには変わりないが、これ以上の危険に飛び込む必要も無いだろ」

その口調から、彼が真剣に私たち二人を案じていることは伝わってきた。きっと、ここまで巻き込んだ時点で負い目を感じているのだろう。でも、私たちの返事は一つだ。きっと剣も同じことを考えている。

「私たちはできることをやるだけです」
「そう、それだけだ」
「…分かった、お前らなら足は引っ張らんだろ。此処から先は俺の責任だ。だから指示には従えよ」


開けた空間。そこは今まで通ってきた道に比べてかなり「確定」していた。曖昧な部分や矛盾を感じる部分がまったくない。つまり、そこにはこの物語の中心がいた。

「いたな」
「…首、首、首」
「数は8、そしてあとは」
「死体がちらほら、だな」
「まだ生きてる」

酸鼻極まる光景が広がっていた。床は一面血の海。錆の匂いが鼻をつく。姉さんの死体を思い出した。

並べられているのは首。作り物やセットなんかじゃない。本物の首だということはその苦悶の表情を見るまでもなく、圧倒的なリアリティを以て私の脳を汚染した。吐き戻しそうになるのを必死にこらえ、息を吐いた。同じように堪えているのだろう、剣も青い顔でその光景を観察していた。

並ぶ見知った首の下にはいくつかの首なし死体。私たちと共演するはずだったグループの物だ。そしてそれに混ざって何人かのスタッフさんが倒れている。

そのうちの何人かは呆然と、あるいは悲鳴を上げながらも生きていた。死んでいる人もいる。死んでいる人は全員が女性。今から首を刈られるのだろうか。そして、中央にそれはいた。小ぶりながら武骨な刃物と、新しく切り取ったのだろうまだ血の流れる首を持って笑っていた。歪だ、反吐が出る。姉さんがいない。

ニックがふう、と息を吐く。目に恐怖は無い。

「ここで吐かなかったのは褒める。さて、物語は佳境ってとこか、俺はこういったもんにはとんと疎くてね」
「…通じている人間の方が怖いっつーの、相手には何か特別な力とか無いのかよ?」
「大概の場合、無い。といっても事案から推測してるだけだがな。ただ、一つだけ問題がある」

その問題をどことなく私は予想していた。ここは物語の中。ならば、それを動かす主体は。

「この場所において言ってみればあっちが主役だ。それだけ言えば役者のお前たちには分かるだろ」
「…主人公ってことか」
「おう、だから地の利は完全に向こうのもんだ」
「勝てない、ということに近いんですね」

何処まで追い込んでも主人公に敵が勝てないように、私たちも彼に勝てる可能性は低い。主人公補正、という奴だろう。ニックが胸元を探り、何かを取り出した。黒光りする二つの武器。拳銃、そしてナイフ。思わず息をのむ。

「そうだな。だが、俺達は勝ちに来てるんじゃない。俺達の目的は生き延びること。まあ、俺は相手を収容することってのがあるけどな」
「…」
「…方法は」
「手っ取り早いのは相手を殺すこと。だが、それは恐らく無理。理想は本を奪うことだ、そしてここの主役を俺たちに変える」

殺す。…もし、その状況になれば私たちはそれをできるだろうか。そして、もし自分たちが死ぬことになれば、私たちはそれを受け入れられるだろうか。あまりにも不条理で残酷な選択。世界の裏側に私たちはいる。光の届かない暗闇を見つめている。姉さんがいれば何と言っただろうか。

「相手はこの物語が終わるときに俺たちを認めない。だから、何が何でも奪え。…いや、それは望まん。俺が奪える環境を作れ」

…だが、だが、私たちは同時に手を伸ばす。ニックの持つ武器に。私は拳銃を、剣はナイフを。

「いや、私達がやります、姉さんを殺したんだ、それくらい当たり前だろ? なあ、剣」
「ああ、そうだな、やらなくっちゃならねえ」
「…おい、待て、短慮に走るな、感情で動くな、さもなきゃ」

違う、ニックは決定的な勘違いをしている。私たちが姉さんの敵を討とうとしていると考えている。

違うんだ。ここまで来た理由は、ここまで付いてきた理由は。

「死んでもいいんです、私達は破魔の鏡と剣、役目を果たせなかった時点で私達の存在価値は無い」
「姉ちゃんの敵を取るんじゃねえ、俺達は死ぬつもりで取り戻すんだ」

私と剣を交互にニックは見つめる。そして、ため息を吐いた。

「…そういう目をよく見た。中でも外でもな。…分かった、ただし、俺の指示には従え、それでいいな?」


「行くぞ!」

ニックが叫ぶ。私たちは即座にそれぞれの位置へ。相手は一人の女性の首に刃物を突き立てた。断末魔の叫び。

まず飛び出したのはニック。彼は姿勢を低くして飛び込むように相手の足を取る。刃物を持つ手を優先的に潰し、リーチの外に置く。悲鳴。的確な力の掛け方、軸を崩すように突っ込む一撃に相手の体は完全にバランスを失い、倒れこむ。その隙に剣が走り、手から本をもぎ取ろうとする。悲鳴。

だが、もう一歩のところで男の武器がニックに向き、剣がそれを防ぐ。金属の擦れる嫌な音。男の持つ首がぐちゃりと揺れる。私は銃を構える。もちろん実弾なんて一回も撃ったことはない、だから確実に見当はずれの方向を狙った威嚇。

銃声。全員の気が一瞬そちらへそれた瞬間、ニックが男を締め上げた。男が声にならない呻きを上げる。本を持つ手は震え、それでも放さない。しかし、時間の問題だ。既に男の表情は虚ろになっている。これ以上私にできることはないだろう。すぐにでも剣が本を奪う。そう考えた。

空白

銃声。悲鳴が聞こえた。誰の? 姉さんのものではない。

唐突なその音に、ニックと剣が私を見る。違う、私は何もやっていない。その音が消える間際。ニックの顔に苦悶の色が宿り、同時に男がニックを突き飛ばした。ニックの腹が赤黒く染まっている。何故。姉さんを思い出した。

「嘘だろ?」
「何で…」
「…何でそんなもんがあるんだか」

相手が持っていたのは刃物だけのはずだった。だが、私たちは失念していた。此処が常識の通じる場所ではないのだと。ゆらりと立ち上がった男の手に握られていたのは、ナイフ。その刃は無く、よく見れば歪な形をしている。硝煙が見える。姉さんは好まないだろう。

拳銃とナイフの融合体。機能的に無駄であり無意味なその武器。フィクションじゃあるまいしそんなものが現実的でないことは私ですら分かる。

だが、それがこの場所で出てきた、いや、もしかすると作られたかもしれないという事実。そしてニックの腹を埋める赤黒い血は私たちに此処の意味を改めて理解させた。

ここは現実じゃない。だが、同時にどこまでも現実なのだと。姉さんがいないことも。
男が笑っている、狂った笑みを浮かべている、周囲で悲鳴が聞こえる。姉さんの声じゃない。
私はこの状況を、どこか俯瞰して見ていた。まるで蚊帳の外から見ているように。姉さんはいない。

ああ、見たことがある。この光景。男が銃口を向ける。私たちは死ぬのだろうか? 使えない姿見と鈍らだった。この光景はそうだ、ステージだ。男は笑っている。私たちは殉ずることもできない。私も笑った。銃口を向けた。死体が転がっている。足りない。決定的に何かが足りない。

ああ、ステージには。偶像アイドルがいなければ。なのに、いない。姉さんが、姉さんが、姉さんが、いない。

私達の愛した姉さんが。

この世界には、姉さんアイドルが必要なのに

空白

「うふふ☆ ゆだんたいてきー☆」
「!?」

銃声ではない言葉が響いた。死体が立ち上がっていた。そして、本を奪い取り。

「嘘だ」
「おい、冗談よせよ」

相手に情け容赦の無い延髄蹴りを食らわせた。

一瞬空に浮くほどの一撃、食らわせた死体、いや、彼女は華麗な着地、ポーズさえ決めてみせた。奇矯な言動。服装は違う、でも、輝いていた。まるで振り付けの一環のようにバランスが取れていた。

そこにいたのは。

空白

アイドルだった。

空白

「姉さん! 無事だったんですか!」
「うん☆ なーんかこわーいとこだったから、落ちてた誰かの服と変えておいたの☆」
「…流石姉ちゃん、変わってる」

周りは見えなかった。もがいている相手や、苦しんでいるニックや、放心している被害者たちも。
私たちは私たちしか見えていない。いや、きっと姉さんは私たちすら見ていない。
姉さんは全てを見ていない。笑っている。
私たちは姉さんが分からない。
私たちはそんな姉さんを愛している。
そして世界も愛すべきだ。私たちのように。姉さんに愛されるべきだ。私たちのように。

「鏡くん、剣くん」
「何ですか、姉さん」
「何だよ、姉ちゃん」
「ハッピーエンド、見たくない?」

姉さんが本を開いた。姉さんは笑っていた。


目の前で突如歌い、踊り始める後醍醐姉弟。音響設備はおろか、マイクさえないそこで、彼女たちは死体の中でパフォーマンスを繰り広げる。

「…こりゃまた」

倒れた男を改めて縛り上げ、止血を終えたD-2930が息も絶え絶えに呟く。視線は後醍醐勾の持つ本に向いていた。

「無理矢理筋書きを変えて主人公になる、ねえ。それだけの説得力を持たせられるってことなんだろうが…」

オブジェクトの異常性は持ち主を歪な形で主人公にすること。だからこそ、D-2930は、自分が手に入れ持ち主が変わった瞬間に死ぬ覚悟を決めていた。そうすれば少なくとも誰かが生き残る可能性はあがる、そしてそのオブジェクトを収容できるだろう。彼はその為に存在する。

しかし、目の前の方法は見事だった、持ち主がハッピーエンドを願う。それが一つの方法だった。放心していた被害者も彼女たちの動きを見守っている。目に光が戻っている。D-2930には世界の閉じる音が聞こえた。

煌びやかに輝いている。残酷で不条理な世界を否定するように。D-2930はその光に目を細め考える。

「でも、それなら何であの女は」

言葉の続きは、曖昧に消える。


あれから。気が付けば私たちは元のスタジオに戻っていて。周囲を明らかに怪しげな人々、ニックの言う財団に囲まれていた。簡単な事情聴取と身体検査。負傷が軽度だった私たちの前には応急処置を施されたニックがいる。

「おう、お疲れさん。ま、もうちょっとしたら詳しい上の人間が来るさ。被害はこの程度で済んで万々歳ってとこだろう」

そうは言うが、実際数人の命が奪われた。これをどう収拾する気なのだろうとも思うが、そこはこういったものに慣れた集団。上手くやるのだろう。と、考えていると姉さんがニックに笑いかけていた。…嫌な予感がする。

「ねえねえ、ニクちゃん☆」
「…? …俺のことか?」
「うん☆、ニクちゃんの組織ってえ、もしかしてみんなの笑顔を護ってる?」
「…まあ、そう言えなくもないが」

嗚呼、これはいつものパターンだ。私は知っている。

「なら☆ 私も入れないかな?」
「…? 正気か? アレを経験して、コレを見て、それでも入ろうってのか?」
「だってー☆ コウはみんなの」

私はこの先を珍しく予想できた。

「アイドルなのです☆ ぶいっ!」

そうだろう、姉さんはそうだ。そうするしかないのだ。きっと姉さんは笑顔のためにその身を捨てるのだろう、誰かの安らぎの為にその身を窶すのだろう。私は姉さんに続く。私は決意した。剣の表情も私と同じことを考えているようだった。

「私も、お願いしても構いませんか、ニックさん」
「俺も頼む。姉ちゃんがそういうってんなら、俺達は行かなくちゃいけねえ」

姉さんはきっと私たちに笑いかけるだろう。殺人者に向けるモノと同じその笑みを。
多くの喜びを、悲しみを、怒りを、その笑いで姉さんはフラットに還す。姉さんは、アイドルだから。

姉さんがそう考えるのならば、姉さんが危険に対して飛び込んでいくというのなら、私は姉さんを護る破魔の鏡となろう。
私たちはきっと、その役目を与えられたのだ。…誰から? おそらくは、大きな何かから。
ニックがまるで怪物を見るような目で私たちを見る。姉さんは笑っている。

───私はそれで満足だ。私たちは姉さんを護り、姉さんを、いつの日か。


───幼い頃から見ていた夢の中。

何処かライトに照らされた舞台の上。

私と剣は共に歌い、踊っている。観客は熱狂、最高のパフォーマンス。
姉さんが舞台上に上がる、満面の笑みを以て。観客は静まり返る、姉さんは笑う。

観客をよく見ると、今までの夢の中で姉さんを殺した人々だ。彼らはこの舞台に上がれない。
私たちはアイドルで、彼らは観客なのだから。お前たちはそこで託しておけ。

そして私と剣は片手に花束を握る。そして、空いた手に銃を握る。
残酷で不条理で、そしてそれでも生きて行かなくちゃいけないこの世界。
銃口を姉さんに向ける、花束を姉さんに差し出す。私の表情は自分ですら分からない。

姉さんは。

生贄の巫女、国を傾かす飛縁魔、魔女と裁かれた聖女、プロパガンダと化した光芒、実験室の怪物。

笑っていた。笑っていた。笑って、いた。

───その顔は、私たちの愛する、姉さんの顔だった。そして私たちはアイドルで。

暗転、銃声、三発。拍手、喝采、歓声。カーテンコールも、アンコールも無い。偶像は此処で奈落に落ちた。

だから、私にとってこれは悪夢以外の何物でもなかったのだ───。
だから、私は悪夢を見続けるのだ───。
だから、私がその最期を───。

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