一狐之腋
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 昭和十年六月、那須温泉の付近に住む鈴木某という男の妻が、夜ごと繰り返される夫の不審な行動に気付いた。少し前から、夫が深夜に家を抜け出してはどこかに出かけているようなのだ。すわ不義密通かと、ある夜夫の後を付けてみれば、その行き先は予想に反して集落を離れた山腹の荒れ地。火山ガスのにおいが鼻を突く岩場の中に、夫は一人で突っ立っていた。
 妻はその場所を知っていた。古来より名高い奇岩の鎮座する場所。夫の目の前に横たわっている大きな岩こそ、世に言う那須の殺生石に他ならない。平安の昔、世を騒がせた九尾の狐が、朝廷の兵に追い詰められて身を変じたという曰く付きの岩。
 そんなところで夫は何をしているのだろう。
 お前さん、どうしたんだい。妻は夫に問うた。返事はない。夫はおもむろに腰を屈めたかと思うと、妻のほうへと振り返った。
 その夜は満月だった。まばゆいほどの月明かりを受けて、見知ったはずの夫の顔が闇夜に浮かび上がった。その顔は血が抜けたように蒼白で、その表情は魂が抜けたように呆けていた。ただし唯一の例外として、夫の目は、その両の瞳だけは、まるで獣のように爛々と燃えていた。
 夫の右手には大振りの石が握られていた。腕を振り上げながら近寄ってくる夫の、殺意に満ちた視線に見据えられて、妻は確信した。
 狐だ。夫は狐に憑かれているのだ。
 衰弱しきった夫の遺体と、大怪我を負って気絶していた妻が集落の外れで発見されたのは、明くる日の朝のことだ。

 元号が平成に変わってからしばらく経った頃。大学で研究をしていた私がひょんな事から財団に引き抜かれて二年目の、とある夏の日。私は愛車の運転席に坐って首都高速を走っていた。助手席には卒寿を控えてなお矍鑠とした皺だらけの老爺が乗り込んでいる。彼は私と同じく財団で研究職に就いている老博士。私の直属の上司に当たる人物だ。二人で車に乗ってどこに行くのかと問われれば、正直なところ私も判らない。今朝の出勤早々に突然、少しドライブにでも行かないかと博士から誘われたのだ。
「一体なんの用です」
 私は博士に尋ねる。まさか本当にドライブしたいだけということはあるまい。
「実は、君に任せたい仕事があってな」
 嗄れた声で、博士はそんな風に話を切り出した。
「サイトの中では話せないような仕事ですか」
「本当は俺が引き受けるべき仕事なんだが、なにぶん俺はもう老い先短い。無理せず誰かに任せてしまうのが現実的だろう」
「その口振りだと、随分と長くかかる任務のようですね」
「ああ。そして何よりもまず信用できる相手に引き継がないといけない。この二年間、毎日のように君を見てきたが、君は信用の置ける男だ。君にならこの仕事を任せられる。頼まれてくれるか」
 分岐点ごとに進行方向を指定する博士に従って、私は車を走らせる。車は川口ジャンクションで首都高に別れを告げ、東北自動車道を北上していく。
「お受けしますよ。そこまで言われては断れない」
 博士は安堵したように、小さく溜息をついた。
「どれ、それではひとつ、年寄りの昔話にでも付き合ってもらおうか」
 助手席の背もたれをもう一段低くしてから、博士は淡々と語り始めた。
 ここからは博士の語った話だ。


 日野謙一郎と初めて出会ったのは昭和九年の秋だった。九月に近畿を襲った室戸台風による蒐集物の被害調査のため、私は東京を離れ、京都の蒐集院内院に出張していた。伏見稲荷周辺の検分に、日野は内院側の代表者の一人として参加していた。
 日野という人物のことを、私は会う前から一方的に知っていた。不惑にも満たぬ若さで一等研儀官にまで昇進した才英の噂は遥か東京の本院までも届いており、底の知れない奇人らしいと皆が口を揃えていた。曰く、愛宕権現の怒りに触れて神職を辞した。曰く、土御門家断絶以来忘れ去られていた陰陽道の秘儀を再発見した。曰く、洛中に潜む怪物を捕らえては自分の家来にしている。眉唾ものの無責任な逸話は枚挙に遑がなく、そのせいで私は彼を、内心ひどく警戒していた。
 実際に会ってみると、日野は予想に反して穏和そうな笑みを湛えた好人物だった。黒のスーツ姿に白い肌が映えていた。背丈は平均的だったが、極度の痩身のせいか実際より少し高く見えるのが印象的だった。
 京都で働いている間、私と日野はことあるごとに出会い、出会うたびに親交を深めた。日野は私の仕事ぶりを高く評価していたらしく、また私は私で日野の人物像に興味津々だったので、謂わば二人の利害が一致した形となっていた。一ヶ月に及んだ出張の最終日、私は日野から夕食に誘われた。後から知った話だが、彼が他人を食事に誘うことなど普段は滅多にないのだという。
 日野は伏見にある一軒の料亭に私を連れていった。迷わず二階に上がって襖を開けた日野に追従して座敷に入り、向かい合わせに腰を下ろした。
「鱧は好きかい」
 唐突な質問に、私は曖昧な相槌を打った。
「なら期待するといい、ここの鱧は絶品だから」
 間もなくして料理と酒が運ばれてきて、ささやかな宴会が始まった。私は緊張してはいなかったが、どうにも堅苦しさが抜けなかった。知り合いになったとはいえ、仕事以外の場で日野と会うのは初めてだった。
 日野は酒をよく呑んだ。おそらくは私の倍以上は呑んでいただろう。それだけ呑んでいながら、日野の顔はいつまでも白いままだった。私が話を切り出せないでいると、日野のほうから私に話しかけてきた。
「君は前から僕のことを知っていたようだけど、東京では僕はどんな風に言われてるんだい」
「ああ、みんな口を揃えて、凄い人だと言っているよ」
 私は日野に敬語を使わない。それは他ならぬ日野自身からの要望だった。ちなみに正確には「凄い変人」だ。敢えて口にはしなかったが。
「そうかい。光栄だね」
 日野はさして嬉しそうな顔もせず答えて、お猪口を呷った。ごくりと酒を呑み込んでから、私の目をじっと見つめてきた。
「だけどね、僕なんて大した人間じゃない」
 そう言った日野の表情は、謙遜でも自嘲でもない、真剣そのものだった。出会って以来どこか飄々としていた彼の、隠された顔を垣間見たように感じた。
「そりゃあ今の自分が蒐集院で屈指の才能を持っているという自覚はある。だがまだ足りないよ。僕が古い陰陽術を再発明した話は知っているかな」
 私は肯いた。それは東京でも噂に聞いていた彼の武勇伝のひとつだった。
「僕が見つけたのは千年前に安倍晴明が編み出した術のひとつだ。彼の子孫が途絶えて以来、誰もその術を使えなくなっていた。それを僕はもう一度、十年をかけて一から作り上げた」
「聞いているよ。間違いなく後世にまで残る功績だ」
 それは私の率直な見解だった。
「そうかもしれない。だが、それが僕の限界だ。僕が十年かかって完成させた陰陽術は、千年前の陰陽師が遺した莫大な業績の焼き直しでしかない。化け物共と対等以上に渡り合うには、もっと人間離れした才能が必要だと僕は思っているんだ」
 そこで日野は口を止めた。両の目は相変わらずこちらを見据えている。お前はどう思う。そう訊かれているかのようだった。
「でも、そうなったら人間は」心地の悪い引っかかりを感じながらも、私は言葉を続けた。「もう人間ではなくなってしまう」
「その通り」
 日野の顔が少し緩んだ気がした。どこか不気味な笑みだった。背中にぞくりと悪寒が走った。

 翌年の七月、私と日野は上野駅で再会した。偶然ではない。日野がある事件の調査のために関東を訪れることとなり、その案内役として私を指名してきたのだ。群衆でごった返すプラットホームの一角で私達は落ち合い、北へ向かう汽車に乗り込んだ。
 目的地は栃木県那須高原。聞くところによると、かの地では六月の中頃から奇妙な事件が頻発しているそうだ。なんでも住民が次々と狐に憑かれ、狂ったように人を襲うという。
「東京の連中が手をこまねいていると聞いたから、僕が一肌脱ぐことにした。力を貸すと言ったら、是非とも頼むと懇願されたよ」
 一等車の座席で揺られながら、日野はそう教えてくれた。研儀官としての日野の専門は妖狐の研究であり、その分野では第一人者である。そんな日野からの申し出だから、本院のお歴々も渡りに船と飛びついたのだろう。
「僕から名乗り出ておいて言うのもどうかと思うが、こう易々と頼られるとは思わなかったね」
「外面に構ってもいられないんだろう。八月になれば御用邸に『御一家』が来る。それまでには片を付けねばならないし、それに那須といえば殺生石の伝説もある。不安なんだよ」
 私は懐から煙草を一本取り出して火を点けた。二人の間に紫煙がくゆる。
「君も一本どうだい」
「いや、遠慮させてくれ」日野は掌をこちらに向けて固辞した。「僕はどうも火難の相が強くてね。目的地に着く前に客車が焼けては敵わない」
「これは失礼。流石は天下の陰陽師様だ」
「おや、それは皮肉かい」
「気分を害したか」
「まさか」日野は笑った。「面白い奴だよ、君は」
 それはこちらの台詞だと私は思った。時刻は朝の八時過ぎ。汽車は浦和駅を発ったところだった。

 長い梅雨を抜けた那須の空は、見渡す限り爽やかな晴天であった。宇都宮で電車を乗り換えた私達は黒磯駅で黒塗りの公用車に迎えられ、今は主のいない那須御用邸へ入った。
「これはこれは、日野謙一郎一等研儀官でいらっしゃいますね。お噂はかねがね」
 玄関先で待ち構えていたのは鼠のような顔をした壮年の男。この男も勿論蒐集院の職員だ。切って貼ったような笑顔で日野に恭しく挨拶をしている。その表情や仕草はまるで腫れ物にでも触るかのようだ。日野による事件への介入を快く思っていないのは明らかだった。上っ面だけの敬意が白々しい。
「長旅でお疲れでしょう。お部屋を用意しております」
「そういう案内は後でいい。早速で悪いが、犠牲者の遺体を見せてくれ」
 梯子を外されて調子が狂ったのだろう。鼠男氏の作り笑いが剥がれ、不快感が露わにされた。
「そうですか。遺体は地下です。どうぞこちらへ」
 次の瞬間にはもう、鼠男氏の顔は作り笑いに戻っていた。

 階段を降りた先はひんやりと涼しかった。地下の一室、殺風景なコンクリート製の部屋の中央に手術台のようなものが置かれ、成人男性の遺体が横たえられている。日野はその亡骸を、爪先から頭頂部まで食い入るように観察した。
 身を屈めた体勢のままで、日野は左手だけを動かして私を招いた。
「こっちに来て君も見てみろ」
 私は日野の隣に立った。日野は親指と人差し指で遺体の瞼を開いて、目の中を見るよう私に促した。
「ほら、虹彩が黄色に変化している。狐憑きの典型的な特徴だよ。それにこの毛髪。少し褪色しているのが判るか」
 なるほど、言われてみれば確かに遺体の髪は少し色が薄い。
「長く憑かれていると、これが金髪になるんだ。この人物はそうなる前に息絶えたようだが」
 ひとしきり観察した後、日野は遺体の目許に掌を添えて、丁寧に瞼を下した。
「どうです。どのくらいで退治できそうですか」鼠男氏が日野に尋ねた。「できれば今月中には終わらせていただきたい」
「安心してくれ。そんなに待たせはしない」にやりと口角を上げて、日野は言い放った。「一週間。いや、五日もあれば終わるよ」
 その態度を自分達への嘲笑だと受け止めたのだろう。鼠男氏は苛立ちを隠そうともせずに詰め寄った。
「さぞ自信がおありのようですな。一体どのような策を披露してくれるのです」
 刺さりそうなほどに突き付けられた敵意を意にも介さぬ様子で、日野はつらつらと講釈を始めた。
「尻尾が裂けたばかりの未熟な妖狐が人間に憑くと、人間の魂の味を憶えて、それなしではいられなくなることがある。これは獲物となる人間の側からすれば極めて危険な状態だが、一方で著しく分別を失った状態でもある。つまり、魂を食いたくても食えない状況を作ってやれば、狐はたちまち餓えて、人間の前に姿を現す。そこを叩く」
「だが、餓えた化け物は暴れるぞ」
 鼠男氏が不満げに口を挟む。
「その通り。だが、その点は僕に考えがある。まずは奴をおびき出すことだ」日野は手提げ鞄を開いて、中から褐色の瓶を取り出した。「ここに僕の調製した軟膏がある。小指の爪くらいの量を取って霊台穴に塗ると憑き物を防ぐことができる。狐憑きの発生範囲の住民全員にこれを塗ってきてくれ」

 三日後の深夜、私と日野は那須湯本の溶岩の上に立っていた。殺生石の傍に並び立つ私達を遠巻きに囲むように、現地の職員が十人ほど控える。私と職員達は防毒面を着け、手には猟銃を携えて妖狐の出現に備えていた。万全の態勢で獲物を待つ集団の中にあって、日野だけは防毒面も銃も持たず、普段と変わらない背広に狐の面という出で立ちであった。伏見稲荷の加護を受けたというその面はどこか滑稽であり、同時にどこか不気味であった。時刻は丑三つ時に差しかかっていた。
 にわかに空がかき曇って、満月が姿を隠した。岩場の各所からシュウシュウとガスが噴出して、防毒面越しでも判るほどの強烈な腐卵臭が周囲に立ちこめた。私は両手で銃を構えた。
 私は目を凝らした。所々から噴き出す白煙に紛れて、一匹の獣の影が動いているのを見た。獣は少しずつこちらへ近寄ってくる。
 予想していた通り、それは狐だった。顔の辺りの毛は白く、尻尾はふたつに裂けている。白面金毛双尾。まだ妖狐に変じて間もないようだが、その力は侮れない。
 引き金を引こうと指に力をかけたとき、構えた銃が錆び付いていることに気付いた。周囲を見れば他の職員の銃も同じ状態らしい。首筋を冷たい水が垂れたかと思うと、空模様はたちまち豪雨に変わった。
 目の眩む閃光と同時に爆音が響く。すぐ傍に雷が落ちたのだ。為す術のない職員達はただ狼狽するばかり。悲鳴にも似た大声が方々から聞こえてくる。日野は何をしているのだろう。篠突く雨と火山ガスの噴煙で数メートル先さえ見えなくなっている。
「日野、どこだ。返事をしろ」
 叫んだ声は防毒面と雷鳴に阻まれてかき消える。さっきまで日野が立っていた辺りには、もう誰も見当たらない。
「日野、聞こえるか」
 日野の姿は一向に見えない。日野だけではない。同伴していた職員達も、尻尾の裂けた狐も。一人きりの世界に投げ出されたような錯覚を起こして、私は今にも気が触れそうだった。
 不意に何者かに肩を叩かれた。反射的に振り返るとそこには日野がいた。奇妙な狐面はいつの間にか外していて、いつもの飄々とした表情が露わになっていた。日野はやけに満足げな顔をしていて、それを見た私は深い安堵感に襲われた。
「やあ、終わったよ」日野は言った。「この事件はもう終わった。これでもう大丈夫だ」

 一人の犠牲も出ることなく、日野の「狐退治」は終わった。これで本当に事件が解決したのか半信半疑の職員達も、自信たっぷりな日野の態度を前にしては何も言えなかった。あのとき一体何をしたのかという問いに、日野はこう言って答えた。
「簡単さ。狐を直接説き伏せて、もう悪さをするなと説得したんだ」
 それ以上の質問や異議に対しては、日野はただのらりくらりとシラを切るばかりだった。

 翌日の午後に、日野は西への帰途に就く手筈だった。
「事後処理をみんな任せてしまって済まないね」
「構わないよ、君も忙しいんだろう」
 御用邸の一室で喋っていると、窓の外から自動車の走ってくる音が聞こえた。
「迎えが来たようだ。悪いが一足先に出発させてもらうよ」
 私達は玄関先に出た。車はゆっくりとした速度で我々の傍まで近付き、停止した。黒服の運転手が降りてきて、うやうやしく後部座席のドアを開いた。
 開いたドアの隙間から、奥の座席に坐っている女性の姿が垣間見えた。暗い色を基調とした車内にあって、女性の白い服と白い肌は嘘のように際立っていた。まるでその部分だけが、すっぽりと世界から切り抜かれたかのように。
「あれは誰だい」
 たまらず私は質問した。
「ああ、彼女か。彼女は僕の細君だよ」
 日野はさっさと車に乗り込んで、車は御用邸から走り去った。空は青く晴れ渡ったままだというのに、ぱらぱらと小雨が降り始めていた。

 それから十月十日経った頃に、日野は父親になった。一人息子で、名を小十郎と言った。
 財団が日本に来たとき、日野は財団には入らずにこの業界を抜けた。もう自分にできることは全て済ませたと言っていた。引退後の日野は栃木に隠棲した。そこが妻の郷里だと言っていた。あの日に一瞬だけ見かけて以来、日野の妻に会うことはついぞなかった。
 小十郎は蒐集院や財団のことは何も知らずに育った。蝶よ花よと大切に育てられたらしいが、ようやく一人前になったという矢先、新妻と幼い娘を遺したまま早世した。
 日野は七十で死んだ。彼の死の直前になって、私は彼に突然呼び出された。今際の際の彼は枕許の私に、自分の孫娘のことと、将来生まれるであろう曾孫のことをよろしく頼むと言い遺した。それが日野謙一郎の、稀代の才英と謳われた男の、あまりにも平凡な最期の言葉だった。


「そして昨日、日野の孫娘、日野小百合に娘が産まれた」
 車はひたすら単調に高速道路を走っている。長い話はようやく終わりに差し掛かっているらしい。博士は上体を起こして小さく伸びをした。
「だが、その娘が少し変わった姿をしていてな」
 変わった姿。その語が単なる畸形などを指すのではないことは明らかだった。
 県境をふたつ越えて、車は栃木県内のとある私立病院に辿り着いた。
「じゃあ、後は頼んだ」
 博士を助手席に残して、私は車を降りた。曇った空に病棟の白がよく映えていた。
「日野の遺言を聞いたとき」
 博士の言葉に、私は足を止めた。
「あのとき、ひとつの物語が終わったんだと俺は思った。だが、今ならあいつの言葉の意味が解りそうだ」
「どういう意味です」
 病棟のほうを眺めたまま、博士は答えた。
「単純なことさ。何も終わってなんかいなかった。いや、何も始まってすらいなかったんだ」

 白い壁とリノリウムの床。長い廊下にいくつも並ぶ引き戸のひとつを目に留め、その手前に立ち止まる。扉の傍らに掲げられたプレートには「面会謝絶」の四文字が大書されている。日野小百合はこの扉の向こう側で、入院という名目の軟禁状態にある。産まれたばかりの我が子の「異常」を前に取り乱さないよう、彼女は財団医療部門による精神安定処置の下に置かれているのだ。この病院が財団の隠れ蓑だということも、当然彼女は知り得ない。
「失礼します」
 引き戸を開けて病室に入る。ベッドから上体を起こした姿勢の小百合は、突然の見知らぬ来訪者に目をぱちくりとさせた。
「今日から担当になります、医師の阿桜と申します」
「初めまして。日野小百合です。よろしくお願いします」
 肌の白い女性だった。肩まで真っ直ぐに伸びた黒い髪と薄手の患者服が、ほっそりとした首筋のその細さを際立たせている。
「御出産おめでとうございます。母子共にすこぶる健康ということで何よりです」
「ありがとうございます。これも先生方のおかげです」
 そう言って、彼女は傍らのベビーベッドに目を遣る。ベッドの中に小さな赤ん坊が居るのが見える。
「名前は、もうお決まりですか」
「千春と言います。千の春と書いて、千春」
「千春ちゃん、ですか。いい名前ですね」
 千春と名付けられた赤ん坊は、すうすうと静かな寝息を立てて眠っている。その頭頂には、獣のような尖った耳が一対、柔らかそうにひくついていた。私はベビーベッドの縁まで近寄る。
 博士の口を介して聞いた日野の言葉が頭から離れない。化け物と対峙するために日野が求めた力。人間離れした才能。日野は一体何を思い描いていたのだろう。ふっくらとした赤ん坊の無垢な寝顔を覗き込んで、これから彼女が辿る運命を想った。
「千春ちゃん」傍らの母親にも聞こえないよう、私は小さな声で囁く。「おめでとう。財団へようこそ」


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