ベイビーピンクをぶちまけて
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たった一人にかわいいって言ってもらえたら、それでよかったはずなのに。

そのためならなんだってできた。マロンブラウンのカラーコンタクトは痛みとひきかえにあたしの瞳を大きく見せて、夜より真っ黒なマスカラとリキッドアイライナーは目元を華やかに飾った。アイプチを入れて偽造した二重のまぶたは、ネオンの下だとむしろ溶け込むみたいに自然に見えた。涙袋はやりすぎなくらいラメで盛って、たっぷりの薄いピンクでふんだんに彩る。笑うとピンクの光の筋が持ち上がって、目の下にティアラを飾るみたいになる。

唇に合わせる色は鬼のようにバズってて品切れ続出の限定色、きらきら輝くリップグロス。買うためにそれこそ鬼のような形相でドラッグストアを五軒回って、ようやく見つけた最後の一つに手を伸ばした。
その苦労が報われるほど、コーラルピンクのケミカルな液体はあたしによく似合っていた。唇に乗せるとラメできらきらとあたしを彩って、シャンデリアの明かりにきらめいてここにいるって合図した。

首筋から立ちのぼるショッキングピンクの薔薇の匂いは、五回目の誕生日イベントの時に君が好きな香りって言ってたから買った。たったそれだけであたしはこの液体にいくらだって出せた。男ウケするって美容垢の売り文句に釣られて、それに加えてデパートの店員の美辞麗句。「デートにもおすすめで、他の子とは違う匂いでアピールできる」とか言ってたけどあんま覚えてないし、嘘か本当かすらどうでもよかった。
君と会う時しか使わないあたしだけの匂い。君の中のあたしの匂いがそれであってほしかったから。

桜色のリボンがついた真っ白なブラウス。それに膝丈より少し短い、黒いフレアスカートを合わせた正装で武装して、あたしはネオン街のド真ん中に立つ。リボンとフリルとビジューで飾った10センチはある黒い厚底が、吐瀉物と安酒と終わっちゃった夢がぶちまけられて固まったアスファルトでミシミシ音を立てている。
この街では誰かが泣いてるのなんて日常の一コマでしかなくて、それでもあたしはよりによってここで泣くことなんてないだろって思ってた。ぎらついた人工的な明かりと誰かの欲望が瞬くこの街ではどんな感傷だって安っぽいポエムもどきになってしまうから、わざわざその一部にならなくたっていいしなりたくもないと思ってた。昨日までは。

あたしは、今、24歳。

何してたってあたしを選んでくれなくたって大好きだった王子様が、この街にごまんといるような女の手を取ってネオンけばけばしいショッキングピンクのホテルに連れ込むのを見てる。

女といるところを見てとっさに刺すって思考が浮かぶくらいホス狂にはなれなかった。それでもありったけ通い詰めた。ランドセルみたいに小さいハイブランドのリュックに札束と愛、っていうのを詰め込んで、シャンパンタワーを終わらない夜に何度も立てた。不夜城みたいな淡い金色の輝きとそれに照らされた王子様の笑顔だけが、あたしの信じられるおとぎ話だった。

いっそタイプが違う女なら諦めがついた。
芸能人ならまだよかった。スキャンダルになってくれたら、千年の恋も冷められた。
それなのに王子様が選んだシンデレラは、この街を見渡せばどこにでもいる格好の、『量産型』の女だった。
靴はガラスでできた重くて素敵なオーダーメイドじゃなくて、黒い厚底。着ているのはくすんだピンクと黒いレースのワンピース。ピンクをたっぷり使ったメイク。ツインテールについた白いリボンが少女性ってやつの名残みたいに、今更清純ぶるみたいにひらひら揺れていた。

似たような格好でもディテールも、ブランドも、色の名前すら違う。同じようなワンピースだって、まとうきっかけになる一目惚れの仕方も着こなし方もそれぞれ違う。中身が、肉体が違うから。
脳の構造だって同じじゃない。似合う服だって、一人一人全く違う。
皆、ただこの場に合った服を着ているだけ。
同じなのはたったそこだけ。誰かにかわいいって言ってもらうためとか、その言葉ごとお金に替えるためとか。こんな風に、目的だって全然違うのに。
それなのに何も知らない誰かはあたしたちのことをまとめて『量産型』って呼び捨てる。嫌悪と嘲笑を絡めて、十人十色の事情も理由も無視して鼻で笑い飛ばす。
王子様に選ばれたのはその極みみたいな女。
つまりは、あたしと同じタイプの女だった。

ねぇ、あたしの手首から香る早摘みの薔薇の匂いもその女の濃くて分厚いメイクも、目の前のホテルの目に悪いネオンも、王子様にとっては同じショッキングピンクだったの?この街に散らばったピンク色なら誰でもよかったの?
そうでしょ、だってその女がそこにいるのが何よりの証拠でしょ?

お城みたいなラブホのネオンに照らされて、つまんなそうな女の顔が見えた。
レースの白いリボンで彩られたツインテールの向こうは、あたしより絶対、絶対にブスだった。

あたしは夜に立ち尽くす。ラメの混じったグロスが唇を噛んだ拍子に口に入って、この世のものとは思えない憎悪の味がする。パールで作られたハートと薄桃色のリボンが連なったピアスがあたしを苛むように重く揺れる。
どうしてあたしを選んでくれなかったんだろう。
あなたにならこの一夜だけじゃなくて、何日だって何度だってあげられる。人生だって捧げられたのに。現実は赤と白のボーダーでできたゴミ箱に吐き捨てて、あたしの前では夢だけ見せてほしかった。

泣きながらの敗走だけはしたくなかった。炎上狙って拡散するのもみっともなくて嫌だったし、第一決定的証拠ってやつを撮ってなかった。
だからあたしは夜に立ち尽くしてた。
煙草。下品な香水と嘔吐した後の酸っぱい匂い。もしかしたら誰かが誰かを刺したりして、地面に向かって飛んだりした血。それに加えて終わっちゃった夢とか、恋とか。
それから愛が降り積もって、真っ黒な地層になった。そんなこの街のどろどろの夜に立ち尽くしていた。
遠くから聞こえてくるのは誰かの泣き声と怒鳴り声。近づいてくるのはパトカーのサイレンと、酔ったおっさんの臭い息。J-POPとか漫画とかだとおあつらえ向きに雨の一つでも降ってくるもんだけど、この街はそんなに気が利いてない。

結局お城みたいなホテルを10分くらい睨みつけて存分に呪いをかけてから、厚底を引きずるようにしてあたしは埃っぽくてやたらと灰色な地下鉄の駅に向かった。逃げた訳じゃない、と切られたように痛む心に言い聞かせながら。
駅の入り口でもう一度振り返ると、ホテルはここからでも分かるくらいにピンク色の下品なネオンで主張していた。あたしを照らすのは白色の切れかけた電灯だけ。それはまるで夢と現実の差みたいで、だからあたしは逃げたんじゃない。
足音を立てながらこの夜を構成するもの全部を踏みにじるみたいに階段を降りていく。目を覚ませって言うようにやたらと大きく靴音が響く。
その音から目を逸らすように見上げると、擦り切れかけた広告には吐き気がするほどかわいい名前も知らない女と、『そのままの笑顔のあなたが一番かわいい!』なんて何も分かってない能天気なスローガン。
間違いなく今一番見たくない言葉を浴びて、あたしは厚底で思い切り階段を踏みつけた。ワンカップの瓶がそれに怯えて、階段の下の暗がりに転がっていく。割れちゃえ、あんたなんか。あんたたちなんか、全部全部全部。
名前も知らないモデルとやらが、本当に踏みつけたい女の顔に重なって見えた。


「シミとシワにお悩みのあなたに!今日ご紹介するのはこちらの」
「女性100人が選んだ、付き合いたい男性芸能人といえば」
「夏こそモテ意識のサマーコーデ特集ということで」
バカみたいに明るい声が頭の中で暴れまわって、あたしは十二時間あまりの眠りから覚めた。どうにかこうにか顔を上げて、ぐっちゃぐちゃの部屋で頭に響く音の正体を探す。やたら音が近くに聞こえるし視界も明るいと思ったら、つけっぱなしのテレビが原因だったらしい。
テレビのリモコンを空き缶やアイシャドウや、色んなものが乱雑に積み重なったテーブルからどうにか探し当てて、チャンネルを三つくらい切り替える。それから電源を苛立ち混じりにぶちっと消した。あたしの中から浮き上がるルッキズムがポップなガワで取り繕った正論と一緒くたに突きつけられるだけで、どうせろくなものがやってない。
昨日の夜ストローで喉にぶち込んだロング缶が殴るみたいな頭痛を連打してきて、あたしは怪物みたいな声を上げながら低いテーブルにつっ伏す。
昨日の記憶があんまりないのに一番忘れたかったことだけは脳裏にしっかり焼き付いていて、それから気をそらすために周りをぼんやりと見る。薄暗い部屋の荒れっぷりを見るに、深夜に帰ってきて武装のままメイクも落とさず泣き喚いてから、それにも飽きて寝てたらしい。

何だかもうどうでもよかった。
あたしの武装は、つまりはいつものフルメイクとセットアップのコーディネートは、何よりもたった一人に見つけてもらうためのものだった。
厚底で身長を盛って、そうすればきっと目が合うって思ってた。夜の街を見渡せばどこにでもいるようなファッションの真似から始めた武装だけど、紛れもなくたった一人のための正装だった。
そのままのあたしで会いにいけるほどあたしは強くなかったし、あたしの24年の人生がそれを裏付けていた。投げかけられた言葉にあたしの生まれ持った美しさとやらを褒めるものはなかったし、素顔についても同じだった。
だからあたしはかわいくならなきゃいけなかった。誰よりも。
王子様に見つけてもらって、本当のお姫様になるために。

一番かわいい自分で会いにいって、覚えていてほしいと願って。もっと深く繋がりたいと望んで、その結果がこのザマ。
白雪姫に出てくる鏡があったって、きっとあたしが一番かわいいなんて言っては貰えないしそんなこと言って欲しくない。純金でできてるみたいにバカ高いグラスの中の液体を飲み干して、低くて甘い声で言われるたった一言のためにあたしは簡単に全てを投げ出せた。

嘘でもいいから、かわいいって言われたかった。

半日くらいメイク落としてないから肌は荒れてるだろうし、マスカラはきっとパンダになってる。帰ってきてから何も食べてないっていうのに、どこから出てるのかもはや分からない水分が目からこぼれ落ちそうになる。
パンダみたいな目元になっても構うもんかと表面張力とあたしの目力だけを信じてごしごし目を擦ると、夢の残り香みたいなラストノートのホワイトムスクが右の手首から今更みたいに香って、柔らかくてやたらといい匂いだった。

アルコールと化粧品。それから香水で作られた沈殿した空気が支配するワンルームに、場違いなくらい明るいインターホンの音が鳴り響いたのはその時だった。

「あ……?」
地獄の釜から湧き出たみたいな掠れ声のまま、あたしはのろのろと絶望から這い出る。
朝だか昼だかよく分からないけど、こんな時間に訪ねてくる人間はあたしの周りにはいないはずで、だからまぁセールスか何かなのだろう。

八つ当たりで、若い男か女だったら怒鳴ってやろうと思った。
でもあたしの部屋の前にいたのは今どき見ないようなレトロなピンクのスカーフと黒いスーツの、あたしの母親よりはちょっと若いかってくらいの女だった。

「こんにちは、イワナガ美容組合のミヨコと申します」

何だか懐かしい声だった。前にテレビで見た昭和の女アナウンサーか中学の時の教師みたいな、やたら高くてはきはきした声。この商品をあなたに届けるのが生き甲斐なんですって感じの、希望に溢れまくった声。
あたしがいたアルコールだらけの夜には似合わないし、そこで聞いたこともない声だった。

「セールスなら帰って」
相手できる精神状態じゃなかったから、とりあえずそう言ってドアを乱暴に閉めて二度寝しようとした。朝とか昼とかそういう色の明るい世界が似合いそうなこの女の前だと、あたしは余計惨めになりそうだった。
「いいえ、本日はお客様のお呼びで来たんですのよ」
「……は?」
なのにミヨコ、と名乗ったその女はあっけらかんとそう言って、だからあたしは無視して寝るタイミングを失った。

いや、呼んでないんですけど?

詐欺とか押し入り強盗とかそういうワードが今更みたいに脳裏を駆け巡る。
見た目は上品なジャケットとタイトスカートだけど、そういえばスカーフと同じ色の帽子で目元が見えない。だいたいミヨコなんて聞いたことない。こっそり検索するにも通報するにも、充電中のスマホはこの距離からはちょっと手に取れない。
こういう時ってマンションの管理人に電話だっけと考えているあたしを差し置いて、ミヨコとやらは咳払いを一つ。
「これが、お客様が心の中で呼んだお客様。あなたがずっと望んでいた、世界一かわいいあなたです」
そう言って、恭しくハットを脱いだ。

そこにあったのは、誰より綺麗な顔だった。

アイドルだって勝てっこない、自然なのに怖くなるくらいにかわいい顔。
ぱっちりした二重の瞼、注射なんてしてなさそうなのに桜の花びらみたいに浮かぶ涙袋、三日月形の小さいのに艶めかしい桃色の唇。パーツの一つ一つが整形でもしたみたいに整ってる。黄金比って言葉がしっくりくる顔。一目見れば百人中百人がかわいいって即答できるのに、似てる芸能人が一人も思いつかない。

呪縛みたいにあたしの中で幼いあたしが喚き散らす。この顔になりたいしなるしかないって。

絶対にアルコールだけのせいじゃない、がんがんと痛む頭の中で、白いリボンをつけた女が唇を釣りあげて笑った気がした。間違いなく、目の前のこの顔よりは絶対、絶対にブスだった。

誰よりかわいくなりたいの。

ねぇ、あんたはかなえてくれるの?

「その顔になる方法があるんでしょ、どうしたらそうなれるの?」
ドアを蹴破る勢いで飛び出して、ミヨコが黙っているのをいいことにあたしは無我夢中でそう言った。あたしはならなきゃいけないと思った。その権利があるんだって思えた。

この顔にならなきゃきっと、生きてる意味なんてなかった。

ミヨコはにっこりと微笑んで、囁くように柔らかな唇を引きあげた。甘くて柔らかくてみずみずしい、顔に合わせてあつらえたみたいな綺麗な声だった。
「とっても簡単ですわ。このリップをお使いいただければ、あなたもあっという間にミヨコになれますから」
そう言ってミヨコがバッグから取り出した小さな四角い長方形を、あたしはひったくるようにして手に取った。飢えとか渇きとかそれよりもっと強烈な衝動で、あたしはこれが欲しかった。
「まぁ……うふふ、素敵なお嬢さん。量産型だなんて世間は申しますけれど、それの何が悪いのかしら。画一化された理想のかわいさ。美のモデルケース。不揃いな肉の器が私どもの手でたった一つの美しい形に染まっていくなんて、本当、夢のようじゃありませんこと?」
ミヨコの声がBGMになって、あたしの渇望をかきたてた。囁くようなその声に、あたしの願望は許されたんだって分かった。
ピンク色の塊を手に収めると根拠のない万能感が湧いてきて、これできっと、やっと生きていけるんだと思った。

「美しくなるのは何よりも素敵なこと。誰よりかわいく、なりたいでしょう。美しくなりたいでしょう」
なれるんですのよ、私たちなら。その権利があるんですもの。
ミヨコの甘い声が呪文みたいにこだまして、あたしの耳の中でいつまでも、いつまでも響いていた。


荒れ果てた部屋をかき分けるようにして、ドレッサーの周りを整えた。鏡の前に座るあたしは、チークもつけてないのに頬が上気している。そっと手に持ったリップを見て、恋してるみたいなため息をひとつ。

初めて化粧をした時も、こんな幸せな気持ちじゃなかった。あたしにとって化粧はかわいくなるための手段で、世界への抵抗で。なんでこんな顔に産んだの、なんで何もしなくたってもっとかわいい子がいるの。
世界って、現実って、あたしに全然優しくない。いっつもそう。本当に欲しいものに限って絶対手に入らないし、あたしの上位互換ばっかりいるし。あたしには良さが分かんないようなものが、びっくりするほど世間様では高評価で、なのにあたしにつくのは低評価ばっかり。

でも、それもきっと、今日でおしまい。

リップの蓋を開けると、出てきたのはベイビーピンク。パッケージとお揃いの、薄くてかわいい桜色。
滑らせるように、あたしはそっとリップをくり出す。空気に触れた瞬間から、周りがきらきら輝くのが分かる。ぐちゃぐちゃのワンルームも、リップにピントを合わせて見ると何だかかわいく見えるくらい。
はじめに小さく、息を吸った。それから鏡の前で薄く広がった唇に、そっと、ベイビーピンクのラインを引いた。

「写真、撮らなきゃ」
驚きよりも先にそんな言葉が出てきた。
鏡の前にいるのは、さっきまでの二日酔いでこの世の全てにぶすくれてた女じゃなかった。驚きと高揚を顔いっぱいに広げた、最高にかわいい女の子だった。
血色の悪さも隈もなんのマイナスにもなってないどころか、着たままの服も相まってむしろそういうコンセプトのモデルみたい。よれよれのブラウスも色香を引き立てていて、この顔ならジャージ着てたって余裕でファッション雑誌の表紙を飾れそう。
っていうか、あたし、こんなにかわいかったっけ?
画面がバキバキに割れたコーラルピンクのiPhoneを充電器から引っこ抜いて、慌てて鏡の前で構える。心臓が、さっきからばくばくしてる。
フィルターかけてないし加工だってしてない。目の錯覚じゃないって証明してみせて。武装の具合を確かめるために鏡の前に立った時だけの、あの一時的なかわいさじゃないって。外に出てふとビルのガラスに映った時には消えているような魔法じゃないって、ちゃんとあたしに教えてよ。
カメラ越しに映っているのは、驚いた顔の黒髪ロングのかわいい、かわいい女の子。何度画面と鏡を見比べても、どちらからも消えたりなんかしない。むしろだんだんはっきりと、現実味が強くなっていく。
震えた手でシャッターを切る。
一瞬のタイムラグの後画面に浮かんだ画像の中身も、やっぱり、完璧にかわいいままだった。


あたしが急にナルシストになった訳じゃなくて、他人から見てもあのリップをつけたあたしはやっぱりかわいかったみたい。
改めて着替えてリップ以外のメイクをし直して写真を撮ると、なんとさらにかわいかった。それを試しにSNSに載せると、とんでもない数のいいねが来た。今まで見たこともないような桁があたしの目の前で、寝ても起きても止まらずどんどん膨れ上がっていくのを見て、あたしは怖くなってアカウントを誰にも見られないように鍵をかけた。

これ、リップをつけて外に出たら、とんでもないことになっちゃうんじゃない?

一晩中悩んだ末に、外に行く時はいつもの格好にしよう、と決めた。リップはつけない。どうせコンビニに行くか、おじさんと話したり、そういうことしてお金貰うだけだし。自分の人生を保証してくれる訳じゃないおじさん達にも、呼び出されてそういうこと、してる子達にも、あの姿を見せるのはなんか癪だ。

「お疲れー」
「あ、お疲れ……」
やたらとエントランスがぎらついたタワーマンションの前で、同業者っぽい子に声をかけられた。顔見知りで、よく行き先が被る子。時々話すけどお互い沈黙の方が多くて、休みの日に積極的に連絡とるほど友達でもない微妙なポジション。それは向こうにとっても同じだろうけど。
大きなバッグの中に着替えとか男達の夢とか詰め込んでるし、そういう匂いがするから同業者の子は一目で分かる。ぎとついた目で見られてるって分かってて、それを誘う媚びた匂い。魂にこびりついた体液を覆い隠すための甘ったるい匂い。
あたしもそんな匂いなのかな、と思いながら、画面が細かくひび割れたスマホを操作するその子を見てる。黒いリボンのついた、紫の半袖のワンピース。傍から見ると私たちは、パパ活中の量産型女子二人組だ。

「そういえばこれ、インスタで回ってきたんだけどさぁ」
何でもない風を装って、うん、と返す。その子が画面を操作する手が止まる。
「めっちゃ美人じゃね?」
冷や汗って本当に吹き出るもんなんだ。
「垢鍵かけたらしいんだけど、インスタやってんのかな」
プラスチックの兎の耳が生えたスマホケース。ひび割れた画面の中にいたスクショの女は、まぎれもなくあの日のあたしだった。どうやってごまかそうか必死に考えていたあたしの思考は、
「いいよねー、こういう顔だと人生イージーモードでしょ」
次にその子が言った言葉で止まる。
「……えー、そうかな」
ふざけるな、と気づかないくせに、と、あたしより稼いでるでしょ、がごっちゃになった。冷や汗から一転して体が火照るのが分かる。
たった一枚の写真見ただけで、そこまで考えられるもんなの?気持ちが分かりたくないくらい分かるのが余計に嫌だ。あたしがこの子の立場でも死ぬほど言ってた。絶対近づかないで欲しいって思ってた。
でも、近づかないで、っていったい誰にだっけ?
何もかもに心がざわつく。ひとつ大きく息を吐いて、あたしはじゃあね、とだけ言って歩き出す。5センチあるヒールの靴が苛むように足元を揺らした。

家に帰ってから、あたしはありとあらゆるSNSのアカウントを全部消した。

指の操作一つで、色んなものが消えていく。人脈。足跡、思い出、写真。あたしの撮った画像と大量の自撮り。
最後に残った、全然使ってなかったアカウントのプロフィール画像は、誰かの生誕祭のものだった。大きなハートのバルーンの前で、顔を隠した女が座っている。手に持っているのはバースデーケーキだけど、画質が荒くて誰宛てかは分からなかった。
甘ったるい夢みたいで無性に腹が立ったから、削除を確認する画面ではいと書かれたボタンを強めに押した。リロードと一緒に画像が流れて消えていく。
アカウントを消去しました、の後にはもう何も残っていなかった。暗い部屋の中でブルーライトに照らされたまま、あたしはぼんやり考える。
どうしてあんなに腹が立ってたんだろ?あたし、こんなにもかわいいのに。


それから少しして改めて作り直したアカウントに、あたしは沢山の自撮りを載せた。アカウントはインスタの一つだけにしようと思ったけど、スクショが無断転載されてたのを思い出してTwitterの方にも一応。勝手にアイコンにされたりするのはさすがに困るから。

作ったその日はギリギリで二桁だったフォロワーが、一晩置くと三倍に増えていた。それから半日立つと更に膨らんで、数日するとあたしはあっという間に万単位のフォロワーに囲まれていた。どうでもいいことを呟く度に沢山のリプライがあたしを持てはやした。自撮りを上げるともっと増えた。
溢れんばかりのかわいいに囲まれて、SNSであたしは誰よりかわいかった。似たような格好の女といいねの差がつくのを見ている度に、どうしようもない笑いがこみ上げた。
三秒で考えたみたいに脳直のかわいいって褒め言葉と欲を隠しきれてない文章と二割のアンチがあたしの周りに常にいて、一挙一動を見張られてるみたいな気分だった。男も多いけど、女も多いみたいだった。服を参考にしてるらしい。本当に参考にするべきは、そこじゃないような気もするけど。

画面越しの人の視線が気にならないって言ったら嘘になるけど、あたしにはもっと気になることがあった。
ミヨコとあのリップのこと。それとなくSNSで聞いてみたけど、どんなリプライからもあたしの知りたい答えは得られなかった。量には気をつけてるけど、最近のあたしはほとんどあのリップを使ってるからなくなるのも時間の問題だ。くるくる回すとどうにかピンク色が見えるってくらいだし、なくなるのもそう遠くないだろう。
リップが削れて減っていくたびに、どんどんあたしがかわいくいられる時間が少なくなっていくみたいだった。砂時計みたいに、あたしのタイムリミットは目に見えていた。
お願いだから、もう少しだけこの顔でいさせて。もう二度とあんな顔に戻りたくない。あんな惨めな思いしたくない。賞賛の声の中をモデルみたいに歩きながら、光の中で笑ってたいの。
あたしの今の本当はこの顔。リップを引いた、フォロワーにちやほやされる綺麗な顔。リップと出会うまでのあたしの顔は気まぐれについた嘘みたいなもので、そう、きっと悪い夢みたいなものなの。
……惨めな思いってのが具体的に何なのか、あたしにはどうしても思い出せないけど。リプライする方じゃなくてされる方でいたいっていうのだけは、はっきりしてる。

それと、近づきたくない場所があるのも。
ネオンぎらつく夜の街にあるホストクラブと、その近くのキッチュで下品なお城みたいな建物。どうしてかは良く分からないけど、あの夜の出来事を思い出す度に頭が割れんばかりの痛みに襲われるから。

でも、後者を気にする必要はあんまりない気がする。欲しいものはだいたい名前も知らないネットの人が買ってくれるから、働かなくてもなんとかなってるし。貯金は徐々に目減りしていってるけど、一時期みたいに大きな金額を引き出している訳じゃないし。
本当、こんなに何に使ってたんだろうね?せっかくちまちま稼いでたのに、百万とか一晩で使って。
ニュースで聞いた用途不明金ってやつかなとか思いながら通帳とにらめっこしていると、インターホンが軽快に鳴った。一割の期待と九割の乾いた思いを抱えて出る。

「お届け物です」
若い男の声だった。ミヨコじゃない。九割の方。もう一度あのリップを手渡してほしい、夢みたいな現実を延長させてよってインターホンが鳴る度に期待してしまう。分かってたけどねといつもみたいに落胆を誤魔化すポーズを取って、あたしはマンションの扉を開けた。
ため息をつきながら印鑑を押すと、そそくさと男は帰っていった。渡された段ボールはやけに重いから、ネットの親切な誰かが食料品でも買ってくれたんだろう。お礼のコメントつきで自撮り上げとかないとなー、とドアを閉めてため息をつく。

一度だけ、リップを塗ってない状態の自撮りをアップしたことがある。いつもの角度といつもの髪型、似たような服。
なのに、最初に来たリプライは「大丈夫ですか」だった。乗っ取りやあたしの体調を心配したリプライがついていたけど、いつもよりはやっぱり少なかった。
『カメラの調子が悪かったっぽい 今はちゃんと映ってる?』
リップを塗ってから慌てて撮ったから何もかもぐっちゃぐちゃで、塗ってない方がよほど整った写真。なのにさっきとは段違いの言葉たちがわっと群がってた。思わずスマホを枕に投げた。塗ってない方はすぐ消して、それからは一度も上げてない。

やっぱり、このリップは魔法だ。あたしだけじゃなくて周りも巻き込んで、あたしに都合よく変えてしまう。
届いた荷物を放っておいて、もう残り少ないピンク色を見ながら、あたしはぼんやり考える。
これがあたしの消費期限。
ミヨコの言葉通り、このリップがなくなるまでは誰よりかわいいあたしでいられる。
その言葉は何だか呪いみたいだった。あたしを取り巻く期待にも色が似ていた。
考えるのが何だか面倒くさくなってきて、とりあえずスマホを覗く。リップ塗りたくないなぁとか思いながら電源をつけると、インスタの方に一通のダイレクトメールが来ていた。
アプリを開く。捨て垢からだったら嫌だな、今度から通知切っとこ……と考えたところで、思考が真っ白になった。

知っている雑誌の名前のアカウントから、丁寧な文面が送られてきていた。

震える指で投稿を確認する。どうしよう、やっぱ公式だ。この名前のアカウントだって一つしかないし、投稿だって全部クオリティが段違い。発売したばっかの今月号の内容にも触れてるし、公式だよね、これ。
ダイレクトメールを要約すると、今度うちの雑誌のコーナーであなたのことを取り上げてもいいですか、だった。今話題の子を特集するピンナップ。読者モデルから無名の一般人、あたしみたいにSNSで有名になった子まで、色んな子が出てる、一ページの半分くらいのちっちゃな、でも大きなコーナー。

これに出たら、あたしはきっと見返せる。何に対してかは分からないけどあたしはそう思った。

二つ返事でやります、と打ち込もうとして、文章の最後に手が止まる。
添付された住所にどうしよう、と声が漏れた。スタジオがあるのはあの不夜城みたいな町で、最悪なことに待ち合わせ場所はあの、一番行きたくない場所であるホストクラブのすぐ近くだった。


悩んだ末に、結局あたしは行くことにした。嫌な予感が気のせいであることを祈りながら。
どうせいつか覚める夢なら、ネットでちやほやされるよりもっと大きなことがしたい。承認欲求に負けたって後ろ指さされそうだけど、なんとでも言えばいい。どうせかわいくなれない負け犬の遠吠えだ。

今やあたしは量産型の体現者だった。
あたしが着る服はすぐさま特定されて、誰かのライブへの参戦服や武装になる。ここ最近は毎日のように新しい服を着てる気がする。街であたしと似たような格好の女の子とすれ違うのも珍しくなくなった。
今日の服はセーラー襟の白いブラウス、黒いタイトのミニスカート、12センチの黒い厚底靴。これもいずれ誰かのファッションになって、量産型ってまとめられるんだろうか。
それでもいい。それがいい。誰よりかわいくなれるのなら、あたしは喜んでそう呼ばれよう。その枠の中で永遠に、かわいいの象徴として君臨しようじゃないか。
誰かに褒められる度に、狭い世界が数ミリずつこじ開けられる感覚。画面越しの言葉がそこから光になってこぼれてきて、声があたしに届いて。
それはやがて現実になる気がする。あたしのこれまでを塗り替える、夢みたいなこれから。
期限つきならそれはそれで精一杯楽しめばいいんだって、その高揚で胸の中の不安を塗りつぶそうとした。

なんて、調子に乗ってたのがきっとマズかった。ううん、そもそも何もかもを間違えてたのかもしれない。
あたしは待ち合わせ場所のビルの前で自撮りのリプライを見ながらぼーっと立ってた。この言葉たちも、もしかしたら今日で二度と浴びられなくなるかもしれないと思いながら。ポケットに入れたリップは削れて元の形の面影もなく、平らなピンクがかろうじて数ミリくらい残っているだけだった。
それでも今日は、今日だけは。タイムリミットまではまだ早いでしょ、あたしを夢から覚まさないでよ。
祈るようにそんなことを考えていたあたしの前に、背の高い影がゆらりと伸びた。
「お姉ちゃん、今暇?」
キャッチかなと思って顔を上げると、茶髪の男がそこにいた。花柄のスーツとバカみたいな値段の酒と香水の匂い。それと、女の情欲の甘ったるいのに焦げ付きそうな匂い。首筋を漂う全部から男の職業を察した途端、殴られたように頭痛が酷くなった。
「暇じゃ、ないです」
「顔色悪いけど大丈夫?うちの店で休憩してく?」
どこかで聞いた耳障りな声。思い出せない、痛い、でもあたしはきっとこの声を、この顔を知ってる。

夜の中で何度も聞いた。そのためならなんだってできた、そんな気がする。

「つかどっかで見た顔してんなー……まぁいいか。大丈夫、安くするから」
「嫌、離してよ、警察呼ぶから!」
「人聞き悪いなー、ちょっと誘ってるだけじゃん。よくある客引きだって」
リップをつけてるはずなのに、周りを見ても目を逸らすだけ。どれだけ叫んでも声は届かなくて、頭を締め付ける痛みの中であたしは思い出す。
そうだ、この街はこういう場所だった。昼でも夜でもこんな光景は日常茶飯事で、それを背景にしたまま通り過ぎていくのに慣れていた。誰かの感情と感傷をBGMに回ってる、大人になれない子どもしかいない夜の街。
「ピーピーうるせぇなぁよくいるブスのくせによ!」
思いっきり腕を引っ張られて、あたしは踏まれた猫にも似た声を上げる。ブラウスの白が千切れたみたいに嫌な音を立てるけど、それには構ってられなかった。

ねぇ。
今こいつ、ブス、って言った?

それは侮辱で、または侮辱になるって信じられている言葉で、実際あたしが一番言われたくない言葉だった。
ここのところご無沙汰だった最悪のワード。SNSでちやほやされている他の女を見る度に心のどこかで思い浮かべていたこと。
そうだ、今日はリップをつけてなかった。節約のために撮影する時つければいいやって思ってたんだった。
あたしの心は無防備なところをいきなり殴打されてアスファルトに転がっていって、一瞬反応が遅くなる。なおもわめく声が一瞬だけ遠のいて、それから何倍の音量にもなって帰ってきた。それで、ようやく現実味と一緒に怒りがやってきた。
あたしは苛立ちも含んだ怒りに任せて、反対側の手をポケットに突っ込む。探り当てたのはリップと小さな鏡。何があってもいいようにスタンバってた、あたしのかわいいを保証するもの。
リップは軽くて、もう少ししか残ってないことを今更みたいに思い出した。でも迷ったのは一瞬だった。一番言われたくないことを言われた、ってだけで十分だった。
このサイテー野郎に、どっちが本当にブスなのか教えてやって。
「は?あのさぁ、何してんだよ。リップなんか塗ったって大して変わんねぇだろ」
いけしゃあしゃあとほざく訳知り顔の男をあたしは睨みつけて、すっかり減ったベイビーピンクを力強く唇に塗った。とにかくこいつには負けたくなかった。発言が最悪極まりないのはもちろんだけど、その顔や声もどうしてか、やたらとあたしを苛立たせた。
「この顔見てからもう一回言って」
そう言って振り返ったあたしに、サイテー野郎はさっきまでうるさかったのが嘘みたいにぴたっと黙った。その隙に、あたしは込められていた力を失った手を振りほどいて堂々と逃げ出した。
背後から聞こえてきた弱弱しいかわいい、が、追い風になってあたしのピンクのリボンをはためかせた。


あたしがカメラの前に立つと、その場の空気が変わるのが分かった。灰色のコンクリートの壁が動揺を反射して、天井からぶら下がったアイボリーの布に吸い込まれていく。
リップ以外のヘアもメイクも洋服も。プロが作り上げたあたしは、びっくりするくらいかわいかった。
色は今日着てきたものに似てるけど、あたしが着ているようなものよりレースもフリルも多くてちょっと少女趣味なブラウスとミニスカートは、あたしのためだけに作られたのかってくらい本当によく似合っていた。鏡の前で息を飲んだのは、初めてリップを使った日以来かもしれない。
それでリップがもうないってことを思い出してしまって、あたしは小さく息を吐いた。そんな風に物憂げでもあたしはやっぱりかわいかったし、あたしはあたしのことをかわいいって思えたから、そのことは撮影が終わるまで忘れることにした。

だってここは、あたしが誰よりかわいいって証明してくれる場所。あたしの美しさを切り取って、鏡より素直な永遠にしてくれる場所。フォロワー数がかすむくらいの沢山の人間が、あたしのことを知るきっかけになる場所。
ツインテールの首筋を汗が伝う。白いブラウスの半袖はエアコンが効いたスタジオだと寒いはずなのに、緊張してるのかそんな気は全然しないしむしろ暑いくらい。ふわりと広がる黒いミニスカートのおかげで隠れてるけど、実は膝が震えてる。
でも、そういうことは今はどうだってよかった。あたしは無事に、この場所にたどり着いたんだから。

走馬灯みたいに思い出が駆け巡る。さっき聞こえた男のかわいいって言葉、今までありったけもらった賞賛の言葉。スタジオに来るきっかけになったダイレクトメールの文面、SNSのリプライ。あたしを祝福するすべてみたいに、真っ白なフィルターがかかった過去があたしの脳を駆け巡る。何十枚もの写真。あのリップを手にしてからの全て。今のあたしを構成するもので、きっと本当のあたし。

それを遮るように、殴るみたいな頭痛がした。
ノイズのかかった記憶が映る。見たくないのに、絶対見たくなんかないのに、なぜだか頭が勝手に再生してしまう。
下品なお城。ピンクのけばけばしいネオン。どこかで会った背の高い茶髪の男と、今のあたしみたいな、でもあたしより絶対にかわいくなんかないツインテールの女。
ツインテールの女はこちらに気がついて、あたしを見て、そうして顔をゆがめるみたいに笑って、
「大丈夫ですか?」
はっ、と我に返る。スタッフの一人、若い男があたしを心配そうに見つめていた。
さっきまでの幸せな空気を壊してしまった。せっかく、みんなあたしに見とれてたのに。
「あ……はい、すみません」
ちょっと緊張しちゃって、とどうにかこうにか笑顔を作る。何だか頭が薄ぼんやりして、夢から覚めたばっかりの時みたい。
これが夢なんて絶対に嫌だ。これはあたしが手に入れた紛れもない現実。今まであたしに優しくなかった分、これからは夢よりもよっぽど良くしてもらわなくちゃ。
「ならよかったです、撮影入りまーす」
ほっとした顔で、スタッフはそう声をかけた。
スタジオのあちこちから、はーい、と声がする。まだぼーっとしてるのか、それも夢の中みたいに聞こえる。
しっかりしろ、もうすぐ待ち望んだ瞬間なんだから。あたしが手に入れたかったものばかりの、何度も何度も夢じゃないかって考えた景色の真ん中にあたしは立ってるんだから。
「最高です!そのままちょっと、小首をかしげて……」
カメラマンの声で、さっきまでの笑みが自然なものに変わる。その唇に乗っているのは、ライトに照らされてきらめくベイビーピンク。
カメラを見つめて頭をちょっとだけ傾けて、あたしはにっこりと微笑んだ。作り物みたいに綺麗な、完璧な笑顔で。
「はい、じゃあ撮りますねー!」
さん、に、いち。
カメラの真っ白いフラッシュを最後に、あたしの記憶は電源を切られたテレビみたいに唐突に途切れた。



袋に入ったリップを都会の光にかざすようにして、男は肩をすくめた。これに手を出した女の記憶処理は済んで、元の日常に帰ってもらった。勿論その場でアカウントも削除させた。ウェブクローラも動員した後始末を考えると小さくため息をつきたくなるが、既に他の雑誌が声をかけていなかったのはせめてもの幸いだった。
撮影は全てフェイク。スタッフもヘアメイクも、全て財団のエージェントだ。彼女に声をかけた雑誌は財団のフロント企業が出しているもので、あの写真は二度と表に出ることはない。
彼女の姿は日の当たらない場所で永遠になる。要注意団体の被害者として。
「これが噂の?」
覗き込むようにして、ベイビーピンクのリップの入ったビニール袋に手を伸ばす女が一人。紺のサマースーツを着た男とは違い、シャツワンピースにスニーカーのラフな格好だ。
「俺も実物は初めて見ます」
そう言いながら男は袋を手渡した。女はじろじろと証拠品を眺めた後、呆れたように呟く。
「かわいくなれる、ねぇ」
ため息を挟んで、女は吐き捨てた。
「実際は一種の催眠なのに」
「催眠、ですか」
「私も担当じゃないから詳しいことは分かんないけど、色に秘密があるみたいでさ。もうほぼ残ってないけど……このピンク色、ラメ入ってるでしょ?」
唇を指で叩きながら、女はそう話す。赤く塗られたマットリップが言葉を紡ぎ出す。
「光の散乱を特徴的なパターンにして、儀式的効果を持たせてる。奇跡論でたまに見るやつかも。ミームって程重篤なものじゃないけど、まぁ記憶に作用するのが面倒くさいっちゃ面倒くさいかな」
一息に話してから、女はまた赤い唇から息を吐く。呆れたように、昼下がりの空気をかき回す。
「にしても、何でこんなの作ったんだか」
「若い世代にも売り込みたいって魂胆じゃないですか?これ渡されてるの、ほとんどああいう格好の子でしょ」
「あー、量産型ってやつ?ああいう似たような服の子、最近よく見るよね」
「まさに量産されたかわいいってやつですか。本当、俺みたいなのには同じようにしか見えませんし」
「そこまでしてかわいくなりたいもんなのかなぁ……」
二人がそう結論づけたちょうどその時に、信号が変わった。二人のいる路地裏からは交差点がよく見える。
白いブラウス、ピンクのスカート。髪型も服装もそれぞれ違うが、二人から見れば似たような量産型の少女たちが、雑踏を通り過ぎていった。

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