強化ガラスの向こう、焼却室の真ん中、一冊の分厚い本と、それを焼き尽くすのに十分なだけの燃料がくべられていた。
「脅威ID: LTE-4517…」
隣に立つ新人研究員がオブジェクトについての解説を読み上げるがその中身はあまり頭には入ってこない。大体のことは事前に頭に入れてあって、その必要も無かった。あの本は人を飲み込む。回収までに13人が犠牲になっていて、14人目の犠牲者はGOCの回収エージェント、俺の同期の男だった。
あの本に飲み込まれた人間はそのまま中で自我を保ち、その思考を文章としてページ上に吐き出す。外部との交信も書き込むことで可能らしいが、最初に見つけられたときはひどいものだったそうだ。絶叫の数々、それも13人分もあったそうだからロクに言葉を拾えたものではなかったらしい。そして、彼らを落ち着かせたのも俺の同期だったそうだ。
「以上です。何かありますか?」
報告を終えた新人が俺に問いかける。俺は小さな、それほどの価値もない質問を返した。
「あの本に取り込まれた人間を解放する試みは行ったのか。」
「行いました。そして、そのいずれも失敗に終わっています。」
「あの本の中で被害者達が何をしているかは分かるか?」
「少なくとも新たな異常性を発露させるような行動は確認できていません。」
そういうことを聞きたいのではなかった。彼らは真っ白な白紙ページの上で何をしているのか、ただ何を思うのか、知りたいのはそういうものだ。
「他に質問は?」
強化ガラスの向こうからエージェント達が怪訝そうにこちらを眺めているのが見える。どうして焼却許可が出ないのか、そう言いたげな目でこちらを見つめる。焼却ボタンのカバーこそ外してはいないが、その上に置いた手を居心地悪そうに動かしているのがわかる。
「処分は確定事項です。現在ページの空白の残りは31ページ、この空白ページが埋まった後に新たな異常性が発現しない保証はありません。」
淡々とした返答。何か言葉をつづけようとしたが、そのとりつく島のなさに黙りこんでしまう。
黙り込んだ俺を見て新人研究員がよろしいですか、と問う。俺は黙って手を挙げて見せた。それを見たエージェントはボタンを静かに押した。
瞬間、本の周りを火が包む。あっという間に燃え上がった炎は本を覆い隠した。その隙間から表表紙に、怨嗟の文字が見えた気がした。
ゆっくりと茶色の扉を押した。軽い鈴の音が来客を知らせる。バーテンダーがその切れた細い目をこちらに向け、話しかけてきた。
「ああ、前回いらっしゃったのは…いつ頃でしたかね?」
「分からん。10日前かそれぐらいか。」
「いいえ、3日前でございます。いつもより早くいらっしゃられましたね?」
知っているならわざわざ聞くな、と悪態をつく。お仕事が大変なようで、と大袈裟に同情してみせるバーテンダーに俺はいつもの、とだけ告げて席についた。あいつはなんでも知っている、悪いヘビなのだ。
それほどの時間もなく注文は運ばれてきた。アルコール度数5%のジン・トニック、強くはないが、楽しむには十分な強さ。
ちらっと部屋の隅の監視カメラに目をやる。俺はあのカメラの先が財団だということを知っている。ここ数年で奴らの監視網は大分広がった。
俺達世界オカルト連合は財団と仲は良くないが何も出会ったらドンパチ始める程じゃない。時に敵対し、時に利用し合う。やっていることは別として目的は変わらないからだ。それでも、わざわざあれほどの異常性を収容していることは未だ理解が出来ないが。
俺は幸いにも顔が割れてないからこうして自由に外に出ることが出来る。まぁ余程のことがなければ街で顔を合わせたくらいでは互いに牽制し合うこともないが。
グラスを傾けながら今までのことを思う。いつの間にか俺はそこそこの地位まで出世していた。破壊担当のエージェントがよくここまで駆け上がったものだと自分でも不思議に思う。今まで破壊してきた異常を思い返す。どれも、世界を滅ぼしうる物ばかりだったハズだ。規模の大小はあれど存在自体が悪の塊。存在自体が許されない異常。
さっきのアノマリーだってその一部だ。そうでなければ、と無理矢理自分を納得させる。
空になったグラスを眺める。うっかり思考をしけた方向に持っていってしまうのは俺の悪い癖だ。気分直しになにかもう一杯、と思いバーテンダーに合図を送ろうとしたその時。
ダン、と派手な音がして入り口のドアが開かれた。
反射的に音の発生源に視線を向ける。立っていたのは白衣を着た、ずぶ濡れの男だった。
男は後ろ手で入り口のドアを締め、虚ろとした目で周囲を眺める。そうして、数えるにも満たない、短い時間が経った後、俺と目が合った。
しまった、と思った。男は薄笑いを浮かべたままこちらに近づいてくる。男はこちらに一切の敵意を見せないまま、それでいて不気味にこちらに近づいてきて、俺の向かいの椅子に腰を下ろした。
「なんなんだ、あんたは。」
不機嫌を隠すこと無く俺は告げる。だが男はそれに答えず、俺に向かってこう言った。
「君は…同業者、だね。」
「あ?」
男の返答に眉をひそめる。同業者、その響きは俺にとって大分重いものだ。イカレ野郎か、それとも本物か。俺はこっそりとポケットの中の護身用の拳銃に手を掛けた。
「同じ目をしているんだ。私と、普通じゃない目を。」
駄目だ、なんにせよ有益な情報は得られそうにもない。出ていけ、とあごを引いてみせる。
「待ってくれ、こっちの話を少しだけ聞いてくれるかな?」
こちらの意図をあえて無視して男は言った。そうしてまた不気味に笑って、男は続ける。
「話を聞くだけ、それだけで良いんだ。君は騒動に巻き込まれた可哀想な一般人。ああでも、服に隠してるだろうピストルはテーブルの上に置いてくれるかな。」
バレていた。俺は何故か動けなかった。
「私は、とある場所で研究をしている。今は博士なんて呼ばれていてね、人々が知らないような異常存在について研究しているんだ。そしてそれは大概、人前に出せないような危険な存在だ。」
男は語り出す。気づいてはいたが、やはり財団の人間らしい。
「それでまぁ、人命を失うような危険な研究も行われる。私は幾度となくその現場に立ち会ってきた。私より有能だった同僚、かわいげのある部下、尊敬していた先輩学者、彼らは1つのミスも犯していなかったのに、訳の分からない異常に殺された。」
俺は目を監視カメラの方へ流し、男に促した。しかし男は、わかってると小さく言い、なおも続ける。
「私はそれを酷く悲しんだ。でもね、それと同時に必要だということも知っていた。人類の知らない異常、それに立ち向かうために必要な犠牲であることを理解していた。」
笑いながら、自嘲気味に男は話を続ける。俺が何か口を挟もうとした時、でもね、という言葉と共に口元が小さく歪んだ。
「さっき、Dクラス職員が死んだんだ。ミスとも言えないささやかなことで、彼は命を落とした。」
男は己の顔を両手をで覆いつくして号哭し、絶叫するように続けた。
「取るに足らない、擁護しようも無い犯罪を犯したただのクズだった!いつまでも文句ばかり口にするただのクズだった!それなのに!私の目から涙が溢れて止まらないんだ!」
「尊敬する御人が死のうとも、私の人生に立ち会った幾人もの人が死のうとも、涙だけは流さなかった私が!ただ一人の使い捨て職員のために涙を流したんだ!」
男の顔を覆う手を涙が伝い始める。俺はただ黙ってそれを見ている。
「私はようやく知ったんだ。私の悲しみを注ぎ込むコップはもう満杯だってことを、これからは溢れ出すしかないことを。」
男は白衣のポケットからハンカチを取り出し、その涙を押さえる。
「財団の理念は知っている。正しく、世界を守るための理念だ。だがそれは決して正義なんかじゃない。子供1人をアノマリーのくだらない寸劇に参加させる我々を誰が悪じゃないといえる?
全部壊してしまえれば良かったんだ!あのクソッタレ吸血鬼のように!」
男は縋るような目で、大きく体を乗り出して、俺に問いかける。
「頭では知っているんだ。必要な事だということは。理性では理解している。それでも、それでも私には分からない。黒塗りに塗りつぶされた彼らの名前は![データ削除済]に押しつぶされた幾千もの人々への追悼はどこに捧げればいい!?」
男はついに絶えきれなくなったようににケラケラと笑うと、その体を引いてこう続ける。
「誰もが分かっているんだよ。こんなことは。みんな、どこかで誤魔化し続けているだけなんだ。」
男は胡乱な目でなおも笑い続ける。気づけば、俺も口を開いていた。
「そうだよな、俺らはどっちも正しくなんかない。道をはずれた先で、たまたま誰かの役に立てているだけだ。」
焼き払った例のパスポートを思い出す。あの騒動はGOCが収めた。しかし、もし正しく使うことが出来たなら?という疑念は未だに消えることはない。
もし今朝の書類に判子を押さなかったなら?あのアイテム達をもし救われない人々に使うことが出来たなら?
「上手くいかねぇことばかりだよなぁ。成功もしたが、失敗も多い。昔グリーンを殺したときの弾丸は今も残っているままだ。」
宙に浮かんだままの弾丸。GOCは財団と競合することも少なくないから、逸ってミスをすることも多い。あの弾丸は、俺に破壊の正しさを疑わせたきっかけだ。俺はあの弾丸と同じ、今も宙ぶらりんのまま。
「何が正しいんだろうな。収容か?破壊か?それとも別の何かか?」
「私にはわからないよ。でも一つ言えることは。」
「俺達は正義なんかじゃない。」
「私達は正義なんかじゃない。」
言葉が重なり合う。
「その通りだな、大量のアイテムを後先も考えず破壊してきた俺らが正しいわけじゃねぇ。」
「そうだ。不必要なまでの収容で命を消費し続けた私達が正しいなんてことはないだろう。」
言葉は重なり合う。
「壊そうとしていたことが間違いなんだ。守るべきものもあるはずだった。」
「守り続ける必要なんて無かったんだ。壊した方が良いこともあるだろう。」
言葉が重なって、重なり合って。
「全くあんたのとこは素晴らしいよな。惚れ惚れしちまうよ。」
「君達が眩しくて仕方がない。どこで道を違えたんだろうね。」
言葉を重ねて、ぶつけ合って、重なり合って、重ね合って、載せ合って、称え合って、重ねて、重ねて、重ねて、重ね合った。
気づけば狂ったように笑い出していた。もう戻れないことはとうにわかっていた。監視カメラを見つめて、大げさに中指を立ててやる。そんな俺を見て、男はいっそう大きく笑い出した。
恐らく大した時間も必要とせずに財団の機動部隊がやってくるだろう。逃げても意味はない。
「おい!一番強い酒を持ってきてくれ!最後の晩餐だ!」
俺は叫んでいた。バーテンダーが酒を運んでくる。
恐らくバーテンダーは知っているだろう。これから数少ない常連がいなくなることを、そして、記憶処理のせいで、彼の記憶にその常連のことは残りはしないだろうことを。
だから、その蛇の目は少しだけ寂しそうに見えた。