箱の中
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キーボードを叩く。何度となく繰り返したその行為を私は今一度繰り返した。書かなければならない。打ち込まなければならない。本文を、脚注を、キャプションを、数式を、未だ埋まらぬ画面上の空白を私は埋めなければならなかった。けれど動いているのは指ばかりで、打ち込んだ文字は10秒と経たぬうちに消されていく。そして、やがて指も止まった。

1時間前と同じ場所で点滅するカーソルにため息が漏れた。力を抜くと椅子がギシギシと音を立てる。誰もいない研究室にその音は案外大きく響いた。焦りばかりが増していき、作業は依然として進まない。今必要なのはきっと休憩なのだろう。そう思いながらテレビをつけた。映っているのはニュース番組。張り詰めた精神は大して面白くもないそれにさえひどく安らぎを覚えていた。

コーヒーのパックを取って湯を注ぐ。財団の研究員となって初の論文もそろそろ繊細な部分に入り、より一層の集中が必要になってくる頃だ。だというのに、私はいまひとつ精力的になれずにいた。重圧はある。感じないではいられない。不安もある。先の見えない暗闇に踏み出すような感覚が。けれどそれが問題なのかと問われれば、そうではない。他の何かが、もっと重大な、私の根本にある何かが心に引っかかっていた。湯気を立てるコーヒーのマグを眺めながらその何かについて考えた。答えが出てくれる気配は無かった。

席に戻って論文のデータベースにアクセスした。流石に論文ともなればNeed to Knowの原則も少しは緩む。とは言え殆どがアクセス不可能な事に変わりは無く、見られるのはごく一部のものに過ぎない。その限られた中から面白そうなものに目星をつけて読み漁るのが私の密かな楽しみだった。

下から上へ飛んでいくタイトルを流し見しながら私は面白そうなものを探し始めた。一部とは言え、その量は膨大の一言に尽きる。この組織が抱える知識が放出されれば世界の科学技術は少なく見積もって20年は先を行くだろうと昔は本気で思ったものだ。後にその程度ではないのだと知って仰天したのも懐かしい。それは喜ばしい事であり、感動するべき事だった。財団が歩んできた進歩の軌跡、先人たちの努力の結晶。それがここにあるのだから。ただ一つ残念に思うのは、そのほぼ全てが日の目を見ないであろう事だ。

異常な事物の研究によって得られた知識には、どう取り繕っても異常の痕跡が滲み出る。分解すべき機構が存在しなければリバースエンジニアリングが成立しないように、異常から得られた知識は異常の存在を浮き彫りにする。故に書庫やデータベースに眠る文書はそれ自体が秘匿すべきものであり、一般公開はまずあり得ない。すなわち財団はそれ自体が巨大な箱だ。知られるべきでない物を閉じ込め、知られるべきでない偉業を閉じ込め、知られるべきでない偉人を閉じ込める、巨大で堅牢なブラックボックス。

もちろんその役目は世界の表側が裏側に追い付くまでのものにすぎない。人類が自らの手で異常を知り、真実を受け入れる準備ができたのならば、きっと箱は蓋を開く。けれど、それはいつになるのだろう。もしかすると、そんな日など永遠に来ないのではないだろうか。財団が隠し続ける限り人類は仮初の正常性の中で完結し、きっと異常を知る事は無いのだから。

『続いてはノーベル賞についてです。今年は日本人から2人が——』

ふと、つけっぱなしのテレビから漏れ出る声が耳に入った。随分と調子の良い事を言っている。周回遅れの人間が画面の中で笑っている。自分には関係の無い事なのにそれがどうにも不愉快だった。皆こんなものは織り込み済みで、納得しているのだと分かっているのに。

ああそうか。私の胸の支えの元はこれなのだ。表で名声を得ている研究者たちは確かに名声を得るべきなのだろう。成果には報酬があって然るべきだ。だがそれが財団職員となるとどうだ。どんなに優れた成果を出そうとその名が広まることはない。得るべき名声を得るという、ただそれだけのことが誰にも許されていない現実に私は憤りを感じているのだ。正しい事なのは分かっている。必要な事なのは分かっている。そのせいであるべきものが奪われているのが納得できないという、ただそれだけ。

コーヒーを飲み干し、深く、ゆっくりと息を吐いた。目を閉じ、先人たちの事を想う。外での地位も、名声も、皆の尊敬の眼差しも、きっと彼らは求めていない。彼らはいつかどこかでその気持ちを捨てて、あるいは元より歯牙にも掛けずに先へと進んで行ったのだ。だから私のこの思いは何もかもが筋違いで、ただの我儘なのだろうけど。

願わくば、いつか彼らが歴史に名を刻みますように。誰にともなくただそう祈った。そして私はそのために歩み続けていこう。いつか誰もが彼らを敬う、そんな未来が来るように。

目を開け、作業に戻る準備をする。キーボードに乗せた両手は先ほどよりも軽かった。

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