月から遁にげている。
冥くらい森の中、本堂の裏手へと続く細い山路やまみちを転げるように下っていく。
路の両脇は背丈ほどもある藪で覆われていたが、足許あしもとには草木一つ生えていない。
硬く踏み締められた地面。
父は何度ここを通ったのだろうか。
空を蔽おおう木々はすでに葉を落としており、梢こずえを貫通する月光によって辺りは紗しゃがかかったように見える。
草も木も路も私も。
青白く脱色されている。
あれは、触れてはいけないものだった。
数時間前、窶やつれはてた父の跡を尾つけてたどり着いたのは三間四方の小堂だった。捻じくれた木立ちに囲まれたそれは、元々は地蔵堂か庚申塚だったのだろう。父に悟られないよう藪の中に身を潜めていると、やがてぎぃと音がして父が堂の中から出てきた。陽は既に山の向こうに沈んで久しく、辺りには藍色の夜気が漂っていた。小路を通り庫裡くりへと帰る父は夢見心地で、懐中電灯を手にふらふらと山を下っていく。人工的な光が眼前を通り過ぎ、落葉を踏み歩く音が遠くなると私は藪から這い出して堂の前に立った。大げさに張り出した宝形造ほうぎょくづくりの小堂は、辺鄙な処にある割には手入れが行き届いている。格子の扉は内側から板が打ち付けられており、中の様子を伺うことはできない。それは堂の壁に設けられた小さな格子窓も同様であった。扉には飾り気のない閂かんぬきが通っているが、その意匠は建物全体の雰囲気から明らかに浮いている。後付けで拵こしらえたものだろう。閂の他に、鍵のようなものは見当たらない。
屋根の下、堂の入り口は月明かりの陰に隠れて真っ黒く見える。
この内に、おそろしいものがいる。
母親が我が家を去り、父親が色に狂った原因が。
閂を外し、戸を開ける。中に滞留した空気が足許を通って外へと流れていくのを感じた。
堂の中は甘く香る闇で満ちていた。本堂で焚かれる伽羅や沈香とは違う、体に纏わりつく匂やかな花の香。窓が塞がれている所為で、中はひどく玄くらい。開け放した扉から差し込む僅かな月光を頼りに、堂の中に灯りはないかと探ってみると、天窓へと延びるハンドルが手に触れた。このような建物に天窓など聞いたこともない。閂と同じように後付けで拵えられたであろうそれを回すと、窓の形に切り取られた月明かりがスポットライトのように差し込んだ。
皓しろい光が堂の中央、厚い布が掛けられた何かを照らす。
布に浮き出たその形は、私に仏像のようなものを想起させた。私の背丈より少し小さい程度のそれは、何か価値のある坐像なのではないか。だが、高価なものを置いておくにしては、この建物は甚だ不用心で、鍵すらついていない。
そう思って私は気づく。
外に掛けられた閂。
窓や戸を塞ぐ板。
届きそうもない高さに拵えられた天窓。
この建物は、外からの侵入を防ぐのではなく、中から何かが出ていかないための造りをしている。
心臓が早鐘を打つ。
これを捲ったら。
屹度きっと取り返しがつかないことになる。
それでも私は知りたいのだ。私の平穏を奪った元凶を。
月光に照らされたそれに向かって手を伸ばす。
震える手で捲った布の向こう側には──
「思うに、月の美しさはその不可侵性と永久性に由来するのです」
私がそう謂うと、熱心にメモを録っていた若い女記者は手を止めてこちらを見た。窓から差し込んでいた西日は地平の向こうに落ちてしまい、橙の空には紫色が混じり始めている。テーブルの上の紅茶からは湯気が出なくなって久しい。
「月の他にこの世に美しいものは莫ないとお思いなのですか」
応接用のソファに浅く腰かけたまま、彼女はそう尋ねた。
そんなことはない。
可憐な花を見れば心惹かれるし、嫋たおやかな少女に微笑まれたら気も漫ろになる。雄大な自然に平伏ひれふし、精緻にして大胆な芸術作品に陶酔する。そういった感覚は真っ当に理解できる。
だが。
花は枯れるし、人は老いて死ぬ。自然は切り拓かれ、芸術は永い時の果てに朽ちる。この世にある美しいものは、全ての物体は、いずれ襤褸襤褸ぼろぼろになってしまう。
そうでなくとも、あらゆる美しいものを、私は駄目にできてしまうのだ。
花を踏み躙り少女を凌辱し自然に火を放ち絵画彫刻あらゆる芸術を粉砕する。そういうイメージを、私は持つことができる。
無論そんなことをするつもりはない。だが万に一つもあり得ないとは言い切れない。
そんなことをしたら。
美しいものは、美しくなくなってしまう。
「美しいものは世に限りなくあるのでしょう。美の基準は様様ですし。それでも、永遠に美しいものとして、私の脳髄が強く主張するものが月なのです。」
記者はううんと短く呟いて手元に目をやった。
話はすでに迷走を極めている。
そもそも何故月について語っているのか、今となっては思い出せない。
本来この取材の目的は時代遅れの現像寫眞しゃしんを撮り続ける道楽者から、フィルムカメラを使い続ける理由を聞き出すことのはずだ。
懐中電話には悉く高性能なカメラが付随しており、撮った写真は自動的に補正され、輝度彩度色調は最適な値に整えられる。5人にひとりは眼球に仕込まれた高精度カメラによって、見たままの風景を己が電脳の中に保存し続けている。大正150年の御代において、大きく重たいカメラを持って街を歩く人類はもはや絶滅危惧の類であり、ましてやフィルムカメラを用いる者など化石に近い。その執着心をどうにか崇高なものとして湾曲し、一種の美談として新聞の後ろのほうに掲載する。目の前に座る少女にとって、それが仕事である。
ソファにちょこんと座っている彼女は見習いか、ひょっとするとこれが初仕事なのかもしれない。短くまとめた電髪とクローシュ帽、細く整えた眉にドーリーなまつ毛。聞き取りたい話から逸れた雑談の軌道を正す方法を知らず、かといって私の話題を無理に中断して気を悪くしては拙いと悩む姿がいじらしい。
「私は昔から、美しいものは永遠であってほしいと思っていました──」
助け舟を出す心持で私は語る。
「朽ちていくものではなく、今この瞬間の美を無限に感じるような物体。それこそが心惹かれるものでした。私が写真を撮り、現像するのは、世にある美しいものの一瞬を捉え、それをどうにか写真という物体として顕現し、蒐集したいと思うからです。これは、珍奇な昆虫標本を箱に収める博物学者の精神に似ているかもしれません」
写真は、真を写すと書く。だが、単にシャッターを切っただけでは真実というものは映らない。
もちろん、風景を画像的に再現する機械としての役割は、誰が撮影しても果たせるだろう。でもそれは、被写体がその瞬間どう見えたかという真実を再現するには、あまりにも多くの情報が零れてしまっている。当時の温度やにおい、感情、そういった視覚情報ではない、しかしその瞬間を再現するには不可欠な要素を私というフィルターを通じて紙片に焼き付ける。撮って現像してこそ、私にとっての真実を写した写真になる。
「本来過ぎ去ってしまうはずの美しい情景を切り取り、物体の中に閉じ込めて保存する。そういうことができるのは、フィルムカメラだけだと思っています。だから私は、骨董品のようなカメラと、大げさな現像機をいまだに使い続けているんです」
なるほど、と頷いて記者の顔は明るくなった。彼女の中で記事の方向が定まったのだろう。私の過去の作品を挙げて適当なお世辞を云いながら彼女はふと気づいたような顔をした。
「ですが、写真もまた、色褪せたり焼失したりして、罔なくなってしまうものではないですか」
利発な問いである。
私は苦笑しながら答えた。
「仰る通りです。だからこそ私は、私の作品に得心がいっていないのです。私にとって、私の作品は完全なものでは──ありません」
形あるものはいずれ壊れる。
目に見えるもの、形のあるものは不変でなく、移ろうものだ。
色即ち是れ空なり。
空即ち是れ色なり。
かつての父の教えだ。
写真はいくら気を使って保存したところで徐々に色褪せる。光に含まれるエネルギーが写真の成分を変質させるからだ。然らばと光のない完全な暗闇で保存したら、もはや写真の存在意義を失ってしまう。見えないのなら、何も写していないのと同じである。それに、たとえ光の届かない地の底で保管したとしても、いつか紙のほうが風化してしまうのだ。写真もまた、一瞬を保存することはできても、その機能は永遠ではない。
「永遠なんてものは存在しない。私は、生まれた環境もあってか、幼いときから常にそういうことを意識していました」
「先生のご生家はお寺だったと伺っておりますが、そういった影響でしょうか」
「そうですね。とはいえ、十の頃に家出をして以来、家には戻っていませんが」
噂によれば、廃寺になったとも聞く。住職であった父が碌に仕事をしなくなったのだから、当然といえば当然である。今となってはその行方すら知らない。
「諸行無常などとは言いますが、その通りです。それでも、私は永遠に美しくあるものが、この世に存在すると願っているのです。美しいものは、永遠に美しくあってほしい。そういう私の執心を受け止めてくれるのが──月なのです」
月は美しく。
そして永遠だ。
明日も明後日も。
百年後も千年後も。
屹度世界が滅びるその際に於いても、月は空に昇り、夜を青白く脫色するのだろう。
月は汚せず。
月は壊せない。
「夜空に浮かぶ月は、私にとって特別なものなんですよ」
私はそう結んだ。
彼女は周囲に目をやった。
壁際には私の作品の中でも気に入ったものの複製が立てかけてある。彼女はその中から月が写っているものを探そうとしているのだろう。だが私が撮るのは白晝はくちゅうの風景ばかりである。
「あまりに好きなものですからね、私なんぞが作品に取り入れてはいけない気がしまして。月の写真は撮れないんです」
私は嘘をついた。
月に纏わる写真は一枚も莫い。それは事実だ。
だが、理由はそれとは別にある。
私は月が。
夜空に浮かび地上を睥睨へいげいする月が。
夜闇を照らす月光が──
堪らなくおそろしいのだ。
沈黙が客室に澱んでいく。
藍色に染まりつつある窓をみて、そろそろ予定していた取材の刻限が迫っているのを感じた。
「──よろしければ」
私は腹の内を隠しながら言う。
「暗室を見学されて行かれますか?普段は人を招く処ではないのですが、特別に」
記者は目を輝かせた。
もちろんですと興奮した様子である。
「では移動しましょうか。紅茶は──もう下げてよろしいですか」
テーブルの上の紅茶は半分以上残っている。
出されたものを残すのは失礼だと思ったのだろう。記者は冷めて香りの飛んだそれを一息に飲み干した。
暗室は、写真を現像するための部屋です。
カメラで撮った風景は、まずネガフィルムに焼き付けられます。
このネガフィルムに映った写真を暗室で印画紙に焼き付けるのです。
この時どれくらいの時間露光するか、あるいはどの色をどのくらい焼き付けるかで写真の出来栄えが決まるのです。
余計な光が入ると、作品が乱れてしまいますので、暗室は光の届かない地下に造らせました。
階段が急ですからお気をつけて。
おや、少しふらついてらっしゃる。
大丈夫ですか。
──はあ、寝不足ですか。
お若いとはいえ、あまり無理をなさらないでくださいね。
奥の扉が暗室です。
ああ、しまった。
実は今、とある作品を現像する準備をしておりまして。
人に見られるのは、少し拙まずい。
申し訳ありませんが、数分ほど待っていていただけませんか。
それらを片付けるついでに、部屋もある程度整理させてください。
自分しか入らいない部屋なので、どうにも散らかっていまして。
ああ、ご了承いただけますか。
有難うございます。
いえいえ、ドアの前で待たせておくなんて。
そうですね。
暗室の隣に、ちょっとした小部屋があります。
倉庫のつもりで造らせたのですが、今は空き部屋になっておりまして。
そのままにしておくのもなんですから、もっぱら私が小休止するのに使っております。
殺風景で手狭な部屋ですが座椅子は座り心地のいいものを置いてありますよ。
さあ、どうぞこちらへ。
さあ、さあ。
どうかご遠慮なくおかけになって。
そうだ。これから見せるのは、私の作品の根幹に関わる技術です。
所謂、企業機密とでも言いましょうか
ですから、どうか撮影はお止めください。
お持ちの懐中電話機やレコーダーも、できれば一時的に預からせていただきたいのです。
──ああ、ご協力いただける。
では、準備ができたらお呼びします。
どうぞ寛いでお待ちください。
小部屋に少女を残したまま、私は暗室に入る。
彼女の体躯は華奢だから、数時間は目覚めないだろう。
引伸機、印画紙、イーゼル。
フィルムカメラ。
部屋に染み付いた定着液の鼻を突く匂いが心を落ち着かせる。
カメラにフィルムをセットし、私は撮影の準備を始める。
私は月を恐れて、月に惹かれている。
魔性の引力とでもいうものが、あの天体からは感じられるのだ。
過去の記憶が原因なのだろうが、それは断片的で、蓋をされたように思い出せない。
月下の堂宇と山路。
おそろしいもの。
月の魔性の感覚はどういうわけか少女のそれに感じられる。
それも、しゃべったり、動いたりしない、眠った少女に。
これもまた、理由は判らない。
自らの背徳的な性的趣向を見つめるのを嫌って深く考察しないのもあるが、深く考えてはいけないと私の深層が警告しているのだ。
私がフィルムカメラに拘る理由の一つは、撮ったものを手早く処分できるからだ。ネガも寫眞も、いざとなったら燃やして灰にできる。そんなことはしたくはないが、いざというときに証拠は残らない方がよい。
暗室の一番奥、鍵付きの抽斗ひきだしの中には私の仄暗い秘密が蒐集されている。
深い眠りに落ちた、可憐な少女たちのコレクション。
美しくおそろしいものを閉じ込めた、魔性の幻影。
少女は座椅子に深く凭もたれて眠っていた。
彼女の身体を包んでいる、働くための服というものは、私の美学からは遠い。
適切なものに換えなければ。
帽子を外し、サスペンダーをずらし、ブラウスの釦ぼたんをいくつか外したとき、不意にドアベルが鳴った。
無視を決め込んでしまおうかと思ったが、矢鱈としつこい。私は少女を残し玄関に向かった。この時間、私は取材を受けていた、ということにしなければならない。居留守を決め込んで後で何をしていたと聞かれたら面倒である。
ドアを開けると郵便屋の恰好をした自動人形が大きな箱を持って立っていた。
人形はお届け物ですと人工的な声で告げて、箱を差し出した。
両手で抱えられた桐箱は受け取ってみるといやに重い。箱の上蓋には送り主を記す伝票と一葉の封筒が張り付けられている。送り主の欄にはガラテア商會とある。知らない団体だ。
「この度はお悔やみを申し上げます」
人形は恭しく礼をして我が家を去った。
お悔やみを申し上げます。
誰の不幸を悔やむというのだ。
人形が立ち去ると、私は手早く戸を閉め、玄関からすぐの応接室に入って封筒を開けた。
封筒の中には父の死を悼む電報が入っていた。
██様のご逝去を悼み 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
生前、御父上は弊社商品の人形に深い愛情を注いでいただいたと伺つております。御父上様のご遺言と人形自らの希望に従つて、《人造月光》肆號"嫦娥"をお譲りいたします。
父は
死んだのか。
心のどこかでそうだろうと思ってはいたが、いざその事実を知らされると堪えるものがある。大正150年。廃仏毀釈の御代において、檀家と墓を守り抜いた父の姿は印象深い。その父がいつの日からか仕事を放って本堂を抜け出すようになり、母親に愛想を付かされて逃げられるまでの堕落の日々もまた、私の心の治らぬ疵きずとなって残っている。
感傷に浸るなか、ガラテア商會とは、人造月光とは何者なのかと疑問に思った。
我が家に人形は一体もない。身の回りの世話をしてくれると云う自動人形もだ。
それは生家の寺も同様だったはずだ。雛人形やら、子供が遊ぶ西洋人形やら、そういったものが人形供養のために運び込まれることはあったが、それも一時的なもので最後は炎とともに焚き上げられて灰になってしまった。
私が家を出た後に父が人形蒐集でも始めたのか──
そんなことを考えていた時、不意にこつこつと、爪で何かを小突くような音が聞こえた。幽かに響くその音は、箱の中から鳴っている。
この箱に。
人造月光とやらが入っているのか。
箱を引き寄せる。
重い。
その重さと大きさは骨壷を連想させた。
箱を開けると刺繍の入った白い袱紗ふくさに包まれた、西瓜ほどの球体が収められていた。布越しの感触は固く、岩に似てごつごつとしている。
箱から出して布の縛り口を解く。
中には月が入っていた。
足許に転がる月を前に、私は放心していた。
窓から差し込む月光は窓ガラスを通過して部屋の底に溜まっている。
心ここにあらず、と云うより恐怖に体が竦すくんで動けなくなっていたという感覚が近い。私の脳髄の奥深くにある記憶が、今すぐここから遁げろと警鐘を鳴らす。しかし同じところから私をこの場に縛り付けんとする甘い誘惑が漂ってくる。月の岩肌は近くで見ると思ったより起伏が大きく、痘痕あばただらけであった。
こんなものに、私は心を奪われていたのだろうか。
夜空に浮かぶ美しく光を放つ月とは違い、それは丸い岩そのものに見える。
窓から注ぐ月光は時間の経過に伴ってゆっくりと移動し、やがて足許の丸い岩を照らした。
暗い海のような色の岩石がやや白々しく照らされた程度で、やはりそれはただの岩であった。
美しくも、おそろしくもない。
私はこんなものに怯えていたのかとやや苦笑する。
そうだ、こんなことをしている場合ではない。
地下にはまだあの少女がいる。早くしなくては起きてしまう。
やや冷静さを取り戻した私は、いい加減足許に転がる石を片付けようと、それを包んでいた布を手に取った。
刹那。
足許の月は地球の重力に逆らって、徐々に浮遊を始めた。その表面はやがてぼんやりと青白く発光し、夜をまとった雑音を発する。私の目線ほどの高さに浮かぶと、それは空中に静止した。
呆気にとられた私をよそに、その表面が幽かすかに揺れ、小さな罅ひびが入った。
ああ。
月が割れる。
罅はゆっくりと蠕動ぜんどうし、広がっていく。それは火山の力で天体が崩壊するような、エネルギーに満ちたものではなかった。卵が割れて雛が生まれるような、生命の気配を感じさせるものでもない。極限まで薄くなった表面が、中身の重さに耐え切れずぼろぼろと崩れていく、そんな様子だった。
月の隙間から、目が眩むような花の芳香が落ちてくる。
やがてひときわ大きな裂け目が入ると、隙間からだらりと腕が垂れた。
血の気の莫い、真っ白く透き通った腕だった。
月から伸びた腕は地球の重力に引かれて、ずるずると落ちてくる。肩口まで露になったかと思うと吊られた糸が切れたように、人の形をしたものが地上に落下した。
一糸まとわぬそれは、地上の感触を手のひらで確かめるように撫でた後、上体を反らし伸びをした。
青磁のように滑らかな肌。
緩く縮れたレーヨンの豊かな髪緩。
琺瑯エナメルの瞳。
口は何かを食べるにはあまりにも小さく、桜のように淡い赤で塗られている。
薄い胸には微かな二つの丘陵があり、球体の腹を経て、細い腰が接続されている。
月光に照らされたその姿は、あの日堂宇の中で睡ねむっていた人形そのものだった。
そうか。
父は、この人形に囚われていたのか。
月明かりで目覚める人形は、おそらく供養のために持ち込まれたものだったのだろう。
魔性の人形は人ひとりを歪めてしまうのに十分な美貌を含有していた。こんなものが世に出たら、一体何人がその魔性の虜になるか判らないと考えた父は、しかし他の人形ともども火にくべることはできなかった。あまりに美しかったのだ。だから父は己が破滅とともに人形をあの堂宇に閉じ込めた。月光を遮断し、身動きできぬようにして。ただ父が訪れ天窓を開き、わずかな月光を浴びて目覚めたそれを、父は愛したのだろう。
しかしあの日。
私は人形を起こしてしまった。
あの日、人形は羅うすものの着物を一枚羽織っただけの恰好で、安楽椅子に倒れこむように座っていた。
しどけなく伸びた細い足の美しさに惹かれて手を伸ばし、その冷たい肌に触れたとき。
人形は私を向きながら。
ああ、と
喘ぐように悩ましく嘆息したのだった。
私はぞっと血の気が引く思いがしてその場から逃げ去った。
天窓も、扉も開け放ったまま。
そうして人形は夜の間じゅう月光を浴びたのだ。
次に父が訪れたとき、それは父を完全に篭絡するに足る魔力を蓄えていたのだろう。
人形はその首を音もなく稼働させ、ゆっくりと此方を向いた。
像を結ばぬ、つくりものの瞳が私を捉る。
やがてその小さな口の端が緩やかに歪んで
人形は微笑んだ。
月から生まれる人形。
月の魔性をその胎はらに収めたおそろしいもの。
私は──
人形は両の手を私に伸ばす。白魚のような脚では、屹度自立することもできないのだろう。
私は明かりに吸い込まれる蛾のように、ふらふらと人形の腕の間に引き寄せられていった。
体温もなく孵化したその肌はぞっとするほど冷たかった。
目が覚めた時、私の意識はいまだ散漫で白晝夢はくちゅうむの中にいるようでした。
天井から降る明かりはうっすらと赤みを帯びており、毛の長い絨毯に反射して部屋を柔らかく照らしています。部屋には私が深く沈む椅子の他に家具らしきものは見当たらず、クリーム色の壁には窓すらありません。部屋は湖の底のように静かで、私の呼吸の音や衣擦れの音すらうるさく聞こえるようです。
私は一体何をしていたのでしょう。
意識はいまだ微睡まどろんでいるようで、前後の記憶はあいまいです。起き上がろうと集中しても、指先や足がわずかに動くだけでまるで力が入りません。神経を通る信号が、先端にたどり着く前に霧散してしまっているかのようです。
このままもう一度眠ってしまおうかと思ったとき、不意に花の香りが私の頬を撫でました。
重たい頭を傾かしげて風が来る方を向くと、どうやらドアが開いていて、そこから甘い香りが侵入しているようです。部屋に入る空気は冷たく、夜の気配を含んでいました。風は投げ出した私の脚の間を通り、指先から腕へと昇ってデコルテを撫でました。
デコルテ?
胸元に感じた肌寒さは何事だろうと目をやると、ブラウスの釦が外され下着が露になっているではありませんか。
さあっと血の気が引く気がして私は明確に覚醒しました。そうです、私は仕事中にあろうことかうたた寝をしてしまったのです。写真家の先生の取材のため、前日遅くまで準備をしていたのが祟ったのかもしれません。
もしや眠っている間に非道いことをされたのかもしれないと焦りましたが、どうやら中途半端に服を脱がされた他には何かされた形跡はないようです。
先生を探さなくては。
立ち上がるとまだくらくらと目眩がします。
私は服を整え、部屋を出ました。
先生、先生。
どちらにいらっしゃいますか。
私が眠っていた部屋の横には写真を現像するための暗室がありましたが、中に人の気配はなく、ただ毒々しいほど赤い電灯が部屋を照らしているだけでした。
花の香りに誘われるように階段を上ると、廊下の先に応接室の戸がわずかに開いているのが見えました。とっぷりと夜が更けて暗くなった廊下の板張が、隙間から漏れる仄かな光を反射して濡れたように光っています。甘い香りは一層強くなり、空気は粘性を持ったように重く私を包んでいます。
先生はあの扉の向こうにいると直感した一方、私は今すぐにもここから離れなければという気持ちになりました。それほどに私を包む香りは強く、この世のものとは思えないほど魅力的なのです。しかしこの場から離れるためにはあの暗室のある地下に戻るか、応接室の前を通って玄関から外に出るしかありません。
私は意を決して前に進むことを選びました。
一歩、一歩と進むたび、廊下に反射した月明かりが湖面のように揺れます。
やがて応接室の前を通り過ぎようとしたとき、ごとりと何かが落ちたような音がしました。
その音は静まり返った室内で厭に大きく響きました。
とても危険なものが生まれ落ちた予感。
私は気づくとドアノブに手を掛けていました。
警鐘を鳴らす意識とは裏腹に、私の身体は操られたように戸を開けました。
扉の向こうには。
先生と。
天使のように美しい人形が居ました。
天使は先生を抱きすくめながら、その肩越しに私を見つけると
目を細めて
美しく
笑った。
ああ、駄目。
人形の顔が美しくて美しくて。
こわくて。
私は月の下、転げるように遁にげ出しました。









