嘆きの水曜日のヤヌス
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 研究員としての業務を一通り終え、倫理委員会監視官としての業務を始める前に、私――来栖朔夜は気分転換のために中庭へと出た。公園のように広いそこでは、職員たちが思い思いにレクリエーションをしている。木陰で本を読む者、球技に興ずる者、あるいは単に散策している者。
 そんな人々の中に、一団の子供達の姿を見かけた。中庭内に設えられた遊具――ジャングルジムによじ登り、滑り台から滑り降り、砂場で気ままに遊ぶ姿を、慈母のような表情で見守る女性を、私はよく知っていた。
 串間小豆保育士。財団職員家族のうち、幼児の保育を預かる、低セキュリティレベルだが重要な仕事を受け持つ人物。
 しかし私は、彼女の慈母の微笑みの裏側に、怜悧な剣先が隠されているのを知っていた。
 ――財団内部保安部門。財団規約違反行為全般に対する捜査権と懲罰執行権を保有する、財団の内なる盾。その一員かつ有能な監察官として、串間小豆は「その筋」ではよく知られた存在だった。
 私は、彼女を遠くから見守りながら、彼女の裏側の顔――怜悧な監察官の姿を脳裏に思い浮かべていた。3年前の事件の記憶が、鮮明に蘇って来た。


SCP-089発話事象記録███-██████
発話日: 20██/██/██
発話事象によるタイプ-S事象の描写: ”多くの悪鬼が蘇るであろう。悪鬼を封じ込めていた者達は皆その顎にかかるであろう。いやそればかりではなく、彼らの守りし者もまた多く死と暗闇に覆われるであろう”
タイプ-S事象: 81地域ブロック収容サイト-81██での大規模収容違反。俗称「嘆きの水曜日」事件。
結果: プロトコルM8は発話事象後の11日目に完了したにも関わらず、サイト-81██職員[編集済]名と一般住民[削除済]名が死傷した。同時に全世界的な収容違反・SCPオブジェクト出現事例が増加。後記事象は継続中である。なお、プロトコルM9の執行は特例として協議中。


 3年前。
 私は倫理委員会の新米監視官として、内部保安部門の串間監察官とともに、ある捜査に従事していた。先の「嘆きの水曜日」事件に関し、重大な財団規律及び倫理違反があったとの通達が昨夜届き、内部保安部門と倫理委員会の実働要員の多くはその捜査に駆りだされていたのだ。私にとっては初の事件捜査であり、先達の串間監察官の足を引っ張らないようにすることを心がけていた。
 SCP-089。凶事を予言し、それを残酷な犠牲と引き換えに抑制するオブジェクト。犠牲を求めて日本に運び込まれたそれは、犠牲を与えたにも関わらず、凶事を抑制し得なかった。プロトコルM8――SCP-089が指定した、健康で傷のない生後8ヶ月から6歳までの幼児をSCP-089-Aとし、その母親をSCP-089-Bとし、互いに信用と愛情で結ばれた状態で、SCP-089-AをSCP-089-Bの手と自発的な意思によって直接火炙りの生け贄に差し出す儀式に不備があったらしい。
 しかし、今回の犠牲者は財団日本支部職員の親族であり、SCP-089を収容する機動部隊ムー89のメンバーは、説得と心理戦の専門家集団だ。人類全体のためならば、血を分けた子供でも見捨てる義務が財団職員にはあり、そうさせるだけの心理的操作能力を、機動部隊ムー89は持っている。
 であるなら――プロトコルM8実施時に何らかの妨害工作が入ったと、機動部隊ムー89の指揮官が判断してもおかしくはなく――彼の要請に従い、日本支部は調査活動を開始したのだ。
「内部保安部門は、GoIの関与、内通者の存在を疑っています」
 串間監察官は、常日頃からは想像のつかない鋭い視線で私を見つめながら決然と云った。確かに、内部保安部門の流儀では、そう考えるのが自然だろう。彼女らは財団のいわば抗体であり、内側から財団をむしばむ者たちに対して敏感だ。
「個人的動機の線も捨てられません。人間は感情の動物ですから」
 私はそう控えめに異議を唱えた。財団倫理違反の大半は、人間が感情の動物であるがゆえに発生している。財団は大局的判断から全体最適的に行動するが、個々の人間は財団の価値観を内面化しつつも局所的判断と利己的行動からは逃れきれない。
 串間監察官は私の言葉に、目の鋭さを強めた。
「それはコインの表と裏の関係です。GoIへの内通者は、あなたの言うような感情的な動機で動いていることが多いですから」
 先達者の言葉は重く、私としては控えめに賛同せざるを得なかった。
「まずは、プロトコルM8においてSCP-089-Bとされた被疑者のところに向かいましょう」
 串間監察官に促され、私たちは財団施設病院に入院中の被疑者の病室へと向かった。


 被疑者の病室は厳重な警備下に置かれ、自殺防止のために常時監視員が付いていた。私たちは財団パスの認証により病室へと通される。冷たいリノリウムの床と消毒液のかすかな匂いが印象的な部屋の中には、簡素な白いベッドが置かれ、そこに被疑者――今回のSCP-089-Bとされた30代なかばのはかなげな女性が、半ば身を起こして待っていた。
「内部保安部門と倫理委員会の者です」
 串間監察官と私は、それぞれ自身の財団パスを被疑者に見せ、プロトコルM8の実施にあたって瑕疵がなかったかどうか、尋問を開始した。と言っても、私は串間監察官のインタビューを記録するだけのおまけのような存在だが。
「まず質問です。あなたはプロトコルM8の内容を充分に理解し、SCP-089-Aを犠牲とすることに賛同しましたか?」
 串間監察官はいきなり直球を相手にぶつけた。SCP-089-Bは、平静に応える。
「もちろん、最初は私は恐怖と悲しみに包まれました。しかし、私は財団職員です。人類を守る盾となる役割を私と我が子が与えられたのなら、それを貫徹することこそが私とあの子の生まれた意味だと、最終的に気付かされました」
 彼女が財団職員としての忠誠を持ち、機動部隊ムー89がいかに優秀でも、このような残酷な行為は人間には耐え難い、ゆえに第一の被疑者となったのだが――あまりにも平然とした態度に、私は違和感を覚えた。
 一方で、串間監察官は追及の手を緩めない。
「ではあなたは、あくまでも自由意志でプロトコルM8を実施したというのですね?」
「はい」
 平静な応えに、やはり私は違和感を覚えた。
「あなたはSCP-089に我が子を生け贄に差し出すにあたって、直接火を灯し、そこへ我が子を投げ入れた、それに良心の呵責を覚えていないということですか?」
 串間監察官の口調が鋭くなる。それでも、SCP-089-Bは平静なままだ。
「私は私と我が子が人類のための盾となれることを誇りに思って行動しました。全ては機動部隊ムー89の皆さんの説得のお陰です」
 私の違和感は一層強くなった。一方、串間監察官は何かに気づいたような素振りを一瞬見せ、そして更に問う。
「解りました。では最後に。その犠牲を払ったにもかかわらず、サイト-81██に多くの犠牲者が発生したことについては、どう思われますか?」
 SCP-089-Bは、やはり平静なまま答えた。
「私の財団への忠誠心か、あの子に対する愛情のいずれかが足りなかったのでしょう。その件については、申し訳なく思っています」
 私の違和感は決定的なものになった。何かがおかしい。しかし、何が?
「――結構です。質問を打ち切ります。ごゆっくり静養して下さい」
 串間監察官はそう告げ、踵を返す。私は彼女の後を追って、病室の外へ出た。


「SCP-089-Bの反応に、なにか思い当たるところがあったようですが、監察官」
 早足で何処かに向かう串間監察官に、私は追いすがって尋ねた。彼女は立ち止まって振り返り、私を見つめて応える。
「来栖監視官。彼女は平静過ぎました。自身の犠牲が無為になれば、いかに財団職員で、強力なマインドセットを受けているとしても、一定以上動揺する――いや、反動でそれ以上に動揺するはずです。にも関わらず、彼女はずっと平静なままでした」
「ということは、つまり――」
 私が違和感の正体に気づいた時、串間監察官は先取りするように、私に告げた。
「SCP-089-Bが自身の精神の平衡を保つため、自発的意思を消すような行動をとった可能性、あるいは機動部隊ムー89内部にそのような行為を行った反逆分子がいる可能性が高い、ということです」
 ――確かに、それならば全ての辻褄が合う。そして、SCP-089-Bは長時間機動部隊ムー89の説得を受けていた以上、前者より後者の可能性が遥かに大きい。
「内部保安部門・倫理委員会各統括官に連絡しましょう。その上で、機動部隊ムー89が所属する、サイト-36側との共同捜査を提言します」
「――了解です」
 串間監察官の言葉は、模範的な内部監察部門職員のものだった。
 ――結果として、串間監察官の推理と措置は正しかった。サイト-36側との共同捜査により、機動部隊ムー89内部のGoI内通者が、自発的意思ではなくミーメティック誘導手段を用いてSCP-089-Bの情動を抑制させた上でプロトコルM8を実行させたことが判明したのだ。
 反逆者の尋問に立ち会った串間監察官と私は、動機について聞きただした。厳重な拘束衣を着せられ、ミーメティック誘導と自白剤により抵抗力を持たなくなっている反逆者は、それでもなお自身の正義を信じていた。
「たとえ人類全体のためとはいえ、プロトコルM8は人間のすべきことじゃない! クラス-S事象は人間、そして財団の手で抑止すべきだ! 誰かひとりではなく、皆がリスクを分けあうべきなんだ!」
「一般社会の倫理はそうかもしれません。しかし、財団職員である以上、財団の倫理と財団への忠誠が優先されます。そして財団は、最大多数の最大幸福のために大局的見地から必要悪として動いています。あなたの判断は、全員にリスクを追わせ、犠牲を増やす悪手です」
 串間監察官の応えに、反逆者は激高した。
「必要悪のお題目で、財団がどれだけ無辜の人間に犠牲を出してきた!」
「必要悪として動いているために、無辜の人間の犠牲は結果的に最小限に留められています。あなたはそれを受け入れられなかった。結果がこの有様です。端的に事実を指摘すると、あなたは感情に流された、大量殺人者以外の何物でもありません」
「くっ……それでも俺は俺自身の良心を信ずる……財団が人類の看守としてではなく、本当の守り手になるためには、人間性が必要なんだ……」
「どうやら、あなたとは相容れることがなさそうです。インタビューはここで打ち切ります。処断を待っていなさい。しかるべき罪にしかるべき罰を与えるのも、財団の役割です」
 串間監察官は言い放ち、そして私に告げた。
「あなたも心して置いて下さい。財団職員として、財団倫理を貫くことを。時にそれは耐え難いものですが、倫理委員会に選抜されたあなたには、特にその責任があります」
 私は内面の葛藤を押し殺しつつ、「はい」とだけ短く答えた。


 あの事件から3年。私は倫理委員会監視官として多くの経験を積んできた。しかしあの時、串間監察官が瞬時に見せた洞察と事態判断能力、そして冷徹さに追いつけたかどうか、自信はない。
 時折、今のように私は串間監察官の表の顔を見ることがある。そこには母性的な慈愛をもって児童たちと接する串間保育士の姿があり――プロトコルM8を当然のものとして受け入れ、鋭い薙刀のように人の心に切り込んでいく姿とは対象的に見えた。
 おそらくは、コインの裏表なのだろう。どちらも、串間小豆という女性の本質の一面なのだろう。しかし――表と裏が相剋することがありうるのがこの世界だ。ましてや、プロトコルM8が失敗し、タイプ-S事象が継続拡大し続けている状況では。その時、串間小豆という女性はどちらの顔を優先するのだろうか、と、ふと疑問に思った。

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