クレジット
タイトル: 森の中へ (Into the Woods)
著者: ©︎Jekeled
原記事: http://www.scp-wiki.net/into-the-woods
作成年: 2018
私が鍵をかけたドアは今や存在しないものだ。ドアの概念自体が既に失われたのだ。通り過ぎる者の目に映るのは……いや、実際にどうかは分からないものだが、少なくともそれは私のドアではない。しかし私にとって、そのドアは特別なものだ。何年も前に、私は意識の中にテンプレートを埋め込んだ。ミーム的な検索・置換機能とでも言うべきものだ。私がそこに見出すのは、ドアのかつての姿を子供が描いた絵だ。手触りは如何とも形容し難いものだが、閉じることは出来る。記憶が確かであれば、私のオフィスにはもう一つドアがあったのだが、それはもう存在していない。
私の壁に描かれているのは、例のミーム複合体を表すグラフだったものだ。しかし現状の変異速度を鑑みるに、既に正確性を失っているのではないかと私は疑っている。全ての矢印とコードネームを私は覚えている。殆ど考えることもせずに関係性を思い出すことが出来る。不毛の大地と化した意識の中で、それらは良く踏み固められた道として残っていた。
当サイトの自己破壊装置が起動しました。全ての出入り口が封鎖されています。
私は呻く。誰かがサイトとの心中を試みたのは今週で三度目だ。今回もまた超音波ミームトリガーが9秒間鳴り響き、平静と服従がもたらされ、その後にサイトのO5がどうにかして上書きを試みるのだろう。
セブン。
私は溜息と共に机の下に潜り込み、ジャケットをカーテン代わりになるように配置しようとした。蛍光灯の光が消えることは無い。今が何時なのか、いつ眠るべきなのかも分からない。次の挑戦者が現れるまでに数時間は掛かると予想されるので、今がちょうど良い時間だろうと考える。
スリー。
廊下からは人の走る音と泣き声が聞こえる。恐らくは無関係の物音だ。
自己破壊装置の起動がキャンセルされました。
一つの集団が走り去り、続いて軍靴と思しき足音が鳴る。Dクラスの補充が必要になったのだろうか?サイトの奥底で、何らかのプロジェクトが続いている。終末が現在も進行中であることから、彼らが失敗していることが分かる。
誰かが私のドアをノックする。虚ろな打音が四回。ドアが手の付け根で強く叩かれたかのようだ。
不可能なはずだ。ドアは存在しない。不可能なはずだ。取っ手が荒ぶり、ドアは開かなかったが、それは一度だけのことで、取っ手が勢いよく下ろされ、錠の薄い金属板を突き抜ける。
私は動転する。私のオフィスには銃がある。私には銃がある。机の上に、遺書を押さえた状態で。一センチ厚の金属板の向こう側に。
私は机の下から飛び出し、天板の淵に頭を打ち付け、自分の椅子にぶち当たる。立ち上がってみると、銃は丁寧に分解され、部品がサイズと機能に応じて並べられていた。アネットは私の前に立ち、盲者の目で私をじっと見つめる。
私は言葉を発しようと口を開くが、彼theyの手首に付けられた基盤は振動していないようだ。どうやら、奴らは私を始末する為にアネットを送り込んだらしい。彼は盲目かつ聾唖であり、手元の小型トランスデューサーが機能していない限り、コミュニケーションは不可能だ。私は息を切らしている。ほんのこれだけの運動量で、既に呼吸が危うい。
私達は静かにその場に立つ。アネットも、私も動かない。彼の両目は純粋な青色のガラス玉のようだ。突然、私の口の渇きは耐え難いものになり、私がここ数日の間、尿以外の液体を飲んでいないことが思い出される。彼の両目を頭から引き抜いて口に放り込み、氷のようにしゃぶりたい衝動が現れる。私は舌なめずりをする。
アネットはジャケットに手を入れ、蛇腹状の小さな入れ物を取り出す。私の目には速過ぎる速度でそれを捲り、彼は白色の小さな名刺を取り出して、私に差し出した。新品のようで、パリッとした紙はクリーム色だ。印字された文字は適切に詰められておらず、名刺に対して大きすぎる。
小細工はするな (NO TRICKS)
私は貴方を傷 (I WILL HUR)
付ける (T YOU)
「了解した」と私は言った。二人とも行動しない沈黙の間があった。私はゆっくりとデスクを回り込み、名刺をパシリという音と共に名刺をアネットの手のひらの上に戻した。彼は、ほんの少しだけ気を緩めたように見え、手首の黒色の基盤をタップした。再び振動が始まる。私は、自分が必ずしも死ぬわけでは無いことを悟る。
アネットは壁に歩み寄り、黒黴の断片を除けながら、一本の指でフローチャートを辿る。彼は中央で指を止め、周辺の黴をなぞり、軽く一回叩いた。
[コドモタチ]
(CHLDN)
「コードネームは最後まで与えられなかった」と私は呟く。
アネットは壁から離れ、私の机の前に座る。彼はマガジンを拾い上げ、弾丸を中へ外へと滑らせながら、考え事をするかのように漫然と弄り始める。少し経って彼は一発の弾丸を取り出し、それを使って平面を叩いた。モールス信号だ。
[助けが必要]
(NEED HELP)
私は瞬きをする。「私に出来ることがあるとは思えない。」
彼は手を止め、頭を傾けた。私は座り、彼のガラスの視線が私を追う。私はミーム部門のメーリングリストから何年も前に受け取った、何ということはない一本の報告書を思い出す。麻酔を与えられた状態でも、眼筋が動いて視線で動きを辿ろうとするという内容だ。彼らは結局その原理について結論を得ることが出来なかった。
["後期段階 認知テンプレート 不適合"という用語を私は知らない。]
(I DO NOT KNOW THE TERM LATE STAGE PERCEPTION TEMPLATE MISMATCH)
私は肩を竦める。「様々な意味がある。症状はどんなだ?」
[苦悶 鎮静が必要 複数箇所の骨折 精神崩壊]
(AGONY NEEDED SEDATION SEVERAL BROKEN BONES PSYCHE COLLAPSE)
驚く程の内容ではない。財団の処置技術はこの世界で最も優れたものだが、決して穏便な類ではない。
ミームとはアイデアだ。アイデアを通じて私達は世界を見る。記憶とは気まぐれなもので ― 夜空の星が消えた時、実現可能性には目を瞑るとして、全人口に記憶処理を施し、記録を削除したのでは不十分だ。瞬きや視覚の断片が、小さいながらも残るものだ。我々はある時、月の一箇所に向かって巨大なプロジェクターで光を送ることを検討した。今も覚えている。しかしコストが掛かり過ぎた。人々にそこに星があるように思いこませること、そういった思考を埋め込むことの方が遥かに簡単だった。今では、人々はあらゆる高所の暗闇に、彼らと共に移動する星々を見ることができる。
私は額を擦る。「対処置剤が欲しいのだろう。」アンチミーム(反ミームとは限らない)。アンチドート。やり直すための。
[はい]
(YES)
状況が見えてきた。「何のために?」
[全ての]
(EVERYTHING)
「私は持っていない。誰も持っていない。理由は言うまでもない。」
[しかし貴方ならそれを作ることができる]
(BUT YOU CAN MAKE IT)
私は肩を竦める。「出来るとしたら私だ」と嘯く。「しかし清潔な意識が必要だ。」
アネットは前のめりになる。少し掛かって、私は彼が続きを聞きたがっていることに思い至る。
「インキュベーターとして使うために。」
アネットはガラスの視線を私に向けたまま、屈んで紙切れを拾おうとする。私は少しだけフローチャートを眺める。それは一枚の紙切れに過ぎず、彼はそれが何なのかを知りようがない。私の名前さえもまだ入れていない。紙切れは静かに、私の机の上に戻された。
[どうやって]
(HOW)
「Dクラスだ。インキュベーションには30分掛かる。そうすれば目的の物が手に入る。」
彼は前後に揺れる。
[はい]
(YES)
ドアが騒々しく開かれる。一人の機動部隊エージェントが倒れ込み、顔面から床に直撃する。ドアの外で、一人のエージェントが廊下の向かいの壁に寄りかかり、泣いている。もう一人は床に仰臥し、天井を見つめている。床に寝ている方は、一人で咽び泣きながら、起き上がろうとしていた。私はアネットの方を見る。彼は動いてもいなかった。
「ここを出るべきだ。」と私は静かに言う。
アネットは立ち上がる。
[はい]
(YES)
皆が死ぬことになる。言うは易く、理解することは難しい。一見すると、全員が一ヶ月後には死ぬこの状況で、私が敢えて心配する必要は無い。しかし……
アネットは案じているようだった。顔も見たことがない人間の感情をモールス信号から読み取ることは難しかったが、彼は心配しているようだった。どれだけの痛みが伴うだろうか?意識が完全に引き裂かれ、二十の失われた概念が存在しなかった物と重ね合わさるのはどんな感覚だろうか?目を精一杯凝らして、それを一時凌ぎと呼べば、自分のために正当化することも出来るだろう。私はどうにかしてそういうものだと自分を納得させることが出来るだろう。最後の一度の善行だと。
自分がやってきたことをどうやって忘れられるだろうか?アネットと共にオフィスを去る時、私はドアを閉じ、心の中でそれが最後の開閉になるだろうと、ドアは二度と見られることも開かれることも無いだろうと認識する。私は意識の中のフローチャートを辿ろうとするが、中心から遠く離れた枝先は朧げで判別し難く、道は再び草木で覆われていた。
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